個人と社会の再生物語─「アマンダと僕」

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あらすじ


突然の悲劇で肉親を失った青年と少女の絆を描き、2018年・第31回東京国際映画祭で最高賞の東京グランプリと最優秀脚本賞をダブル受賞したフランス製ヒューマンドラマ。パリに暮らす24歳の青年ダヴィッドは、恋人レナと穏やかで幸せな日々を送っていたが、ある日、突然の悲劇で姉のサンドリーヌが帰らぬ人になってしまう。サンドリーヌには7歳の娘アマンダがおり、残されたアマンダの面倒をダヴィッドが見ることになる。仲良しだった姉を亡くした悲しみに加え、7歳の少女の親代わりという重荷を背負ったダヴィッド。一方の幼いアマンダも、まだ母親の死を受け入れることができずにいた。それぞれに深い悲しみを抱える2人だったが、ともに暮らしていくうちに、次第に絆が生まれていく。(映画.comより引用)

 

感想

 

喪失と再生の物語。

……と形容すればいかにも手垢が付いて安っぽいが、そう感じさせないのは、登場人物たちが絶望し、そこから立ち直ってゆく様を、非常に丁寧な手付きで描いているからか。間の取り方や演技など全編を通して計算し尽くされた作品だったが、特に丁寧だと思ったのが、アマンダの母親(主人公の姉)がアマンダや主人公と共に過ごした日々をたっぷり尺を取って映している点だ。この幸福な時代があるからこそその後の喪失が引き立つ。また、プレスリーのくだりなんて顕著だけれど、大切な人を亡くしても、その人と共有した時間は消えたりしないのだ、という一筋の優しい希望が、長尺の「平和な日常パート」によりよりくっきりと提示されている。

 

両頬へのキスを初対面の異性と交わすのがヨーロッパでの当たり前なのか私にはわからないが、とにかく劇中の彼らは盛んにスキンシップを交わす。お互いの傷を舐めて必死に癒し合う傷ついた野生動物のように。それはきっと、救済だろう。

 

悲しみというのはきっと、自然災害と同じで突然やってくるものなのだと思う。遺体に取りすがってわんわん泣くシーンなんてない。さっきまで笑っていた人が、ふとした瞬間に顔を俯せ涙を流す。劇的に状況が変わることもない。少しずつ、少しずつ、居るべき人が「居ない」生活に慣れてゆく。悲しいことだけれど。

 

アマンダの母の死因が事故でも病気でもなくテロによる銃撃事件であるというのは本当に時代に即しているし、同時に、テロリズムというのがどういうものなのかを巧みに物語のなかに入れ込んでいるなと感じた。死者の数というのはニュースでは「情報」としての数字以上の意味は持たないが、そこには一人一人の人生があり、愛する人がいるのだ。登場人物の幾人かをテロ被害者として設定することで、見落としがちなその当たり前の事実を新ためて観客に思い出させる、見事な構造が完成している。そして、テロによって破壊された日常を回復させてゆく主人公たちの姿を駄目押しのように描くことで、我々はテロに屈しないのだ、あなたがたがどんな酷い暴力で我々の心身を手折ろうとしてこようとも、何度でも立ち直るのだ、という強いメッセージをこの映画は力強く発している。

 

極めて個人的な「喪失→絶望→再生」の物語でありながら、社会的側面を持つ、これはひじょうに精密な映画であると思う。