お母ちゃんは神様です--「湯を沸かすほどの熱い愛」

映画「湯を沸かすほどの熱い愛」を観た。以下感想を。ネタバレしています。

 

 

あらすじ:宮沢りえの「紙の月」以来となる映画主演作で、自主映画「チチを撮りに」で注目された中野量太監督の商業映画デビュー作。持ち前の明るさと強さで娘を育てている双葉が、突然の余命宣告を受けてしまう。双葉は残酷な現実を受け入れ、1年前に突然家出した夫を連れ帰り休業中の銭湯を再開させることや、気が優しすぎる娘を独り立ちさせることなど、4つの「絶対にやっておくべきこと」を実行していく。会う人すべてを包みこむ優しさと強さを持つ双葉役を宮沢が、娘の安澄役を杉咲花が演じる。失踪した夫役のオダギリジョーのほか、松坂桃李篠原ゆき子駿河太郎らが脇を固める。(映画.comより引用)

 

さて、いきなりだが、このエントリをお読みのみなさん、あなたはこの映画についてどのようなイメージをお持ちだろうか。既にご覧になった方はどういった感想を抱いただろう。まだ観てないよという方は、どのような内容を想像していらっしゃるだろうか。

私はこの映画を半年ほど前に、アマゾンプライムで観た。そもそも私のメインフィールド(というか好み)はアメリカンニューシネマやマフィア・ギャング・犯罪映画だ。こういったヒューマンドラマ系はあまり観ない。だが好きなアイドルが「この映画を観て泣いた」と雑誌の近況欄に書いていたのを思い出し、ちょうど入院中でアホほど時間があったので、「評価も高いしキャストも豪華だし、たまにはこういうのもいいだろう」と思い、軽い気持ちで観始めた。

 

そう、「ヒューマンドラマ」だと思って、「軽い気持ちで」観たのだ。そうしたらこれがとんでもなかった。

気持ち悪かった。そう、本当に気持ち悪い映画だったのだ。でもただ気持ち悪いと言っても何も通じないだろう。どこがどう気持ち悪いかは、これからたっぷりと書いていく。けれどまず、結論から言わせてもらおう。これは、家族愛を描いた涙のヒューマンドラマなどでは全くない。これは、間違いなく、宗教映画だ。

 

宗教映画とはどういうことか。何が私の心に「気持ち悪い」という感情を喚起させたのか。それは現実的な良識に照らして考えればたびたびかなり「アウト」なものであるにも関わらず、宮沢りえ演じる双葉の選択・命令・行動のすべてが劇中では完全に肯定されている点である。すべてプラスに転ぶ点である。宮沢りえは常に正しく、常に良い。要するに、宮沢りえイエス・キリストなのだ。

劇中から分かりやすい例を挙げよう。学校でいじめられ、制服まで盗まれている(言葉の暴力だけに留まらず実害が出ている)娘に、しかし宮沢りえは「逃げてはいけない、立ち向かえ」と言い放つ。一般論としていじめに対しどう対処するべきか、というのはケースバイケースであるのでここでは措くとして、明らかに逃げたがっている(実際に学校を暫く休みたいと訴えている)娘に、「なんにも変わらないよ、お母ちゃんと安澄は」と言って学校に行かせると言うのは、娘の意思を尊重せず娘を守る事を放棄しているという点で明らかに毒親の行動である。だが、結局学校へ向かった娘は、失くなった制服についての情報を担任が呼びかけるHRにおいて、母の言葉を思い出し己を鼓舞し、制服の代わりに着ていたジャージを自ら脱ぎ捨て下着姿になり、制服を返してくれ、と、母の言葉の通り「立ち向かう」。そして結局制服は戻り、いじめは収束する。一見「いい話」のようだが、「学校へ行け」と言った時点での宮沢りえには自分の娘がそのような形で立ち向かうことができるかなどというのは全く判る筈もないし、さらにただいじめられて帰ってくる可能性もじゅうぶんにあった。しかし結果的に母の判断は正しかったことが証明される。娘は戻ってきた制服を着て、宮沢りえに迎えられるのだ。この恐ろしい無謬性よ!しかもこの話はそれだけでは終わらない。下着姿になった娘が着用していた下着こそ、なんと制服が盗まれるずっと前に宮沢りえが娘に「大事な時のために」と買い与えた下着(このくだり単体でも随分気持ち悪いものがある)であったのだ!完全にキリスト教で言うところの「神の御技」である。

この映画は基本的にこうした教祖性と呼んでいいレベルの母親の正しさが反復される。しかもタチが悪いのが、そうしたエピソードのひとつひとつが、気持ち悪さはそのままに、圧倒的に「観客の胸を打つ」点である。ただお母さんが死んじゃって悲しい、という安易な御涙頂戴映画ではない。あまりにも狂った価値観の元に、この、人の心を動かす映画は築かれているのだ。恐ろしいとしかいいようがない。

