父と母と息子の物語と、ミクロな視点からの平和主義─「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」
huluで「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」を観た。以下感想を。
主人公の少年・オスカーは、アスペルガー症候群の疑いがあり、コミュニケーションが苦手だ。そんな息子のために父が作ったのが、「調査探検」という遊び。「ニューヨークには、かつて第六区があった」という父親のなぞかけを、オスカーは父が死んでもなお追いかける。亡くなった父親は、誰がどう頑張ろうと決して戻ってこない。生前父が語った、どんなに人々が必死に繋ぎとめようとも無念にも流れていった幻の第六区のように。それでも父親との絆を追いかけるように、オスカーはニューヨークじゅうを歩き回り、さまざまな交流をする。
その描写を通して、父親の死や、父が留守電や新聞の切り抜きに残したメッセージ、そして残された家族はそれぞれ何を思っていたのかを、定期的に挟み込まれる回想シーンとともに薄皮を剥くように観客に提示し、彼らの深い心の傷を少しずつ露わにする。辛い構成だが、心底真摯でもある。
さて、この物語にはどんでん返しが用意されている。鍵や調査探検の全てを秘密にし、ぶつかってばかりいた母親が、実はオスカーが訪ねる家々に先回りし、探検の協力を頼んでいたのだ。この事実が明らかにされた瞬間、この映画は「父と息子の物語」から「母と息子の物語」へと鮮やかな変貌を遂げる。父との絆は大切だが、その影をいつまでも追っていては過去にしがみつくことになる。父の思い出は大切にしつつ、これから共に過ごしてゆく母親との結び付きを深めてこそ、前を向くということだ。父が用意した探検を、母親が影でサポートしつつ、ニューヨークじゅうの「ブラック」が協力する。数え切れない程の人々の助けによって、9.11で父親を失った少年が成長し、立ち直ってゆく。このきわめて優しい世界を描くことで、テロリズムに屈しないという強いメッセージを、深い愛をもって発している。
さて、この「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」というタイトルは、いったい何を意味しているのだろう。いろいろ考えたが、9.11で犠牲になった人、そしてその遺族、すべての人と、「第三者」である私たちの、「そうあるべき距離」を表しているのではないかと思う。本当に痛ましい事件だ。多くの人が哀しみに暮れている、当時も、きっと今も。大切な人を喪失した傷は滅多な事では癒えない。彼らの悲痛な声を聞くのは、その辛さ故「うるさく」感じるかもしれない。だが目を逸すのは間違いだ。「近い」出来事として、寄り添い、また当事者意識を持たなくてはいけない。私は原作未読なので何を言っても片手落ちというか、誤読している部分も多々あるのだろうが、「ものすごくうるさくて」も、「ありえないほど近い」関わりを持ってくれ、忘れないでくれ、ともに立ち上がってくれ。そういうメッセージが、このタイトルの表すことなのではないだろうか。
たいへん胸を打ち、また、タイトルの難解さも含めて、まことに精緻に創り上げられた作品だった。私事だが、あらためて当時の状況やテロリズムについて勉強する機会にもなった。観てよかったです。
テーマやストーリーに非常に似通ったもののある「アマンダと僕」も是非。
薄味だが、決めるところは決めている─「引っ越し大名!」
「引っ越し大名!」を観てきた。以下感想を。
キャラクターの魅力も申し分なく、笑いどころも多々あり、及第点ではあるのだが、まず引っ越しするまでが長い長い。物を捨てたり借金したり人員削減したりと、色々やってはいるのだが、場面が変わらず絵的に地味なシーンがかなり続く。土橋章宏原作の映画作品というと「超高速!参勤交代」が記憶に新しいが、とりあえず移動しながら即興で策を練り、苦境を切り抜けていく様にドキドキさせられた「超高速〜」と比較すると本作はやはりあっさりした印象が否めない。
また、荷物を減らすべく書物の殆どを燃やすシーンがある。書庫番である主人公は何日も寝ずに本の内容を全て暗記するのだが、その知識が活かされるシーンが少ない。昔引っ越し奉行であった高畑充希の父の残した覚書のほうがよっぽど活躍する。折角だから伏線としてもっと魅せて欲しかった。
しかしやはり土橋章宏原作、人情要素がしっかりと配されており問答無用で満足感がある。様々な描写から主人公の情の深さ、折り目正しさが伝わってきたし、百姓の道を選んだ武士との会話や、15年の歳月の間で亡くなった同胞と共に陸奥へ至るシーンなど、締める所もきちんと締める。ここは本当に良かった。
星野源や高橋一生の好演もさることながら、高畑充希が本当に良い。彼女の演技はわりと目にする機会があるが、役によって全く違う顔を次々と見せる。今回も、目的のために女の武器も振りまいてみせるしたたかさがありながらも根が情に熱い女性を見事に演じていた。
楽しかったです。
被支配者の業─「ドッグマン」
あらすじ
「ゴモラ」などで知られるイタリアの鬼才マッテオ・ガローネ監督が、1980年代にイタリアで起こった実在の殺人事件をモチーフに描いた不条理ドラマ。イタリアのさびれた海辺の町。娘と犬を愛する温厚で小心者の男マルチェロは、「ドッグマン」という犬のトリミングサロンを経営している。気のおけない仲間たちと食事やサッカーを楽しむマルチェロだったが、その一方で暴力的な友人シモーネに利用され、従属的な関係から抜け出せずにいた。そんなある日、シモーネから持ちかけられた儲け話を断りきれず片棒を担ぐ羽目になったマルチェロは、その代償として仲間たちの信用とサロンの顧客を失ってしまう。娘とも自由に会えなくなったマルチェロは、平穏だった日常を取り戻すべくある行動に出る。
感想
私はとにかく「業の物語」が好きなんですが、本作もまさにそういう話で最高でしたね。
マルチェロがシモーネに支配され続けていたのは、何も彼が弱いからというだけではなく、困った顔をしつつもさしたる抵抗せず何だかんだそれを良しとしていたから。終盤、マルチェロは復讐に身を投じていくわけだが、ラストのロングカットでの彼の表情が示す通り、その反社会的行為で確実に彼は様々なものを失うわけで、それは実のところ、長年の被支配を良しとしてきた彼自身のツケを払っただけとの解釈も十分に可能だし、実際そうであると思う。シモーネの横暴を野放しにし、実質加担していたという罪こそ、前述した「マルチェロの業」なのだ。
人物描写や人間関係の書き込みもしっかりしている。2人のやりとりを見ながら割と早い段階で観客は「この関係はきっと何十年も前から続いてきたのだろう」と気づくし、マルチェロもちゃっかりクスリの恩恵に預るなど、2人を善/悪の単純な二項対立で描く事を回避しているゆえに同情の余地を作らせないのも巧いなと。
表面だけなぞると復讐譚だが、これはひとりの男が自分が撒いた種を拾ってゆく、徹頭徹尾「業」を描き切った自業自得の無常感漂う120分で、大満足でした。
個人と社会の再生物語─「アマンダと僕」
あらすじ
突然の悲劇で肉親を失った青年と少女の絆を描き、2018年・第31回東京国際映画祭で最高賞の東京グランプリと最優秀脚本賞をダブル受賞したフランス製ヒューマンドラマ。パリに暮らす24歳の青年ダヴィッドは、恋人レナと穏やかで幸せな日々を送っていたが、ある日、突然の悲劇で姉のサンドリーヌが帰らぬ人になってしまう。サンドリーヌには7歳の娘アマンダがおり、残されたアマンダの面倒をダヴィッドが見ることになる。仲良しだった姉を亡くした悲しみに加え、7歳の少女の親代わりという重荷を背負ったダヴィッド。一方の幼いアマンダも、まだ母親の死を受け入れることができずにいた。それぞれに深い悲しみを抱える2人だったが、ともに暮らしていくうちに、次第に絆が生まれていく。(映画.comより引用)
感想
喪失と再生の物語。
……と形容すればいかにも手垢が付いて安っぽいが、そう感じさせないのは、登場人物たちが絶望し、そこから立ち直ってゆく様を、非常に丁寧な手付きで描いているからか。間の取り方や演技など全編を通して計算し尽くされた作品だったが、特に丁寧だと思ったのが、アマンダの母親(主人公の姉)がアマンダや主人公と共に過ごした日々をたっぷり尺を取って映している点だ。この幸福な時代があるからこそその後の喪失が引き立つ。また、プレスリーのくだりなんて顕著だけれど、大切な人を亡くしても、その人と共有した時間は消えたりしないのだ、という一筋の優しい希望が、長尺の「平和な日常パート」によりよりくっきりと提示されている。
両頬へのキスを初対面の異性と交わすのがヨーロッパでの当たり前なのか私にはわからないが、とにかく劇中の彼らは盛んにスキンシップを交わす。お互いの傷を舐めて必死に癒し合う傷ついた野生動物のように。それはきっと、救済だろう。
悲しみというのはきっと、自然災害と同じで突然やってくるものなのだと思う。遺体に取りすがってわんわん泣くシーンなんてない。さっきまで笑っていた人が、ふとした瞬間に顔を俯せ涙を流す。劇的に状況が変わることもない。少しずつ、少しずつ、居るべき人が「居ない」生活に慣れてゆく。悲しいことだけれど。
アマンダの母の死因が事故でも病気でもなくテロによる銃撃事件であるというのは本当に時代に即しているし、同時に、テロリズムというのがどういうものなのかを巧みに物語のなかに入れ込んでいるなと感じた。死者の数というのはニュースでは「情報」としての数字以上の意味は持たないが、そこには一人一人の人生があり、愛する人がいるのだ。登場人物の幾人かをテロ被害者として設定することで、見落としがちなその当たり前の事実を新ためて観客に思い出させる、見事な構造が完成している。そして、テロによって破壊された日常を回復させてゆく主人公たちの姿を駄目押しのように描くことで、我々はテロに屈しないのだ、あなたがたがどんな酷い暴力で我々の心身を手折ろうとしてこようとも、何度でも立ち直るのだ、という強いメッセージをこの映画は力強く発している。
極めて個人的な「喪失→絶望→再生」の物語でありながら、社会的側面を持つ、これはひじょうに精密な映画であると思う。
2019年上半期映画観賞総括
やたらと漢字の多いタイトルになってしまった。
2019年前半戦が終わりましたね。時間が進むのが早すぎて目眩がします。個人的にこの半年は色々と変化だったり挑戦だったり、うまくいったり失敗したりとめまぐるしかったのですが、楽しいことばかりではない日々に彩りを与えてくれたのはやはり、映画に他なりません。
というわけで2019年上半期。観た映画の中で特に心に残っているものを20本、新旧問わずリストアップ。
ついでに各作品について、自分のFilmarksレビューを引用しつつ簡単にコメントを。
観た日付が古い順です。
時計じかけのオレンジ
とにかく画のスタイリッシュさにまず一発どかんと殴られた作品。ゴッドファーザーとはまた別のベクトルで、映像がパラノイアと呼んで差し支えないレベルで作り込まれていると感じました。鑑賞にあたって、原作をまず読んだのですが、原作にはあのミルクバーの女体を模した椅子もアレックス一味のファッションもアレックスの家の美術もなにも描写がないんですよね。原作は一級品ではあるものの、ディストピア小説であり、それ以上でも以下でもないんです。
そこをキューブリックは、あそこまで芸術性の高い映像を出力してみせた。もう、脳内どうなってんの? ってレベルですよね。驚嘆しかない。
しかも、ただ「スタイリッシュ!カッコいい!」と思わせるだけのための芸術性じゃないのがこの作品のカギでありさらに凄いところで。この映画って、美術も音楽も演出も先鋭的に磨き上げられてるんですけど、内容はひたすら「人間の暴力性」について描いてるわけです。だから、洗練された美術にハイになりながら観ていくんですけど、その内誰もがある時ハッとするんです。「え? 私、今、“暴力”を美しいと思い崇めた?」と。思いっきりカッコいい映画を興奮しながら観ていたら、冷水を浴びせられたような衝撃でもって己のなかの暴力性に気付くんです。気づかせてくるんです。もう、こんな恐ろしい映画あるか? と。視覚的快楽を提供するために組み込まれた上っ面の芸術性じゃない。秩序だとか、道徳心、正義感、そういうものを薄皮をむくように一枚一枚丁寧に引っぺがしていったあと、最後に顔を出すのが、自覚さえしていなかった己の暴力性なんです。その「気づき」を促し、支えるためにこそあの美しさは存在するんです。
とかなんとか偉そうに語ったんですが、ハイ、まあ、ほんと、ハイになりましたねー……。GUのコラボTシャツ、通販サイトで秒で買っちゃったし。いつかハロウィンにアレックスのコスプレしようと思ってるし。ドラッグストアのコスメコーナー行くたびに、下睫毛用のつけま探してるし。これはもうほんと、自分にとって生涯印象的な映画であり続ける気がします。
スカーフェイス
トップまでのし上がった瞬間から既に落ちぶれまくっているギャングを怪演してるパチーノの俳優としての円熟ぶりにクラクラ来ます。私はとにかくゴッドファーザーシリーズが大好きなので、時計じかけのオレンジに続きまたもや引き合いに出しますが、同じ闇社会の人間を演じていても、ゴッドファーザーのそれとは時代も目的も全く違う。
シチリアから逃げるために移民としてアメリカへ渡ってきて、社会で生き延びる為の手段として権力を手にし、麻薬の売買には一生関わろうとしなかったヴィト・コルレオーネや、父親から受け継いだファミリー業を完遂する為に冷酷さと禁欲を己に強いたマイケル・コルレオーネに対し、この映画の主人公・トニーの目的はどこまでも金と女とヤク、つまり己の欲望のみに忠実に動く。トニーの部屋の絢爛豪華ぶりやしょっちゅうヤク吸ってる姿からもそれは一目瞭然。だから部下や友人は付いてこないし、女は離れていくし、最後は殺されるし。マイケルやヴィトも勿論良い暮らしはしてるんだけど、己の身の丈にあった生活を選んだら自然とそうなったのであろう彼らと違って、トニーはとにかく金のために行動し、そうして入ってきた金で武装する。ガンガン殺人犯すのも、冷酷でクレバーだからではなくて、単に沸点低くて自分の邪魔になる人間に我慢できないだけ。無駄に装飾された椅子に座って、絢爛豪華な調度品が置かれた机の上のヤク吸いながらパイプふかす彼の姿は、痛々しいと言っても良いほどに力と金とに溺れている。こういうトニーの性格というかある種の脆さが、話が進むごとに露呈していく作りが堪らないです。
なんであそこまで妹に清廉性を求めるのかなーと疑問だったんですが、もしかしてあの妹は映画の機能的にはかつて純粋であったトニーの魂のアレゴリーで、決して侵すことのできない、侵しちゃならない己の聖域としての象徴なのかな、と。だからジーナが死んだ(=マトモな人間性を永遠に失った)あと、トニーは鬼神になるしかなかったし、その先にあるのは破滅だった。血で汚されていくプールに浮かんだトニーの姿を映したあとの「世界はあなたのもの」はめっちゃくちゃ皮肉が効いてて大好きでした。
湯を沸かすほどの熱い愛
怖すぎて単独エントリを書き、ついでにAmazonのレビューにも同じ文章を投下したら気がついたらトップレビューに来てて申し訳ないやら申し訳ないやら申し訳ないやら。絶対これ中野量太監督に認知されてるだろ。という冗談はさておいて、本当に恐ろしい映画でした。好きか嫌いかで言ったら大嫌いだけど、良くも悪くも鮮烈な衝撃を与えてくれた作品です。詳細はエントリ読んでください。
これが衝撃的すぎて過去作をわざわざ取り寄せて観たりもしました。本作では宮沢りえ演じる母親が娘にブラジャーを買ってくるシーンがあるのですが、監督の過去作「チチを撮りに」でも母娘間でブラジャーがどうのというやり取りがあるんですよね……。中野監督には男兄弟しか居ないようですが、一体母と年頃の娘のコミュニケーションをどういうものと誤解しているのか? とても興味深いですね。
今年公開された「長いお別れ」も、どうしてもはやく観たくて(怖いもの見たさ)、あらゆる手段で試写会に応募し無事当選し観に行ったのですが、これは原作モノだからという意識が監督の中にあるのか、全然普通の無難な映画で残念でした。この監督は絶対自分で自分の好きなものを好きなように撮るべき作家だと思う。「お兄チャンは戦場に行った!?」とか変態値カンストしてたもん。次作に期待。
鍵泥棒のメソッド
とにかく楽しく観れたのを覚えています。堺雅人と香川照之って、ゴールデンスランバー然り半沢直樹然り本作然り、がっつり絡むことが多いですね。お二方とも演技が繊細かつとても勢いがあって好き。こういう真っ直ぐな娯楽作ってどうしても軽く見られがちだけれど、「あー面白かった」で席を立てる映画って素晴らしいし、何気に制作に一番技術が求められるジャンルではないかと。重いテーマやメッセージ性を持たないゆえに、よっぽど脚本や演出が巧くないと観客をラストシーンまで連れていけないと思うので。人に薦めやすいのもこうした映画の良いところですね。
マッドマックス
単純明快なストーリーと疾走感のある画面が好きです。妻子が殺されるシーンは胸糞ですが、妻もオバちゃんも気丈な強い女性で好感が持てました。私は運転免許すら持っていませんが、車の運転って気持ちいいだろうなーと。こうして改めて振り返ってみるとこの作品を語るだけの言葉を自分が多く持っていないことに驚いたのですが、それでも85本の中の20本に確実に入るんですよね。波長が合うのだろうか? 理屈じゃなく好きな作品って貴重だと思うし、大切にしていきたいです。
マッドマックス2
ガソリンや弾が貴重だ、っていう設定を、登場人物に逐一台詞で説明させるのではなく、キャラクターが矢や銛を使ってたり、弾をスーツケースに大事にしまわせたり、溢れるガソリンを容器で受け止めることで集めていたりといった、あくまで「映像」による「描写」で説明する姿勢が観客に対して誠実だなと感じました。観客を信頼しているというか。FRもそうだったが、あの姿勢はここから継承されているのだなと感慨が。
乾いた大地での派手かつ容赦無い命のやり取りのなかであのオルゴールが唯一のイノセントな部分というか清涼剤の役目を果たしていて、ただの暴力映画に留まっていないのも好き。マックスとあの子供の心の交流、戦場で互いを信じる、ある種ピュアな精神性みたいなもののアレゴリーなのだろうか?
