「自衛」論の暴力性、非対称性

 21日、出会い系で知り合った中一女子を連れ去った容疑で21歳の会社員が逮捕されている。

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 このニュースを受けた小池一夫氏のTwitterにおける発言が、数日前から物議をかもしている。ツイートの内容はこうだ。

  この件に関しては小池氏本人が既に公式ブログ上で謝罪をしている。「女の子じゃない。女。」という発言によって「女」という属性に俗物的で侮蔑すべきものであるというレッテルを貼った事への謝罪は一切見受けられないためわだかまりは残るが、巷に溢れる「不快にさせてしまったのなら謝ります、サーセンした」式謝罪と比べれば、自分がなぜあのような不適切な発言をするに至ったのか、またどうするべきだったのかが丁寧に分析されており、随分ましなものと思える。よって私としては小池氏のこの発言についてはとりあえずは納得したのだが、こういう発言が著名人の口から発せられてしまうレベルには、こういった「性犯罪は女性側の自衛不足による責任である」という意識が世間で共有されてしまっているわけで、決して問題そのものが解決したわけではない。私は前々からこの「自衛論」については思うところがあったので、この機会にちょっと書いておく。

(ちなみにこの謝罪に対しても納得していない人は当然多くいる。謝罪したからと言って罪が免ぜられるわけではないし、前述の通り「女」という属性を貶めたことへの謝罪もない。また、小池氏の「子供は出会い系サイトにアクセスすべきでない」という主張もそもそもが自衛論の上に立脚しているので、自衛論に反対する立場の人から反発があるのは至極当然なことだ。「謝罪したのだからもう批判しなくてもいいではないか」という声をちらほら見かけるが、そのような行為は怒りを表明し告発する者の口をふさぐ行為でしかなく、私はこれを断固批判する。)

 

「自衛をしなかった」ことは被害者の落ち度なのか

 まず私の意見を述べよう。「自衛をしなかったこと」は、被害者の落ち度では全くない。どれだけ被害者が不用意であろうと、それで責任の所在が被害者にもあることには絶対にならない。

 何故こう思うのかは、これから説明していく。

 ここに一人の被害者がいるとする。彼、または彼女は、自分の身に降りかかるかもしれない犯罪に対し全くの無頓着であり、警戒を怠っていた。これは被害者の落ち度なのか。

 答えは明確に否だ。加害行為というのは、被害者の不注意や隙を突いて悪事を働く加害者がいなければ成立しない。そして、相手に不注意や隙があれば加害行為を行っていいということは全くない。加害行為というのは、不法行為や犯罪のことだ。これは法律でも明確に禁じられている。よって、全ての責任は加害者(刑事事件の場合は行為者と呼ぶ)にある。

 そもそも、「落ち度」という言葉は実にあいまいで、かつ考察に欠けた、極めて加害者視点のものだ。性犯罪被害の落ち度としてよく挙げられるのものとして、「夜道を一人で歩いていた」などがあるが、これを落ち度として断罪する者には、「タクシーに乗る金銭的余裕がなかったのかもしれない」というような考察が致命的に欠けている。そもそも、誰でも通れるはずの公道を歩いていたというそれだけで「落ち度」とされる、その理不尽さを想像してほしい。同じく落ち度として槍玉に挙げられる「露出の多い恰好をしていた」というのも同じだ。私たちは自分の趣味に合わせて装う権利がある。それを抑圧して「そんな恰好をしていたから」とは何事なのか。しかもどこからどこまでを「被害者の自業自得」とし、どこからを「これは加害者が悪い」とするかはジャッジする側が決めるのだから、極めて非対称だ。もちろん交通事故のような過失割合が関係してくる場合もあるが、それはお互い故意でないという前提があっての決まりであるし、法律という目に見える一律な基準がある。

(少し話は逸れるが、過去に、大宮駅で痴漢防止を呼び掛けた女子高生達のスカートの長さを指して「矛盾している」という発言を見かけたことがあるが、あれほど的を外した意見も珍しい。短いスカートで痴漢防止を訴えることは、「私達が短いスカートを履いているのは、あなた達が私を痴漢していい理由にはなりませんよ、させませんよ」という極めて強力なメッセージたりうるからだ。)

 以上が、私が「落ち度論」を批判する理由である。

 