 

ラストシーンについて、「怖い」という感想はしばしば見つける。母親を火葬した火力で銭湯の湯を沸かし、家族がそこに「あったかいね」などと言いながら浸かる、というのは確かに普通に常軌を逸しているし怖い。だが私はそれ以前に、前述した母親のカルト性が気持ち悪くて気持ち悪くて仕方がなかったのだ。

 

さて、思い切って更に付け加えると、この映画の製作者は双葉のキャラクター造形をイエス・キリストをモデルにして練り上げたのだと、私は半ば本気で考えているのだがどうだろう。親と子の関係が幾度も反復される点は聖書にインターテクスチュアリティを見いだすことが出来るし、血縁ではない間柄のなかで魂が継承されていく物語構造は、キリスト教の歴史そのものをなぞっていると指摘できる。松坂桃李演じるバックパッカーを見返りなしに愛を持って抱きしめ、進むべき道を示す様はキリスト像そのままだ。人間ピラミッドのシーンの最後、宮沢りえが「死にたくないよ、生きたい、生きたい」とひとり慟哭する場面などは、ゲッセマネの丘で「その盃をわたしから遠ざけて下さい」と涙を流し祈祷するキリストの姿に重なって仕方がなかったし、その死によって、残された共同体の結束がより固いものとされた点も、イエス・キリストの死によって地上の人間の罪が赦されたというキリスト教の教義との類似を見るのは私だけではないだろう。

一応言っておくが、このエントリは、この映画の持つ、愛や人を想うことといった力強いメッセージをいささかも否定するものではない。「あの人の為なら何でもしようと思えるんです、多分自分がそれ以上にしてもらっていると思うから」などの台詞も、実感を伴ってしっかりと胸に届いた。ただ、それら全ての要素の根っこを掘り起こした時に、あまりに異常な価値観が顔を出す、という見方を提示しておきたいだけである。

 

さて、宮沢りえの教祖性や、この映画がいかに聖書と相似するものを持っているかは十分書いた。だが、まだ足りない。

聖書を一度でも読んだことのある方は、難しいなとか、長いなとか、でも荘厳で美しいなとか、あの画家が描いていたのはこのシーンだったのかとか、キリスト教の歴史やイベントも知らず知らずのうちに自分達の生活に根ざしているのだなとか、きっと一言では表せない、様々な感想を抱いたことと思う。そして、こうは思わなかったか。不条理だな、怖いな、と。

そう。この映画における母親もまた、怖いのである。

カフェかなにかで、娘を連れた探偵と会っているシーンを思い返してほしい。あの母親は、せいぜい数回しか会ってない探偵の髭の剃り残しを指摘し、挙句、手で、抜いた。覚えていらっしゃるだろうか。あれは一体何なのだろう。あそこを観て私はもう、あ、この人おかしい人だ、と思って青くなった。まだある。その探偵が見つけてきた夫の家に突入した際、宮沢りえオダギリジョーをおたまで殴るのだが、殴ったことで頭から流れ出た血を、彼女は、おたまで、受け止めるのだ。もう嫌だ!何なんだあの女は。何のために挿入されたシーンなのだろう?分からない。あまりに意味不明だ。あまりに不条理だ。怖い。

怖い部分はまだある。松坂桃李に対する、「反吐が出る」発言。母親の家の窓ガラスに石を投げるシーン。娘の実の母親をいきなり引っぱたく場面。この映画で宮沢りえは神のような正しさを持っている反面、こうした攻撃性を持っていることがわかる。それだけなら、別にいいのだ。攻撃性というのは誰もが持っているものだから。怖いのは、その彼女の攻撃性が、全て、子供が見てないところで出てくるところだ。子供は車で待ってたり、寝てたりしていて、母の攻撃性に気付くことはない。闇だ。怖い。

 

あとはまあ……いつ倒れるとも知れない体でよく子供乗せて運転できるな?!とか、子供の前でラブホテルの話をする松阪桃李と、全く引くことなく彼の話を笑って聞く女3人の異常さとか、色々あるのだが、もうその辺は単に脚本上の粗だろう。

 

はてさて、とにかく、様々な意味でインパクトと引きずるものがある映画だった。繰り返し言うがこれは私にとっては宗教映画なので、好きだとか嫌いだとか言う感想はそもそも私の内には成り立たない。ただ受け入れるか、遠ざけるか、それだけである。こんな気持ち悪い映画、遠ざけたいなあ、と言いたいものの、際立った異常性ゆえに結局きっちり三回観てしまった上にこんな長ったらしいレビューを書き、午後のロードショーをしっかりと録画してしまった私も、大概宮沢りえのカルト性に当てられているのかもしれない。