こうして1と2を観ていくと(サンダードームは諸事情により未だ観れていませんが)、FRの「行って帰るだけ」という単純なストーリー構造は1から、世界観や車のデザイン、キャラクターのビジュアルは2からそれぞれ受け継がれたものなのだなと気付きます。作品単体でも面白いけれど、こうして流れに沿って観て行くとまた面白いですね。
遊星からの物体X
私はふだんミステリを中心に本を読みます。いきなり何の話かと思われるでしょうが、少々我慢して読み進めてください。ミステリには「クローズド・サークル」と呼ばれるジャンルがあります。これは日本では吹雪の山荘などと呼称されますが、要するに外部との接触が一切断たれた状態で、閉ざされた空間のなかで一人また一人と惨劇が起きる、でも誰も逃げられない、そして誰も信じられない……というシチュエーションを描いたもので、アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」「オリエント急行の殺人」や、有栖川有栖の江神シリーズ、綾辻行人の「館シリーズ」などが代表的です。
さて、何を言いたいかというと、この「遊星からの物体X」は、まさしくSF &ホラー版クローズド・サークルである、ということです。
登場人物たちが次第に疑心暗鬼に取り憑かれていく様とか、ヒステリー起こす奴が出てきたり、犯人探しならぬ「エイリアン探し」を皆で始めたり、登場人物が不用意に一人で行動しはじめたりと、もう私が今まで散々読んできたクローズド・サークルミステリそのまま(ミステリ好きさんは思わずニヤニヤしちゃいますよね)。外部と通信がつかなかったり、何者かの手によってヘリコプターが壊されて脱出不可能になったりするところも既視感バリバリ(ちなみにミステリだと車のタイヤがパンクさせられたりしている)。クローズド・サークルものは場面が変化せず地味なのでほとんど映像化されないのだが(本格嫌いの層の厚さもあるだろう)、SF、それもエイリアンものとくりゃあ絵になりますよね。ひたすら楽しかった。
音楽とかカメラワークの演出も塩梅が絶妙で、観客の恐怖感やハラハラドキドキをこりゃまた煽る煽る。血液採取してエイリアンかどうか順番に調べるとこなんかも、思わず息を詰めて見入ってしまった。二転三転するプロットといい単純明快かつ必然性のある設定といいとにかく観客の心を掴みつつ転がせまくる手腕が絶妙であった。エイリアンのグロテスクな見た目に拒絶反応を覚える観客もいるだろうけれど、こうまで面白きゃそれでもスクリーンから目が離せないんじゃないかなと。
怖さやハラハラドキドキだけじゃなく、疑心暗鬼に取り憑かれる人間心理の描き方も巧い。登場人物がみんな違った反応、違った考え方で動いていて、キャラクターを単なる駒ではなくちゃんと生きた人間として創り上げてシュミレートした上で対立や協力関係を設定したのだろうな、と感じた。ただキャラクターにギャーギャー逃げ惑わせるだけのホラーは多いが、この作品は使える設定全て使って一つでも多い側面から観客を楽しませようという気概が伝わってくる。ラストのやりきった絶望感も最高。グロいので体力精神力のある時に限りますが、近いうちまた観直したいですね。それにしてもあの時代にあのエイリアンをどうやって撮ったのだろう? メイキング映像とかないだろうか。
パシフィック・リム アップライジング
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世間では割と、いやかなり酷評されてますが、私はこっちの方が好き。
実はパシリム無印、そこまで好きじゃないんです。いや嫌いでは全くないけれど、別にふつう。テレビでついてたらまあスマホ片手に見るかな、程度。それというのも、イエーガーと怪獣の戦闘シーンが単純に暗くて観づらいうえに、怪獣と格闘するイエーガーと操縦する人間とを交互に映さなくてはならないため、テンポが少々かったるいんですよね。あの重厚さがいいんじゃないか! と言われればそりゃそうなんですけど、でも私の好みではない。
そこへいくとアップライジングは、ストーリーはかなり滅茶苦茶だけど、戦闘シーンが気持ちいいんです。まず何より、白昼のなか戦いが繰り広げられるので、観やすい。戦いもアクションがスカッとしている。私は単純な人間なので、軽快にパンチやキックを繰り出し、縦横無尽に街の中を駆けていくイエーガーに、より魅力を見出しました。
あと個人的にすごく良いなと思ったのは、主人公の青年が黒人であること。私が洋画を観ていて常々憂いているのは、「黒人であるという必要性なしに黒人が主役級で出てくる映画があまりにも少ない」ってことで。昨年末から今年、「グリーンブック」「ブラック・クランズマン」「ビールストリートの恋人たち」など黒人キャラクターが主役を張る映画が多く公開されていますが、全部「黒人だから」という理由で黒人が起用され描かれているんですよね。勿論長い歴史の中で黒人が差別され虐げられてきた事実に向き合った映画が作られること自体は素晴らしいし、作るべきだとは思うんですけど、それは重々承知した上で、「別に、なんの理由もなく、“たまたま”黒人が主役でもいいじゃん」と思うんです。白人は、なんの理由もなく主役を張っているのに。
そこへいくと本作は、無印から十年後ということで、どんなポジションのどんなキャラでも主役にできたところを、サラッと黒人を据えている。作中で人種問題を重く描くこともせず、普通に主人公として活躍させている。世の中には色々な肌の色の人がいて、色々な国にルーツを持つ人がいて、それを「当たり前のこと」とフラットな視点で捉えているからこそできたことなんじゃないかと思います。
あとこれは本当に蛇足なのですが、怪獣オタクの科学者・ニュートを演じるチャーリー・デイに一目惚れしてしまいまして、彼の出演作観れるのは全部観ました。ドラマ「フィラデルフィアは今日も晴れ」、日本でも配信してほしい。とりあえずレゴムービー2のソフト化を待ちます。
スクールオブロック
自堕落な(元)バンドマンが、ひょんなことから学校教師になりすまし、「お勉強」ばかりの覇気のない子供達にロックを伝授する話。
もうロック好きとしては堪らないですよね、この時点で。最高でした。楽曲使用にうるさいLed Zeppelinが、主演・ジャックブラックによる「嘆願ビデオ」のお陰か、「移民の歌」の使用をオッケーしたというエピソードも含めて、愛おしい作品。私もあんな授業受けたい。
ただこの映画、ひとつだけ許せないところがあって。コンテストに優勝したバンドに対して、ジャックブラック演じるデューイは、「あんなのは“ニセモノ”だ!」と子供達に言います。また、どこかのバンドマンと楽しく談笑していた生徒を見つけるなり、「あんな“ニセモノ”には近づくな!」みたいなことも言うんです。いや、それってどうなの? と。いわゆるパンクファッションだったり、そういう「カッコから入る」バンドや、分かりやすく大衆にウケるバンドだって、そりゃちょっと文句の一つでも言いたくなることは私にもあるけれど、それでもみんな自分の考える「ホンモノ」を追求して日夜頑張っていると思うんです。元バンドマンである彼も、それを知らないはずはないんです。そもそも本作のテーマは、「他人に人生を牛耳られるのではなく、自分が思う好きなことやカッコいいと思うことを全力でやれ」ってことだと思うんですよ。それぞれ自分の「スキ」を貫く彼らを、どうしてデューイにニセモノ呼ばわりさせたのか。テーマを制作側自らブラしにきてるじゃないかと、そこだけ残念でした。
バック・トゥ・ザ・フューチャー
散々周りから面白いよ面白いよと薦められて観たが、本当に面白かった。文句なく面白かった。とにかく観ながら笑ったりドキドキしたり感動したりした記憶がこれ以上ないほどくっきりと頭の中に残っていたので20作のひとつに取り上げました。
で、ここからは賛辞でも文句でもなく「自分だったらこうするな」なんですけど。
自分でも何様だよと思うけれど、私はフィクションに触れた時、「こうだったらもっと好きだったのにな」と思うことがしばしばあります。代表的なのが「美女と野獣」。ラストで野獣は、元の姿である王子に戻ります。でも私は、野獣のままで話が終わった方が物語として美しいと思うんです。ベルは野獣の姿の彼を愛したんだし、なにより「人は外見じゃない」という話をずっと語ってきたのに、最後の最後で結局ルッキズムに収束するなんて、テーマがブレているじゃないか、と思ってしまう。
さて、そこでバックトゥザフューチャーです。父と母をどうにか結びつけて、現在に戻ったマーティを待っていたのは、裕福な家に、ラブラブな両親、若い頃から変わらず美しいままの母親に、堂々とした性格の父親。それはいいんです。マーティも喜んでいたし、ハッピーなことだから。
でも私がもしこの映画を作るとしたら(作らないけど)、絶対にこうは作らない。タイムトリップして頑張って、現代に帰った時迎えてくれるのは、私だったら、冴えないままの家族にすると思います。変わるのはむしろ、マーティのほう。どうにもパッとしない家族だけど、それでもこの両親は、家族は、自分が過去に行って必死で守った家族なんだ、悪くないじゃん。と。
うだつの上がらない家族に対して、確かにマーティはウンザリしていたかもしれないけれど、そんな家族を性格も関係性も見た目もすっかり変えてしまうのは、少々乱暴な言葉を使いますが、マーティ、というより制作者の、身勝手な暴力でありエゴだと思うんです。
マーティ、最初は嬉しくても、あとあと寂しくならないんだろうか。だって家族みんなが違う人格になってしまったってことであって。2以降を観ていないのでなんとも言えませんが……。
2001年宇宙の旅
ひたすら映像の美しい、60年代公開とはとても思えないオーパーツ的なSF映画。説明を最低限まで省いているので意味不明だし、尺の取り方なども不親切(ぶっちゃけ眠くなる)なのだけれど、ラストの老いてゆく部屋や胎児のイメージはじめ、観客に理屈じゃない恐怖を与える手腕が本当に卓越している。芸術の役割というのは見る人の価値観やモノの見方を傷つけることだと思っているのですが、その点で言うと本作はこれまでもこれからもこれを超える作品は現れないのではないかと。とにかく強烈、その一言につきます。やっぱりキューブリックってスゴいわ。
クレイマー、クレイマー
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父と息子の愛と絆を描くことでストーリーを進めながらも、同時進行で、それこそ現代の日本に通ずる社会的問題をもしっかりと扱っているのがすごい。作中でダスティンホフマンは仕事と育児の両立の難しさに直面するけれど、あれって子供を持ちながら働く現代日本女性が今まさにぶつかっている壁そのものなんですよね。タイムリーなことに、つい数日前、子連れの妻が「Dr.」であることを空港で疑った日本の深い闇(中川 まろみ) | FRaUという記事が発表されましたが、ただ母親であるというだけで、あんなにも不利益を被り理不尽な思いを強いられる。本作で描かれているのも根っこが同じなんです。子供を持ったら家庭に入るべきという価値観。育児をしながら働くのは「迷惑」という風潮。「ウーマンリブ」への言及や「妻をかたにはめようとしていた」という、ど直球な台詞まである。ダスティンホフマン演じる男親の視点から、観客がその理不尽さを追体験する作りになっている。もう、明らかに問題提起としての映画なんです。しかし四十年前の作品なのに全く古びていないというべきか、現実が追いつけてなさすぎというべきか……。
グランド・ホテル
ミステリの一ジャンルであるゴシック・ロマンもそうですが、本作のようなひとつの土地、建物を舞台にした作品における真の主人公というのは、その土地そのものなのだと思っていて。登場人物たちは皆、その掌の上で運命に踊らされる幸福な傀儡に過ぎない。群集劇とは、一定の空間が持つ、逃れられない定めの物語。だと思ってます。
様々な人間関係を繋げ、縁をつくり、愛を与えたキーパーソンの男。彼は、「グランド・ホテル」という“土地”が、登場人物たちに差し向けた使者なのだ。彼が死んではじめて物語が収まるところに収まり、大団円を迎えたのも、それだからこそ。彼はそこにはもう永遠に関われない。だけど彼が居なかったら何も生まれなかった。彼は使者として立派に役目を終えたんです。
人間関係や愛といった他キャラクターと彼との濃い縁を描き、そして主要登場人物ら全員がホテルを去った後、新しい命が生まれるのが構造として美しい。ホテルにとってはこの映画で描かれた一連の波乱の一幕も、ただの日常でしかないことが、互いに全く無関係の「死」と「誕生」によって端的かつ非常に美しい形で示されているわけで。ホテルはこれからも様々な死と誕生と生活を見つめながら何もなかったように続いていく。「グランドホテルは世界中どこにでもあるさ」っていうラストの台詞がまたそれを念押しのように押し出している。劇的なわけじゃない、特別な出来事のわけではない。ホテルはそれまでもこれからも様々なドラマを目撃する。世界中で。そういう終始マクロな視点で物語が語られるのが良い。まさに「グランドホテル 人が来ては去りゆく 何事もなかったように」。とにかく構造が美しくて、大好きな映画。
スパイナル・タップ
イギリスのハードロックバンド、「スパイナル・タップ」。これは彼らの活動を追った、ドキュメンタリーである。
……という設定の映画。
