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奴隷の鎖自慢やめようぜという話

 昨日ぐらいから、男「女はなんでヒールなんかはくんだ?」女「他に選択肢がないんだよ!」 - Togetterまとめ多分このまとめが発端なんだと思うが、Twitterのタイムラインは「ヒール履くのがマナーって風潮マジでクソ」というツイートで一色だった。ヒールの辛さを切々と語るツイート群に深く頷きつつ眺めていると、議論は同じく女性に課せられている社会通念である「化粧」に関するマナーの理不尽さにまで及び、これは現在に至るまで白熱している。
 そこまではいいんだが、「男だって髭剃りやネクタイ等マナーに縛られている、大変なのは女だけではない」という的外れにも程がある意見や、更にそれに対するカウンターとしての「女は髭だけじゃなく全身の毛剃ってるんだ」という意見も同時に目立つようになってきて、お約束の流れながらその不毛さに頭が痛くなってきたので、ちょっと思うところ書いておく。つまるところこの話はタイトルにも冠した通り「奴隷の鎖自慢やめないか」という結論に帰結するので、Twitterで一言呟けば済む話ではあるのだが、化粧やヒールに対する個人的な意見とかも交えると話がとっちらかってきて自分でも訳がわからなくなりそうなのでブログに書こうと思った次第である。


化粧は"マナー"という社会通念の矛盾と馬鹿馬鹿しさと怒り

 私は「身だしなみ」「テーブルマナー」「ドレスコード」などのあらゆる根拠不明の社会通念に対し全力で中指立てているタイプの人間である。そんな私でも、社会において、身だしなみとして「清潔さ」が求められることの正当性は理解している。不衛生は健康への害に直結するからである。
 だが身だしなみとして当然のごとく求められている「化粧」は要するに顔面を油で塗りたくる行為であるわけで、実際に不十分なクレンジングが肌を傷めるように、「清潔」「衛生」とはむしろ対極の行為と言える。これがマナーのなかに当然のように組み込まれていることは明らかな矛盾である。これはどういうことかというと、結局のところ、実際のところ社会で重要視されているのは衛生観念としての「清潔さ」ではなく、イメージとしての「清潔"感"」なのである。顔面に油を塗り込むことで肌が乾燥し、その結果どれだけ肌が傷み「清潔さ」を失おうとも、肌が均一なトーンに整い見た目が「綺麗」ならばそれで「身だしなみ」のテストはパスするのである。
 私が何故「化粧」や「ヒール着用」などの「身だしなみ」や、「テーブルマナー」「ドレスコード」を蛇蝎のごとく嫌うのかといえばこういう矛盾ゆえである。どれだけ肌が傷み足に負荷がかかろうとも、「ヒールは女性らしい」「ナチュラルな化粧は女性を美しくする」なるふんわりしたイメージによって支えられた主観が物を言う、その根拠のなさが気に入らないからである。「ドレスコードを守るのは居合わせた人への敬意だ」「所作が美しいと見ている人も気持ちがいい」なる思考停止したイメージによって築かれた価値観に隷属させられることに納得がゆかないからである。「女性は身だしなみに気を遣って職場に華を添えましょう!」「結婚式のゲスト女性は明るい色のドレスを着て会場に華やかさを!」とか、女性誌やマナー指南本でしょっちゅう見るが、そんなに「華」とやらが欲しいなら職場や会場の壁といい天井といい七色にでも塗ったらいかがかと言いたい。お願いだから(こっちが頭を下げて"お願い"してやる義理なんざどこにもないんだが)お前の「キレイなものが見たいよ〜」という馬鹿馬鹿しい個人的な欲求にこちらを巻き込んでくれるなという話である。大分前の号だが雑誌ROLaのセーラームーン特集における少年アヤちゃんさんのコラムで「女の身だしなみに化粧が含まれているというのは、女は清潔さにとどまらず美しさまで社会に求められているということだ」という旨の文章があって、首がもげるほど頷いた記憶があるのだが、つまりそういうことである。美しさなんてものはあるにこしたことはないものの無くても命や健康に何ら関わることのない、個人的な欲求であり娯楽である。どういう形であろうと、それを生きた人間である私に求めるのは御免被ると声を大にして言いたい。
 ここで断っておくが、「本人が自分の意思で美しく装うこと」と「外野に強制されて美しく装うこと」は全く別物である。「美しく装うことが好き」であることと、「美しさを強要されることが嫌い」であることは当然ながら両立する。良い例えが思いつかず申し訳ないが、ピンと来ない人は例えば「面白い映画を観ることを他人に強制される」状況を想像して欲しい。誰しも面白い映画は好きだ。だがその時の気分や予定や体調によって観たくない場合もある。美しく装うことも同じだ。普段は化粧やお洒落が好きでも、肌の調子が悪くこれ以上負担をかけたくない時や、気分が乗らない日もある。そして「他人に面白い映画を観ていて欲しい」という欲求も「他人に美しく装っていて欲しい」という欲求も、どちらも科学的根拠に基づかない個人的な趣味であり好みである。そういう個人の好みを「マナー」にまで敷衍して他人に強制することがおかしいと言っているのであって、化粧やヒールそのものを断罪しているわけではない。社会通念としての化粧に怒りを表明しながら毎シーズン新作コスメの情報に心躍らせる私のような存在は、だから全く矛盾しないし、こういう女性は実際に多いと思われる。

