2015上半期読んだ本まとめ
折角ブログも始めたんだしこういうまとめもやってみようかと思う。一応記録自体は読書メーター/鑑賞メーターでつけているのだが、必ずしも感想を記している訳ではないし、たまにはアウトプットでもしてみようかと。
人魚伝説を軸に展開される壮大なSF大作。物語は頁を繰るにつれともすれば非現実的と呼べる方向に進行していくが、読者を捕まえて離さない抜群のリーダビリティと、虚構と現実の境界を埋めて溶かす科学考証が根底にあるので常に説得力を持ち、読みながら白けるということが全く無かった。物語は終盤に至っても収束するどころかどんどんスケールを増して膨張していき、読む者を圧倒させる。これは恩田陸の作品群を読んでも思うことだが、物語というのはなんでもかんでも風呂敷を畳めばいいわけじゃないのだ。しばしば小説より奇なりと形容される事実は瑣末でけち臭い伏線や全てが収まるべきところに嵌るパズルのピースとは無縁であり、寧ろどうあっても解明できぬ謎をかき抱いてこちらの手の届かない高みで私たちを見下ろして笑っている。全てを掌握できる世界なんぞつまらないと、こういう上手く結末を「投げた」フィクションに出会うたび実感する。
恩田陸の新刊は必ず買うと決めている。そんなわけで発売直後にうきうきしながら読んだ本。これが大当たり。小説ともエッセイともルポルタージュともつかない構造のこの本は、吸血鬼を名乗る謎の男の存在や、合間に挿入される作中作も相まって、恩田陸が東京という街を形容するのにしばしば用いる「モザイク構造」そのもの。土地からインスピレーションを得ることが多いという恩田陸ならではの作風で、東京へ行きたくなった。ふとした時に適当なページを開いて一章ずつ何気なく読み返しても楽しい。好みは分かれそうだが、私は大好きな本。
AKB時代から応援している前田敦子さんのAERAでの連載をまとめたエッセイ。彼女に影響されて映画を観るようになったと言っても過言ではない自分にとっては大変タイムリーな本だった。「論じたいわけではなく、ただ浅く軽く好きでありたい」というのは何かのインタビューでの彼女の言葉だが、その言葉が象徴するように、知識人ぶった大上段からの評論ではなく、あくまでソフトな語り口で淡々と、しかし心底楽しそうに映画を紹介する文章は、良い映画を人と共有することの楽しさを実感させてくれる。映画を観るたび本書を読み返すだろう、読み返すたび映画を観るだろう、そう思わせてくれる良著。シンプルでさらっとした語り口ながら、映画の本質を捉えた的確な感想が多く、ああそういうことだったのか、とこの本を読んで改めて咀嚼できた映画も多い。
山下敦弘監督が2016年に収録作『オーバー・フェンス』を映画化するということで手に取った本。閉塞された青春の只中のぬるま湯のような倦怠と痛みにヒリヒリしながら読んだ。しかしこのオフビート感、山下監督が映画化しないで誰がするんだって感じである。公開を楽しみに待ちつつ、彼の他の作品も手に取ってみようと思う。
ラスト五分の驚愕と、ラスト五秒の恐怖―映画『イニシエーション・ラブ』
(※映画『イニシエーション・ラブ』は、とっても面白い映画です。予告編や公式サイトでも散々宣伝されている通り、驚きのどんでん返しも用意されていますので、まだこの映画を観ていない方は、ぜひまず劇場に足を運んでから、ネタバレ満載のこのエントリを読んでください。)
忘れもしない先月の25日、私は夜のネオンサインをかき分けて走る電車内でぼんやりと車窓を眺めながら、茫然自失の状態にあった。普段ならひと駅分も揺られれば相当な不快感に襲われるはずの肩が触れ合わんばかりの混雑もこの時ばかりは意識の外だった。あれからもう一カ月近くが経つが、未だにどうやって帰ったかはっきりと覚えていない。
映画『イニシエーション・ラブ』を観たからである。
……というのは些か大袈裟であるにしても、私がこの映画から受けた衝撃は否定すべくもない。ただし、その内実は同じくこの映画を観た人の感触とは少々異なっているかもしれない。この映画『イニシエーション・ラブ』は、「ラスト5分の衝撃」という触れ込みで売っている映画なのだが、私が真に驚愕し、そして恐怖したのは、ラスト5分ではない、ラスト5秒、その瞬間であった。
退屈な原作ー乾くるみ『イニシエーション・ラブ』
映像化不可能と思われた原作、その巧みな実写化
大河ドラマなどで、幼年、成年、老年時代をそれぞれ別の俳優が演じる、ひとり二役ならぬ、ふたりひと役のようなことがありますよね。そのように、太ってる時代と痩せてる時代を別の俳優が演じていると思わせれば、仕掛けが成立すると思ったんです。最初に太った朴訥な男を出して、彼が繭子に「君のために痩せるよ」と言ったところで場面が変わり、イケメンが登場。イケメンになった途端、調子こいて他の女に乗り換えて見えると言う構造でやってほしいとお願いしたんです。