もうこの時点でロック好きなら滅茶苦茶ワクワクしますよね。
で、この映画はその期待に見事に応えてくれます。なんか妙にリアルなんだこの偽ドキュメンタリー。メンバーの出で立ちといい、インタビューでの受け答えといい、佇まいといい、ほんと「どっかで見た」バンドマンなんですよ。
適度に間が抜けてて、いまいち煮え切らなくて、なんだろうこの溢れる「ホンモノ」感。どんなに一世を風靡したバンドでも、しょうもないことで揉めたり批評家に低評価下されたりするじゃないですか。そういうところを絶妙な塩梅で描いていて、ほんとガチのドキュメンタリーみたい。
アウェイな空間でライブさせられたり舞台装置にトラブル起きたりメンバーの彼女がマネージャー面しだしたり、今まで私が音楽誌とかで読んできた古今東西のロックバンドの裏側そのもの。ストーンヘンジのシーンとか笑い死ぬかと思った。
ただ笑えるだけじゃなく時折ロックの本質を突いていたりして、もうこんなロック好き殺しの映画他にあるか。
音楽やってたらさらにもっと楽しめたんだろうなあとは思うけど。実際バンドやってる友達に勧めてみたんですが、相当気に入ったようで、早速DVDを購入してました。
ロック好きは全員観ましょう。
ROMA
映像が息を呑むほど綺麗で、登場人物たちが作品内に生々しく息づいていて、たいした起承転結ないのに目が離せなくて、隅々まで抑制が利いていながら強い感情が宿っていて、芸術としての映画とはこういうものなのだなと思った。
あとは男女での命とモノの使い分けが印象的だなあと。女性キャラクターは生きた物との絡みが多く(犬、海、赤ん坊、羊水)、男性キャラクターはモノ(拳銃、武術のポール、本棚)と親和している。そして男性はモノを持ち女性から去っていく。
というかこの映画、成人男性をおそらく意図的に排除しているところがあって、基本的に女性と幼い子供のみをフレームに映し話を進めてるんだけど、それで思い出すのはルシール・アザリロヴィック監督の「エヴォリューション」。「水」の表現が反復されるのも同じ。生と死が対比されていたのもこの二つの共通項ですね。どちらもすごく生々しい有機的な映像が印象深い作品ですが、「エヴォリューション」がひたすら不気味であるのに対し「ROMA」は一周回ってストレートな生命賛歌で、単純にすごく好き。エヴォリューションとROMA、制作側の意図は置いといて自分の感じた印象で言うと、ネガとポジって感じ。だから何って話ですが……。
町田くんの世界
この映画は、誰にでも優しい町田くんという男の子が、一人の女の子を好きになることによって、博愛の人で居られなくなるという話なのだけれど(誰かに優しくするってことは誰かを傷つけることなんだよ、という台詞が作中にある)、町田くんがいよいよ一人だけに愛を注ごうとした時に、博愛だった時の彼に救われた人達が彼を助けて愛を持って女の子の元へ送り出すの、ほんと構造として完璧。優しさや愛が循環してるんですよね。
あとは、やっぱり雨の使い方が最高だった。ヒロイン・猪原さんが「雨の日はそこに居てもいいよって言われてるみたいで好き」って言うんだけど、町田くんがみんなに送り出されて猪原さんの所へ向かう時、雨が降ってるんですよね。雨は愛する人に対する承認なんだと思います。あなたがあなたでいることを、私は愛します、という。
ラストの風船はたしかに突拍子も無いけど、町田くんと猪原さん、彼らの周りの人間、そして何よりスクリーン越しに彼らを見守る観客の「こうであってほしい」を完璧に形にしてくれているから冷めない。むしろよっしゃ!ってなります。そこの塩梅が本当に上手い。あとはまあやっぱ、空に飛ばすことで文字通り町田くんの見る「世界」をガラリと変えるという効果がてきめんだったと思う。博愛のキリストから、特定の一人を愛する人間に変わった瞬間だったから。恋というのは、特に町田くんのような子にとっては、空を飛ぶより一大事だしね。パンフレットやインタビューによると、監督は町田くんが空を飛ぶことをかなり色んな人から反対されたらしいのだが、反対に負けず押し通してくれて本当に良かったし、石井監督への信頼も更に盤石になりましたね。
どんな映画も、観た時の感情を色んな一言で表すことが出来ると思うのだけれど(楽しいとか笑えるとか泣けるとか切ないとか怖いとかワクワクするとか)、石井監督の作品は全部「愛おしい」だなあ。登場人物みんな、もう超脇役でも悪役でもまとめて抱きしめたくなる。いい映画を観たな、としみじみ思える作品というのは良いですね。
旅のおわり世界のはじまり
すごく良かった。でも感想が全然纏まらない! ので思ったままつらつら書きます。
本当に自分がやりたい事は何か。何を本当に望んでいるのか。自己との徹底的な対話。本当は何を望んでるの?
徹底して「撮られる側」「見られる対象」だったヒロインが、カメラを持ち「自分の視野」を獲得する。でもたかが小さなハンディカメラ。真の意味で相手を「見ようとしない(=理解しようとしない)」彼女が、壁にぶつかり、事件を通して、殻を破りだす。
人混みのバザールを、車が行き交う道路を、不穏な夜道を、何かを求めるように早足で疾走するヒロイン。横顔。足音。
そしてラストの愛の賛歌。未だに私の心に響いたまま鳴り止まない。ウズベキスタンの空の下、情熱の愛の歌を歌い上げる彼女の歌声は、母の胎から世界に放り投げられた赤児の産声のように、または放浪しながら歌い歩く吟遊詩人のそれのように、力強く高らかだった。
私の20世紀
前エントリ参照のこと。
タイタニック
「男女がイチャイチャして船が沈む」、言ってしまえばただそれだけの話なのに、どうしてこんなに面白いのだろう。心を掴まれるのだろう。寒さと死の恐怖と愛する人へ別れを告げたことに震えながらも力強く警笛を鳴らすローズの横顔の生きることへの渇望に涙。
まあそれはいいんですけど。この映画、ラスト怖すぎじゃんって思うのは私だけでしょうか。天国で愛する二人が再開したのはいい。そこが二人が出会い愛を育んだ場所・タイタニックであるというのもいい。でも二人を囲み笑顔で拍手する大勢の死んだ(んだよね?)乗客、あれ何!!! だってあの人達そのタイタニック号で死んだんだぞ? なんで天国でもタイタニックに乗ってるの? 笑顔なの? 地縛霊なんですか? いやほんと、好きな人に申し訳ないけど、あそこだけは怖かった。映画の中でこそ主人公であるもののただのいち乗船客でしかない二人が世界(タイタニック号)の中心、みたいな描き方をやっていいのか単純に疑問でもある。
それにしても、三時間以上あるのにダレる部分が全くないのは何なんだろう。凄すぎた。もう一回テンポや構成に着目して観たいけど、また三時間かかるのか……と思うと躊躇してしまいますね。
新聞記者
まずこのタイミングでこういう映画が日本で作られたことがすごく大切な一歩になると思うし、制作・放映に関わった全ての人に敬意を表したい。現実の問題をあそこまで生々しくプロットに反映させるのは、よっぽどの誠実さと覚悟が無いとできない。
全編凄かったが、一番唸らされたのは主人公二人を分かり易い英雄にしなかった点。作中で彼らに勝利を与えるのは簡単だけれど、それでは「気持ちのいい勧善懲悪エンタメ」として物語が閉じてしまう。あえて葛藤と問いを投げかけるラストにした事で、観客に当事者性を持たせ問題意識を喚起する構造になっているのが見事かつこういう種類の映画の終わり方として非常に適切だと思った。
まとめ
というわけで上半期鑑賞85本の中の20本でした。新聞記者に関してはまだ全然自分の中で纏まっていないので、あとで思いつくなり追記という形で弄るかもしれません。下半期もたくさん良い映画に出会えることを祈って。
一応85本、全部タイトルを記し、このエントリを締めさせていただきます。
- 時計じかけのオレンジ
- 天然コケッコー
- スカーフェイス
- ニューシネマパラダイス
- ショーシャンクの空に
- 湯を沸かすほどの熱い愛
- 怒り
- チェイサー
- 鍵泥棒のメソッド
- そんな彼なら捨てちゃえば?
- あぜ道のダンディ
- フォレスト・ガンプ
- 悪魔のいけにえ
- ハンサム・スーツ
- ヘアスプレー
- マッドマックス
- マッドマックス2
- 遊星からの物体X
- グリーンブック
- パシフィック・リム
- パシフィック・リム アップライジング
- アジョシ
- スクールオブロック
- 哀しき獣
- トップガン
- 凶悪
- グッドフェローズ
- バックトゥザ・フューチャー
- ロリータ(97年版)
- ロリータ (61年版)
- セブン
- インターステラー
- 暗殺
- 下妻物語
- ソング・オブ・ザシー
- ベイブ
- ハラがコレなんで
- 遠距離恋愛 彼女の決断
- ビューティフルボーイ
- メッセージ
- 2001年宇宙の旅
- テルマエ・ロマエ
- チチを撮りに
- 新感線 ファイナル・エクスプレス
- モンスター上司
- 少年たち
- モンスター上司2
- Destiny 鎌倉ものがたり
- 亜人
- 沈まない三つの家
- お兄チャンは戦場に行った!?
- 最高の家族の見つけかた
- フィストファイト
- 女王陛下のお気に入り
- パディントン
- クレイマー、クレイマー
- グランド・ホテル
- LEGOムービー
- 長いお別れ
- リメンバー・ミー
- プロメア
- 孤狼の血
- スパイナル・タップ
- コンフィデンスマンJP
- 男はつらいよ
- アメリカンアニマルズ
- 神と共に 第1章
- ROMA
- GODZILLA
- SING
- キングオブモンスターズ
- 廿日鼠と人間
- ノーザンソウル
- 町田くんの世界
- 二十日鼠と人間
- あしたの私のつくりかた
- グラン・トリノ
- 旅のおわり世界のはじまり
- ジャージーボーイズ
- イメージの本
- マイプレシャスリスト
- 私の20世紀
- フレンチ・コネクション
- タイタニック
- 新聞記者
生まれ直す時代と女---「私の20世紀」
イルディコー・エニェディ監督による三十年前の幻の処女作・「私の20世紀」を観た。以下感想を。
あらすじ
エジソンが発明した電球のお披露目に沸き立つ1880年、ハンガリー・ブダペストで双子の姉妹が誕生した。リリ、ドーラと名付けられた双子は孤児となり幼くして生き別れる。1900年の大晦日、気弱な革命家となったリリと華麗な詐欺師となったドーラは偶然オリエント急行に乗り合わせた。ブダペストで降りた双子は謎の男性 Zと出会う。Zは彼女たちを同一人物と思い込み二人に恋をするのだが…。(Filmarksより引用)
思っていたより観念的で芸術性によった作品だった。
まず、映像がひときわ美しい。やはり白黒映画であるというのが抜群に利いている。モノクロ映画とは、光をここまで美しく映すのだなと、白熱電球のシーンで驚愕。鏡部屋をあそこまで綺麗に撮れるのも、モノクロだからこそだと思う。もしもこれがカラー映画だったら、情報量(主に色)が格段に多くなって逆に恐怖心を喚起してしまっていたと思う。なるべくして白黒になったという印象がある。そして主演のドロタ・ゼグダの美しいことといったら! 絢爛豪華に着飾るドーラの煌びやかさと、情熱と怯えを内に秘めた質素なリリの愛らしさ、どちらも一級品だ。
ただ美しいだけではなく、構造の面においてもこの映画は優れている。カメラはまずエジソンによる白熱電球の発明に沸き立つ人々を映し、つぎに寒空の下マッチを売り、マッチの光を見つめるリリとドーラの姿を捉える。もうこの流れだけで、彼女らが「新しい時代(=マッチを擦ることなく灯をともすことができる)から取り残された存在」であることが、黒のなかから浮かび上がる美しい「光」の描写で提示されていて初っ端から非常に巧い。
あとこの映画、「時代」というものの生まれ変わりをとても自然な形で繰り返し提示しているのが印象的だ。電報や白熱電球は言わずもがな、年越しの様子を描いたシーンが、物語を語る手つきとして非常に華麗。年越しというのは旧年が死に、新年が生まれる行事であると指摘することができるが、この映画でもまさにその通りで、「19世紀」の絶命と「20世紀」の誕生を鮮やかに描いている。そしてその日にリリとドーラの人生は、Zという男を媒介に再び重なり合う。
このように構造がとても見事な本作であるが、寓意的な観点で読み解いても面白い。一卵性双生児である二人は、一度男の手で引き裂かれそして最後男の手により再度「ひとつ」となった「単一存在」であると言うことが可能なのだ。時代だけでなく、「二人」に引き裂かれることで死んだ「二人で一つ」である彼女たちもまた、再び「一人」として生まれ直すのである。ドーラは「女」を武器にし世を渡り、リリは「女」であるが故の枷から解放する為活動しているのも対比的で興味ぶかい。
しかし映画全体を俯瞰で概観したときに、やはりとっ散らかり気味という印象は否めない。チンパンジーやパブロフの犬は、エピソード単体では面白いが、本筋との関わりがいまいち弱い。終盤に至るにつれ不可思議かつ浮世離れしていくこの映画は鏡部屋のあたりで完全にストーリーラインを放棄し、「考えるな、感じろ!」とばかりに双子の突然の邂逅を観客に叩きつける。あれはあれで好きなのだが、何処まで狙ってやってて何処から処女作ゆえの稚拙さなのかがいまいち見えない(「心と体と」を観ればこの監督の作風や巧拙が判るのだろうが、今のところ機会がない)。
そうそう、よくわからなかったのだが、「どちらを選ぶかな」と囁き交わす少女の声は、やはり子供時代のリリとドーラのものなのだろうか?
