2015年上半期観た映画まとめ
本のまとめをやったからには、映画のまとめもやらんとな、ということで。
2015年上半期を一言で表すならと聞かれたら、間髪入れず「映画」と答えるようなそんな半年だった。私はもともと映画が苦手で、だってテレビ見る習慣無いから二時間画面見つめてるだけでもう途方もなく疲れるし、読書と違ってまとまった時間取らなきゃいけないし、閉所恐怖症気味だから映画館怖いし、かといって家に一つしかない居間のテレビ占拠するのはなんか申し訳ないし、等々のごたくを並べこれまでろくに見ずにきたのだが(レンタル含め年に五本見れば良いほうとかそんなレベル)、ここでも散々書いてる通りAKB時代から応援してる前田敦子さんの出演映画が揃いもそろって名作ぞろいなうえ彼女自身も本を出すほどの(これについては前のエントリで書いた)映画好きであることや、一月ごろに親の勧めで見た『ゴッドファーザー』シリーズに体を蜂の巣にされる如くな衝撃を受けたのとで、どうもこりゃそうも言ってられんな、と観念した。元がオタク体質なので一旦決めると行動が早いもので、早速TSUTAYAディスカスに登録し、アル・パチーノやジョン・カザール、ロバート・デニーロ等ゴッドファーザー出演俳優の出演作から固めていって関連して70年代のアメリカ映画とかアメリカン・ニューシネマ作品だとかを片っ端から見る生活を現在も続けている。
こうして一度「映画」というフォーマットに触れてみるとそれはとても鮮烈で重厚でエキサイティングな文化で、何故今まで親しんでこなかったのかと過去の自分を恨む気持ちさえある。ともあれ今では、かつて一時間も読んでいれば頭痛に悩まされた字幕にも慣れ、難儀していた見なれぬ外国人俳優の顔の見分けもすっかりつくようになった。少々出遅れたものの、当分この趣味は手放さぬつもりである。
さて、上半期観た映画は53本だった。以下、なかでも印象に残った映画とその感想を。
ゴッドファーザー コッポラ・リストレーション ブルーレイBOX [Blu-ray]
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これを語らねばはじまらない運命の一作。四枚組のブルーレイBOXを揃え、原作本を揃え、ろくに英語も読めない癖にわざわざ本国からシナリオブックを取り寄せ、と大変なはまりっぷりは現在もつづいていて、ゴッドファーザーのことを考えない日は無いと言っても過言ではない。抑制されていながら、それでいて三時間私たちを離すことなく釘づけにするドラマチックな展開、俳優たちの名演、ニーノ・ロータの紡ぐ渋みと情緒溢れる音楽、撮影監督・ゴードンウィリスの今見ても画期的な撮影技術などなど、素晴らしい点を挙げればキリがないが、私があえて言及したいのは、この作品における「女性」の描かれ方である。
この時代(というかつい最近までそうなのだが)、とかく女性は「添え物」か「お色気要因」として描かれがちで、彼女らの内面を深く掘り下げた描写や、彼女らが積極的に動き物語に関与してくるということがもう一周回ってどうでもよくなるほど少ない。このゴッドファーザーという作品においてもそれは同様で、「男の世界」であるマフィア映画のなかにあって、マイケルの妻・ケイや、シチリアでの妻・アポロニア、妹であるコニー、娘であるメアリーらはことごとくファミリー業の「蚊帳の外」に置かれる(主人公でありドンであるマイケルが病に倒れた第三作でコニーが女ボス並みの活躍を見せているのは例外とする)。