「裏のお仕事」映画の「裏」の顔━「メランコリック」
「メランコリック」観た。
この映画、観終わった後パンフ読んではじめて知ったのだが、低予算で作られたインディーズ作品らしく。普通にレベルが高く全然気付かなかった……。巨匠が今も傑作を生み出しているいっぽうで、こういう若い才能がどんどん出てくるのは、いち映画好きとして本当にありがたいし嬉しい。
東大卒だが定職につかずフリーターをしている主人公・鍋岡和彦は、たまたま訪れた銭湯・松の湯で高校時代の同級生・百合と再開する。百合の薦めで松の湯でアルバイトをすることになった和彦は、同日に面接に訪れた松本とともに仕事をはじめるが、ある夜彼は、人殺しと死体処理に使われているというこの銭湯の「裏の顔」を知ってしまう。実は「裏の仕事」要員として雇われたという松本とともに、死体処理に加担させられることになった和彦は、百合と交際も始め、裏業務にも次第に慣れていくが……。
銭湯で人を殺すという、思いつきそうでそれまで誰も思いつかなかったアイデアにまず舌を巻いた。個人経営ゆえに閉めたら誰かが来る心配もほとんどなく、密室で、血を洗い流すことができ、釜で死体処理もできる。音が響く空間なので、話し声や悲鳴が反響するさまは絶妙な不穏さがある。また、「裸の付き合い」という言葉があるが、まさに「裸になる」場所である銭湯で、殺人というトップシークレットを知り、協力させられ、百合や松本とも親しくなり……と、和彦はさまざまな事柄に深入りしていく。この描き方が巧い。
欲を言えば、「通常営業」の松の湯の様子をもっと丹念に映せば、よりコワさ、闇の部分が増したんではないかと思う。ついさっきまで死体が転がり血まみれだった浴場で、何も知らない客たち(それこそ百合でもいいかもしれない)が気持ち良さそうに体を洗っていたりなんかしたら、日常に潜む影をもっと印象付けられたのではないか。
さてこの映画、先にラストのネタばらしをしてしまうと、和彦と松本は、銭湯の経営主・東を借金をカタに脅し、和彦をも裏の仕事に引き入れようとするヤクザ・田中を殺す計画を立てる。東も承服し、和彦に一丁の拳銃を渡す。結果的に、田中だけではなく、和彦と松本を裏切った東までもを二人は殺すことに成功する。経営を引き継ぐかたちとなった和彦は、松本、百合、それから田中の元愛人であったアンジェラとともに脱衣所で酒を酌み交わし、和彦の「こんな瞬間のために生きているのだ」というようなモノローグが流れて、この作品はエンドロールを迎える。
ひじょうに爽やかなエンドだ。青春映画の趣すらある。だが私にはこの映画がただの「変化球な青春映画」だとはどうしても思えない。松の湯が、夜は恐ろしい殺人現場としての一面を持っていたように、この映画もまた、清々しい表の顔の裏側に、絶望がべったりと貼り付いている、そんな気がしてならないのだ。
和彦は人を殺した。その手で、その指で、拳銃で撃ち抜いたその相手は血を流してそれきり動かなくなった。自分や愛する人を守る為とはいえ、殺人は殺人だ。そのことが、今後の彼の人生でどんな意味を持ってくるか。警察に追われるとかヤクザに報復されるとかいう実際面だけではない。友となった松本がモロ裏社会の人間だからそのまま付き合いを続ければ絶対にいつか巻き込まれる、とかいう話でもない(もちろんその可能性はじゅうぶん存在するが)。彼の、心の、内面の問題だ。彼はもう自分のために人を殺すことを覚えてしまった。強制的に洗い場を掃除させられるだけという「一歩手前」で踏みとどまっていたはずの彼は、超えてはいけない一線を超えてしまったのだ。もう戻れない。
しかもさらに悪いことに、彼にはその自覚が全然ないときている。「コワイ奴全員殺して解放されて、大好きな人たちと一緒に過ごせるなんて最高やん、ハッピー」としか思っていないのだ。あの底抜けに明るいモノローグを聞きながら、私は怖くて仕方がなかった。和彦は、あの時自分が引いた引き金に、いつか絶対に足を掬われる。そしてその先にあるのはきっと破滅だ。
だって、映画の登場人物たちは、いつも己の業に報復されてきたではないか。個人的な趣味でヤクザ映画ばかりになってしまうが、「ゴッドファーザー」のマイケルがそうだ。「悪魔を見た」のスヒョンも、「新しき世界」のジャソンも、「スカーフェイス」のトニーも、最近の映画でいうと「ドッグマン」(これはヤクザものではない)のマルチェロだってそうだ。自分のため、組織のため、復讐のため……そうして手痛いしっぺ返しを受けてきた彼らを見てきて、和彦だけ例外だとどうして言えるだろう?
あの爽やかすぎるラストにはきっと含みがあるし、製作陣も後ろを向いてぺろりと舌を出しているんじゃないか、と思えてならない。
(ついでに、制作意図というのはいつもひとつだが、作品読解という地平では誤読というものは(意図的/無意識問わず文意の捻じ曲げは例外として)存在しないというのが持論だし、例え製作者に読みを否定されたとしても作品は独立してそこに存在し、なんらの干渉も受けないというのが私の持論である)
というか、さらに言えば、和彦という人間自体が、そもそもマトモじゃないんじゃないかと、私はそこから既に懐疑的なのだがどうだろう。人が目の前で殺されて、脅されて片棒担ぐ羽目になったというのに、「特別手当」をもらっただけであんなに上機嫌になって、通報するか迷いもせず、挙句、自分より多く裏の仕事をさせられている松本に嫉妬するとは、どうかしているとしか思えない。マトモじゃない男が、マトモじゃない世界に足を踏み入れて、こんな瞬間があるなんて生きてる甲斐がある、というマトモじゃない感慨を抱くという、これは相当にとんでもない映画なのではないか。
あとは、断片的に思ったことを書くと、
・小寺と松本が襲撃したヤクザや、田中のバックにいる組織を、その存在を匂わせる程度にしか描写しないことで、和彦は裏社会との間に一歩距離を取った存在として描写されているけれど、これって要するに、「カタギ」である私たち観客が、現実のヤクザとの間に置いている距離と同じなのだ。このようにラスト寸前まで徹底して「外側の人間」であった和彦の視点から描くことで、「こんなこと、近所の銭湯で本当に起こってるんじゃないか」と思わせる手腕がすごい。
・和彦の部屋に「ハリー・ポッター」シリーズが全巻置かれていたように記憶するが、あれはどういう意図なのだろうか。考えたけど答えは出ず。東大卒の本棚としてはかなり異物感があった。
・いくら動転していたとはいえ、プロの殺し屋である松本がケチャップと血を間違えるだろうか。同じく銭湯の場面が印象深い「鍵泥棒のメソッド」で、荒川良々が「殺人現場ってのは血の匂いがすごいんだ」というようなことを言っていた記憶が。
・これはツッコむだけ野暮だとは思うが、撃たれて血まみれの男を見てもさほど驚かず、マキロンひとつで重体状態からうどん食えるまでに即日回復させるあの母親は一体何者なんだ(笑)。元軍医か何かか?