2016年〜観た映画まとめ
ここ数年は割と入退院の繰り返しで、あまり映画は本数観れていないのですが、漸く生活も落ち着きだしたので、2015年にやったきり(2015年上半期観た映画まとめ - 東のエデン)だった、観た映画のまとめをやります。2016年からになります。なんだかんだで多いので、印象に残ったやつだけを。新旧入り混じってます。
裸足の季節
まずトルコの田舎町の風習に「これ現代の話だよね?」ってすごいびっくりしたんだが、でも結局あれらって日本にも強く根付いてる「女は早く結婚して子供産め」という風潮の延長線上にあるものなんだよな。学校行かずに花嫁修業、とかも「女に学歴は要らない」という言説を想起させるし……
気の良い兄ちゃん(彼がゲイであることがさりげなく示されてて、マイノリティ同士の連帯だと分かるようになってる)の助けを借りて、イスタンブールへ旅立ったラーレ。イスタンブールに行けばそれで即どうにかなるわけじゃない。ないけれど、自分を縛る抑圧を振り払って、自分の意志で立って歩けることこそが重要なんだよね。そのへんウテナ劇場版を思い出したり。
「よせ。どうせお前たちが行き着くのは、世界の果てだ。」
「そうかもしれない。でも、自分たちの意志でそこに行けるんだわ。」
五人姉妹がすごく美しくて健康的な色気があってしなやかで、まさに原題の「野生の仔馬」そのもの。色彩がすごく綺麗で目に楽しかったです。満足。
ロスト・バケーション
恐怖の緩急の付け方が素晴らしかった。主人公がサーフィンの途中1度砂浜に上がって電話で父と口論をするんだけど、それまではこれでもかというほど美しく撮られていた海が口論のあと再び沖へ向かう場面から一転、不安を煽る不穏な色彩とカメラワークに変わる。
佳境にさしかかるまでは鮫の姿はほとんどヒレか魚影しか見えないし、人が鮫に食われる様も引きのショットで映したり海面に広がる血の赤で表現したり、抑制された演出によって逆に恐怖が煽られるんだよな。
満潮(=主人公の一時避難先である海中の岩が沈む)までのタイムリミットを設けただけでなく、怪我の応急処置、カメラの回収、ブイまでの移動、照明弾の回収……と細かくクリアすべき課題を段階的に設定しているから、緊迫感がマンネリ化することなく持続して、そのへんも巧いなあと。
カモメが唯一の救いよね。カモメとのシークエンスがあるから主人公の置かれてる限界状況がより引き立つし、一種の清涼剤、箸休め的な役目を果たしていて、締めては緩められ、また締められる物語の手綱のおかげで飽きが来ない。
あと、主人公の水着姿をことさらに強調して撮らないところもポイント高かった。しかし主人公、あんな死ぬ思いしてよくまた笑って海行けるな?! 文系はおとなしく家にこもります。
愛と哀しみのボレロ
「戦争は憎しみあう者同士の戦いではない。愛し合う者たちの別離だ」とは劇中の台詞だが、愛する者との辛い別れに寄り添うように挿入される演奏やダンスのシーンは明るい曲調であってもどこか物哀しかった。
芸術が人を救えるのかどうかは分からない。人生はあまりに辛く苦しい故に、心の隙間を埋めるのがせいぜいなのかもしれない。だがラストシーン、異なる国で生まれた4組の家族がチャリティーショウという同じ場所に立ち高らかにボレロを歌い踊りあげる姿に、芸術の可能性を感じぬ者はいないだろう。
白眉はダビットとアンヌの再会シーンだろう。温かい木漏れ日の落ちる精神病院の庭で、ベンチに腰掛けるアンヌと、おずおずと近づいて行くダビット。台詞もなく、二人の後ろ姿を長回しのロングショットで捉えたこの場面には、失ってからずっと探し続けてきた愛する者との満たされた愛情が横溢している。
あと、これはまあどうでもいいのだが、異なる国籍の登場人物の物語を同時に描くポリフォニックな構造と、親子を同じ役者が一人二役で演じる配役(これ、何か意図があるんだろうか)のせいで、観ながら頭の整理にてんてこまいだった。実際、途中何度か巻き戻して見たし。
散歩する侵略者
意味不明の脚本改変に対する原作ファンとしての怒りはもう一周まわって私の中に存在しない。これは究極のバカ映画だ!!!
一つどうしても許せなかったのは、ラスト、宇宙人襲来が「愛」を知ったゆえに侵略をやめてしまったところで、これは本当に冷めた。隣国と戦争をやっていても、宇宙からの脅威が間近に迫っていても、寂れたラブホテルの一室で愛を誓う(誓い合う、になれないところがミソ)信治と鳴海の2人がこの物語の肝なんであって、「愛は地球を救う」と言わんばかりのあの展開には心の底から幻滅した。
あ、役者はキャスティング・演技ともに良かったです。
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役者の演技や美術、音楽、世界観にも決して文句はないんだけど、原作小説から削られている部分が多すぎてカズオ・イシグロ信者からすると全体的に感情の流れが物足りなかった。
特にカセットを聴いて枕を抱き体を揺らすキャシーをマダムが目撃するシーンを削ったのはまずいと思う。このタイトルがどれだけこの作品を象徴しているものであるのか分かってやってんのか? あと失くしたカセットをトミーが見つけるシーン。まあでもあの厚さの原作を二時間足らずの尺に収めたという点では上手くいった部類なのかな。
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自由を求めて誰に迷惑をかけるともなく無軌道に走っているだけなのに、余所者であることや人と身なりが違うというだけで保守的な社会から拒絶されて迫害されてあまつさえ殺されてしまうのバリきつかった。
ストーリーはあってないようなものなので退屈っちゃ退屈。
キャプテン・アメリカとビリーの絆とか繋がりがいまいち見えてこないので(二人の会話シーンも少なく、彼らのバックグラウンドに関する情報も無いに等しい)いまいち入り込めなかった感が。
音楽のチョイスは良い。全体的に拙いものの、当時のアメリカの空気感を伝えてくれるのでアメリカの現代史と絡めて観ると面白そう。
エンドロールを呆然と見ながら、自由とは何かについて暫し沈思してしまった。
映像作品としての出来の良さはともかくとして、衝撃を受けた作品だった。
戦場のメリークリスマス
良かった。キスシーンとラストの「メリークリスマス」には思わず涙が出た。良かった。
キスシーンの個人的解釈を少し。戦場とは個人が個人でいられなくなる場所で、そこでは個々の尊厳や命の重さは剥奪される。それはヨノイとて同じである。彼は大日本帝国の軍人として自らを雁字搦めにしている。そうすることで彼は自分を律し戦場という過酷な場で自らを保っている。そこにセリアズは、キスという人間同士の間で交わされる非常に個人的な行為を持ち込むことで、ヨノイに己が紛れもない「個」であることを思い出させた。ヨノイが立っていられなくなったのは、自分が自分でしかないことを認識させられたからである。と私は受け取りました。
良かったんだけど、外国人俳優の日本語が半分くらい聞き取れなかった。ので、本当にこの映画のテーマを理解しきれているかは不明。
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「この人を守りたい」。「この人の力になりたい」。
口で言うのは簡単で、でもたかが長い人生の途中で偶然知り合っただけの関係。一生を捧げる義務も覚悟も本当は無かった。お互い夢を見ていただけ。いや、お互いというのは違うかな。夢を見ていたのはきっと、恒夫のほうだ。ジョゼは与えられた少しの間の心地よさへの返礼として、恒夫に夢を見せることを許した。
「僕には旅に出る理由なんて何ひとつない」。お互いがそこに居れば、それで良かった筈なのに。
基本的に男女の恋愛の機微が分からない人間なので(私が)、観ながら首を傾げる部分もあるにはあったが、細い蝋燭の火を分け合うように寄り添っていた二人の姿が忘れがたい。
ONCE ダブリンの街角で
音楽って不思議だ。
年齢も生育歴も性別も背負っているものも何もかも違う人々を、いとも簡単に結びつけてしまう。
劇中で名も明かされぬ1組の男女は、音楽によって出会い、音楽とともに仲を深めていく。そしてラスト、彼と彼女はやり残した過去やまだ見ぬ未来へとそれぞれ別の道を歩み出していく。勿論、音楽とともに。
音楽とは、人生に寄り添い、彩りを与えてくれる神様からの最高のプレゼントだ。
パーティで女の子に話しかけるには
長いこと「パンクロック好き」を自称していると、「パンクロックの定義は?」と尋ねられることが多く、その度「……」と沈思した後、結局マトモな返答ができないでいたのだが、今、正解が分かった。
「『パーティで女の子に話しかけるには』を観ろ!」だ。
……が、宇宙人たちのあまりのサイケっぷりに、「これパンクというよりプログレでは……」と思ってしまったのもまた事実でした。
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終盤のifが、あまりにも、あまりにも美しくロマンチックでありそして切なかった。
2人は成功の代償としてお互いが結ばれるという道を捨てたけれど、それはバッドエンドではなく、女優、ピアニストとジャンルは違えど同じ「夢追い人」として互いの成功を静かに認め喜び合う、密やかなグッドエンドだった。男女の関係の最上級は何も結ばれることだけとは限らないのだ。
色彩も音楽も夢のように美しかった。夢を追い続ける二人が見ている世界も、きっとあんなふうに美しいのだろうと思う。
トレインスポッティング
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ヤク中ってまじでこんな感じなんだろうか。まあクズの映画だなあと。
思い出したのは、山下敦弘監督作品「苦役列車」で、原作者の西村賢太が撮影を見学した際、主人公を演じる森山未來に、「貫多に感じるのは、共感ですか?憐憫ですか?」と尋ね、「憐憫ですね」という返答が帰ってきて満足そうにしていた、というエピソード。
私自身もかなりのクズである自覚はあるけど、トレインスポッティングの登場人物に対する感情はやはり同情でなく憐憫だな。
セッション
プロフェッショナルたろうとする者同士の戦い。
即ち、狂気対狂気。
お互い歯を剥き出しにして、今にも相手の喉笛に噛みつかんとしている。
間違っても万人受けではない。嫌悪感を抱く者も多いだろうと思う。だが私はこういう、空気のピリピリと張り詰めた映画は好きだ。まあさすがに体型や生まれを持ち出して罵るモラハラっぷりにはちょっと不快感感じましたが。陳腐だが、問題作、という表現が一番的確かな。
マガディーラ 勇者転生
十年前の作品ということで、CGの安っぽさは単に技術的なものなんでしゃーない。
どうしてもバーフバリと比べてしまうので、全体的に小ぢんまりしてるなーと感じたけど、バーフバリより先に観てたら普通に「何このダイナミックな映画!!」と思ったと思う。10年経っても、観客を釘付けにするだけの耐久性がこの映画にはある。冒頭のダンスシーンのダサさと冗長さは何とかならんのかと感じはしたけども。
バーフバリにない「現代パート」があるので(というかそちらが肝なので)、バイク、車、ヘリコプターを使った戦闘シーンが新鮮だった。ヘリコプターのプロペラで人を崖っぷちに追いやるとか、そのヘリコプターに車を盛大にぶつけて爆発させるとか、なんというかそういう「豪快に嘘なんだけど観客に最大のカタルシスを与えるアイデア力」は10年前から既に健在だったのだなあと。あんなん思い付く人他に居ませんて。
楽しませてもらいました。
モヒカン故郷に帰る
大好き。後半三十分はずっと半泣きで観てて、その流れでこれ書いてるから、なんか小難しい批評とか出来ないけど、もうほんと大好き。
こういう「エピソード積み重ね系」というか、この沖田監督とかあとは山下敦弘監督の持ち味である映画の構成は、起承転結やハラハラドキドキを求めている人には肩透かし食らったように感じるのだろう。勿論私もストーリーがしっかりコントロールされてる映画も好きだし、そしてやっぱりそういう作品こそが多くの人に支持されるんだろうけど、モヒカンみたいな映画は、積み重ねられたエピソードのお陰で各登場人物の感情の流れが自然に体に染み込んできて、暖かい気持ちになれたり、登場人物を実の家族や友達みたいに感じられたりして、そういうところが私は本当に好きです。
あと、この映画、役者さんがみんなほんと良かった。超脇役である吹奏楽のメンバーひとりひとりまで、「演技してる」っていうよりちゃんと映画の中で生きて息をしていて、隅々まで気が配られてるし、役者さんも手を抜かない、抜きたくないと思って役に臨んだんだろうなと。
なんだかとりとめのない感想になってしまったけど、要するに大事な映画がまた一つ増えて、すごく幸せです。
T2 トレインスポッティング
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ストーリーというかテーマは前作と変わらない。いつになっても地に足をついて生きられないように生まれついたクズどもの物語。彼らに対する印象は前作のレビューで書いたものと全く変わらない。憐憫。それだけ。
そんなことよりも美術、カメラワーク、演出がひたっすらスタイリッシュ。これ編集相当大変だっただろうなあと。映像と音楽の快楽がやばかった。
そして前作から21年もの歳月が経ったのにも関わらず、主演俳優4人が亡くなってもおらず芸能界引退してもおらずオファーを蹴りもせず無事にちゃんと続編に出演出来たのってよく考えたらすごいなというか幸福だったなあと。私事ですまんが、私のオールタイム・ベスト映画であるゴッドファーザーシリーズは大人の事情で色々あったんで……。
はじまりのうた
「音楽の魔法だ 平凡な風景が意味のあるものに変わる 陳腐でつまらない景色が 美しく光り輝く真珠になる」
……これは作中の台詞の引用だが、この映画はまさにその「音楽の救済性」をこの上なく真正面から描いている。
仕事が上手くいかない時。家族と疎遠になっている時。恋人の浮気が発覚した時。音楽は彼ら彼女らにそっと寄り添い、前を向いて歩く活力を与えてくれる。世の中はうんざりすることばかりで、何もかもちっとも思い通りにならないし、時にアルコールに頼ったり、頬を涙が伝うけれど、そんな状況を「歌にする」ことで、創造のエネルギーにしたり、深刻な悩みをユーモアで骨折させることができる。
「ONCE ダブリンの街角で」「シング・ストリート」もそうだったが、ジョン・カーニー監督は、そういう音楽の持つ力にすごく自覚的に作品を作っているのだと思うし、カーニー監督自身、音楽に助けられた経験が何度もあるのだろう。
参加する予定ではなかった娘が急遽ギターを弾いたり、たまたまその場にいた子供たちにコーラスを頼んだり、人と人を繋ぐものとして音楽を描いたのも素晴らしい。
個人的に好きなシーンは、プレイリストを夜の街を歩きながら2人並んで聴くところと、冒頭、職場でトラブル起こしたマーク・ラファロがキーラ・ナイトレイの歌を聴いた時、アレンジが加えられて聴こえたところ!あれは音楽プロデューサーとしての彼の職業病というのもあるのだろうけど、それより何よりきっと彼があの曲にすごく心を打たれて、まるで愛する人の顔が実際より遥かに美しく目に映るように、あの曲がさらに豪華に、完成度の高いものとして感じられたんだと思う。
音楽を愛する人の、音楽を愛する人による、音楽を愛する人の為の、素晴らしい映画でした。
犯罪都市
筋はまあよくあるっちゃああるけど、王道を往く故に痛快爽快。いやあ最高。
ドンソクさんは安定のかっこよさだし、悪役のユン・ゲサンさんももう全身から「もうとりあえずやばい悪者オーラ」出ててスクリーンに目が釘付けだった。元歌手の人なのね。好きな俳優さんがまた増えました。
ドンソクさんの腕っぷしの強さが説得力あったのもいいよね。まああの体格の時点で強いってのは一目瞭然なんだけど(笑)、冒頭、ナイフ持って喧嘩する男2人を電話しながら片手間に仲裁(?)するとか、言葉でなく具体的なエピソードによって彼がいかに強い男かってのを観客に説明してる。巧い。
カメラワークというか演出も全体的にすごく良かったなあと思った。音楽流れるタイミングもそうだし、極端な例挙げるならラストのトイレの個室から出てきたゲサンさんからカメラががーっと引いていって迎え撃つドンソクさんがスクリーンに映るとことか。泥臭いレベルに王道なんだけど、故に快感がすごい。
でも一つ言わせてくれ、あの少年!!!どうなった!!!助かったのどうなの?!?!ドンソクさんたちがあれだけ頑張って犯人逮捕したのは、あの少年をはじめとする市民の安全な生活を守る為であって、あの少年が息を吹き返すシーンがあれば、そのテーマももっと説得力をもって全面に来たのになあと。似たような話で韓国映画には「ベテラン」があるけど、あれは飛び降り自殺に見せかけられたジョンミンさんの友人が意識を回復するところで終わったのが最高だったから、どうしても比べて少しモヤモヤ。そこ拾ってくれてたらほんともっと良かったのになあ……!