なのだが、それは単に「必要ないから」「男の足を引っ張るだけだから」「女は華を添えていればいいから」ではないところがミソで、彼女たちは徹底的にストーリーの蚊帳の外に置かれることで、逆に「ファミリー業に翻弄される被害者」、そしてなにより「暴力と某略が支配するマフィアの世界を一歩引いた地点から冷めた目でまなざす傍観者」としての立ち位置を明確に獲得しているのである。それはPART1において、夫が名実ともにマフィアのボスと成り果てたことを静かに、しかし愕然と悟ったケイの表情がラストカットに置かれていることからも明白だ。そしてPART2以降、彼女の心は「五年以内に裏稼業から足を洗う」という約束を果たさないマイケルから離れていき、二人の間に生まれた娘は、PART3のラストで凶弾に倒れる。これは父から受け継いだ仕事を全うしつつ家族の為にマフィア家業から足を洗おうと奮闘するも尽く邪魔が入り、ついにはそれまでの幸せな思い出を懐古することにしか生きる意味を見いだせなくなったマイケルの人生とリンクしており、また成りあがりで一代にしてコルレオーネ・ファミリーの基盤をつくりあげ妻や子供にも恵まれた越えられぬ父・ヴィトーの人生との対比の役割も負っている。つまりゴッドファーザーという作品は、女性たちを徹底的に蚊帳の外へ置くことでむしろ彼女たちの存在に意味を与えると言う、「添え物であって添え物でない」という立ち位置の女性たちを描いた稀な映画でもあるのだ。この映画はベクデル・テストこそパスしていないものの、「マフィア物」という題材においては珍しく、女性たちが極めて重要な立場として出演する作品なのである。だから公開当時なされたというこの映画に対する「この作品はマフィアを肯定・賛美している」との指摘は、彼女たちの存在によって既に捨象されていることがわかる。他ならぬ彼女たちが、ファミリー業を冷ややかな目でまなざすからである。シリーズ三作を一週間ぐらいかけてじっくり観て、そのことに気付いた時「すげえ!」と膝を打ったんだが、何故か言及してる人を見ないのでここに書いておく。
もう冒頭からすでにカッコいい。カッコいいのにどこか力が抜けている、ダラけている。あのオフビート感。「I scream,you scream,we all scream for icecream!」のくだりが楽しすぎていつか何かやらかして刑務所行きになったら是非ともやろうと決心した(笑えねえよ)。そしてあの上着を交換して別れるラスト。原題の意味は、刑務所のスラングで「親しい兄弟のような間柄」だそうで。そういう間柄には、握手も挨拶も必要ないのだ。ただ上着を交換すれば、それでいいのだ。同監督の『パーマネント・バケーション』『ミステリー・トレイン』も大好きです。
欲望という名の電車(A Streetcar Named Desire) [DVD] 世界初ワイドスクリーン(16:9)【超高画質名作映画シリーズ4】
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もともと私は文庫を常に持ち歩き人気のない場所でこっそり一人芝居をやらかしだすレベルのテネシー・ウィリアムズによる戯曲の大ファンで、そのゆえ戯曲はそもそも役者が演じることを前提に書かれたものであるにもかかわらず「映像化かあ……原作のイメージが損なわれたらどうしよう……」という謎の危惧を持って見始めたのだが全くの杞憂だった。ヴィヴィアン・リーの名演はもちろんだが、若き日の粗野な男を演じ切ったマーロン・ブランドが良い。あの野生の色気といったら!!プロダクション・コードがどうたらでブランチの夫が同性愛者だったという箇所が削除されているのが気に入らんが、まあ仕方ないでしょう。