なぜ「落ち度論」は発生するのか

 では、なぜこのような「落ち度論」は発生してしまうのか。

 私が思うに、彼らは、個人の役目たる「自衛」「用心」と、社会の役目である「犯罪抑止」を混同しているのではないか。

 勿論自衛や用心はするにこしたことはない。それは私も否定しない。だが、それとは別に、社会には、そして社会の一員たる私たちには、「犯罪抑止」に努める義務がある。そしてその義務は、個人の「自衛」の度合いによって揺らぐことはない。自衛をしていなかったからと言って、それでどうして被害の責任が被害者側に移ることになるのか? 自衛というのは個人の問題だ。個人がいくら自衛を怠ったとて、社会の問題である「犯罪抑止」とその先にある「事件解明」「加害者の処罰」は行われなければならない。

 そこをいまいち理解できていない人が、まるで自衛さえすれば全ての被害が防げるかのような口振りで「自衛論」を振りかざすのではないか。

 

「自衛論」の行きつく果てのディストピア

 どれだけ被害に合う側が警戒して慎重になっても、加害者はさらに知恵を絞って巧妙な手段を使ってくるだけだろうし、被害の責任を一部だけだとしても被害者に収れんさせだしたら、それこそ家から一歩も出られなくなる。

 被害者の落ち度を「こいつにも非があった」と訳知り顔に裁くことは、結局後々自分の首を持締める結果になると言うことを、「自衛論」支持者は心に刻んでほしいと思う。なぜならそれは、「自分も些細な落ち度を理由に犯罪に巻き込まれても仕方ないですよ」と、自分への加害を暗に肯定する行為だからだ。常に隙を見せずに生活できる人などどこにもいない。自衛論を突きつめていって行きつく先は、完全なる弱肉強食社会だ。「いざというときのために護身術を習っておかずに殺された被害者が悪い」とか、「ボディーガードもつけず女子供で外を出歩いたら被害にあっても仕方がない」のような修羅の国である。

 「自衛しろ」といい、しなかった者を裁くのは、自分自身の「平穏な暮らし」や「無事に生きる」事の価値をも低く見積もることだ。だからこそ私は、自衛論に断固反対するのだ。

 

補記:ネットでの出会いは「安易」なのか?

 これは冒頭で紹介した出会い系サイトの問題とも絡むのだが、出会い系サイトやSNS(出会い目的で作られたわけではないサービスでも、結果的に出会いの温床となっている場所は多々ある。多くの人が利用しているブログやツイッターフェイスブックとて例外ではない)など、インターネットを介した出会いは「安易」なのか。「自衛」の観点から言って、責められるべきことなのか。これに関して、私見を述べる。

 まず、私はインターネットでの出会いを安易なものではないと考える。それは、単純に「インターネット上の出会い」を「安易」とする論理的根拠が、(少なくとも、私が思いつく限りでは)ないからだ。「相手の顔が見えないから」というのはよく言われることだが、では逆に、相手の顔を見ただけでその人間性を判断できる人間がどこの世界にいるのか。「プロフィールをいくらでも偽れる」という特性もネットにはあるが、そんなものは顔見知りだって一緒だ。

 また、これは記憶が定かでなく出典を明記できず申し訳ないし、それは私の論の弱さでしかないのだが、私の記憶では、ストーカー事件に発展した男女の出会いの場の第一位は「職場、学校」であった。ネットは三位ぐらいだっただろうか(本当に、あやふやで申し訳ない。データなどご存知の方がいらっしゃったらよろしければご連絡ください。すみません)。性犯罪事件でも、顔見知りによる犯行は三割を占めると言う。「ネットでの出会いが危険につながる」という確実なデータは(私の観測範囲内では)存在しないのだ。

 というか、これだけSNSが発達して、ネット婚活なども普及している今日、ネットでの出会いをイコールで安易とみなすのは、早計である以前に時代錯誤なのではないかと思ってしまうのだが。

 

おわりに

 ここまで読んでいただいた方、ありがとうございます。だらだらと私見を垂れ流しましたが、私とは意見が異なる方、反論したい方、当然いらっしゃることと思います。

 また、ストーカー事件に発展した男女の出会いの場についてのデータを明記できず申し訳ないです。

 私は自衛にまつわる事柄について現在のところは以上のように考えていますが、今後考えが変わることもあるでしょうし、まだまだ考えを深めたいと思っています。私に反論がある方、対話したいと言う方は、お気軽に話しかけていただければと思います。