そう。「別の人間二人をひとりの人間と錯覚させる」という難関を、映画版では、「太っている時代」と「痩せている時代」を設定し、それぞれを別の俳優に演じさせることによってクリアーしたのだ(ちなみに鈴木の「太っている時代」を演じたのは、ドラマ『モテキ』で主人公の肥満時を演じた俳優・森田甘路さん。彼には既に「ふたりひと役」をこなしたという「アリバイ」があり、それも視聴者を欺くトリックとして機能したとも言える)。
つまり、小説という媒体の特性に依存したトリックを、今度は「同じ役を異なる役者が演じる(視聴者は"そういうもの"と飲み込んで難なく物語世界に没入する)」という映像作品のお約束の利用によって成立させたのである。これは、見事としか言いようが無い。前章で散々原作をこき下ろしたが、こうして見るとやはり乾くるみという作家の「アイデア力」は頭抜けている。クリエイターとして、その媒体が持つ特性とその裏側にある「盲点」に、相当自覚的で敏感な作家なのだろう。
文句無しの実写化だった。「デブ時代」の鈴木と、松田翔太演じる鈴木が別人だと分かる、「ラスト5分の驚愕」。だがそれだけでは、「原作小説の映像化」としては満点でも、益体も無い恋愛小説が益体も無い恋愛映画に変わっただけなのだから、一本の映画、作品としては「つまらない」ままだ。しかし堤監督は、この作品に原作にはないあるエッセンスを盛り込むことによって、つまらない筋書きに新たな「顔」を与えている。そしてそれこそが、記事タイトルにも冠した「ラスト5秒の恐怖」、その元凶なのだ。
ヒロインはサイコパス?ラスト5秒の恐怖
ここでまず、原作の「ラスト二行」、そして映画の「ラスト五分」で何が起こったか説明したい。繭子との破局を迎えた後のB面の鈴木(辰也)は、繭子に間違い電話をかけてしまう。受話器が外れる音がして聞こえてきたのは、
「もしもし、たっくん?」
という、あまりにも「普通の」トーンの繭子の声だった。
辰也は衝撃を受ける。「まさか」、というリアクションでおずおずと自分の名を呼ぶのなら分かる。もしくは、たっくんであってほしい、と祈るように言うのならば。しかし、受話器越しの繭子の声は、まだ二人が蜜月時代にあったころ毎日電話をしていた時のような、あまりに「普通の」トーンだったのだ。折しも世間はクリスマスムードを迎える頃、イヴの日辰也は東京での新しい彼女・美弥子の家へ招かれる。両親との歓談もそこそこに、美弥子の部屋で二人きりとなった辰也の頭の中には、依然として「繭子はまだ自分との別れが飲み込めていないのではないか、今頃繭子は、別れた後キャンセルしたはずのホテルの前で自分を待っているのではないか」という疑念が渦巻いている。
美弥子は言う。「何考えてるの、辰也」。ここではじめてB面の鈴木の名前が明かされる。辰也は答える。「何でもない」。
……と、最後の二行ではじめてA面のそれとは違う「鈴木」のファーストネームが明らかにされることで、「これは同時進行の物語だったのか!」と読者に悟らせる仕掛けになっているのが原作。当然、「鈴木」の一人称によって進行するこの物語からは、繭子の二重恋愛が「単に寂しかったから」なのか、それとも何か別の理由が存在するのかは想像するしかない。
だが、映画の場合ラストは大きく異なる。辰也は美弥子の部屋で彼の疑念を彼女に直接吐露し、「そんなまさか」と引きとめる美弥子を振り切って彼女の家を飛び出す(この辺映像的な派手さも狙っているのだろう)。車のエンジンをかけ向かうのは、イヴに一緒に食事をしようと約束していたホテルの前。夜の中高速道路を飛ばし、待ち合わせ場所にたどりついた辰也の想像は的中、ドレスアップした繭子が笑顔でそこに立っている。「マユ!」駆け出した辰也。そこで彼はいきなり前に飛び出してきた男とぶつかり転倒。そう、その男こそが、A面の「鈴木」、夕樹だったのだ。「たっくん、大丈夫?」夕樹を助け起こす繭子の言葉に耳を疑う辰也。続いて繭子は辰也に「すみません、大丈夫ですか?」と声を掛けかけ、「たっくん?」と驚きの表情。
想定外の展開に二の句が継げないでいる辰也に、繭子はあくまで笑顔で言う。「どうしたの?たっくん」。
この笑顔の衝撃よ。これこそ私が「恐怖」した「ラスト五秒」の正体だ。
まともな感性を持った人間なら、二股をかけていた男同士が鉢合わせするなどと言う最大級の修羅場に見舞われれば到底「笑顔」ではいられないだろう。焦り、狼狽し、何とかその場を取り繕おうと必死になるはずだ。しかし繭子はあくまで笑顔のままなのだ。まるで当然のように、平常心そのものの様子で「どうしたの?」と真正面からカメラに向かって問いかけるのだ。これが映画のラストカット。その後のエンドロールでは舞台となった80年代の風俗のあれこれがスタッフロールと共に紹介されていたが、あの笑顔の衝撃で到底楽しむどころではなかった。なんてこった、ヒロインは常人の心を持たぬサイコパスだったのか?!