「大変なのは女だけじゃない」という正論が新たな強制力に

 上記のようなことを語っていると、必ず出てくるのが「男だって髭剃りやネクタイ等根拠不明のマナーに縛られている、女性ばかりが大変だと思うな」という声だ。海外では髭を生やすのが当然とされている文化圏も多いし、ネクタイに至っては通気性など機能性を明らかに欠いているので、それ単独で見ればこの意見は全く正しい。私自身、髭の剃り跡に血をにじませ窮屈なスーツに身を包んで出勤していく父の姿を見ていることもあって、男性に課せられたこのような根拠不明のルールには断固反対する立場である。だが問題なのはその言葉が発せられた状況である。理不尽な社会通念に異を唱える女性の意見に反論する形で発せられた瞬間、同じく正当な問題提起としても機能する筈であったこの言葉は、なんらの状況改善に繋がらなくなるどころか、「俺だって耐えてるんだからお前も我慢しろ」という新たに私達を縛る「根拠不明のマナー」に変わる。
 何度も言うが、私は男も女も関係無く根拠なき社会の強制から解放されるべきだと思っている。私に限らず、どの女性もそうだろうと思う。私や、他の女性が女に課せられたマナーにばかり反応して怒っているとすれば、それは私自身が女だからだ。問題を肌で感じる当事者だからだ。私が「女はこんな理不尽なマナーを課せられている、理不尽だ」と主張する時、私の言葉が意味するのはその言葉がそれ以上でも以下でもない。「それに比べて男はいいよね」というありもしない文脈を勝手に補完して「辛いのは女だけじゃない!」と言う男性は少なくないが、全くそんな意図はなく、的外れだ。男性に課せられた理不尽を表明したいのなら、「女性がこんな苦役を課せられているように、われわれ男性もこういう負担を強いられている。どちらも理不尽だ、是正されるべきだ」と言った方がよっぽど的確だし、状況改善も近づく。

やっと本題、戦うべき敵を見誤るなという話

 議論が白熱してくると、さらに悪いことに、「大変なのは女だけじゃない、女に化粧があるように男だって髭剃りがあるんだ」という論点のずれた意見に対し、「女は顔だけじゃなく腕も足も剃ってるんだ」とそのずれた論点に乗っかった反論まで出てくるようになる。この当初の論点から全く逸脱した男女間の不毛なすれ違いは、要するに、タイトルで書いた通り「奴隷の鎖自慢」という言葉でまとめることができると思う。「大変なのはお前だけじゃない」「いやこっちはもっと大変だ」、このやりとりは、「大変」と判断される苦労のハードルをどんどん上げていき、結果的に双方の首を絞める。しかもいつの間にか敵が「理不尽なマナー」から「この程度で"大変だ"と騒ぐ異性」へすり替わっている。問題解決はどんどん遠のく。
 課せられた理不尽さの度合いの非対称が男女間にあるのは確かかもしれない。苦痛なんて比べるものではないが、「男は髭を剃らねばならないのだ」と言われれば、確かに女は「女は全身を剃っている」と返すことができる。だがそれは結局奴隷が鎖の重さを自慢し合うことにしかならない。「私/俺だって耐えてるんだからお前も我慢しろ」という新たな圧力を生み出す結果にしかならない。
 これをやめようよと言いたくてこのエントリを書いている。「あなたが大変なように私も大変なんだから我慢しろ」もしくは「私はもっと大変なんだから我慢しろ」ではなく、「私もあなたも大変だよね、理不尽だよね、一緒に戦おう、変えよう」という考え方をしたいと思ってこれを書いている。この窮屈な社会に包摂されて生きている以上、私達は性別関係なしに「根拠不明な社会通念」に服従させられた奴隷である。奴隷が鎖の重さを自慢し合って、「その程度の重さで"大変"とかwww」と言い合って、得をするのは、喜ぶのは、奴隷たちを鎖で繋いでいる側だ。それは理不尽な社会通念そのものであり、そしてその社会通念をよしとしているこの社会の構造だ。私達は同じ奴隷として、この敵に共闘して立ち向かっていくことができるはずだ。「男だって大変だぞ」「女はもっと大変だ」と言い合うことは、その敵から目をそらすことと同じだ。戦うべき相手を見誤ってはいけない。手を取り合って戦うべきなのだ。