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ラスト五分の驚愕と、ラスト五秒の恐怖―映画『イニシエーション・ラブ』

映画

(※映画『イニシエーション・ラブ』は、とっても面白い映画です。予告編や公式サイトでも散々宣伝されている通り、驚きのどんでん返しも用意されていますので、まだこの映画を観ていない方は、ぜひまず劇場に足を運んでから、ネタバレ満載のこのエントリを読んでください。)

 

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 忘れもしない先月の25日、私は夜のネオンサインをかき分けて走る電車内でぼんやりと車窓を眺めながら、茫然自失の状態にあった。普段ならひと駅分も揺られれば相当な不快感に襲われるはずの肩が触れ合わんばかりの混雑もこの時ばかりは意識の外だった。あれからもう一カ月近くが経つが、未だにどうやって帰ったかはっきりと覚えていない。

 映画『イニシエーション・ラブ』を観たからである。

 

 ……というのは些か大袈裟であるにしても、私がこの映画から受けた衝撃は否定すべくもない。ただし、その内実は同じくこの映画を観た人の感触とは少々異なっているかもしれない。この映画『イニシエーション・ラブ』は、「ラスト5分の衝撃」という触れ込みで売っている映画なのだが、私が真に驚愕し、そして恐怖したのは、ラスト5分ではない、ラスト5秒、その瞬間であった。

 

退屈な原作ー乾くるみイニシエーション・ラブ

 世のミステリ好きの常として、ミステリのオールタイムベスト上位に名を並べるような作品は大体目を通している。原作小説『イニシエーション・ラブ』の場合も同様で、最初に実写化の速報が舞い込んできたとき、私はとっくにこの小説を読んでいた。そして、あのトリックをどう映像化するのだろう?と興味が湧きこそしたものの(そしてAKB時代からの前田敦子ファンとして狂喜乱舞したものの)、あの原作小説それ自体を、私は全く評価しないのである。
 何故か。簡単である。つまらないからだ。
 冒頭でネタバレに関しては注意喚起をしたつもりなので、本論に入る前にまず容赦なくあらすじ紹介と種明かしをさせてもらおう。
 まずこの小説の構造として、A面、B面の二章構造が採られている。この物語の主人公・鈴木は、友人に誘われて参加した合コンで繭子という女性と出会う。連絡先を交換し、徐々に距離を縮めていき、ついに二人は結ばれる……という所までがA面。B面では、鈴木が大学を卒業し東京の本社に配属された所から話が始まり、二人は遠距離から恋を育もうとするが、彼に恋人のいることを知っていながら鈴木に巧みにモーションをかけてくる東京の女・美弥子の存在や、繭子の妊娠・堕胎騒動により徐々に二人の心は離れていき、ついに美弥子との二股が発覚し鈴木と繭子の恋は破局する、というのがオチ。これだけ聞くとただの三流恋愛小説なのだが、実はこの本には仕掛けがあって、オーソドックスに時系列順にA面・B面とストーリーが進行していくのだと思わせて、実はA面の「鈴木(=鈴木夕樹)」とB面の「鈴木(=鈴木辰也)」は別人で、A面B面は同時進行の物語であり、つまり繭子は二人の「鈴木」と同時進行で交際していたのだ、ということがラスト2行で分かるという、登場人物の顔が見えない小説という媒体の特性と、一人称の近視眼的語り口を巧みに利用した、「恋愛小説の皮を被ったミステリー小説」なのである。おそらく名前の呼び間違えを防ぐためであろう、繭子は双方に「たっくん」という仇名を付けており(夕樹の「夕」はカタカナの「タ」に見えるから、という少々こじつけめいたものではあったが)、実際作中で使われる呼称は「たっくん」が大部分であったから、相当気を付けて読み進めない限り、二人の「たっくん」が別人だという気付きは得られない(尤も、「ラスト二行の仕掛け」があれだけ人口に膾炙してしまっている以上、読者は最初から疑念を持って丹念に読み進めるであろうが)。
 で、このアイデア自体はすごく良くできているし(作中にそれとなく臭わせる伏線が張られていたりする)、誰もが思いつくものでも無いと思うのだが、いかんせんストーリーが破滅的につまらない。最後にどんでん返しが用意されていると知っていたから読み通したものの、そうでなかったら確実に途中で挫折していたであろうと断言できるぐらいつまらない。当たり前である。トリックを除いたストーリーそれ自体は男女がくっ付いて別れる、それだけの話なのだから。つまりこの小説は兎にも角にも「A面B面は同時進行の物語で繭子は二股をかけていたんですよ」というトリックというかアイデアありきで、300ページ弱に渡って綴られる男女の恋物語はその単なる道具、傀儡に過ぎないのである。
 ミステリ小説は、どうしたって「アイデアありき」の所があるから、往々にしてこういうことがある。それはもう仕方がない。だが、かといって物語上の面白さを蔑ろにしていいわけではない。読者は数百円から数千円払って、数百ページの物語を数時間かけて読むのだから、その物語部分に面白味が見出せないのは困る。大体の作品はそこがきちんと配慮されている。魅力的なガジェットを配したり、個性的な探偵役を活躍させたりして、トリック部分にだけ頼ることなく、読者を物語に引きつけている(何を間違ったか、肝心要のトリックの出来よりも展開やキャラクター造形が面白くなってしまっているものも多々ある)。同じく小説の特性に依ったどんでん返しが用意され、「映像化不可能」と囁かれながら見事に映画化された伊坂幸太郎アヒルと鴨のコインロッカー』はストーリー部分もちゃんと楽しめるクオリティーだった。だがこの乾くるみイニシエーション・ラブ』にはそれがない。つまらないのだ。恋愛小説を装うならば表面上でもいいから恋愛小説として面白いものでなくてはいけない。だから私はこの原作小説を全く評価しないのである。ストーリーがアイデアの傀儡となってしまっていて、しかもそれを取り繕おうとした様子もないからだ。そのついでに言うなれば本そのものに仕掛けが張られた泡坂妻夫『しあわせの書』もストーリー自体は酷い出来だった。あれも私は評価しない。
 