ベティ・デイビスすげえーーーっ。一級品のサスペンスである本篇もさることながら、彼女の女優魂にものすごい衝撃を受けた一作。今の若手女優って何かと天真爛漫明るく元気系☆な売り出し方をされがちだが、これ、これだよ、こういうのを見たいんだよ私は!!キレイなお人形さんが「演じる」という魔法のもとで狂気の老婆にすら変貌する瞬間が見たいんだ私は。本篇ももうとにかく「ああどうなるの……!」「うわやめろ逃げて!」「おまわりさん!あっち!あっち!」と観ながら手に汗握りまくりだった。
ドラマチックでも、波乱万丈なわけでもない、多分どこにでもいるカップル。どこにでもある恋愛。それがなんでこんなに心地いいのか。出てくる人たちみんなそれぞれどこか変な人たちでありいい人たちで、しかしそうでありながらキャラクター化された「変人」「善人」ではなく、それぞれ考えや思いや主義や価値観のある生きた人間として描かれていたのがよかった。この世界の延長上に自分も居るな、と思える感覚と言おうか。あえて泣きに持っていかず、ふわっと終わったのもポイント高し。こういうゆったりした映画が好きだよ。あとお嬢様な吉高由里子可愛すぎですわ。ごきげんよう。
既に殿堂入りを果たしたゴッドファーザーを除けば今のところ暫定一位。何度見ても泣く。かかしはカラスを笑わせるんだ。アル・パチーノ演じるライアンとの交流による、ジーン・ハックマン演じるマックスの心境の変化が丁寧に描かれていてああもう思い出しただけで泣ける。何度見ても泣けるし、マックスもライアンも実在の人物のように大好きなんだけど、でも物語は淡々と進み、「泣かせる」演出やシーンがないのもポイント高い。ラストは、とある理由で精神病院に入院することになってしまったライアンの治療費に充てようと、夢の洗車屋資金として貯めていた金をマックスがデトロイトまで取りに行くため往復切符を買うシーンで終わるんだが、この終わり方がまた素晴らしい。財布の中の金は切符代には少し足りず、彼は靴の底に隠していた虎の子の十ドル紙幣をナイフでこじ開けて取りだすんだが、切符を無事手にしたマックスは、靴を直すために何度も受付のカウンターに叩きつける。彼の焦燥と、やり切れない思い、そして静かな決意が伝わってくる、素晴らしいラストカットである。アメリカン・ニューシネマの定石通り(?)、現実はままならないんだが、でも最後に小さな小さな希望を残すラストにぐっときた。数年後、マックスとライアンは、無事デトロイトで仲良く洗車屋を経営していると私は信じている(いかん、また涙が)。
何と言っても選曲が素晴らしい。たまに大滝詠一に細野晴臣に笠置シズ子にビートルズオマージュに……ととんでもなく趣味的でハイセンスな劇中曲の数々。それらはこれまた鮮やかで斬新で温かいさくらももこワールドそのものといった映像で彩られ、さながら日本版『イエロー・サブマリン』であり『ファンタジア』である。権利の関係なのか、DVD化されていないのが惜しい。アニメ映画としても傑作であるから、是非後世にも残したいのだが。
完全犯罪とかいう最大の難事業。トムのフィリップへの焼けつくばかりのルサンチマンに、果てしない殺人隠蔽工作。なんかどっと疲れた。ラスト、完全犯罪に酔いしれ「 太陽がいっぱいだ」と呟くトムは、前に自身が殺したフィリップの手で他でもないその太陽に背中を焼かれているんだよな。で、陶酔もつかの間、犯罪は露見すると。太陽とは常にこちらを見下ろす存在。逃れられない運命の象徴か、それとも「お天道様はお見通しだよ」ということか。原作読まなければ。しかしアラン・ドロンは本当にカッコいいですね。