このぐらいだろうか。
色々と書いてきたが、とても面白かった。たまたまぽっかり空いた時間にちょうど上映していたので急遽観に行った映画だが、観てよかった。パンフレットも情報量が多く、楽しめた。「映画製作ユニット One Goose」の今後の活躍に期待してやまない。
不可逆の青春─「葬式の名人」
映画に限らず、フィクションならだいたい何でもそうなのだが、アクションだのサスペンスだのと数多あるジャンルのなかで、「青春モノ」というのは受け手からの愛され方という点で群を抜いて強い。青春時代というのは誰もが通過してきた地点であるから共感を誘うし、登場人物たちが恋や部活に励む姿はそれだけで単純に清々しい。今年国内で公開された映画の中だけでも、一体いくつもの割合を青春映画が占めるだろう。映画館の予告で知る範囲だけでも、あまりに多いので観る前から食傷気味になってしまうぐらいだ。
そんな青春映画覇権状態の日本映画界にあって、しかしここでアンチ・青春映画、言い方が悪ければ脱・青春映画とも呼べる作品が登場した。前田敦子と高良健吾を主役に据え、樋口尚文監督がメガホンを取った、「葬式の名人」である。
本作は、川端康成のいくつかの短編をベースにし、大阪府茨木市の市政70周年の記念事業として制作された。前田敦子演じるシングルマザーの雪子は、高校時代の同級生・吉田創(白洲迅)の訃報を受けて、旧友と再開する。そのなかには、吉田と野球部でバッテリーを組んでいた豊川(高良健吾)の姿もあった。吉田をもう一度、母校に連れて行ってやりたいという豊川の提案で、集まった同級生たちは棺桶をかつぎ街を練り歩き、懐かしき学生時代の思い出話に花を咲かせる。
……とここまで書けば、手垢のついた青春モノにどっぷり浸かった我々は、まるで高校時代に戻ったようにはしゃぐ登場人物たちの姿を思い浮かべるだろう。実際、何らかの事件やアクシデントにより集まった大人たちが、いつしか少年少女のように心を通わせていくという展開は、青春モノの変化球として常套だ。それはそれで良いものなのだが、しかし本作は違う。
思い出にひたる彼らの姿は、どこから見ても大人だ。大人だけの嗜好物であるお酒で盛り上がり、「棺に入ると体が若返る」といいながらかわりばんこに棺の中に体を沈めて行ったりする。それらはどこまでも「大人であるからこそ」の行為で、そこに少年少女の面影はない。
また、思い出話に賑わう場面こそあるものの、それらはひじょうに断片的であるし、回想シーンに至ってはほとんど無いと言っていい。どしゃ降りで視界も悪い雨の中を歩く雪子らがフラッシュバックのように挿入されるだけだ。彼らを再会させたこの映画のキーパーソンである吉田の存在感もどこか希薄である。まるで「ゴドーを待ちながら」あらため「吉田を待ちながら」とでも言わんばかりに、彼不在のまま話は進む。
さて、このどこか浮遊感のあるこの映画は、終盤にさしかかる頃、突如ファンタジー世界へと突入する。吉田と川の字に昼寝した雪子と豊川は、目覚めると白く発光する見知らぬ女(有馬稲子)がこちらを見つめていることに気づくのである。女は言う。「自分は夢を見せるのではない、夢を“消す”のである」と。
言わずもがな、青春とは言い換えれば「夢を見ている」状態である。自分の将来に、幸福に、根拠なき自信に。大人になるということは、そういう夢を一つ一つ心から引っぺがして、客観的に現実を見定めていく行為と同義だ。そうしてすっかり大人になった雪子と豊川に、女は駄目押しのように「夢を“消す”のだ」と述べる。
そして女はおもむろに己の右腕を外し、二人に渡す。それを遺体となって横たわる吉田の右手にかざすようにすると、高校時代痛めたはずの吉田の右腕は復活する。夜のグラウンドで、雪子との子供である、あきお(阿比留照太)とキャッチボールをする吉田。ここで彼は二人と会話を交わすのだが、このやりとりはどこか淡白で味気ない。実を言うと謎の女が出てくるくだりからの展開は雪子の夢の中の出来事なのだが、自由であるはずの夢の中でも雪子が吉田と何らかの甘い関わりを持つことはない。かつて吉田と恋仲で子供までもうけたはずの雪子は、ひとりの息子を持つ大人として、不可逆の喪失を痛いほど知っているのだ。
そう。この映画の中で、いくつも例を挙げたように、青春というのは不可逆だ。そして高校時代から十年の月日が経ち、大人となった登場人物たちは、既にそれを喪失している。そして二度とその時代に帰ることはできない。馴染んだ校舎は建て替えられ、思い出の木も切られてしまった。時間はするすると彼らの上を通り過ぎて、気がつけば十年が経っていた。
この映画は青春の不可逆性をこれでもかと強調する。「あんな夏はもうないな」。雪子は呟く。時に笑い、時に泣きながら、彼ら、彼女たちは、もう戻れない過去と一緒に、旧友を供養して、それから、それぞれに前を向く。青春を脱却したひとりの自立した人間として。人はそうして生きてゆくものなのだから。
父と母と息子の物語と、ミクロな視点からの平和主義─「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」
huluで「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」を観た。以下感想を。
主人公の少年・オスカーは、アスペルガー症候群の疑いがあり、コミュニケーションが苦手だ。そんな息子のために父が作ったのが、「調査探検」という遊び。「ニューヨークには、かつて第六区があった」という父親のなぞかけを、オスカーは父が死んでもなお追いかける。亡くなった父親は、誰がどう頑張ろうと決して戻ってこない。生前父が語った、どんなに人々が必死に繋ぎとめようとも無念にも流れていった幻の第六区のように。それでも父親との絆を追いかけるように、オスカーはニューヨークじゅうを歩き回り、さまざまな交流をする。
その描写を通して、父親の死や、父が留守電や新聞の切り抜きに残したメッセージ、そして残された家族はそれぞれ何を思っていたのかを、定期的に挟み込まれる回想シーンとともに薄皮を剥くように観客に提示し、彼らの深い心の傷を少しずつ露わにする。辛い構成だが、心底真摯でもある。
さて、この物語にはどんでん返しが用意されている。鍵や調査探検の全てを秘密にし、ぶつかってばかりいた母親が、実はオスカーが訪ねる家々に先回りし、探検の協力を頼んでいたのだ。この事実が明らかにされた瞬間、この映画は「父と息子の物語」から「母と息子の物語」へと鮮やかな変貌を遂げる。父との絆は大切だが、その影をいつまでも追っていては過去にしがみつくことになる。父の思い出は大切にしつつ、これから共に過ごしてゆく母親との結び付きを深めてこそ、前を向くということだ。父が用意した探検を、母親が影でサポートしつつ、ニューヨークじゅうの「ブラック」が協力する。数え切れない程の人々の助けによって、9.11で父親を失った少年が成長し、立ち直ってゆく。このきわめて優しい世界を描くことで、テロリズムに屈しないという強いメッセージを、深い愛をもって発している。
