時代遅れの名作ーーシェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』

不勉強なもので、恥ずかしながらシェイクスピア作品は今まで四大悲劇しか読んだことがなかったのですが、先日「じゃじゃ馬ならし」を読み、ちょっとかなり納得のいかない内容だったもので軽く所感などを。

簡単に粗筋を述べると、金持ちの主人の家に美しい娘が二人いて、妹のほうは非常におとなしくしとやかで、こちらのほうは求婚者が絶えないのだけれども、片や姉のほうは家庭教師に暴力を振るうわ、人目もはばからず大声で暴言を吐くなど、要するに大変なじゃじゃ馬なわけである。で、父親は、「姉のほうに結婚相手が見つかるまでは妹のほうは何人たりとも結婚させない」と言うものだから、妹目当ての求婚者は非常に弱ってしまう。そこにとある旅の男が現れ、自分は金が欲しいから、姉のほうに求婚するつもりだ、と言う。当然姉のじゃじゃ馬っぷりを知る周囲の人間は、お前にあんな女が手に負えるはずがないと言うのだが、男は、自分には策がある、と宣言し、実際に彼女をすっかり手なずけて結婚してしまう。挙句の果てに、彼女は妹や知人の夫人に「妻とはこういうものであるべきよ」と「よい妻論」を説き、かくして「じゃじゃ馬ならし」は果たされた、ということで幕が引かれる。

勿論これはあくまで大筋であって、妹への求婚者たちの奮闘ぶりなど、喜劇にふさわしいおかしみも多々あるのだが、私はこの「自由で何者にも縛られない女性が、男の手によって”男に都合のいい女”に作りかえられてしまうという筋書きに、これが400年前の作品だという事実を加味しても、納得がいかなかった。

言うまでもなく、男女は対等であるべきだ。どちらかがどちらかの所有物になってはいけない。誰かが誰かにとって都合のよい存在になると言うことはつまり、彼女、もしくは彼が自分の尊厳を手放した(手放させられた)ということだ。女性が男の策にかかり、本人の預かり知らぬところで尊厳を失わされるこの物語は、私にとって恐怖以外の何物でもなかった。

実際にこの「じゃじゃ馬ならし」は、世界中のフェミニストから批判され、イギリスの作家、バーナード・ショーも、「まともな感覚を持った男なら誰しも、すっかり馴らされてしまったカタリーナの最後のセリフを女性の観客と一緒に聞くことに困惑しない筈はない」と書き記している。

それでも、時代は、価値観は、アップデートされている。
テルマ&ルイーズ』『少女革命ウテナ』『アナと雪の女王』『マッドマックス怒りのデスロード』『茨の城』そしてその映画化である『お嬢さん』等々、「抑圧されていた女性が同性との連帯を通して自己の開放を果たし自由な世界へ歩きだしてゆく」というテーマの物語は、次々と生み出され続けているのだ。だからこそ、その対極に位置する物語であるところの「じゃじゃ馬ならし」は非常に苦い読後感の残る作品となった。

じゃじゃ馬ならし」が、劇作品としての完成度の高さはそれとして、テーマ性については、「もう古いよね、時代錯誤だよね」と言える時代になっていることを、私は心から嬉しく思います。

 

 

じゃじゃ馬ならし・空騒ぎ (新潮文庫)

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