洗練の極みを尽くしたカメラワーク。醜悪さが露骨に映し出された画面の中で、ジャンヌの流す涙だけが美しい。火刑のシーンになだれこんでいくにつれかねてより感じていた息苦しさは増していき、映画が終わると放心状態で暫く動けなかった。業火に焼かれ天に昇らんとするジャンヌと、乳を口に含む乳飲み子の、生と死の残酷なまでの対比。トーキーとは異なるテンポ、小説のページを繰るような淡々としたリズムもこの映画から立ち上る神々しさに一役買っている。トーキー映画が誕生したことにより、情報を台詞で伝えられるようになり、逆に映像の持つ力を最大限発揮する努力を作り手が放棄するようになった、という指摘をどこかで読んだ気がするが、まさに「映像の力」をドカンと付きつけられた感じ。ちなみにこれ、TSUTAYAディスカスに入っておらず近所の公共図書館で観た。こんだけの名作を入れないとか、どんだけだよ。
ポール・オースターの短編を原作に、煙草屋を軸に展開される群像劇。そこに描かれるエピソードの一つ一つは、小さな出会いの偶然を伴ってゆるやかに交差する。それらは決して劇的なわけでも大きな結末を持つわけでもないのだけれど、まさに煙草の煙の如く漂うような心地良さを残す。十年以上同じ場所、同じ時間で写真を撮り続ける煙草屋の主人を演じたハーヴェイ・カイテルの演技が良い。正直、ラストシーンで描かれるエピソードはそれほど良い話とも思えなかったのだけれど、多分この映画ではそれが正解だ。派手な登場人物や劇的な出来事に頼らないこの映画では。どこかにいそうな人々。誰にでも訪れるであろう小さな出会い。そういうもので形作られるこの世界は決して劇的になりきれず、どこか小さな瑕疵を伴う。ラストシーンで描かれる赤の他人二人の心の交流は、カメラの窃盗という小さな「ケチ」がつくことで美談になりきれなかった。だからこそこの物語のラストを彩るエピソードたりえたのだ。そしてその小さな瑕疵は、彼の十年以上続く欠かさぬ日課に繋がって、それが不運な事件で妻を亡くした作家と彼女をささやかな再開へと導く。そういう現実感、ふわっと生じてふわっと漂ったままの雰囲気が地に足を付いて生きている感じがして見ていて安心した。喫煙シーンが多いが、よくある映画のように変にスタイリッシュさを演出するための小道具としてではなく、あくまで生活に則った日常の一部として描かれていたのも好きです。
もう最高。最高だよ。この恬淡としたリズム。平熱感。観ながらひたすらニヤニヤ。ボロ民宿で臭い布団にくるまって二人して笑うシーンではこっちまで声出して笑ったw 微妙な居心地の悪さ、盛り上がりきらない旅の情景。どこまでもリアル。この監督は毎回主題歌の選曲が秀逸。原作も読みたい。多分この二人、後々この旅を思い返しては一緒に笑うんだろうな。印象に残る出来事って、劇的だったり夢みたいな体験とは限らなくて、意外とこういう何でもないことだったりするんだよなあ。山下監督の映画は結構観ているんですが、外れが無いです。こういうリズムの映画が好きなんだなあと最近やっと分かってきたところ。ちなみに監督の作品で一番好きなのは『苦役列車』。これは今度個別にレビュー記事書く予定。……予定。
目がああ目がああああ(悶絶)。はいえ、グロテスクを滑稽さにまで押し上げている作品は嫌いじゃない。というかグロテスクって本来生命の持つ一側面であって決して現実から遊離した概念じゃないんだが、医療や社会保障が整備され地面がコンクリートに覆われた現代においては「死」「怪我」や「虫」「動物の死体」って「非現実」、つまりシュールレアリスムの主題となりうるんだよな。だからおそらく、この映画が製作された1928年よりも、現代のほうがずっとこの映画の「非現実」的な趣は増していると思う。しかし目が……。