あと、ラストのトイレのシーン、もうちょいドンソクさんと悪役の戦闘力が拮抗してればもっと面白かったのになあとは思った。また「ベテラン」を引き合いに出してしまうけど、あれはジョンミンさんかなり苦戦してたよね。これはわりとドンソクさん無双だったんで、ラストの対決なんだから、もっと手に汗握る感じにしてくれていいのよ。
バッド・ジーニアス 危険な天才たち
初のタイ映画。
130分があっという間!次から次へと襲いかかるハラハラドキドキで、スクリーンに釘付けだった。テンポがとにかく良い。ただのエンターテインメントに留まらず、経済格差や学歴社会の問題にとても自然な形で切り込んでいて、とことんスキのない極上の一品。
この映画の宣伝で、"高校生版「オーシャンズ11」"だと評されていたので、ラストは当然カンニングを成功させて大金手にしてウェーイって感じだろうと思って観てたら、まさかの正反対の終わり方で、そうでなくてもマフィア映画やアメリカンニューシネマ系のアウトローな奴らが大好きときているので、劇場を出てすぐは、成功のカタルシスを期待していた心が宙ぶらりんのまま何処にも行けず正直若干モヤった。はいはい真面目で大いに結構ですね、みたいな。
の、だ、け、れ、ど、少し時間を置いてよく考えたら、主人公は頭脳は鋭いものの成り行きでカンニングに協力しただけのただの高校生。盗みのプロフェッショナルが集まるオーシャンズシリーズとはわけが違う。彼女は当然アウトローとして生きていきたいわけでもなし、自分の犯した罪を見つめて反省して、償うことこそがこの映画の落とし前だよなあと。
ピアノの運指、鉛筆のバーコード、とカンニングの手段が非常に巧みかつ絵的にも映える映える。ちょっとした親切心で始めた事業が多くの人を巻き込んで誰にも制御できない大きな渦に変貌してゆく様も実際的であった。
誰もが経験してきた「テストの成績で将来が決定する怖さ」や「親からの重圧」を扱っているので様々なキャラクターに感情移入出来るのもこの映画の強みよね。
主人公役の子が無駄にスタイル良いな、と思いながら観てたんだが、パンフ読んでモデルである事が判明して納得したと同時に演技初挑戦と知りぶっ飛んだ。父親との距離感、罪悪感とスリルの間で揺れ動く心情など、複雑な役を難なくこなしているのが凄い。今後も是非女優業にも力を入れて欲しい。追いかけます。
あと、まあこれはどうでもいいんだが、トイレの個室で「長すぎるぞ、出てこい」と言われて一言も返事しないなんて逆に怪しまれるだろ!「お腹壊しちゃって……」とか言うぐらいのアドリブ力付けとけよ青年!と思ったが、まあ冷静な判断が出来なくなるレベルにリスキーかつ緊張する役所背負わされたってことよなあ。あの青年と主人公、最後に選んだ道は大きく変わってしまったけれど、あの映画においては誰もが加害者かつ被害者なわけで、そういった多層的な構造も見事だなあと。
ボヘミアン・ラプソディ
【Amazon.co.jp限定】ボヘミアン・ラプソディ 2枚組ブルーレイ&DVD (特典映像ディスク&オリジナルTシャツ付き)[Blu-ray]
- 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
- 発売日: 2019/04/17
- メディア: Blu-ray
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ラスト20分、チャリティコンサートのステージに入っていくフレディの後ろ姿が映し出された瞬間からなんか知らないけど涙がだーって流れてきてあとはひたすら号泣しながら観ていた。
なんていうか、生まれた時には既に彼が故人であった私らの世代とか、そうでなくても海の向こうでコンサートに行けなかった多くのQueenファンの無念、いやそれだけじゃない。フレディは病死しているから、解散コンサートも出来なかった。つまり生で聴いた人のなかにも、はっきりと「これが最後だ」と覚悟して立ち会えた人は一人もいない。別れは突然やってきた。そういう全てのファンを、あの20分は確かに救済したんだと思う。愛を追い求めながら無念にも亡くなったフレディ・マーキュリーと、私たちファン、両者の魂を成仏させてくれた気がして、本当に涙が止まらなかった。この映画に関わった全ての人、そしてQueenに、心からありがとう。
コインロッカーの女
5.0
因業と呪い、そして歪んだ「愛」の物語。
コインロッカーに捨てられたその時から、イリョンはその人生を血の繋がらぬ母、つまり「他人」に牛耳られてきた。
他者に命じられて金を取り立てる。他人の益の為に人を殺す。
母をその手にかけた時、彼女は彼女の人生を己の手網のもとに取り戻したに見えた。
だが今際のきわ、母が苦悶の中で絞り出した「自分で決めろ」という言葉で、彼女は自分の人生を自分の手に取り戻すどころか、永遠に母の意思のもとに生きることになる。何故なら、この後彼女がどのように自由意志を行使しようと、それはすべてあまねく「自分で決めろ」という母の言葉の上に成り立つものになるからである。「自分で決める」ことを、決められた。こうしてイリョンは未来永劫、母の言葉に呪われる。
己の人生の最初の場所であったコインロッカーから母との養子縁組の書類を見つけ、イリョンは名実ともに母の呪いのもとに生きることになる。かつて母がそうであったように。
ソッキョン殺害時に母がイリョンを殺さなかったのは、イリョンへの最後通告だったんだと思う。少し親しくなった程度の男一人を殺すどころじゃない、もっと残酷で自分の意思ではどうにもならない事態がこれからお前を待ってるぞ、そこにお前は生まれた時からいるんだぞという。
全体的に薄暗い画面が作中の大半を占めるあの映画の中で、しかし家族写真の回想シーンは切ないほど光が眩しくて、やはりあの映画は歪んでいようとなんであろうと母のイリョンへの「愛」が死によって貫徹する話なのだと思った。お前はこれから自分で決めろ、ということを親として「決める」という呪い、笑え、という呪い。母は他でもない自分の死という最大のものでイリョンを未来永劫解けない愛という名の呪いで縛り付けた。
役者の演技がとにかく皆鬼気迫っている。1本ピーンと糸を張ったように突き放しながらも情感滲み出る音楽もいい。ラストは同じく韓国映画「新しき世界」を思い出したり。
キング・オブ・エジプト
なんか、キャラクターの造形がすっごいリアルなゲームの実況を見てる感覚というか、週刊少年ジャンプの漫画をめっちゃ金かけて映像化した印象というか……脚本も演出も良くも悪くもざっくりしてる。
衣装や美術はかなり凝っていて綺麗なのに、魅せ方がいまいちなので生かしきれていない。バトルシーンもやった者勝ちというか、キャラクターが各々自分の属性に沿った闘い方をするので(このへんほんとゲームっぽい)、誰がどの位強いのかとかあんまり読み取れない。
要するにこれは頭空っぽにして考えるより感じろって路線の作品なんだと思う。……のだが、折角「感じ」たいのに前述の通り演出が今ひとつなので大して視覚的快楽も得られないんよなあ。まあ、半年にいっぺんくらいはこういうの観ても悪くないかなって感じ。それ以上でも以下でもない。
スパイ・ゲーム
男どうしの絆というと、やはり主演・ロバート・レッドフォードの出世作・「明日に向って撃て!」が真っ先に思いつきますが、まあこれもストーリーこそ騙し騙されで錯綜するものの、本当に真正面からの「男の絆」映画でした。こういうのほんと好き。
カット割り、カメラワーク、音楽なども適度にスタイリッシュ、適度に足が地に着いており、スパイ映画とはかくあるべきだ!という感じの良作でしたね。
しかしブラピのスパイ活動の理由が結局好きな女を助けるっつう極めて個人的なものであったのがなんとも。いや愛を完徹するのは素晴らしいと思うんですが、出来れば仕事人としてすべてを全うして欲しかった。まあこれはもう個人の好みですね。
小さな悪の華
フランス映画の面目躍如。
キリスト教圏だからこそ成立する中二病、と言ってしまえばそれまでだが、インモラルに付き纏うある種淫靡な美しさに魅せられた二人の少女が悪に従い悪に殉ずる姿の凄まじさよ。
悪魔主義に自ら望んで染められていく彼女らはきっと、炎に包まれてなお自分達の行動が起こした事の重大さにも罪深さにも本当の意味では気付いていなくて、その視野の狭いあたりも思春期という言葉がしっくりきますね。
媒体問わずいわゆる「恐るべき子供たち」とでも呼べるジャンルが、狭いながらも確立されているが、数多ある作品群のなかでも、この作品はとことん徹底的。
なんか結論のまとめに困ったので、同じくフランスの作家であり、代表作のタイトルからしてまんま「恐るべき子供たち」であるジャン・コクトーの作中の一文を引用して〆ましょうかね。
「世間知らずで、罪を犯すほど純粋で、善と悪を見分けることができない子供たち」ーージャン・コクトー『恐るべき子供たち』(光文社古典新訳文庫)より
川の底からこんにちは
いやー良かった!前半は正直、主人公の投げやりな性格や周りの人間の性格の悪さに割と苦痛だったんだけど、観終わってみればそれらの要素も全てこの素晴らしい映画を作り上げる為の必要材料だった。
「しょうがないですよね」で妥協するんじゃなくて、会社で見下されても、男に捨てられても、「中の下」でも、もう何でもいいから、とりあえずグダグダ文句垂れたりする前に開き直れ!自分を愛さなくてもいい、認めろ!目の前のことをやれ!っていう泥臭くも愛すべきメッセージ。
笑いにも泣きにも無理矢理にはもっていかず、突き放し気味の演出が良かった。父親が亡くなった次の日に主人公が喪服姿でいつものようにウンコ撒く、そのバランス感覚最高。
満島ひかりの剥き出しの演技が光っている。社歌のシーンとか爆笑した。子役もいい演技してたなー。ラストシーンは号泣しながら爆笑するという大変稀有な映画体験ができた。
ダルいけど、しょうがないから頑張ってやっか。って思える。脱力しながらも前向きに笑える映画。
ウォールフラワー
青春要素や主人公の成長、そのあたりは良かったんだけど、叔母とのトラウマや幻覚への言及があまりに中途半端。まあ原作モノだし仕方がない面はあるのだろうけれど、性的虐待や精神病といった映画によってはそれだけで主題になりうる重いテーマを扱うならもうちょい尺とって丁寧に説明すべきでは。正直ノイズにしか思えなくて、せっかく青春の煌めきや痛みにノッていたのにそこへの言及があるたびに足を引っ張られた印象。
国語の先生とのエピソードが良かった。あの時期って、歳の近い友達や恋人は勿論だけれども、メンターとなってくれる大人との触れ合いでその後の人生が大きく変わってゆくものだと思うので。
アイアムサム
とにかく人間描写が良い。脇役の隅々に至るまで感情の流れや人柄が深く描かれている。
サムでいえば、まずルーシーが生まれ、サムがビートルズの「Lucy in the sky with diamonds」をの詩の一片を口ずさむところからして、あのシーン、あの描写ひとつでサムがどういう人間なのか、生まれてきた娘に対してどういう気持ちでいるのかがダイレクトに伝わってくる。部屋にもビートルズのポスターが貼ってあったりして、こういう細かい描写のひとつひとつがキャラクターに説得力と深みを与えるのだと思った。こういうところを疎かにしない映画はそれだけで傑作になる可能性を秘めているし、実際そうである場合が多い(経験上)。そういえば今作でルーシーを演じるダコタ・ファニングの最新作、「500ページの夢の束」でも(こちらも本作と同じくハンディキャップを持った主人公の話なのだが)、主人公が「スタートレックシリーズ」の大ファンだったな(ちなみにこの曲、ビートルズのなかで個人的に一番好きな曲なのでもう冒頭からやばかった……というのは私事なので割愛)。
ルーシーも、女性弁護士も、サムの友人達(靴屋のシーンが好きだ)も、皆とても良かったが、個人的にはルーシーの里親の女性が好きだった。最初はサムをルーシーに近づけまいとするのだが、ルーシーとサムをいかに愛しあっているか、お互いを大切に想っているかを知るにつれ、当初は煙たがっていたサムをルーシーと会わせる事を認める。最近ネットだか本でだかで読んだ文章で、「養子縁組制度というのは、子供を欲しがっている親のためではなく、親を必要としている子供のために存在し、またそうあるべきである」というようなものがあったのだが、この里親の女性はまさにそれを体現させているなと思った。自分の意に沿わないことでも、愛する人が何を一番望んでいるか、何が相手のためになるか。それを考え、実行することこそが愛なのだと。
ラスト、歳の近い子供たちとサッカーに興じるルーシーを、サムやルーシーを愛する人々が笑顔で見守るシーンは、映画史に残る名シークエンスだと思う。なんというか、「親権」というのは法律上でこそ「奪い合う」ものだけれども、心の上ではそうではなくて、子供を愛おしむ全ての人が「共有」し、それぞれがそれぞれの形で見守っていければいいよね、という考え方が大事だし、それが一番子供のためにもなるのではないか、と、あのキラキラした幸福なラストシーンを観ながら感じた。
題材が題材だけに、ともすれば説教臭くなってしまうところを、愛で溢れた脚本や演出が、絶妙に心を温めてくれる素晴らしい映画だった。
未来を花束にして
今私達が当然のように手にできている権利は、かつては当たり前などでは全くなくて、先人達が様々なものを犠牲にしてやっとの事で獲得してくれたものだということが、改めて身に染みて感謝と尊敬と共に実感できる作品だった。
ショーウィンドウに石を投げつけたりポストに火をつけたりというのは、それ単体で見れば野蛮な行為だが、そこには長く平和的に訴え続けるも無視を決め込まれたというバックボーンが存在する。冒頭の場面で女性活動家が「言葉より行動を」と叫ぶが、彼女らがそこに行き着くまでの道程でいかほどの苦渋があったのか。それを理解しない者たちからどれだけの嘲笑や陰口を受けたのか。痛みなしに改革などあり得ないというのは不条理な事実だが、その不条理を飲み込んででも、掴み取らなくてはならないものがあるのだ。