 

映像化不可能と思われた原作、その巧みな実写化

  ここまで読んで気になるのは、「じゃあその小説をどうやって実写化したの?」という所であろう。原作のトリックは、「登場人物の顔が見えない」「一人称による叙述トリックが可能」という小説という媒体の特性に依存したものであった。そこを実写化するにあたって、どう問題をクリアーしたのか?折角なのでここで、映画パンフレットの原作者コメントを引用させてもらおう。ネタバレの嵐なのは言うまでもないので、嫌な人は今すぐブラウザを閉じるように。
 
大河ドラマなどで、幼年、成年、老年時代をそれぞれ別の俳優が演じる、ひとり二役ならぬ、ふたりひと役のようなことがありますよね。そのように、太ってる時代と痩せてる時代を別の俳優が演じていると思わせれば、仕掛けが成立すると思ったんです。最初に太った朴訥な男を出して、彼が繭子に「君のために痩せるよ」と言ったところで場面が変わり、イケメンが登場。イケメンになった途端、調子こいて他の女に乗り換えて見えると言う構造でやってほしいとお願いしたんです。
 

 そう。「別の人間二人をひとりの人間と錯覚させる」という難関を、映画版では、「太っている時代」と「痩せている時代」を設定し、それぞれを別の俳優に演じさせることによってクリアーしたのだ(ちなみに鈴木の「太っている時代」を演じたのは、ドラマ『モテキ』で主人公の肥満時を演じた俳優・森田甘路さん。彼には既に「ふたりひと役」をこなしたという「アリバイ」があり、それも視聴者を欺くトリックとして機能したとも言える)。

 つまり、小説という媒体の特性に依存したトリックを、今度は「同じ役を異なる役者が演じる(視聴者は"そういうもの"と飲み込んで難なく物語世界に没入する)」という映像作品のお約束の利用によって成立させたのである。これは、見事としか言いようが無い。前章で散々原作をこき下ろしたが、こうして見るとやはり乾くるみという作家の「アイデア力」は頭抜けている。クリエイターとして、その媒体が持つ特性とその裏側にある「盲点」に、相当自覚的で敏感な作家なのだろう。

 文句無しの実写化だった。「デブ時代」の鈴木と、松田翔太演じる鈴木が別人だと分かる、「ラスト5分の驚愕」。だがそれだけでは、「原作小説の映像化」としては満点でも、益体も無い恋愛小説が益体も無い恋愛映画に変わっただけなのだから、一本の映画、作品としては「つまらない」ままだ。しかし堤監督は、この作品に原作にはないあるエッセンスを盛り込むことによって、つまらない筋書きに新たな「顔」を与えている。そしてそれこそが、記事タイトルにも冠した「ラスト5秒の恐怖」、その元凶なのだ。

 

ヒロインはサイコパス?ラスト5秒の恐怖

 ここでまず、原作の「ラスト二行」、そして映画の「ラスト五分」で何が起こったか説明したい。繭子との破局を迎えた後のB面の鈴木(辰也)は、繭子に間違い電話をかけてしまう。受話器が外れる音がして聞こえてきたのは、