リコ、お願い病院行こ?!ってなった。で、考えたんだが、彼の「死ぬのは怖い、でも医者にはかかりたくない」って哀願は、社会で虐げられた者の痛みであり、不信そのものなんだよな。おそらく幼少期から貧しい生活を強いられていて、医学に助けられた経験もなく、社会保障から取りこぼされた身としては、物質面の救済者の代表である医者には不信感と恐怖しかないのだろう。辛い。ちなみにこの映画が原点だという漫画家・吉田秋生の『カリフォルニア物語』も良いです。是非に。
ひたすら逃げてるだけの映画だなあと思ったんだけど、彼らが逃げてるのは、彼らを包摂しようと迫ってくる「社会」であり「規範」なんだよな。そこを思うと本当に悲しくなった。ラストのストップモーションに泣いた。彼らは十中八九蜂の巣になって死んだんだけど、でも彼らの絆と、「明日に向かって撃」たんとした気骨は死なないんだよな。ということを、あの鮮烈なラストカットを見ながら思いました。アメリカン・ニューシネマの作品って、大抵どっちかかかたっぽが死んでしまうけど、両方死なせてもなお、彼らの「生」を画面に焼き付ける方法があるのか、と衝撃だった。あとポールニューマンとロバートレッドフォードかっこいい。それと馬が沢山出てきて大変可愛うございました。ありがとうございました。
他にもいろいろ観ましたが、特筆して語りたいのはこのぐらいです。下半期も良い映画に沢山出会えることを願って。
2015上半期読んだ本まとめ
折角ブログも始めたんだしこういうまとめもやってみようかと思う。一応記録自体は読書メーター/鑑賞メーターでつけているのだが、必ずしも感想を記している訳ではないし、たまにはアウトプットでもしてみようかと。
人魚伝説を軸に展開される壮大なSF大作。物語は頁を繰るにつれともすれば非現実的と呼べる方向に進行していくが、読者を捕まえて離さない抜群のリーダビリティと、虚構と現実の境界を埋めて溶かす科学考証が根底にあるので常に説得力を持ち、読みながら白けるということが全く無かった。物語は終盤に至っても収束するどころかどんどんスケールを増して膨張していき、読む者を圧倒させる。これは恩田陸の作品群を読んでも思うことだが、物語というのはなんでもかんでも風呂敷を畳めばいいわけじゃないのだ。しばしば小説より奇なりと形容される事実は瑣末でけち臭い伏線や全てが収まるべきところに嵌るパズルのピースとは無縁であり、寧ろどうあっても解明できぬ謎をかき抱いてこちらの手の届かない高みで私たちを見下ろして笑っている。全てを掌握できる世界なんぞつまらないと、こういう上手く結末を「投げた」フィクションに出会うたび実感する。
恩田陸の新刊は必ず買うと決めている。そんなわけで発売直後にうきうきしながら読んだ本。これが大当たり。小説ともエッセイともルポルタージュともつかない構造のこの本は、吸血鬼を名乗る謎の男の存在や、合間に挿入される作中作も相まって、恩田陸が東京という街を形容するのにしばしば用いる「モザイク構造」そのもの。土地からインスピレーションを得ることが多いという恩田陸ならではの作風で、東京へ行きたくなった。ふとした時に適当なページを開いて一章ずつ何気なく読み返しても楽しい。好みは分かれそうだが、私は大好きな本。
AKB時代から応援している前田敦子さんのAERAでの連載をまとめたエッセイ。彼女に影響されて映画を観るようになったと言っても過言ではない自分にとっては大変タイムリーな本だった。「論じたいわけではなく、ただ浅く軽く好きでありたい」というのは何かのインタビューでの彼女の言葉だが、その言葉が象徴するように、知識人ぶった大上段からの評論ではなく、あくまでソフトな語り口で淡々と、しかし心底楽しそうに映画を紹介する文章は、良い映画を人と共有することの楽しさを実感させてくれる。映画を観るたび本書を読み返すだろう、読み返すたび映画を観るだろう、そう思わせてくれる良著。シンプルでさらっとした語り口ながら、映画の本質を捉えた的確な感想が多く、ああそういうことだったのか、とこの本を読んで改めて咀嚼できた映画も多い。