さて、この「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」というタイトルは、いったい何を意味しているのだろう。いろいろ考えたが、9.11で犠牲になった人、そしてその遺族、すべての人と、「第三者」である私たちの、「そうあるべき距離」を表しているのではないかと思う。本当に痛ましい事件だ。多くの人が哀しみに暮れている、当時も、きっと今も。大切な人を喪失した傷は滅多な事では癒えない。彼らの悲痛な声を聞くのは、その辛さ故「うるさく」感じるかもしれない。だが目を逸すのは間違いだ。「近い」出来事として、寄り添い、また当事者意識を持たなくてはいけない。私は原作未読なので何を言っても片手落ちというか、誤読している部分も多々あるのだろうが、「ものすごくうるさくて」も、「ありえないほど近い」関わりを持ってくれ、忘れないでくれ、ともに立ち上がってくれ。そういうメッセージが、このタイトルの表すことなのではないだろうか。
たいへん胸を打ち、また、タイトルの難解さも含めて、まことに精緻に創り上げられた作品だった。私事だが、あらためて当時の状況やテロリズムについて勉強する機会にもなった。観てよかったです。
テーマやストーリーに非常に似通ったもののある「アマンダと僕」も是非。
薄味だが、決めるところは決めている─「引っ越し大名!」
「引っ越し大名!」を観てきた。以下感想を。
キャラクターの魅力も申し分なく、笑いどころも多々あり、及第点ではあるのだが、まず引っ越しするまでが長い長い。物を捨てたり借金したり人員削減したりと、色々やってはいるのだが、場面が変わらず絵的に地味なシーンがかなり続く。土橋章宏原作の映画作品というと「超高速!参勤交代」が記憶に新しいが、とりあえず移動しながら即興で策を練り、苦境を切り抜けていく様にドキドキさせられた「超高速〜」と比較すると本作はやはりあっさりした印象が否めない。
また、荷物を減らすべく書物の殆どを燃やすシーンがある。書庫番である主人公は何日も寝ずに本の内容を全て暗記するのだが、その知識が活かされるシーンが少ない。昔引っ越し奉行であった高畑充希の父の残した覚書のほうがよっぽど活躍する。折角だから伏線としてもっと魅せて欲しかった。
しかしやはり土橋章宏原作、人情要素がしっかりと配されており問答無用で満足感がある。様々な描写から主人公の情の深さ、折り目正しさが伝わってきたし、百姓の道を選んだ武士との会話や、15年の歳月の間で亡くなった同胞と共に陸奥へ至るシーンなど、締める所もきちんと締める。ここは本当に良かった。
星野源や高橋一生の好演もさることながら、高畑充希が本当に良い。彼女の演技はわりと目にする機会があるが、役によって全く違う顔を次々と見せる。今回も、目的のために女の武器も振りまいてみせるしたたかさがありながらも根が情に熱い女性を見事に演じていた。
楽しかったです。
被支配者の業─「ドッグマン」
あらすじ
「ゴモラ」などで知られるイタリアの鬼才マッテオ・ガローネ監督が、1980年代にイタリアで起こった実在の殺人事件をモチーフに描いた不条理ドラマ。イタリアのさびれた海辺の町。娘と犬を愛する温厚で小心者の男マルチェロは、「ドッグマン」という犬のトリミングサロンを経営している。気のおけない仲間たちと食事やサッカーを楽しむマルチェロだったが、その一方で暴力的な友人シモーネに利用され、従属的な関係から抜け出せずにいた。そんなある日、シモーネから持ちかけられた儲け話を断りきれず片棒を担ぐ羽目になったマルチェロは、その代償として仲間たちの信用とサロンの顧客を失ってしまう。娘とも自由に会えなくなったマルチェロは、平穏だった日常を取り戻すべくある行動に出る。
感想
私はとにかく「業の物語」が好きなんですが、本作もまさにそういう話で最高でしたね。
マルチェロがシモーネに支配され続けていたのは、何も彼が弱いからというだけではなく、困った顔をしつつもさしたる抵抗せず何だかんだそれを良しとしていたから。終盤、マルチェロは復讐に身を投じていくわけだが、ラストのロングカットでの彼の表情が示す通り、その反社会的行為で確実に彼は様々なものを失うわけで、それは実のところ、長年の被支配を良しとしてきた彼自身のツケを払っただけとの解釈も十分に可能だし、実際そうであると思う。シモーネの横暴を野放しにし、実質加担していたという罪こそ、前述した「マルチェロの業」なのだ。
人物描写や人間関係の書き込みもしっかりしている。2人のやりとりを見ながら割と早い段階で観客は「この関係はきっと何十年も前から続いてきたのだろう」と気づくし、マルチェロもちゃっかりクスリの恩恵に預るなど、2人を善/悪の単純な二項対立で描く事を回避しているゆえに同情の余地を作らせないのも巧いなと。
表面だけなぞると復讐譚だが、これはひとりの男が自分が撒いた種を拾ってゆく、徹頭徹尾「業」を描き切った自業自得の無常感漂う120分で、大満足でした。
個人と社会の再生物語─「アマンダと僕」
あらすじ
突然の悲劇で肉親を失った青年と少女の絆を描き、2018年・第31回東京国際映画祭で最高賞の東京グランプリと最優秀脚本賞をダブル受賞したフランス製ヒューマンドラマ。パリに暮らす24歳の青年ダヴィッドは、恋人レナと穏やかで幸せな日々を送っていたが、ある日、突然の悲劇で姉のサンドリーヌが帰らぬ人になってしまう。サンドリーヌには7歳の娘アマンダがおり、残されたアマンダの面倒をダヴィッドが見ることになる。仲良しだった姉を亡くした悲しみに加え、7歳の少女の親代わりという重荷を背負ったダヴィッド。一方の幼いアマンダも、まだ母親の死を受け入れることができずにいた。それぞれに深い悲しみを抱える2人だったが、ともに暮らしていくうちに、次第に絆が生まれていく。(映画.comより引用)
感想
喪失と再生の物語。
……と形容すればいかにも手垢が付いて安っぽいが、そう感じさせないのは、登場人物たちが絶望し、そこから立ち直ってゆく様を、非常に丁寧な手付きで描いているからか。間の取り方や演技など全編を通して計算し尽くされた作品だったが、特に丁寧だと思ったのが、アマンダの母親(主人公の姉)がアマンダや主人公と共に過ごした日々をたっぷり尺を取って映している点だ。この幸福な時代があるからこそその後の喪失が引き立つ。また、プレスリーのくだりなんて顕著だけれど、大切な人を亡くしても、その人と共有した時間は消えたりしないのだ、という一筋の優しい希望が、長尺の「平和な日常パート」によりよりくっきりと提示されている。
両頬へのキスを初対面の異性と交わすのがヨーロッパでの当たり前なのか私にはわからないが、とにかく劇中の彼らは盛んにスキンシップを交わす。お互いの傷を舐めて必死に癒し合う傷ついた野生動物のように。それはきっと、救済だろう。