全体的に良かったが、特にいいなと思ったのは、参政権ゲットしてハッピーエンド、という終わり方にしなかったところ。彼女らに作中で勝利を与えるのは簡単だけれど、あえて「これからも闘いは続く」というような終わり方にすることによって、この作中で描かれる女性差別は決して無くなったわけじゃなくて、今もまだ形を変えて存在していて、今この映画を観ている自分たちも当事者として考え、動いていかなくてはいけないのだな、と問題意識を持たせる構造になっている。ここでこういうことを書くのは野暮かもしれないが、彼女らが闘い続けた結果獲得した婦人参政権は今でこそ私の手のなかにあるけれど、こんにちの日本において、現政権の性差別をふくんだ保守的・懐古主義的な政治が行くところまで行き着けば、女性や弱者の参政権はあっさりと摘み取られてしまってもおかしくないと思うのだ。この国で生きていて、少なくともわたしにはそういう実感がある。だから、権利を持つ手のもう一方の手で、私達は投げるための石を持つ覚悟をしなくてはならない。
家族を失い、職を失い、逮捕され、劣悪な環境で罵声を浴びせられ続け、それでも己や次の世代のために闘うことをやめなかった女性たち。彼女たちの運動は、今を生きる私達にもたしかに引き継がれているのだ。
未だに女性差別は様々な国で、様々な形で、生活の様々な場面で根付いている。自分はそれらに毅然とNOを突きつけ、闘う事ができるか、観ながらずっと己に問いかけていた。
ミッドナイト・イン・パリ
「昔は良かった」。「あの時代に生まれたかった」。
私は70年代の映画や90年代の音楽が好きなもので、それらをリアルタイムで楽しめた世代であるところの両親や祖父母の当時の話を聞くたびに、心からそう思う。
この映画の登場人物の多くも同じだ。文学、絵画、詩、音楽……何かしらの芸術を愛し、芸術に生きる彼らは、「偉大なる先人」の生きた時代に惹かれている。
この映画の主人公であり、婚約者達と憧れのパリを観光している、小説執筆中のハリウッドの脚本家・ギルは、フィッツジェラルド、ジャン・コクトー、ピカソ、ヘミングウェイら、彼にとっての「偉大なる先人」の生きる1920年代のパリへと毎夜のごとくタイムスリップする。私達は彼の目を通して、その時代を追体験する。"現在"の住民である彼は幾度も口にする。「もっと昔に生まれたかった」。そう、同じく"現在"を生きる私達を代弁するかのように。
しかし、私達はギルと同時に、意外なことに気付き始める。「黄金時代」であるところの20年代を生きる人々が、「私にとって過去は偉大なカリスマなの」「"今の"画家には描けない」「ルネサンス期に生まれたかった」と、次々と過去への憧憬と、現在への不満を語り出すのだ。
やがて彼は、そして私達は気づく。どんな時代にもそれぞれの時代のカリスマがあり、その時々の不満がある。人生というのは不満に満ちていて、だからこそ完璧な過去にすがりたくなるのだと。そしてそれは、私達が今を生きているからこそなのだと。そして何より、ギルの小説の主人公の職場がノスタルジー・ショップ(古き昔の道具や記念グッズを売る店)であるように、また、フォークナーが「過去は死なない、過去ですらない」と言ったように、"今"というのは"過去"の堆積の上に成り立っているのだと。
所謂「昔は良かった」系の映画なのだろうなと思って観ていたのだが、蓋を開けてみれば、「昔の素晴らしさ」を描くことで「今を生きること」の価値を高らかに宣言するという構造の妙に唸らされた。思えば、"今"のパリの街並みをひたすら美しく映す冒頭数分から、既にこの映画は「今を生きること」を全力で賛美しているのだ。
これは私個人の意見だが、フィクションというのは現実からの逃避場所ではなく、明日を歩く活力の源であるべきだ、と常々思っているので、今を生きること、つまり人生を生きることはこんなにも素晴らしいのだという人生賛歌が作品の隅々から謳われているのがほんとうに良かった。また、パリの街並みや音楽の美しさも言うまでもない。私はこれからも、両親や祖父母の話を聞くたびに彼らを羨ましく思うのだろうけれど、同時に、今この時を生きられることを、幸福なこととして胸を張って生きていけるだろうと思う。
超高速!参勤交代リターンズ
一作目と同じく、勧善懲悪、人情モノ、誰も傷つけず、誰もが安心して観られる娯楽作。とにかく、笑い、策の面白さ、人情、殺陣と言った要素のバランスが絶妙。小説版ファンとしては、やや一本道すぎる脚本やキャラクター描写の深みが足りない点が惜しく思えるが、二時間の映画にまとめるには枝葉をいくつか切り落とさなければならないことも理解できるし、切り落としていい枝葉といけない枝葉の区別が製作の中でしっかり付いているので食い足りない印象はない。
物語としての前提がまず「金も人も無いなかでお上に命じられ数日で参勤交代」という「大嘘」なので、鎧を貫く矢じりや、かすり傷ひとつ負わず敵を圧倒する味方軍など、ともすれば冷めてしまうリアリティの無さも、「そういうもの」として(少なくとも私は)楽しむことができた。リアリティは無いが、リアリティラインはしっかり設定されているのだ。
また、ここでは分かりやすいラストの千対七人の戦を例に挙げるが、味方七人の軍勢が引き気味のショットでカメラに向かって歩いてくるカットや、佐々木蔵之介演じる政惇の「人の大事は誰と出会ったかだ!人は、宝だ!」など、画もセリフもちゃんとキマっている。
前作や小説版のメインテーマであった、人を信じること、人を思うこと、人のために尽くすこと、正義に殉ずること、といったテーマもきっちり継承されている。随所に笑いも散りばめられており、説教臭さも鼻につかない。笑顔で観れてたまにハラハラして最後は爽快な気分で席を立つことができる、エンターテイメントとしての映画として、何気に傑作なのではないかと思う。
散々褒めてきたので、勿体無かった点をひとつ。主人公・内藤政惇の存在感がいまいち薄い。人情家で家臣に慕われ、民に慕われ、村の子供たちの名前も一人残らず覚えている、という設定自体は主人公像として素晴らしいものだと思うが、それらはあくまで「設定」であって、じゅうぶんな描写が伴っていない(全く描写されていないわけではないが)。家臣が皆それぞれ脇役としてキャラが立っており埋もれてしまった感が。結果的に悪役・信祝の方が印象が強くなってしまっている。二時間でテーマを押し出しつつ笑いも人情も入れてストーリーを運びなおかつ人間を描く、というのは並大抵の事ではないのだろうが、なまじすごく楽しく観れただけに、そこだけが少し残念。
オーシャンズ11
安心して観れる、王道かつスリリングな娯楽作。ターゲットの予想は言うに及ばず、私達観客の予想をも上回ってくれる展開と策がめちゃめちゃ爽快。音楽や画、テンポもとにかくひたすらスタイリッシュ。
まあそれはいいんだけど、15年以上前の作品だから仕方がないとも思うんだが、ジョージ・クルーニーの元妻があまりにモノ扱いというか、完全に男同士の駆け引きのトロフィーと化してるのがやっぱりちょっと……。まあでも、昨年の新作・オーシャンズ8が全員女性であるところを見る限り、制作側はちゃんと時代性を反映して過去作の問題点に新作で落とし前をつける姿勢でいると評価できるのかな? 本作含め13までの三作で「カッコいい男達」を描いてしかもちゃんと成功している状況下にあって、これがもし生半可な監督なら「男のロマンこそこのシリーズのキモ!」って思考停止しちゃいそうなところを、「いやこれが全員女でも同じようにカッコよくなるんじゃね?」って発想できて実際に実現させしかもちゃんと成功しているのは、さすがエンタメの何たるかを分かっているんだなという感じ。ただ本作を単体として今観るとちょっとなあ、ってトコですかね。
時計じかけのオレンジ
美術や音楽がとにかく洗練されていて、先鋭的に磨き上げられた暴力の美しさに興奮しながら観ているんだけど、ふと何気なく自分の手の平を見下ろした時に、おのれの中にも存在する暴力性に気付かされてふっと真顔になる。みたいな映画。タイトルとかテーマは要するにキリスト教で言う所の「人間の自由意志」なんだろうけど、そんなことより嫌悪感に到達するギリギリのとこまでの露悪趣味ってここまで人をハイにさせるんだなと驚愕。この映画は隅々までスタイリッシュに作り込まれているけれど、その芸術性が単なる視覚的快楽に留まらずに、秩序とか正義感みたいなものを薄皮を剥くように一枚一枚丁寧に引っぺがしていったあと最後に顔を出す自分の中の暴力性に気付かせるという構造を支えてるのが見事。原作はともかく、ことこの映画に関しては「このタイトルは何の暗喩なのだろう」みたいな考察は多分野暮では(映画内ではそもそもオレンジのオの字も出てこないし、原作読めば考えるまでもなく普通に説明されているので)。あとアレックスのコスプレしたい。右目下瞼のつけまつげマジかっこいい……キューブリック天才……
スカーフェイス
自分、パチーノ好き好き言ってるけど、70年代パチーノばっか観てたので、何気に80年代の彼の出演作観るのって初めてかもしれん。
展開がとにかくテンポいい上に、敵対勢力との戦い、女との駆け引き、仲間の裏切り、下克上、家族との確執、と描かれる状況も刻々と変化してゆくので、長尺だけど全く気が散らずに夢中でラストまで突っ切れる。
トップまでのし上がった瞬間から既に落ちぶれてるのがビンビンに伝わってくるパチーノの怪演がもう最高。私はとにかくゴッドファーザーシリーズが大好きなんだけど、同じマフィアでもこの作品におけるそれは時代も目的も全く違う。シチリアから逃げるために移民としてアメリカへ渡ってきて、社会で生き延びる為の手段として権力を手にし、麻薬の売買には一生関わろうとしなかったヴィト・コルレオーネや、父親から受け継いだファミリー業を完遂する為に冷酷さと禁欲を己に強いたマイケル・コルレオーネに対し、この映画の主人公・トニーの目的はどこまでも金と女とヤク、つまり己の欲望のみに忠実に動く。トニーの部屋の絢爛豪華ぶりやしょっちゅうヤク吸ってる姿からもそれは一目瞭然。だから部下や友人は付いてこないし、女は離れていくし、最後は殺されるし。マイケルやヴィトも勿論良い暮らしはしてるんだけど、己の身の丈にあった生活を選んだら自然とそうなったのであろう彼らと違って、トニーはとにかく金のために行動し、そうして入ってきた金で武装する。ガンガン殺人犯すのも、冷酷でクレバーだからではなくて、単に沸点低くて自分の邪魔になる人間に我慢できないだけ。無駄に装飾された椅子に座って、絢爛豪華な調度品が置かれた机の上のヤク吸いながらパイプふかす彼の姿は、痛々しいと言っても良いほどに力と金とに溺れている。こういうトニーの性格というかある種の脆さが、話が進むごとに露呈していく作りが堪らんすね。
なんであそこまで妹に清廉性を求めるのかなーと思ったけど、もしかしてあの妹は映画の機能的にはかつて純粋であったトニーの魂のアレゴリーで、決して侵すことのできない、侵しちゃならない己の聖域としての象徴なのかな。だからジーナが死んだ(=マトモな人間性を永遠に失った)あと、トニーは鬼神になるしかなかったし、その先にあるのは破滅だった。血で汚されていくプールに浮かんだトニーの姿を映したあとの「世界はあなたのもの」はめっちゃくちゃ皮肉が効いてて大好きでした。
ショーシャンクの空に
無実の罪で刑務所に入れられた主人公が自由を手に入れる……っていうめっちゃざっくりしたあらすじだけ知ってて観始めたんだが、調達屋が出てきた時点で何故か私は「よっしゃ、この主人公はこいつ経由で証拠を外部からひとつひとつ手に入れて己の身の潔白を明かし自由になるんだな、どうやるんやろ、そこらへんの技巧楽しみだな」と完全に思い込んだので(韓国映画「華麗なるリベンジ」の影響か?)、まさかの脱獄でめっちゃびっくりした。でも、途方も無い時間をかけて、多分彼自身ときたまに途方に暮れつつ、それでも諦めることなく、己の未来を切り開くかのように少しずつ少しずつ壁を削ったんだな、と思ったらめっちゃ涙出てきた。角部屋でよかったね、とは思ったけど。
長尺のうえに、ほとんどが刑務所のなかのシーンであるにも関わらず、冗長に感じたり話がダレてしまう部分が全く無い。一本の映画として完成度がはちゃめちゃに高い。名作名作言われている所以が身をもって分かった。
だが不満点がないわけではなく。主人公が「希望」がどうこう、って話すシーンがあったと思うんだが、主人公に直接「希望」とか喋らせたのはあれはもう陳腐としか言いようがないと思った。どんな作品にもテーマやメッセージがあると思うんだけど、それをそのまんま台詞として登場人物に喋らせるのは明らかにNGだろう。そのまま言葉にしちゃうなら二時間以上の映画作るなんて回りくどい事やってないで監督か脚本家が駅前とかで「どんな境遇でも希望を捨てないことが大事です」って演説すれば良いんであって、そうしないでひとつの作品に乗せて観客に届ける道を選んだのなら、それはエピソードに託さなくてはいけない。しかも本作、テーマを伝えるだけのエピソードはちゃんと十分に積み重ねられているのだから、そこで駄目押しみたいにキャラクターに言わせたのは最後の最後で観客を信頼していないというか、臆病だなあと。それまで沢山の力強いエピソードをひとつひとつ組み上げてきた意味が無い。そこ除けば、本当に素晴らしい映画だと思った。
鍵泥棒のメソッド
こういう「軽い気持ちで安心して観れる娯作」って、もっと評価されていいと思う。何気に作る上で一番技術が必要とされる分野では。問題提起としての側面がある作品や、壮大であったり、重い主題を扱った作品は、多少の粗があったとしてもテーマに強度があるからそこで観客を引っ張っていけるけど、この作品のような単刀直入、直球まっすぐなエンタメは、どの観客も傷つけてはいけないし、とりあえず話を転がしてくれるインパクトのある主題も持たないぶん、脚本や演出がよっぽど巧くないと観客をラストシーンまで連れていくことができないと思うので。
まあ御託はこれくらいにして、とにかく楽しく観ることができました。大満足。何度も笑ったし、ちょっとハラハラもしたし、最後は幸せな気持ちでエンドロール迎えられたし。「あー楽しかった」で終われる作品、もっと評価されていいし、もっと沢山作られてほしい。人に薦めやすいのもこの手の映画の良いところだよな。
あとどうでもいいけど、堺雅人と香川照之って共演多いなーとふと。しかもどの作品も割とがっつり絡むし。この作品で、そのおふたりの俳優さんがもっと好きになりました。
あぜ道のダンディ
「川の底からこんにちは」もそうだったけれど、序盤わりとストレスフルなのに、観終わってしまえば、これほど愛おしい映画が他にあるだろうか、ってしみじみ思える良作。