山下敦弘監督が2016年に収録作『オーバー・フェンス』を映画化するということで手に取った本。閉塞された青春の只中のぬるま湯のような倦怠と痛みにヒリヒリしながら読んだ。しかしこのオフビート感、山下監督が映画化しないで誰がするんだって感じである。公開を楽しみに待ちつつ、彼の他の作品も手に取ってみようと思う。
ラスト五分の驚愕と、ラスト五秒の恐怖―映画『イニシエーション・ラブ』
(※映画『イニシエーション・ラブ』は、とっても面白い映画です。予告編や公式サイトでも散々宣伝されている通り、驚きのどんでん返しも用意されていますので、まだこの映画を観ていない方は、ぜひまず劇場に足を運んでから、ネタバレ満載のこのエントリを読んでください。)
忘れもしない先月の25日、私は夜のネオンサインをかき分けて走る電車内でぼんやりと車窓を眺めながら、茫然自失の状態にあった。普段ならひと駅分も揺られれば相当な不快感に襲われるはずの肩が触れ合わんばかりの混雑もこの時ばかりは意識の外だった。あれからもう一カ月近くが経つが、未だにどうやって帰ったかはっきりと覚えていない。
映画『イニシエーション・ラブ』を観たからである。
……というのは些か大袈裟であるにしても、私がこの映画から受けた衝撃は否定すべくもない。ただし、その内実は同じくこの映画を観た人の感触とは少々異なっているかもしれない。この映画『イニシエーション・ラブ』は、「ラスト5分の衝撃」という触れ込みで売っている映画なのだが、私が真に驚愕し、そして恐怖したのは、ラスト5分ではない、ラスト5秒、その瞬間であった。
退屈な原作ー乾くるみ『イニシエーション・ラブ』
映像化不可能と思われた原作、その巧みな実写化
大河ドラマなどで、幼年、成年、老年時代をそれぞれ別の俳優が演じる、ひとり二役ならぬ、ふたりひと役のようなことがありますよね。そのように、太ってる時代と痩せてる時代を別の俳優が演じていると思わせれば、仕掛けが成立すると思ったんです。最初に太った朴訥な男を出して、彼が繭子に「君のために痩せるよ」と言ったところで場面が変わり、イケメンが登場。イケメンになった途端、調子こいて他の女に乗り換えて見えると言う構造でやってほしいとお願いしたんです。
そう。「別の人間二人をひとりの人間と錯覚させる」という難関を、映画版では、「太っている時代」と「痩せている時代」を設定し、それぞれを別の俳優に演じさせることによってクリアーしたのだ(ちなみに鈴木の「太っている時代」を演じたのは、ドラマ『モテキ』で主人公の肥満時を演じた俳優・森田甘路さん。彼には既に「ふたりひと役」をこなしたという「アリバイ」があり、それも視聴者を欺くトリックとして機能したとも言える)。
つまり、小説という媒体の特性に依存したトリックを、今度は「同じ役を異なる役者が演じる(視聴者は"そういうもの"と飲み込んで難なく物語世界に没入する)」という映像作品のお約束の利用によって成立させたのである。これは、見事としか言いようが無い。前章で散々原作をこき下ろしたが、こうして見るとやはり乾くるみという作家の「アイデア力」は頭抜けている。クリエイターとして、その媒体が持つ特性とその裏側にある「盲点」に、相当自覚的で敏感な作家なのだろう。