悲しみというのはきっと、自然災害と同じで突然やってくるものなのだと思う。遺体に取りすがってわんわん泣くシーンなんてない。さっきまで笑っていた人が、ふとした瞬間に顔を俯せ涙を流す。劇的に状況が変わることもない。少しずつ、少しずつ、居るべき人が「居ない」生活に慣れてゆく。悲しいことだけれど。
アマンダの母の死因が事故でも病気でもなくテロによる銃撃事件であるというのは本当に時代に即しているし、同時に、テロリズムというのがどういうものなのかを巧みに物語のなかに入れ込んでいるなと感じた。死者の数というのはニュースでは「情報」としての数字以上の意味は持たないが、そこには一人一人の人生があり、愛する人がいるのだ。登場人物の幾人かをテロ被害者として設定することで、見落としがちなその当たり前の事実を新ためて観客に思い出させる、見事な構造が完成している。そして、テロによって破壊された日常を回復させてゆく主人公たちの姿を駄目押しのように描くことで、我々はテロに屈しないのだ、あなたがたがどんな酷い暴力で我々の心身を手折ろうとしてこようとも、何度でも立ち直るのだ、という強いメッセージをこの映画は力強く発している。
極めて個人的な「喪失→絶望→再生」の物語でありながら、社会的側面を持つ、これはひじょうに精密な映画であると思う。
2019年上半期映画観賞総括
やたらと漢字の多いタイトルになってしまった。
2019年前半戦が終わりましたね。時間が進むのが早すぎて目眩がします。個人的にこの半年は色々と変化だったり挑戦だったり、うまくいったり失敗したりとめまぐるしかったのですが、楽しいことばかりではない日々に彩りを与えてくれたのはやはり、映画に他なりません。
というわけで2019年上半期。観た映画の中で特に心に残っているものを20本、新旧問わずリストアップ。
ついでに各作品について、自分のFilmarksレビューを引用しつつ簡単にコメントを。
観た日付が古い順です。
時計じかけのオレンジ
とにかく画のスタイリッシュさにまず一発どかんと殴られた作品。ゴッドファーザーとはまた別のベクトルで、映像がパラノイアと呼んで差し支えないレベルで作り込まれていると感じました。鑑賞にあたって、原作をまず読んだのですが、原作にはあのミルクバーの女体を模した椅子もアレックス一味のファッションもアレックスの家の美術もなにも描写がないんですよね。原作は一級品ではあるものの、ディストピア小説であり、それ以上でも以下でもないんです。
そこをキューブリックは、あそこまで芸術性の高い映像を出力してみせた。もう、脳内どうなってんの? ってレベルですよね。驚嘆しかない。
しかも、ただ「スタイリッシュ!カッコいい!」と思わせるだけのための芸術性じゃないのがこの作品のカギでありさらに凄いところで。この映画って、美術も音楽も演出も先鋭的に磨き上げられてるんですけど、内容はひたすら「人間の暴力性」について描いてるわけです。だから、洗練された美術にハイになりながら観ていくんですけど、その内誰もがある時ハッとするんです。「え? 私、今、“暴力”を美しいと思い崇めた?」と。思いっきりカッコいい映画を興奮しながら観ていたら、冷水を浴びせられたような衝撃でもって己のなかの暴力性に気付くんです。気づかせてくるんです。もう、こんな恐ろしい映画あるか? と。視覚的快楽を提供するために組み込まれた上っ面の芸術性じゃない。秩序だとか、道徳心、正義感、そういうものを薄皮をむくように一枚一枚丁寧に引っぺがしていったあと、最後に顔を出すのが、自覚さえしていなかった己の暴力性なんです。その「気づき」を促し、支えるためにこそあの美しさは存在するんです。
とかなんとか偉そうに語ったんですが、ハイ、まあ、ほんと、ハイになりましたねー……。GUのコラボTシャツ、通販サイトで秒で買っちゃったし。いつかハロウィンにアレックスのコスプレしようと思ってるし。ドラッグストアのコスメコーナー行くたびに、下睫毛用のつけま探してるし。これはもうほんと、自分にとって生涯印象的な映画であり続ける気がします。
スカーフェイス
トップまでのし上がった瞬間から既に落ちぶれまくっているギャングを怪演してるパチーノの俳優としての円熟ぶりにクラクラ来ます。私はとにかくゴッドファーザーシリーズが大好きなので、時計じかけのオレンジに続きまたもや引き合いに出しますが、同じ闇社会の人間を演じていても、ゴッドファーザーのそれとは時代も目的も全く違う。
シチリアから逃げるために移民としてアメリカへ渡ってきて、社会で生き延びる為の手段として権力を手にし、麻薬の売買には一生関わろうとしなかったヴィト・コルレオーネや、父親から受け継いだファミリー業を完遂する為に冷酷さと禁欲を己に強いたマイケル・コルレオーネに対し、この映画の主人公・トニーの目的はどこまでも金と女とヤク、つまり己の欲望のみに忠実に動く。トニーの部屋の絢爛豪華ぶりやしょっちゅうヤク吸ってる姿からもそれは一目瞭然。だから部下や友人は付いてこないし、女は離れていくし、最後は殺されるし。マイケルやヴィトも勿論良い暮らしはしてるんだけど、己の身の丈にあった生活を選んだら自然とそうなったのであろう彼らと違って、トニーはとにかく金のために行動し、そうして入ってきた金で武装する。ガンガン殺人犯すのも、冷酷でクレバーだからではなくて、単に沸点低くて自分の邪魔になる人間に我慢できないだけ。無駄に装飾された椅子に座って、絢爛豪華な調度品が置かれた机の上のヤク吸いながらパイプふかす彼の姿は、痛々しいと言っても良いほどに力と金とに溺れている。こういうトニーの性格というかある種の脆さが、話が進むごとに露呈していく作りが堪らないです。
なんであそこまで妹に清廉性を求めるのかなーと疑問だったんですが、もしかしてあの妹は映画の機能的にはかつて純粋であったトニーの魂のアレゴリーで、決して侵すことのできない、侵しちゃならない己の聖域としての象徴なのかな、と。だからジーナが死んだ(=マトモな人間性を永遠に失った)あと、トニーは鬼神になるしかなかったし、その先にあるのは破滅だった。血で汚されていくプールに浮かんだトニーの姿を映したあとの「世界はあなたのもの」はめっちゃくちゃ皮肉が効いてて大好きでした。
湯を沸かすほどの熱い愛
怖すぎて単独エントリを書き、ついでにAmazonのレビューにも同じ文章を投下したら気がついたらトップレビューに来てて申し訳ないやら申し訳ないやら申し訳ないやら。絶対これ中野量太監督に認知されてるだろ。という冗談はさておいて、本当に恐ろしい映画でした。好きか嫌いかで言ったら大嫌いだけど、良くも悪くも鮮烈な衝撃を与えてくれた作品です。詳細はエントリ読んでください。
これが衝撃的すぎて過去作をわざわざ取り寄せて観たりもしました。本作では宮沢りえ演じる母親が娘にブラジャーを買ってくるシーンがあるのですが、監督の過去作「チチを撮りに」でも母娘間でブラジャーがどうのというやり取りがあるんですよね……。中野監督には男兄弟しか居ないようですが、一体母と年頃の娘のコミュニケーションをどういうものと誤解しているのか? とても興味深いですね。