要る? 要らない? 最後の「答え合わせ」
ところで、この繭子の「笑顔」の直前、この映画の最後には、映画のシーンをご丁寧に「本来の時系列順」に並び替え、作品の仕掛けを解説する、「答え合わせ」パートが挿入される(辰也とのデートでコーラをこぼしてしまったワンピースを、夕樹と電話しながら拭いているシーンなど、作中に張られた伏線まで丹念に見せている)。レビューサイトなどを見ていると、「あの答え合わせは要らなかった」という声が割に多いことに気づく。「あれでは"二回観"ないよ」と。また、そもそも「最後の五分、全てが覆る。あなたは必ず二回見る」という宣伝文句自体、観客の猜疑心を煽っていて、ラスト五分の驚きを削いでしまっている、という指摘も多い。
だが、私はこう考える。「とっくに人口に膾炙した、ベストセラー小説の映画化で観客を騙す」ことに、そもそも監督の主眼は(全くとは言わずとも)なかったのだと。そして、真の主眼を解きほぐす鍵は、他でもない「ラスト5秒」に隠されているのだと。
ここで、パンフレットの堤監督コメントを引用する。
それにしても、なぜ繭子はふたりの男と二重生活を送っていたのか。(中略)ふつうに考えれば寂しかったからだと思いますが、実はもっと巨悪の因子を持っていて、このまま10年後には、10人ぐらいの男と付き合って、保険金殺人とか猟奇的な殺人事件を起こしているかもしれません。そんな危険性の片鱗も画面にそっと込めました(笑)。
そうなのだ。あのラスト5秒の笑顔こそ、どんでん返しのアイデアを実現させるための傀儡でしかなかった筋書きに、映像化にあたって堤監督が付け加えた新たなテーマだったのだ。ラスト5分、ミステリーへと変貌した恋愛映画は、ラスト5秒で、繭子という常軌を逸した人間を描いたサイコホラーへと新たな変貌を遂げるのである。これは私見だが、あの宣伝文句や答え合わせすらも、真のテーマー繭子という人間性ーを覆い隠し、観客をラスト5秒で恐怖に突き落とすためのレッドヘリングであったと解釈している。「この作品には仕掛けがある」という情報を前もって与えられた観客の注意は自然とその仕掛けを暴くための伏線探しに集中し、登場人物個々の人間性の読み取りから逸れていく結果となるからである(そういう意味で、まっさらな知識で臨んだ者よりも、原作既読の観客の方が、ラスト5秒で受ける衝撃は大きいかもしれない。彼らにはトリックの根幹を予め知っているが故の余裕があるからである)。
キュートな笑顔の奥の掴みどころのない魅力 女優・前田敦子
渡辺 前田さんって"⚪︎⚪︎キャラ"みたいにはっきり決まってないと思うんです。見た目も性格も、一つのキャラでくくられないというか。ーファンを限定していない感じ?
渡辺 そうなんです。(中略)いい意味で掴みどころのない不思議なオーラとでも言いますか……。そしたら、たまたま先輩たちが前田さんに「あっちゃんって謎だよね?」って話しているのを聞いて、ずっと一緒にいる人から見ても、そういう印象なんだと思ったことを覚えています。前田さんって、MVによっても印象が変わるし、振り付けによっても違いますよね。(中略)そういう謎というか、何にも当てはまらない感じが、AKBのセンターに必要なのかなって思いました。
記憶が不確かなため出典を上げることが出来ず申し訳ないのだが、『イニシエーション・ラブ』に関してのインタビューで、堤監督が彼女の起用に関して「前田敦子と一対一で向き合って落ちない男はいない」という主旨のことを発言したことがあった。それにはファンとして諸手を挙げて賛成するところであるが、それ以上に、繭子という難しい役を演じるにあたって、彼女のこの「ニュートラルさ」「"謎"な印象」、「何考えてるか分かんない感」とでも言うべきものが絶妙に効いていたと思うのだ。あの笑顔で迫られれば降参するしかないキュートさの一方で、「この子なら不穏な事考えていてもおかしくないな」と思わせる、何か。何者でもない故に、何者にでもなれるバランス感覚。前田敦子のこの持ち味は、彼女の今後の女優業において大きな武器となると思うのだが、どうだろう。
まとめ