文句無しの実写化だった。「デブ時代」の鈴木と、松田翔太演じる鈴木が別人だと分かる、「ラスト5分の驚愕」。だがそれだけでは、「原作小説の映像化」としては満点でも、益体も無い恋愛小説が益体も無い恋愛映画に変わっただけなのだから、一本の映画、作品としては「つまらない」ままだ。しかし堤監督は、この作品に原作にはないあるエッセンスを盛り込むことによって、つまらない筋書きに新たな「顔」を与えている。そしてそれこそが、記事タイトルにも冠した「ラスト5秒の恐怖」、その元凶なのだ。
ヒロインはサイコパス?ラスト5秒の恐怖
ここでまず、原作の「ラスト二行」、そして映画の「ラスト五分」で何が起こったか説明したい。繭子との破局を迎えた後のB面の鈴木(辰也)は、繭子に間違い電話をかけてしまう。受話器が外れる音がして聞こえてきたのは、
「もしもし、たっくん?」
という、あまりにも「普通の」トーンの繭子の声だった。
辰也は衝撃を受ける。「まさか」、というリアクションでおずおずと自分の名を呼ぶのなら分かる。もしくは、たっくんであってほしい、と祈るように言うのならば。しかし、受話器越しの繭子の声は、まだ二人が蜜月時代にあったころ毎日電話をしていた時のような、あまりに「普通の」トーンだったのだ。折しも世間はクリスマスムードを迎える頃、イヴの日辰也は東京での新しい彼女・美弥子の家へ招かれる。両親との歓談もそこそこに、美弥子の部屋で二人きりとなった辰也の頭の中には、依然として「繭子はまだ自分との別れが飲み込めていないのではないか、今頃繭子は、別れた後キャンセルしたはずのホテルの前で自分を待っているのではないか」という疑念が渦巻いている。
美弥子は言う。「何考えてるの、辰也」。ここではじめてB面の鈴木の名前が明かされる。辰也は答える。「何でもない」。
……と、最後の二行ではじめてA面のそれとは違う「鈴木」のファーストネームが明らかにされることで、「これは同時進行の物語だったのか!」と読者に悟らせる仕掛けになっているのが原作。当然、「鈴木」の一人称によって進行するこの物語からは、繭子の二重恋愛が「単に寂しかったから」なのか、それとも何か別の理由が存在するのかは想像するしかない。
だが、映画の場合ラストは大きく異なる。辰也は美弥子の部屋で彼の疑念を彼女に直接吐露し、「そんなまさか」と引きとめる美弥子を振り切って彼女の家を飛び出す(この辺映像的な派手さも狙っているのだろう)。車のエンジンをかけ向かうのは、イヴに一緒に食事をしようと約束していたホテルの前。夜の中高速道路を飛ばし、待ち合わせ場所にたどりついた辰也の想像は的中、ドレスアップした繭子が笑顔でそこに立っている。「マユ!」駆け出した辰也。そこで彼はいきなり前に飛び出してきた男とぶつかり転倒。そう、その男こそが、A面の「鈴木」、夕樹だったのだ。「たっくん、大丈夫?」夕樹を助け起こす繭子の言葉に耳を疑う辰也。続いて繭子は辰也に「すみません、大丈夫ですか?」と声を掛けかけ、「たっくん?」と驚きの表情。
想定外の展開に二の句が継げないでいる辰也に、繭子はあくまで笑顔で言う。「どうしたの?たっくん」。
この笑顔の衝撃よ。これこそ私が「恐怖」した「ラスト五秒」の正体だ。
まともな感性を持った人間なら、二股をかけていた男同士が鉢合わせするなどと言う最大級の修羅場に見舞われれば到底「笑顔」ではいられないだろう。焦り、狼狽し、何とかその場を取り繕おうと必死になるはずだ。しかし繭子はあくまで笑顔のままなのだ。まるで当然のように、平常心そのものの様子で「どうしたの?」と真正面からカメラに向かって問いかけるのだ。これが映画のラストカット。その後のエンドロールでは舞台となった80年代の風俗のあれこれがスタッフロールと共に紹介されていたが、あの笑顔の衝撃で到底楽しむどころではなかった。なんてこった、ヒロインは常人の心を持たぬサイコパスだったのか?!