今年公開された「長いお別れ」も、どうしてもはやく観たくて(怖いもの見たさ)、あらゆる手段で試写会に応募し無事当選し観に行ったのですが、これは原作モノだからという意識が監督の中にあるのか、全然普通の無難な映画で残念でした。この監督は絶対自分で自分の好きなものを好きなように撮るべき作家だと思う。「お兄チャンは戦場に行った!?」とか変態値カンストしてたもん。次作に期待。
鍵泥棒のメソッド
とにかく楽しく観れたのを覚えています。堺雅人と香川照之って、ゴールデンスランバー然り半沢直樹然り本作然り、がっつり絡むことが多いですね。お二方とも演技が繊細かつとても勢いがあって好き。こういう真っ直ぐな娯楽作ってどうしても軽く見られがちだけれど、「あー面白かった」で席を立てる映画って素晴らしいし、何気に制作に一番技術が求められるジャンルではないかと。重いテーマやメッセージ性を持たないゆえに、よっぽど脚本や演出が巧くないと観客をラストシーンまで連れていけないと思うので。人に薦めやすいのもこうした映画の良いところですね。
マッドマックス
単純明快なストーリーと疾走感のある画面が好きです。妻子が殺されるシーンは胸糞ですが、妻もオバちゃんも気丈な強い女性で好感が持てました。私は運転免許すら持っていませんが、車の運転って気持ちいいだろうなーと。こうして改めて振り返ってみるとこの作品を語るだけの言葉を自分が多く持っていないことに驚いたのですが、それでも85本の中の20本に確実に入るんですよね。波長が合うのだろうか? 理屈じゃなく好きな作品って貴重だと思うし、大切にしていきたいです。
マッドマックス2
ガソリンや弾が貴重だ、っていう設定を、登場人物に逐一台詞で説明させるのではなく、キャラクターが矢や銛を使ってたり、弾をスーツケースに大事にしまわせたり、溢れるガソリンを容器で受け止めることで集めていたりといった、あくまで「映像」による「描写」で説明する姿勢が観客に対して誠実だなと感じました。観客を信頼しているというか。FRもそうだったが、あの姿勢はここから継承されているのだなと感慨が。
乾いた大地での派手かつ容赦無い命のやり取りのなかであのオルゴールが唯一のイノセントな部分というか清涼剤の役目を果たしていて、ただの暴力映画に留まっていないのも好き。マックスとあの子供の心の交流、戦場で互いを信じる、ある種ピュアな精神性みたいなもののアレゴリーなのだろうか?
こうして1と2を観ていくと(サンダードームは諸事情により未だ観れていませんが)、FRの「行って帰るだけ」という単純なストーリー構造は1から、世界観や車のデザイン、キャラクターのビジュアルは2からそれぞれ受け継がれたものなのだなと気付きます。作品単体でも面白いけれど、こうして流れに沿って観て行くとまた面白いですね。
遊星からの物体X
私はふだんミステリを中心に本を読みます。いきなり何の話かと思われるでしょうが、少々我慢して読み進めてください。ミステリには「クローズド・サークル」と呼ばれるジャンルがあります。これは日本では吹雪の山荘などと呼称されますが、要するに外部との接触が一切断たれた状態で、閉ざされた空間のなかで一人また一人と惨劇が起きる、でも誰も逃げられない、そして誰も信じられない……というシチュエーションを描いたもので、アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」「オリエント急行の殺人」や、有栖川有栖の江神シリーズ、綾辻行人の「館シリーズ」などが代表的です。
さて、何を言いたいかというと、この「遊星からの物体X」は、まさしくSF &ホラー版クローズド・サークルである、ということです。
登場人物たちが次第に疑心暗鬼に取り憑かれていく様とか、ヒステリー起こす奴が出てきたり、犯人探しならぬ「エイリアン探し」を皆で始めたり、登場人物が不用意に一人で行動しはじめたりと、もう私が今まで散々読んできたクローズド・サークルミステリそのまま(ミステリ好きさんは思わずニヤニヤしちゃいますよね)。外部と通信がつかなかったり、何者かの手によってヘリコプターが壊されて脱出不可能になったりするところも既視感バリバリ(ちなみにミステリだと車のタイヤがパンクさせられたりしている)。クローズド・サークルものは場面が変化せず地味なのでほとんど映像化されないのだが(本格嫌いの層の厚さもあるだろう)、SF、それもエイリアンものとくりゃあ絵になりますよね。ひたすら楽しかった。
音楽とかカメラワークの演出も塩梅が絶妙で、観客の恐怖感やハラハラドキドキをこりゃまた煽る煽る。血液採取してエイリアンかどうか順番に調べるとこなんかも、思わず息を詰めて見入ってしまった。二転三転するプロットといい単純明快かつ必然性のある設定といいとにかく観客の心を掴みつつ転がせまくる手腕が絶妙であった。エイリアンのグロテスクな見た目に拒絶反応を覚える観客もいるだろうけれど、こうまで面白きゃそれでもスクリーンから目が離せないんじゃないかなと。
怖さやハラハラドキドキだけじゃなく、疑心暗鬼に取り憑かれる人間心理の描き方も巧い。登場人物がみんな違った反応、違った考え方で動いていて、キャラクターを単なる駒ではなくちゃんと生きた人間として創り上げてシュミレートした上で対立や協力関係を設定したのだろうな、と感じた。ただキャラクターにギャーギャー逃げ惑わせるだけのホラーは多いが、この作品は使える設定全て使って一つでも多い側面から観客を楽しませようという気概が伝わってくる。ラストのやりきった絶望感も最高。グロいので体力精神力のある時に限りますが、近いうちまた観直したいですね。それにしてもあの時代にあのエイリアンをどうやって撮ったのだろう? メイキング映像とかないだろうか。
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世間では割と、いやかなり酷評されてますが、私はこっちの方が好き。
実はパシリム無印、そこまで好きじゃないんです。いや嫌いでは全くないけれど、別にふつう。テレビでついてたらまあスマホ片手に見るかな、程度。それというのも、イエーガーと怪獣の戦闘シーンが単純に暗くて観づらいうえに、怪獣と格闘するイエーガーと操縦する人間とを交互に映さなくてはならないため、テンポが少々かったるいんですよね。あの重厚さがいいんじゃないか! と言われればそりゃそうなんですけど、でも私の好みではない。
そこへいくとアップライジングは、ストーリーはかなり滅茶苦茶だけど、戦闘シーンが気持ちいいんです。まず何より、白昼のなか戦いが繰り広げられるので、観やすい。戦いもアクションがスカッとしている。私は単純な人間なので、軽快にパンチやキックを繰り出し、縦横無尽に街の中を駆けていくイエーガーに、より魅力を見出しました。