「もしもし、たっくん?」

という、あまりにも「普通の」トーンの繭子の声だった。

 辰也は衝撃を受ける。「まさか」、というリアクションでおずおずと自分の名を呼ぶのなら分かる。もしくは、たっくんであってほしい、と祈るように言うのならば。しかし、受話器越しの繭子の声は、まだ二人が蜜月時代にあったころ毎日電話をしていた時のような、あまりに「普通の」トーンだったのだ。折しも世間はクリスマスムードを迎える頃、イヴの日辰也は東京での新しい彼女・美弥子の家へ招かれる。両親との歓談もそこそこに、美弥子の部屋で二人きりとなった辰也の頭の中には、依然として「繭子はまだ自分との別れが飲み込めていないのではないか、今頃繭子は、別れた後キャンセルしたはずのホテルの前で自分を待っているのではないか」という疑念が渦巻いている。

 美弥子は言う。「何考えてるの、辰也」。ここではじめてB面の鈴木の名前が明かされる。辰也は答える。「何でもない」。

 ……と、最後の二行ではじめてA面のそれとは違う「鈴木」のファーストネームが明らかにされることで、「これは同時進行の物語だったのか!」と読者に悟らせる仕掛けになっているのが原作。当然、「鈴木」の一人称によって進行するこの物語からは、繭子の二重恋愛が「単に寂しかったから」なのか、それとも何か別の理由が存在するのかは想像するしかない。

 だが、映画の場合ラストは大きく異なる。辰也は美弥子の部屋で彼の疑念を彼女に直接吐露し、「そんなまさか」と引きとめる美弥子を振り切って彼女の家を飛び出す(この辺映像的な派手さも狙っているのだろう)。車のエンジンをかけ向かうのは、イヴに一緒に食事をしようと約束していたホテルの前。夜の中高速道路を飛ばし、待ち合わせ場所にたどりついた辰也の想像は的中、ドレスアップした繭子が笑顔でそこに立っている。「マユ!」駆け出した辰也。そこで彼はいきなり前に飛び出してきた男とぶつかり転倒。そう、その男こそが、A面の「鈴木」、夕樹だったのだ。「たっくん、大丈夫?」夕樹を助け起こす繭子の言葉に耳を疑う辰也。続いて繭子は辰也に「すみません、大丈夫ですか?」と声を掛けかけ、「たっくん?」と驚きの表情。

 想定外の展開に二の句が継げないでいる辰也に、繭子はあくまで笑顔で言う。「どうしたの?たっくん」。

 

 この笑顔の衝撃よ。これこそ私が「恐怖」した「ラスト五秒」の正体だ。

 まともな感性を持った人間なら、二股をかけていた男同士が鉢合わせするなどと言う最大級の修羅場に見舞われれば到底「笑顔」ではいられないだろう。焦り、狼狽し、何とかその場を取り繕おうと必死になるはずだ。しかし繭子はあくまで笑顔のままなのだ。まるで当然のように、平常心そのものの様子で「どうしたの?」と真正面からカメラに向かって問いかけるのだ。これが映画のラストカット。その後のエンドロールでは舞台となった80年代の風俗のあれこれがスタッフロールと共に紹介されていたが、あの笑顔の衝撃で到底楽しむどころではなかった。なんてこった、ヒロインは常人の心を持たぬサイコパスだったのか?!

 

要る? 要らない? 最後の「答え合わせ」

  ところで、この繭子の「笑顔」の直前、この映画の最後には、映画のシーンをご丁寧に「本来の時系列順」に並び替え、作品の仕掛けを解説する、「答え合わせ」パートが挿入される(辰也とのデートでコーラをこぼしてしまったワンピースを、夕樹と電話しながら拭いているシーンなど、作中に張られた伏線まで丹念に見せている)。レビューサイトなどを見ていると、「あの答え合わせは要らなかった」という声が割に多いことに気づく。「あれでは"二回観"ないよ」と。また、そもそも「最後の五分、全てが覆る。あなたは必ず二回見る」という宣伝文句自体、観客の猜疑心を煽っていて、ラスト五分の驚きを削いでしまっている、という指摘も多い。

 だが、私はこう考える。「とっくに人口に膾炙した、ベストセラー小説の映画化で観客を騙す」ことに、そもそも監督の主眼は(全くとは言わずとも)なかったのだと。そして、真の主眼を解きほぐす鍵は、他でもない「ラスト5秒」に隠されているのだと。

 ここで、パンフレットの堤監督コメントを引用する。

それにしても、なぜ繭子はふたりの男と二重生活を送っていたのか。(中略)ふつうに考えれば寂しかったからだと思いますが、実はもっと巨悪の因子を持っていて、このまま10年後には、10人ぐらいの男と付き合って、保険金殺人とか猟奇的な殺人事件を起こしているかもしれません。そんな危険性の片鱗も画面にそっと込めました(笑)。

