「裏のお仕事」映画の「裏」の顔━「メランコリック」

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「メランコリック」観た。

この映画、観終わった後パンフ読んではじめて知ったのだが、低予算で作られたインディーズ作品らしく。普通にレベルが高く全然気付かなかった……。巨匠が今も傑作を生み出しているいっぽうで、こういう若い才能がどんどん出てくるのは、いち映画好きとして本当にありがたいし嬉しい。

 

東大卒だが定職につかずフリーターをしている主人公・鍋岡和彦は、たまたま訪れた銭湯・松の湯で高校時代の同級生・百合と再開する。百合の薦めで松の湯でアルバイトをすることになった和彦は、同日に面接に訪れた松本とともに仕事をはじめるが、ある夜彼は、人殺しと死体処理に使われているというこの銭湯の「裏の顔」を知ってしまう。実は「裏の仕事」要員として雇われたという松本とともに、死体処理に加担させられることになった和彦は、百合と交際も始め、裏業務にも次第に慣れていくが……。

 

銭湯で人を殺すという、思いつきそうでそれまで誰も思いつかなかったアイデアにまず舌を巻いた。個人経営ゆえに閉めたら誰かが来る心配もほとんどなく、密室で、血を洗い流すことができ、釜で死体処理もできる。音が響く空間なので、話し声や悲鳴が反響するさまは絶妙な不穏さがある。また、「裸の付き合い」という言葉があるが、まさに「裸になる」場所である銭湯で、殺人というトップシークレットを知り、協力させられ、百合や松本とも親しくなり……と、和彦はさまざまな事柄に深入りしていく。この描き方が巧い。

欲を言えば、「通常営業」の松の湯の様子をもっと丹念に映せば、よりコワさ、闇の部分が増したんではないかと思う。ついさっきまで死体が転がり血まみれだった浴場で、何も知らない客たち(それこそ百合でもいいかもしれない)が気持ち良さそうに体を洗っていたりなんかしたら、日常に潜む影をもっと印象付けられたのではないか。

 

さてこの映画、先にラストのネタばらしをしてしまうと、和彦と松本は、銭湯の経営主・東を借金をカタに脅し、和彦をも裏の仕事に引き入れようとするヤクザ・田中を殺す計画を立てる。東も承服し、和彦に一丁の拳銃を渡す。結果的に、田中だけではなく、和彦と松本を裏切った東までもを二人は殺すことに成功する。経営を引き継ぐかたちとなった和彦は、松本、百合、それから田中の元愛人であったアンジェラとともに脱衣所で酒を酌み交わし、和彦の「こんな瞬間のために生きているのだ」というようなモノローグが流れて、この作品はエンドロールを迎える。

 

ひじょうに爽やかなエンドだ。青春映画の趣すらある。だが私にはこの映画がただの「変化球な青春映画」だとはどうしても思えない。松の湯が、夜は恐ろしい殺人現場としての一面を持っていたように、この映画もまた、清々しい表の顔の裏側に、絶望がべったりと貼り付いている、そんな気がしてならないのだ。

 

和彦は人を殺した。その手で、その指で、拳銃で撃ち抜いたその相手は血を流してそれきり動かなくなった。自分や愛する人を守る為とはいえ、殺人は殺人だ。そのことが、今後の彼の人生でどんな意味を持ってくるか。警察に追われるとかヤクザに報復されるとかいう実際面だけではない。友となった松本がモロ裏社会の人間だからそのまま付き合いを続ければ絶対にいつか巻き込まれる、とかいう話でもない(もちろんその可能性はじゅうぶん存在するが)。彼の、心の、内面の問題だ。彼はもう自分のために人を殺すことを覚えてしまった。強制的に洗い場を掃除させられるだけという「一歩手前」で踏みとどまっていたはずの彼は、超えてはいけない一線を超えてしまったのだ。もう戻れない。

しかもさらに悪いことに、彼にはその自覚が全然ないときている。「コワイ奴全員殺して解放されて、大好きな人たちと一緒に過ごせるなんて最高やん、ハッピー」としか思っていないのだ。あの底抜けに明るいモノローグを聞きながら、私は怖くて仕方がなかった。和彦は、あの時自分が引いた引き金に、いつか絶対に足を掬われる。そしてその先にあるのはきっと破滅だ。

だって、映画の登場人物たちは、いつも己の業に報復されてきたではないか。個人的な趣味でヤクザ映画ばかりになってしまうが、「ゴッドファーザー」のマイケルがそうだ。「悪魔を見た」のスヒョンも、「新しき世界」のジャソンも、「スカーフェイス」のトニーも、最近の映画でいうと「ドッグマン」(これはヤクザものではない)のマルチェロだってそうだ。自分のため、組織のため、復讐のため……そうして手痛いしっぺ返しを受けてきた彼らを見てきて、和彦だけ例外だとどうして言えるだろう?

あの爽やかすぎるラストにはきっと含みがあるし、製作陣も後ろを向いてぺろりと舌を出しているんじゃないか、と思えてならない。

(ついでに、制作意図というのはいつもひとつだが、作品読解という地平では誤読というものは(意図的/無意識問わず文意の捻じ曲げは例外として)存在しないというのが持論だし、例え製作者に読みを否定されたとしても作品は独立してそこに存在し、なんらの干渉も受けないというのが私の持論である)

 

というか、さらに言えば、和彦という人間自体が、そもそもマトモじゃないんじゃないかと、私はそこから既に懐疑的なのだがどうだろう。人が目の前で殺されて、脅されて片棒担ぐ羽目になったというのに、「特別手当」をもらっただけであんなに上機嫌になって、通報するか迷いもせず、挙句、自分より多く裏の仕事をさせられている松本に嫉妬するとは、どうかしているとしか思えない。マトモじゃない男が、マトモじゃない世界に足を踏み入れて、こんな瞬間があるなんて生きてる甲斐がある、というマトモじゃない感慨を抱くという、これは相当にとんでもない映画なのではないか。

 

あとは、断片的に思ったことを書くと、

 

・小寺と松本が襲撃したヤクザや、田中のバックにいる組織を、その存在を匂わせる程度にしか描写しないことで、和彦は裏社会との間に一歩距離を取った存在として描写されているけれど、これって要するに、「カタギ」である私たち観客が、現実のヤクザとの間に置いている距離と同じなのだ。このようにラスト寸前まで徹底して「外側の人間」であった和彦の視点から描くことで、「こんなこと、近所の銭湯で本当に起こってるんじゃないか」と思わせる手腕がすごい。

 

・和彦の部屋に「ハリー・ポッター」シリーズが全巻置かれていたように記憶するが、あれはどういう意図なのだろうか。考えたけど答えは出ず。東大卒の本棚としてはかなり異物感があった。

 

・いくら動転していたとはいえ、プロの殺し屋である松本がケチャップと血を間違えるだろうか。同じく銭湯の場面が印象深い「鍵泥棒のメソッド」で、荒川良々が「殺人現場ってのは血の匂いがすごいんだ」というようなことを言っていた記憶が。

 

・これはツッコむだけ野暮だとは思うが、撃たれて血まみれの男を見てもさほど驚かず、マキロンひとつで重体状態からうどん食えるまでに即日回復させるあの母親は一体何者なんだ(笑)。元軍医か何かか?

 

このぐらいだろうか。

色々と書いてきたが、とても面白かった。たまたまぽっかり空いた時間にちょうど上映していたので急遽観に行った映画だが、観てよかった。パンフレットも情報量が多く、楽しめた。「映画製作ユニット One Goose」の今後の活躍に期待してやまない。