あと個人的にすごく良いなと思ったのは、主人公の青年が黒人であること。私が洋画を観ていて常々憂いているのは、「黒人であるという必要性なしに黒人が主役級で出てくる映画があまりにも少ない」ってことで。昨年末から今年、「グリーンブック」「ブラック・クランズマン」「ビールストリートの恋人たち」など黒人キャラクターが主役を張る映画が多く公開されていますが、全部「黒人だから」という理由で黒人が起用され描かれているんですよね。勿論長い歴史の中で黒人が差別され虐げられてきた事実に向き合った映画が作られること自体は素晴らしいし、作るべきだとは思うんですけど、それは重々承知した上で、「別に、なんの理由もなく、“たまたま”黒人が主役でもいいじゃん」と思うんです。白人は、なんの理由もなく主役を張っているのに。
そこへいくと本作は、無印から十年後ということで、どんなポジションのどんなキャラでも主役にできたところを、サラッと黒人を据えている。作中で人種問題を重く描くこともせず、普通に主人公として活躍させている。世の中には色々な肌の色の人がいて、色々な国にルーツを持つ人がいて、それを「当たり前のこと」とフラットな視点で捉えているからこそできたことなんじゃないかと思います。
あとこれは本当に蛇足なのですが、怪獣オタクの科学者・ニュートを演じるチャーリー・デイに一目惚れしてしまいまして、彼の出演作観れるのは全部観ました。ドラマ「フィラデルフィアは今日も晴れ」、日本でも配信してほしい。とりあえずレゴムービー2のソフト化を待ちます。
スクールオブロック
自堕落な(元)バンドマンが、ひょんなことから学校教師になりすまし、「お勉強」ばかりの覇気のない子供達にロックを伝授する話。
もうロック好きとしては堪らないですよね、この時点で。最高でした。楽曲使用にうるさいLed Zeppelinが、主演・ジャックブラックによる「嘆願ビデオ」のお陰か、「移民の歌」の使用をオッケーしたというエピソードも含めて、愛おしい作品。私もあんな授業受けたい。
ただこの映画、ひとつだけ許せないところがあって。コンテストに優勝したバンドに対して、ジャックブラック演じるデューイは、「あんなのは“ニセモノ”だ!」と子供達に言います。また、どこかのバンドマンと楽しく談笑していた生徒を見つけるなり、「あんな“ニセモノ”には近づくな!」みたいなことも言うんです。いや、それってどうなの? と。いわゆるパンクファッションだったり、そういう「カッコから入る」バンドや、分かりやすく大衆にウケるバンドだって、そりゃちょっと文句の一つでも言いたくなることは私にもあるけれど、それでもみんな自分の考える「ホンモノ」を追求して日夜頑張っていると思うんです。元バンドマンである彼も、それを知らないはずはないんです。そもそも本作のテーマは、「他人に人生を牛耳られるのではなく、自分が思う好きなことやカッコいいと思うことを全力でやれ」ってことだと思うんですよ。それぞれ自分の「スキ」を貫く彼らを、どうしてデューイにニセモノ呼ばわりさせたのか。テーマを制作側自らブラしにきてるじゃないかと、そこだけ残念でした。
バック・トゥ・ザ・フューチャー
散々周りから面白いよ面白いよと薦められて観たが、本当に面白かった。文句なく面白かった。とにかく観ながら笑ったりドキドキしたり感動したりした記憶がこれ以上ないほどくっきりと頭の中に残っていたので20作のひとつに取り上げました。
で、ここからは賛辞でも文句でもなく「自分だったらこうするな」なんですけど。
自分でも何様だよと思うけれど、私はフィクションに触れた時、「こうだったらもっと好きだったのにな」と思うことがしばしばあります。代表的なのが「美女と野獣」。ラストで野獣は、元の姿である王子に戻ります。でも私は、野獣のままで話が終わった方が物語として美しいと思うんです。ベルは野獣の姿の彼を愛したんだし、なにより「人は外見じゃない」という話をずっと語ってきたのに、最後の最後で結局ルッキズムに収束するなんて、テーマがブレているじゃないか、と思ってしまう。
さて、そこでバックトゥザフューチャーです。父と母をどうにか結びつけて、現在に戻ったマーティを待っていたのは、裕福な家に、ラブラブな両親、若い頃から変わらず美しいままの母親に、堂々とした性格の父親。それはいいんです。マーティも喜んでいたし、ハッピーなことだから。
でも私がもしこの映画を作るとしたら(作らないけど)、絶対にこうは作らない。タイムトリップして頑張って、現代に帰った時迎えてくれるのは、私だったら、冴えないままの家族にすると思います。変わるのはむしろ、マーティのほう。どうにもパッとしない家族だけど、それでもこの両親は、家族は、自分が過去に行って必死で守った家族なんだ、悪くないじゃん。と。
うだつの上がらない家族に対して、確かにマーティはウンザリしていたかもしれないけれど、そんな家族を性格も関係性も見た目もすっかり変えてしまうのは、少々乱暴な言葉を使いますが、マーティ、というより制作者の、身勝手な暴力でありエゴだと思うんです。
マーティ、最初は嬉しくても、あとあと寂しくならないんだろうか。だって家族みんなが違う人格になってしまったってことであって。2以降を観ていないのでなんとも言えませんが……。
2001年宇宙の旅
ひたすら映像の美しい、60年代公開とはとても思えないオーパーツ的なSF映画。説明を最低限まで省いているので意味不明だし、尺の取り方なども不親切(ぶっちゃけ眠くなる)なのだけれど、ラストの老いてゆく部屋や胎児のイメージはじめ、観客に理屈じゃない恐怖を与える手腕が本当に卓越している。芸術の役割というのは見る人の価値観やモノの見方を傷つけることだと思っているのですが、その点で言うと本作はこれまでもこれからもこれを超える作品は現れないのではないかと。とにかく強烈、その一言につきます。やっぱりキューブリックってスゴいわ。
クレイマー、クレイマー
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- 出版社/メーカー: ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
- 発売日: 2015/12/25
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父と息子の愛と絆を描くことでストーリーを進めながらも、同時進行で、それこそ現代の日本に通ずる社会的問題をもしっかりと扱っているのがすごい。作中でダスティンホフマンは仕事と育児の両立の難しさに直面するけれど、あれって子供を持ちながら働く現代日本女性が今まさにぶつかっている壁そのものなんですよね。タイムリーなことに、つい数日前、子連れの妻が「Dr.」であることを空港で疑った日本の深い闇(中川 まろみ) | FRaUという記事が発表されましたが、ただ母親であるというだけで、あんなにも不利益を被り理不尽な思いを強いられる。本作で描かれているのも根っこが同じなんです。子供を持ったら家庭に入るべきという価値観。育児をしながら働くのは「迷惑」という風潮。「ウーマンリブ」への言及や「妻をかたにはめようとしていた」という、ど直球な台詞まである。ダスティンホフマン演じる男親の視点から、観客がその理不尽さを追体験する作りになっている。もう、明らかに問題提起としての映画なんです。しかし四十年前の作品なのに全く古びていないというべきか、現実が追いつけてなさすぎというべきか……。