 そうなのだ。あのラスト5秒の笑顔こそ、どんでん返しのアイデアを実現させるための傀儡でしかなかった筋書きに、映像化にあたって堤監督が付け加えた新たなテーマだったのだ。ラスト5分、ミステリーへと変貌した恋愛映画は、ラスト5秒で、繭子という常軌を逸した人間を描いたサイコホラーへと新たな変貌を遂げるのである。これは私見だが、あの宣伝文句や答え合わせすらも、真のテーマー繭子という人間性ーを覆い隠し、観客をラスト5秒で恐怖に突き落とすためのレッドヘリングであったと解釈している。「この作品には仕掛けがある」という情報を前もって与えられた観客の注意は自然とその仕掛けを暴くための伏線探しに集中し、登場人物個々の人間性の読み取りから逸れていく結果となるからである(そういう意味で、まっさらな知識で臨んだ者よりも、原作既読の観客の方が、ラスト5秒で受ける衝撃は大きいかもしれない。彼らにはトリックの根幹を予め知っているが故の余裕があるからである)。 

 

キュートな笑顔の奥の掴みどころのない魅力 女優・前田敦子

 しかし、ここまで考えた時、私たちは前田敦子という女優の演技力とその潜在能力に、改めて驚嘆せざるをえない。彼女がキャリアを増すごとにその演技力を確実に伸ばしていっていることは、前田敦子のファンである私の贔屓を差し引いても事実だと思うが、ひとくちに「演技が上手い」といっても色々種類があって、彼女の場合は「何者にでも変貌しうる」巧さである。
 彼女が7年間にわたり所属したAKB48には様々なメンバーがおり、そこには(意図して演出されたものであれ、自然に表出してくるものであれ)それぞれ多様な「キャラクター性」とでも呼ぶべきものがある。板野友美はそのアイドルらしからぬ「ギャル風」の容姿で十代女性から圧倒的な支持を誇ったし、渡辺麻友が「CG」とまで称される整ったルックスから受ける印象とは裏腹に、かなりディープなオタク趣味を持っていることを知らない者は少ないだろう。他のメンバーにも、それぞれ多かれ少なかれキャラクターがあり、チーム内での立ち位置とでも呼べる物があった。しかし反論を覚悟で書くと、前田敦子にはそれが「無かった」 のである。彼女は7年間AKBのセンターに立ちながら、彼女自身は何にも属さない、極めてニュートラルな存在だったのである。そしてその「ニュートラルさ」こそが、バラエティー豊かなメンバー達を「AKB48」という一つのグループに纏め上げる役割であるセンターとしての必要不可欠な要素であった。この「ニュートラルさ」については、前田敦子の卒業に際して出版されたフォトブック内のインタビューで、渡辺麻友も言及している。 
渡辺 前田さんって"⚪︎⚪︎キャラ"みたいにはっきり決まってないと思うんです。見た目も性格も、一つのキャラでくくられないというか。

ーファンを限定していない感じ?

渡辺 そうなんです。(中略)いい意味で掴みどころのない不思議なオーラとでも言いますか……。そしたら、たまたま先輩たちが前田さんに「あっちゃんって謎だよね?」って話しているのを聞いて、ずっと一緒にいる人から見ても、そういう印象なんだと思ったことを覚えています。前田さんって、MVによっても印象が変わるし、振り付けによっても違いますよね。(中略)そういう謎というか、何にも当てはまらない感じが、AKBのセンターに必要なのかなって思いました。

 記憶が不確かなため出典を上げることが出来ず申し訳ないのだが、『イニシエーション・ラブ』に関してのインタビューで、堤監督が彼女の起用に関して「前田敦子と一対一で向き合って落ちない男はいない」という主旨のことを発言したことがあった。それにはファンとして諸手を挙げて賛成するところであるが、それ以上に、繭子という難しい役を演じるにあたって、彼女のこの「ニュートラルさ」「"謎"な印象」、「何考えてるか分かんない感」とでも言うべきものが絶妙に効いていたと思うのだ。あの笑顔で迫られれば降参するしかないキュートさの一方で、「この子なら不穏な事考えていてもおかしくないな」と思わせる、何か。何者でもない故に、何者にでもなれるバランス感覚。前田敦子のこの持ち味は、彼女の今後の女優業において大きな武器となると思うのだが、どうだろう。

(ピンとこなかった方は、一見普通のようでかなり「変わった」ヒロインを演じた『苦役列車』と、これまた驚愕のどんでん返しが用意された主演作『Seventh Code』を観ること!)
 
 

まとめ

 公開してからどころか観に行ってから一ヶ月以上たってのエントリ公開となってしまいましたが、こんな長文を読んでくださり有難うございました(自分でもここまで長くなるとは)。散々書き連ねたように、映画『イニシエーション・ラブ』はとても面白い映画です。多重に仕掛けられた伏線、驚愕のトリック、前田敦子の天与の可愛さ、溢れんばかりの80'sエッセンス、そして映画化にあたって堤幸彦監督が付与した新たな「顔」。まだ公開中です。皆様、是非。
 

 

イニシエーション・ラブ (文春文庫)

イニシエーション・ラブ (文春文庫)

 

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