「川の底〜」と同じく、「笑い」ポイントは多々あるんだけれど、それらがただの「ウケる〜」みたいな安っぽい単純な笑いで完結しておらず、そこにプラスアルファとしてある種複雑な感情が注がれているのが良い。例えばお母さんのテープのうさぎのダンスにしても、娘の「安月給」連呼にしても、主人公の癌疑惑で先走って遺影まで作っちゃうとこにしても、彼らは別に誰かを笑わせようとかふざけているとかアホだからだとかいうわけじゃなく、彼らはどこまでも真剣でやっていて、でもその真剣さがはたから見るとどこか「ズッコケて」いて、そこではじめて生まれるのが本作に散りばめられた「笑い」なのだ。まず前提として、「彼らは真面目であり、真剣」なのである。そしてここからが重要なのだが、彼らの真剣さはどこから来るのかと言えば、それは彼らの胸中を満たす、やり切れなさや申し訳なさ、悔しさといった思いだ。前述した複雑な感情とはそれである。だからこそそれを観た私達観客は、笑いながらも、同時に、切なかったり苦しかったりといった情動を己のなかに見つけるし、そこに名前をつけるならば、それは「愛しさ」であったり「哀愁」であったりするのだと思う。
また、さらに翻って言えば、切なさや苦しさを、笑いでくるんだ上でこちらに投げてくれるので、深刻だったり重い映画にならないのも素晴らしい。この映画の登場人物たちはどいつもこいつも不器用で一生懸命で、そしてそんなところが堪らなく愛おしいけれど、だからといってこの映画がありがちな「不器用な人々が織りなす感動ストーリー」みたいなものと一線を画す出来・後味であるのも、それだからこそだ。
うさぎのダンスのシーンとか、「依然として後方」とセルフ実況中継しながら自転車を漕ぐところとか、瞬間最大風速的に愛おしい一コマも多かった。この世に存在するあまねく全ての映画は、作品そのものの印象を、楽しいとかカッコいいとかハラハラドキドキとかそれぞれ一言で表すことができると思うんだけど、この映画は間違いなく「愛おしい」だなあ。
ハンサム★スーツ
たいして期待せず観始めたんだけど、面白かった! 終盤はなんだかホロリとしてしまった。ペーパーを買った帰り道、「他人の小さな幸せ」を見つけるゲームのシーンは観客としても多幸感があって、主人公の心情に説得力があった。あのふたりの人柄の素敵さをすごく丹念に描いてあって、終始笑顔で観れたし、エンタメとして最高。
ただ、残念だったのが……ブサイクな男の幸せ(気付かないだけで本当は琢朗のまわりにあった小さな幸せ)、ブサイクな女の幸せ(モトエとしての姿のままで好きになってもらえた)、ときて「ハンサムな男」「美人な女」の幸せに言及がないのは気になった。見た目だけでチヤホヤされて内面を見てもらえない、という北川景子の悩みに、結局最後までアンサーがなかったので。あと、公園でのブサイク時琢朗の「ブサイクだと中身どころか興味すら持ってもらえない」も結局フォロー無しだったなあ。杏仁としての成功も顔ありきの虚飾にすぎなかったし。まあこの映画で制作側が描きたかったのは美醜についてのアレコレよりも、自分の周りにある小さな幸せを見失うな、大切にしろ、というところなのだと思うし、そこに関しては完璧で、とても楽しく観れたのは確か。ただ美醜というデリケートかつ誰にとっても切り離せない問題をモチーフに作った以上、そこはもっと丁寧に扱って欲しかった。
役者はみんな凄かったなあ。ハンサムになった琢朗がついつい地を出しちゃうとこなんか、谷原章介が塚地の演技やクセを絶妙にコピーしてて爆笑。
ヘアスプレー
ひたすら楽しくて、キュートで、ポップで、そのテンションのままちゃっかり人種問題にまで深く切り込んだ誰もが知る名作。
ヒロイン・トレーシーが、前向きなんだけど、何があっても気にしない!じゃなくて、辛い事があったら一回落ち込んで、そこから立ち直る、というプロセスをきっちり描いているのが良かった。彼女は超人じゃなくて、私達観客と同じ人間なんだよ、という。だからこそ親しみが持てるし、ともすれば鬱陶しくなりそうなところを綺麗に回避している。
肌の色、体型といった、「ありのまま」を大切にしながらも、一方で「髪型やファッションで理想の自分になる」ことの素晴らしさも肯定しているところも好き。「"人と違ってる"のがいいことなの」という作中の台詞からも分かる通り、自分が自分であることを心から愛そう!っていう、ダンスで歌で伝えられる力強いメッセージ。またそのミュージカル部分がひたすらにハッピーで、人種差別なんてくっだらないなあ、それよりこの映画の登場人物達みたいに人生楽しもうよ、っていう視点から問題提起されているので説教臭さがなく、むしろ説得力がある。
意地悪親子のお母さんのほう、なんか見覚えあんなーと思ったらアイアムサムの人か!ほぼ真逆の役柄なのにどっちもこれ以上ないほど役にはまっていた。
楽しかったです。今度は友達や家族と観たいなー。
マッドマックス2
マッドマックス2(初回生産限定スペシャル・パッケージ) [Blu-ray]
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マッドマックスFRの原点全てここにあり!って感じだった。世界観にしても車のデザインやキャラクターのビジュアルにしても。1とは完全に別物。どっちも好きだけど、この作風の変化、いったい監督に何があったのだろうか?
という邪推はさておき、ガソリンや弾が貴重だ、っていう設定を、登場人物に逐一台詞で説明させるんじゃなくて、キャラクターが矢や銛を使ってたり、弾をスーツケースに大事にしまわせたり、溢れるガソリンを容器で受け止めることで集めていたりといった、あくまで「映像」による「描写」で説明する姿勢が観客に対して誠実だなと思った。観客を信頼しているというか。FRもそうだったけど、あの姿勢はここから継承されているのだなと感慨があった。
乾いた大地での派手かつ容赦無い命のやり取りのなかであのオルゴールが唯一のイノセントな部分というか清涼剤の役目を果たしていて、ただの暴力映画に留まっていないのも好きだ。マックスとあの子供の心の交流、戦場で互いを信じる、ある種ピュアな精神性みたいなもののアレゴリーなのだろうか?良い映画であった。
2001年宇宙の旅
これ、腐すことはいくらでもできて、例えば説明を限りなく省き観客を未知の世界に誘う作りにより完成した究極の意味不明映画であるし、尺の取り方もわざとにしても超不親切なんだけど、観客に理屈じゃない恐怖を与える手腕がべらぼうに巧いし、観衆の価値観やものの見方を傷つける装置としての芸術としてあまりに完璧なので、最後は恐怖と興奮に身体中鳥肌立てながら白旗を上げるしかないさいこうの映画なんだよな。でも何度観てもほんっっっっっとうに眠いです。
チチを撮りに
「あの」湯を沸かすほどの熱い愛の中野量太監督の中編。二本目を観ることで中野監督の理想の母親像みたいなのがよりクリアに見えてきて、なんつーかこりゃキツイ。
監督の描く母親像、いやまあ二本しか観てないんでおちおち語れないんですけど、とりあえず二本観た限りでは、家族の中で母が絶対的権力者として君臨していて、娘達が母のマインドを受け継いでいることが問答無用で良しとされているの普通に怖いんですよね。逃げ場が絶望的に無い。
あと、「湯を沸かす〜」でも本作でも、母親が娘のブラジャーを干すシーンがあり、その後娘に新品のブラジャーを買ってきたり買おうかと提案してくるシーンが割と印象的に挿入されているのが本当に気持ち悪いです。男性監督だから母と娘の関係がよく分かってないのかもしれないけど、「えっまたブラジャー…」とものすごく引きました。
で、やっぱ、「お母ちゃん」なんですよね。呼称。「ママ」でも「お母さん」でもなく。お母ちゃん。さばけていて開けっぴろげで肝っ玉母ちゃんなんだけど不器用さというかある種の弱さもあるという。中野監督の願望としての母親像が映画見てるともうビシバシ伝わってきてひたすらキツいんだよなあ。
この監督は基本的に「家族」を描きたい人なんだと思うんだけど、顕著な「母親像」はじめ、姉妹や親子の連帯や情がナンジャコリャってレベルで独特(婉曲的表現)なので、結果映画全体がものすごいえも言われぬ気持ち悪さにつつまれるんですよね……あー怖いものを見た(好きです)。
新感線 ファイナル・エクスプレス
はじめてのゾンビ映画。世に存在するゾンビ映画がどのようなものなのかは知らないが、そういったジャンルの鎖から解放した1本の独立した作品として観ても、ゾンビが活劇にちゃんと機能していたので、まあいいんではないか。
家族愛、恋愛要素、泣かせの演出、クズな悪役、正義にバトル……ともうほんと笑っちゃうほど要素詰め詰め映画だったんだけど、そういった映画にありがちな、結局全部安易で中途半端で観客を舐め切ったようなところが目につき過ぎないのが良かった(そういうきらいが全く無いとは言わん)。どの要素もちゃんと機能してた。
あと、私はほんとこの邦題に最初ガックリきたんだが、そういう王道な「ゾンビもの」をやりつつ、そこに考えつく限りのヒューマンドラマを注ぎ込みまくった故に生まれたある種のカオス感が、滅茶苦茶な邦題に意外とマッチしているんでは?と思ったり。
あとは……ゾンビから必死に逃げたり闘ったり知恵を絞ったりと前半緊迫したパニックゾンビムービーだったのに、後半、主要人物が死んだり感染する度にスローモーションになるのでテンポがめためたになったのは少々残念。こういうスローモーション演出はよく見るけれど、スローモーションに頼らないと観客に涙を流させることもできなくて、逆に言えばスローモーションかけとけば感動するだろうって思ってるんだろうか。なんかなあ。
まあ、楽しかったです。ドンソクさんは出演作品観る度に惚れる。
沈まない三つの家
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「湯を沸かす〜」も「チチを撮りに」もそうだったけど、中野監督はどこか「欠けた」家族を欠けたまま肯定するというか、むしろ欠けてるからこそ充たされる瞬間があるというのを描くのが巧いなと思う。
中野作品は本作で言えば太股、「湯を〜」「チチを撮りに」で言えばブラジャーと、作品中での少女に対する視線にナチュラルに変態性が宿っているので、時々ふと真顔にさせられるというか、ただの「お涙頂戴家族映画」で終わらないのがサイコー。
あと、水中ゴーグルの使い方が本当に秀逸で、ゴーグルというのは空間を水中と隔てる装置なんだけど、ラスト、ゴーグルを外すと中に溜まった涙が溢れ出したという事は、息子を亡くした母親は涙が溜まったゴーグルの「水中側」に居たんだよな。沈みかけていたという。ゴーグルを外した、すると涙が溢れ出た、そういう画としてのうつくしさに留まらず、そこに「川」「沈む、沈まない」という概念を当てはめたときに非常にロジカルな作品構造が押し付けがましくない形で浮かび上がってくるというのがすごいし、もっと検証すればどんどん出てくるんだろう。
クレイマー、クレイマー
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これは父と子の絆を描く心温まるヒューマンドラマでも、緊張感溢れる法廷映画でもない。
これはふたりの大人がそれぞれ自分の問題と愛する子供のために何が出来るかに向き合い、「カタをつける」映画。
テッドもジョアンナも、それぞれ思う所あるもののお互いが憎いのじゃない。傷つけたいわけでもない。どちらかが悪いわけでもない。じゃあどうする?っていう映画。
ジョアンナに突然出て行かれて、テッドは慣れぬ家事育児で精一杯。仕事との両立で苦悩しつつ、自分がそれまでいかにジョアンナに対して不誠実な夫であったかに向き合っていく。ジョアンナも同じ。遠き地カリフォルニアで本当の自分を取り戻し、自分にとって一番大切なのは何か? を考えていた。
テッドもジョアンナも、結局いちばんに考えているのは息子のこと。だからこそテッドは自分が勝訴する道を捨ててでも息子を法廷に立たせることを拒んだし、ラストのジョアンナもそう。夫婦としてはもう元に戻ることは出来なくなってしまったけれど、「父」であり「母」なのは揺るがない。
親権をめぐってふたりが法廷に立つ場面はもっとも辛いシーンだ。本人達が「これが本当に自分たちがやりたかった事なのか?」と自問する傍らで、ふたりの弁護士ばかりがヒートアップしひたすらに互いを「親の資格なし」と責め立てる。苦痛の表情から、それぞれの葛藤が痛いほど伝わってくる。
すごいのは四十年前の作品であるにも関わらずそれこそ現代の日本に通ずる社会的問題をしっかり扱っている点。仕事と育児の両立の難しさ。女性が仕事を辞めて家庭に入ることを良しとされる風潮。そのことで女性の心がいかに引き裂かれるか。「子供と父親の絆と愛の奮闘記」なんてヌルい映画では全く無い。「ウーマンリブ」を笑っていたテッドがのちに「自分は妻をかたにはめようとしていた」と語るところなんか鑑みても、この映画は真っ向から社会問題を観客に投げかけていることがわかる。女性が「妻」「母親」の役割だけ求められ、「一つの人格を持った個人」として扱われない、現代にも色濃く残る問題に、この作品は切り込んでいる。
「子供のためにヨリを戻そう!(キラキラ)」みたいにならないのもヌルくなくて最高だ。二人は夫婦としてはもう破綻している。お互い歩み寄れたけど、元の関係には戻れない。心が離れてしまったことを無理に修復する必要も、まして後ろめたく思う必要も全く無い。人が人を思いやり愛する描写が全編にわたり満ちていて、とても美しいのだけれど、綺麗事は一切描かない。
名作の誉れ高いゆえんに納得するしかない、素晴らしい映画だった。
グランド・ホテル
「死と運命変転と再生」の物語。
一人の男が宿泊客たちの運命を変えていく。落ち目のバレリーナは愛を得、傲慢な実業家は転落し、年老いた男と美しい速記屋は共に旅に出る。そしてフロントマンのもとには、子供が無事産まれたとの報が届く。
一人の男の死によって生まれた人間関係や愛といった他キャラクターと男爵との濃い縁を描き、そして彼ら全員がホテルを去った後、新しい命が生まれるのが構造として美しい。「宿泊客の人生を動かした男が死んだ事で変化は永遠となり、ラスト、赤児が生まれた報が入る」という、映画を一本のシークエンスとして捉えた時の完成度が完璧。
……要するにホテルにとってはこの映画で描かれた一連の波乱の一幕も、ただの日常でしかないことが、互いに全く無関係の「死」と「誕生」が端的かつ非常に美しい形で示されているわけで。めっちゃ巧すぎじゃないですかこれ???