グランド・ホテル
ミステリの一ジャンルであるゴシック・ロマンもそうですが、本作のようなひとつの土地、建物を舞台にした作品における真の主人公というのは、その土地そのものなのだと思っていて。登場人物たちは皆、その掌の上で運命に踊らされる幸福な傀儡に過ぎない。群集劇とは、一定の空間が持つ、逃れられない定めの物語。だと思ってます。
様々な人間関係を繋げ、縁をつくり、愛を与えたキーパーソンの男。彼は、「グランド・ホテル」という“土地”が、登場人物たちに差し向けた使者なのだ。彼が死んではじめて物語が収まるところに収まり、大団円を迎えたのも、それだからこそ。彼はそこにはもう永遠に関われない。だけど彼が居なかったら何も生まれなかった。彼は使者として立派に役目を終えたんです。
人間関係や愛といった他キャラクターと彼との濃い縁を描き、そして主要登場人物ら全員がホテルを去った後、新しい命が生まれるのが構造として美しい。ホテルにとってはこの映画で描かれた一連の波乱の一幕も、ただの日常でしかないことが、互いに全く無関係の「死」と「誕生」によって端的かつ非常に美しい形で示されているわけで。ホテルはこれからも様々な死と誕生と生活を見つめながら何もなかったように続いていく。「グランドホテルは世界中どこにでもあるさ」っていうラストの台詞がまたそれを念押しのように押し出している。劇的なわけじゃない、特別な出来事のわけではない。ホテルはそれまでもこれからも様々なドラマを目撃する。世界中で。そういう終始マクロな視点で物語が語られるのが良い。まさに「グランドホテル 人が来ては去りゆく 何事もなかったように」。とにかく構造が美しくて、大好きな映画。
スパイナル・タップ
イギリスのハードロックバンド、「スパイナル・タップ」。これは彼らの活動を追った、ドキュメンタリーである。
……という設定の映画。
もうこの時点でロック好きなら滅茶苦茶ワクワクしますよね。
で、この映画はその期待に見事に応えてくれます。なんか妙にリアルなんだこの偽ドキュメンタリー。メンバーの出で立ちといい、インタビューでの受け答えといい、佇まいといい、ほんと「どっかで見た」バンドマンなんですよ。
適度に間が抜けてて、いまいち煮え切らなくて、なんだろうこの溢れる「ホンモノ」感。どんなに一世を風靡したバンドでも、しょうもないことで揉めたり批評家に低評価下されたりするじゃないですか。そういうところを絶妙な塩梅で描いていて、ほんとガチのドキュメンタリーみたい。
アウェイな空間でライブさせられたり舞台装置にトラブル起きたりメンバーの彼女がマネージャー面しだしたり、今まで私が音楽誌とかで読んできた古今東西のロックバンドの裏側そのもの。ストーンヘンジのシーンとか笑い死ぬかと思った。
ただ笑えるだけじゃなく時折ロックの本質を突いていたりして、もうこんなロック好き殺しの映画他にあるか。
音楽やってたらさらにもっと楽しめたんだろうなあとは思うけど。実際バンドやってる友達に勧めてみたんですが、相当気に入ったようで、早速DVDを購入してました。
ロック好きは全員観ましょう。
ROMA
映像が息を呑むほど綺麗で、登場人物たちが作品内に生々しく息づいていて、たいした起承転結ないのに目が離せなくて、隅々まで抑制が利いていながら強い感情が宿っていて、芸術としての映画とはこういうものなのだなと思った。
あとは男女での命とモノの使い分けが印象的だなあと。女性キャラクターは生きた物との絡みが多く(犬、海、赤ん坊、羊水)、男性キャラクターはモノ(拳銃、武術のポール、本棚)と親和している。そして男性はモノを持ち女性から去っていく。
というかこの映画、成人男性をおそらく意図的に排除しているところがあって、基本的に女性と幼い子供のみをフレームに映し話を進めてるんだけど、それで思い出すのはルシール・アザリロヴィック監督の「エヴォリューション」。「水」の表現が反復されるのも同じ。生と死が対比されていたのもこの二つの共通項ですね。どちらもすごく生々しい有機的な映像が印象深い作品ですが、「エヴォリューション」がひたすら不気味であるのに対し「ROMA」は一周回ってストレートな生命賛歌で、単純にすごく好き。エヴォリューションとROMA、制作側の意図は置いといて自分の感じた印象で言うと、ネガとポジって感じ。だから何って話ですが……。
町田くんの世界
この映画は、誰にでも優しい町田くんという男の子が、一人の女の子を好きになることによって、博愛の人で居られなくなるという話なのだけれど(誰かに優しくするってことは誰かを傷つけることなんだよ、という台詞が作中にある)、町田くんがいよいよ一人だけに愛を注ごうとした時に、博愛だった時の彼に救われた人達が彼を助けて愛を持って女の子の元へ送り出すの、ほんと構造として完璧。優しさや愛が循環してるんですよね。
あとは、やっぱり雨の使い方が最高だった。ヒロイン・猪原さんが「雨の日はそこに居てもいいよって言われてるみたいで好き」って言うんだけど、町田くんがみんなに送り出されて猪原さんの所へ向かう時、雨が降ってるんですよね。雨は愛する人に対する承認なんだと思います。あなたがあなたでいることを、私は愛します、という。
ラストの風船はたしかに突拍子も無いけど、町田くんと猪原さん、彼らの周りの人間、そして何よりスクリーン越しに彼らを見守る観客の「こうであってほしい」を完璧に形にしてくれているから冷めない。むしろよっしゃ!ってなります。そこの塩梅が本当に上手い。あとはまあやっぱ、空に飛ばすことで文字通り町田くんの見る「世界」をガラリと変えるという効果がてきめんだったと思う。博愛のキリストから、特定の一人を愛する人間に変わった瞬間だったから。恋というのは、特に町田くんのような子にとっては、空を飛ぶより一大事だしね。パンフレットやインタビューによると、監督は町田くんが空を飛ぶことをかなり色んな人から反対されたらしいのだが、反対に負けず押し通してくれて本当に良かったし、石井監督への信頼も更に盤石になりましたね。
どんな映画も、観た時の感情を色んな一言で表すことが出来ると思うのだけれど(楽しいとか笑えるとか泣けるとか切ないとか怖いとかワクワクするとか)、石井監督の作品は全部「愛おしい」だなあ。登場人物みんな、もう超脇役でも悪役でもまとめて抱きしめたくなる。いい映画を観たな、としみじみ思える作品というのは良いですね。
旅のおわり世界のはじまり
すごく良かった。でも感想が全然纏まらない! ので思ったままつらつら書きます。
本当に自分がやりたい事は何か。何を本当に望んでいるのか。自己との徹底的な対話。本当は何を望んでるの?