要る? 要らない? 最後の「答え合わせ」
ところで、この繭子の「笑顔」の直前、この映画の最後には、映画のシーンをご丁寧に「本来の時系列順」に並び替え、作品の仕掛けを解説する、「答え合わせ」パートが挿入される(辰也とのデートでコーラをこぼしてしまったワンピースを、夕樹と電話しながら拭いているシーンなど、作中に張られた伏線まで丹念に見せている)。レビューサイトなどを見ていると、「あの答え合わせは要らなかった」という声が割に多いことに気づく。「あれでは"二回観"ないよ」と。また、そもそも「最後の五分、全てが覆る。あなたは必ず二回見る」という宣伝文句自体、観客の猜疑心を煽っていて、ラスト五分の驚きを削いでしまっている、という指摘も多い。
だが、私はこう考える。「とっくに人口に膾炙した、ベストセラー小説の映画化で観客を騙す」ことに、そもそも監督の主眼は(全くとは言わずとも)なかったのだと。そして、真の主眼を解きほぐす鍵は、他でもない「ラスト5秒」に隠されているのだと。
ここで、パンフレットの堤監督コメントを引用する。
それにしても、なぜ繭子はふたりの男と二重生活を送っていたのか。(中略)ふつうに考えれば寂しかったからだと思いますが、実はもっと巨悪の因子を持っていて、このまま10年後には、10人ぐらいの男と付き合って、保険金殺人とか猟奇的な殺人事件を起こしているかもしれません。そんな危険性の片鱗も画面にそっと込めました(笑)。
そうなのだ。あのラスト5秒の笑顔こそ、どんでん返しのアイデアを実現させるための傀儡でしかなかった筋書きに、映像化にあたって堤監督が付け加えた新たなテーマだったのだ。ラスト5分、ミステリーへと変貌した恋愛映画は、ラスト5秒で、繭子という常軌を逸した人間を描いたサイコホラーへと新たな変貌を遂げるのである。これは私見だが、あの宣伝文句や答え合わせすらも、真のテーマー繭子という人間性ーを覆い隠し、観客をラスト5秒で恐怖に突き落とすためのレッドヘリングであったと解釈している。「この作品には仕掛けがある」という情報を前もって与えられた観客の注意は自然とその仕掛けを暴くための伏線探しに集中し、登場人物個々の人間性の読み取りから逸れていく結果となるからである(そういう意味で、まっさらな知識で臨んだ者よりも、原作既読の観客の方が、ラスト5秒で受ける衝撃は大きいかもしれない。彼らにはトリックの根幹を予め知っているが故の余裕があるからである)。
キュートな笑顔の奥の掴みどころのない魅力 女優・前田敦子
渡辺 前田さんって"⚪︎⚪︎キャラ"みたいにはっきり決まってないと思うんです。見た目も性格も、一つのキャラでくくられないというか。ーファンを限定していない感じ?
渡辺 そうなんです。(中略)いい意味で掴みどころのない不思議なオーラとでも言いますか……。そしたら、たまたま先輩たちが前田さんに「あっちゃんって謎だよね?」って話しているのを聞いて、ずっと一緒にいる人から見ても、そういう印象なんだと思ったことを覚えています。前田さんって、MVによっても印象が変わるし、振り付けによっても違いますよね。(中略)そういう謎というか、何にも当てはまらない感じが、AKBのセンターに必要なのかなって思いました。
記憶が不確かなため出典を上げることが出来ず申し訳ないのだが、『イニシエーション・ラブ』に関してのインタビューで、堤監督が彼女の起用に関して「前田敦子と一対一で向き合って落ちない男はいない」という主旨のことを発言したことがあった。それにはファンとして諸手を挙げて賛成するところであるが、それ以上に、繭子という難しい役を演じるにあたって、彼女のこの「ニュートラルさ」「"謎"な印象」、「何考えてるか分かんない感」とでも言うべきものが絶妙に効いていたと思うのだ。あの笑顔で迫られれば降参するしかないキュートさの一方で、「この子なら不穏な事考えていてもおかしくないな」と思わせる、何か。何者でもない故に、何者にでもなれるバランス感覚。前田敦子のこの持ち味は、彼女の今後の女優業において大きな武器となると思うのだが、どうだろう。
まとめ