とにかく最後に赤児が生まれるのが最高。ホテルはこれからも様々な死と誕生と生活を見つめながら何もなかったように続いていく。「グランドホテルは世界中どこにでもあるさ」っていうラストの台詞がまたそれを駄目押しのように押し出している。劇的なわけじゃない、特別な出来事のわけではない。ホテルはそれまでもこれからも様々なドラマを目撃する。世界中で。そういう終始マクロな視点で物語が語られるのが良い。まさに「グランドホテル 人が来ては去りゆく 何事もなかったように」なのだ。
グランドホテル形式の映画を多く観ているわけではないので偉そうな事は言えないが、登場人物達が絡み合う土地は、他でもないそれ自体こそがその物語の真の主人公であり、登場人物達はその上で運命に踊らされる幸福な傀儡に過ぎないし、群集劇とは一定の空間が持つ逃れられぬ定めの物語なんだよな。
様々な人間関係を繋げ縁をつくり愛を与えたキーパーソンの男が、彼こそが、死ぬ、っていうのがほんとにひたすらに神(語彙喪失)。彼はそこにはもう永遠に関われない。だけど彼が居なかったら何も生まれなかった。彼は「グランド・ホテル」という“土地”が登場人物たちに差し向けた使者なのだ。死んではじめて役目を達成したのも、それだからこそなのである。
素晴らしい映画だった。時代を経て残るものにはやっぱり力が宿っているし、単純に演出や構造も図抜けている。サイコーであった。
遊星からの物体X
めちゃめちゃ面白かった!!!最高!!!!
私はふだんミステリを中心に本を読むのだけれど、ミステリにはクローズド・サークルというジャンルがあり、これは日本では吹雪の山荘などと呼称されるのだが、要するに外部との接触が一切断たれた状態で、閉ざされた空間のなかで一人また一人と惨劇が起きる、でも誰も逃げられない、そして誰も信じられない……というシチュエーションを描いたもので、それで言えば、この「遊星からの物体X」は、まさしくSF &ホラー版クローズド・サークルだった。
登場人物たちが次第に疑心暗鬼に取り憑かれていく様とか、ヒステリー起こす奴が出てきたり、犯人探しならぬ「エイリアン探し」を皆で始めたり、登場人物が不用意に一人で行動しはじめたりと、もう私が今まで散々読んできたクローズド・サークルミステリそのまま。外部と通信がつかなかったり、何者かの手によってヘリコプターが壊されて脱出不可能になったりするところも既視感バリバリ(ちなみにミステリだと車のタイヤがパンクさせられたりしている)。クローズド・サークルものは場面が変化せず地味なのでほとんど映像化されないのだが(本格嫌いの層の厚さもあるだろう)、SF、それもエイリアンものとくりゃあ絵になりますよね。ひたすら楽しかった。
音楽とかカメラワークの演出もやり過ぎず少な過ぎず、観客の恐怖感やハラハラドキドキをこりゃまた煽る煽る。血液採取してエイリアンかどうか順番に調べるとこなんかも、思わず息を詰めて見入ってしまった。二転三転するプロットといい単純明快かつ必然性のある設定といいとにかく観客の心を掴みつつ転がせまくる手腕が絶妙であった。エイリアンのグロテスクな見た目に拒絶反応を覚える観客もいるだろうけれど、こうまで面白きゃそれでもスクリーンから目が離せないんじゃないかな。
怖さやハラハラドキドキだけじゃなく、疑心暗鬼に取り憑かれる人間心理の描き方も巧い。登場人物がみんな違った反応、違った考え方で動いていて、キャラクターを単なる駒ではなくちゃんと生きた人間として創り上げてシュミレートした上で対立や協力関係を設定したのだろうな、と感じた。ただキャラクターにギャーギャー逃げ惑わせるだけのホラーは多いが、この作品は使える設定全て使って一つでも多い側面から観客を楽しませようという気概が伝わってくる。ラストのやりきった絶望感も最高。
そしてこの作品が1982年の作と知り、驚愕。エイリアンからのびて絡みつく触手はじめ、あの時代にどうやって撮ったのだろう。ここまで釘付けになって映画を観たのは久々だ。名作は決して古びないのだなと改めて思う。
怒り
原作既読のため、「誰が山神なのか」というのが分かっていたにも関わらず、この決して短くない映画を最後まで楽しめたのは、多分ひとえに役者(とその能力を最大限に引き出す監督)の力だと思う。とにかくどの役者も鬼気迫っていた。特に、広瀬すずの男友達役の方が演技初挑戦と知ったときは本気で驚いた。あの森山未來を向こうに回して、全く稚拙な部分がない。他の役者も、実際に同居生活したり、無人島生活したり、体重を増やしたり絞ったり、顔に自ら傷を作ったり……。勿論そういう目に見える分かりやすい役作りだけでなく、撮影も、脚本も、演出も、音楽も、「これでいいだろ」と妥協して作った部分が一切無く思える。これは凄い。
だからだろうか、「大切な人が殺人犯なのではないか」と苦悩する登場人物達に、違うよ、あんたの好きな人はそんな人じゃないよ、と画面の中入っていって言ってやりたいと本気で思った。
原作者・吉田修一が語った通り、これは「最後まで犯人を決めずに書かれた」物語であり、また伏線なども特に張られているわけではないため、この作品においてミステリ的な要素はあくまでオマケかと。
さて、タイトルにも冠されている、この映画のテーマとも言える「怒り」とは何なのだろう。
たしかにこの作品にはたくさんの「怒り」が満ちている。大切な人を信じられなかった己への怒り。自分に乱暴を働いた米兵への怒り。友達を守れなかった自分への怒り。夏の暑さへの、電話で小馬鹿にされたことへの、己を憐れんだ女に恵まれた一杯の麦茶への、そういう一言では言えないけど、誰もがきっと知っている「何か」への怒り。
血文字で書かれた、大きな「怒」の字。それを書いた山神は、先程私が並べたたくさんの「怒り」たち、いやそれだけではない、この世にあまねく存在する、全ての怒りを全部背負った、概念としての、観念としての「怒り」を体現する為に遣わされた使者なのではないか、と思う。彼が東京や千葉の容疑者のように愛する相手を最後まで持つことが出来なかったのも、どこまでも使者でしかない彼にはそういった存在は不要であるからだし、一年前突然被害者夫婦のもとに現れ二人を殺し、最後には自分自身が殺されたのも、その役目をついに果たしたからだろう。彼はこの世の怒り全てを引き受け、生まれ、死んだのだ。
あと、パンフ読んでて気になった事をひとつ。広瀬すずは、暴行シーンを撮影したあとしばらく、他人に接触されることが気持ち悪くてたまらなかったという。役に入り込み感情を追体験するというのは役者としては避けられないことだが、制作姿勢として、もう少し彼女の精神的負担を軽くする配慮はできなかったのだろうか。例えば韓国映画「トガニ」では、子役に保護者を付き添わせ、撮影のうえでも、恐怖心を与えない演技指導をしたという。もちろん広瀬すずは子役ではないし、そこまでやれとは言わないが、事実、暴行シーンも生々しく露悪的であったので、その部分に関しては、彼女への配慮は出来なかったのかな、と。どれだけ苦しかろうと役に対して正面から向き合うというのは役者としては己に課す命題だと分かっているし、広瀬すず自身もプロとしての自覚ゆえにあのシーンに臨んだはずなので余計なお世話と言われたらそこまでなんだが。
ニュー・シネマ・パラダイス
「映画」をモチーフにした物語を「映画」という表現媒体で語るのは、作品に含みを持たせていてすごく良かった。作中の登場人物が楽しんでいるのも、今自分が画面に釘付けになっているのも、同じ「映画」なのだという一種のメタ構造が生まれることにより、作中人物の感動がよりダイレクトに伝わってくると同時に、脈々と続いてきた「映画」の歴史を回顧させる作りになっている。
そして、音楽のいちいちが、映像のいちいちがなんと美しいこと!エレナの家の近くで何日も何日も立ち続けるトトの恋が叶い、映写室で抱き合いキスをするシーンには、普段恋愛モノにあまり興味を持てない私も心から酔いしれた。
私は年齢的にはアルフレドよりもトトにずっと近いので、アルフレドの「ここを出て行け、帰ってくるな」の真意がいまいちピンと来ず(「シチリアの小さな街で一生を終えてほしくない、大好きな弟子であるトトには広い世界を見てほしい」という愛の鞭であるのかな、と忖度する事はできるけれど)。でもこれは推測するとか考えるとかいうのではなく、きっと歳をとるにつれて自然と分かってくるものなのだろう。
「これは全部お前にやる、だが私が保管する」と言われてそのままになっていたキスシーンの集積のフィルムを数十年越しに形見として受け取り、誰もいない映画館で一人で見るシーンは映画史に残る名シークエンスではあるまいか。あそこでトトに涙を流させず、うっとりと満足気にスクリーンを観させるのが最高。そう、彼には泣く必要なんてない。なぜなら、あれは彼とアルフレドが生涯をかけて愛した大好きな「映画」なのだから!
さて、以下は物語の流れには関係ないが、この映画を観てふと思った事をつらつらと。
ここ数年の日本の映画界での新しい流れといえば、なにより「発声可能上映」「応援上映」といった観客参加型の上映形態が確立された事だろう。まるでコンサートのように観客はスクリーンに声援を送り、喚起された感情を全身で表す。こういった試みは既に一定の層に支持されており、実際、人気の作品の応援上映は、時にチケット争奪戦となることもあるそうだ。今後、こうした流れはさらに広がっていくことだろう。
だが、翻って言えば、この国では、「普通」の形態の上映において、観客はかなりの「不自由」を強いられていると言うことができる。音の出る飲食は敬遠され、笑い声も控えめに、ヒソヒソ話も眉をひそめられる。しかし、それは随分と窮屈な風潮ではないだろうか。この、少年と映写技師の交流を描いた名画を観ながら、私はそんなことを考えていた。
TVも普及していない、娯楽の少ない時代と町を舞台にしたこの作品では、人々の唯一の娯楽として、「映画」という題材が採られる。人々は毎日のように映画館に詰めかけ、スクリーンに映し出される光景に夢中になる。彼らにはせせこましい「鑑賞マナー」などない。楽しかったり、美しいシーンでは歓声を上げるし、キスシーンがカットされたらブーイングもする。もしそこが日本の映画館であったら、彼らは「マナー違反」と烙印を押されてしまうかもしれない。だが、素晴らしい作品を受容する、感受性に訴えかけられる、その感動を声として身振りとして表現する、それってすごく当たり前の事なのではないか?映画って、娯楽や芸術としての映画鑑賞って、本来、そういうものなんじゃないのか?
私はいまいちノリの悪い人間なので、応援上映などは敬遠していたのだが、今度、一度機会を見つけて足を運んでみようと思う。大好きな「映画」を観ることができる幸せを、声で体で受け止めてみたい。