徹底して「撮られる側」「見られる対象」だったヒロインが、カメラを持ち「自分の視野」を獲得する。でもたかが小さなハンディカメラ。真の意味で相手を「見ようとしない(=理解しようとしない)」彼女が、壁にぶつかり、事件を通して、殻を破りだす。
人混みのバザールを、車が行き交う道路を、不穏な夜道を、何かを求めるように早足で疾走するヒロイン。横顔。足音。
そしてラストの愛の賛歌。未だに私の心に響いたまま鳴り止まない。ウズベキスタンの空の下、情熱の愛の歌を歌い上げる彼女の歌声は、母の胎から世界に放り投げられた赤児の産声のように、または放浪しながら歌い歩く吟遊詩人のそれのように、力強く高らかだった。
私の20世紀
前エントリ参照のこと。
タイタニック
「男女がイチャイチャして船が沈む」、言ってしまえばただそれだけの話なのに、どうしてこんなに面白いのだろう。心を掴まれるのだろう。寒さと死の恐怖と愛する人へ別れを告げたことに震えながらも力強く警笛を鳴らすローズの横顔の生きることへの渇望に涙。
まあそれはいいんですけど。この映画、ラスト怖すぎじゃんって思うのは私だけでしょうか。天国で愛する二人が再開したのはいい。そこが二人が出会い愛を育んだ場所・タイタニックであるというのもいい。でも二人を囲み笑顔で拍手する大勢の死んだ(んだよね?)乗客、あれ何!!! だってあの人達そのタイタニック号で死んだんだぞ? なんで天国でもタイタニックに乗ってるの? 笑顔なの? 地縛霊なんですか? いやほんと、好きな人に申し訳ないけど、あそこだけは怖かった。映画の中でこそ主人公であるもののただのいち乗船客でしかない二人が世界(タイタニック号)の中心、みたいな描き方をやっていいのか単純に疑問でもある。
それにしても、三時間以上あるのにダレる部分が全くないのは何なんだろう。凄すぎた。もう一回テンポや構成に着目して観たいけど、また三時間かかるのか……と思うと躊躇してしまいますね。
新聞記者
まずこのタイミングでこういう映画が日本で作られたことがすごく大切な一歩になると思うし、制作・放映に関わった全ての人に敬意を表したい。現実の問題をあそこまで生々しくプロットに反映させるのは、よっぽどの誠実さと覚悟が無いとできない。
全編凄かったが、一番唸らされたのは主人公二人を分かり易い英雄にしなかった点。作中で彼らに勝利を与えるのは簡単だけれど、それでは「気持ちのいい勧善懲悪エンタメ」として物語が閉じてしまう。あえて葛藤と問いを投げかけるラストにした事で、観客に当事者性を持たせ問題意識を喚起する構造になっているのが見事かつこういう種類の映画の終わり方として非常に適切だと思った。
まとめ
というわけで上半期鑑賞85本の中の20本でした。新聞記者に関してはまだ全然自分の中で纏まっていないので、あとで思いつくなり追記という形で弄るかもしれません。下半期もたくさん良い映画に出会えることを祈って。
一応85本、全部タイトルを記し、このエントリを締めさせていただきます。
- 時計じかけのオレンジ
- 天然コケッコー
- スカーフェイス
- ニューシネマパラダイス
- ショーシャンクの空に
- 湯を沸かすほどの熱い愛
- 怒り
- チェイサー
- 鍵泥棒のメソッド
- そんな彼なら捨てちゃえば?
- あぜ道のダンディ
- フォレスト・ガンプ
- 悪魔のいけにえ
- ハンサム・スーツ
- ヘアスプレー
- マッドマックス
- マッドマックス2
- 遊星からの物体X
- グリーンブック
- パシフィック・リム
- パシフィック・リム アップライジング
- アジョシ
- スクールオブロック
- 哀しき獣
- トップガン
- 凶悪
- グッドフェローズ
- バックトゥザ・フューチャー
- ロリータ(97年版)
- ロリータ (61年版)
- セブン
- インターステラー
- 暗殺
- 下妻物語
- ソング・オブ・ザシー
- ベイブ
- ハラがコレなんで
- 遠距離恋愛 彼女の決断
- ビューティフルボーイ
- メッセージ
- 2001年宇宙の旅
- テルマエ・ロマエ
- チチを撮りに
- 新感線 ファイナル・エクスプレス
- モンスター上司
- 少年たち
- モンスター上司2
- Destiny 鎌倉ものがたり
- 亜人
- 沈まない三つの家
- お兄チャンは戦場に行った!?
- 最高の家族の見つけかた
- フィストファイト
- 女王陛下のお気に入り
- パディントン
- クレイマー、クレイマー
- グランド・ホテル
- LEGOムービー
- 長いお別れ
- リメンバー・ミー
- プロメア
- 孤狼の血
- スパイナル・タップ
- コンフィデンスマンJP
- 男はつらいよ
- アメリカンアニマルズ
- 神と共に 第1章
- ROMA
- GODZILLA
- SING
- キングオブモンスターズ
- 廿日鼠と人間
- ノーザンソウル
- 町田くんの世界
- 二十日鼠と人間
- あしたの私のつくりかた
- グラン・トリノ
- 旅のおわり世界のはじまり
- ジャージーボーイズ
- イメージの本
- マイプレシャスリスト
- 私の20世紀
- フレンチ・コネクション
- タイタニック
- 新聞記者