「アルプススタンドのはしの方」感想

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 映画「アルプススタンドのはしの方」を観てきた。以下感想を。

あらすじ

夏の甲子園1回戦に出場している母校の応援のため、演劇部員の安田と田宮は野球のルールも知らずにスタンドにやって来た。そこに遅れて、元野球部員の藤野がやって来る。訳あって互いに妙に気を遣う安田と田宮。応援スタンドには帰宅部の宮下の姿もあった。成績優秀な宮下は吹奏楽部部長の久住に成績で学年1位の座を明け渡してしまったばかりだった。それぞれが思いを抱えながら、試合は1点を争う展開へと突入していく。(映画.comより引用)

 

あらすじにもあるように、甲子園を舞台にした青春映画なのだが、この作品が他とひと味違うのは、「主役」であるはずのグラウンドが一切映らず、どころか応援席のまっただ中すら映し出されることはなく、タイトル通りアルプススタンドの隅っこのみでほとんど話が進行してゆく点である。

なんでもこの映画はもともと高校演劇を原作としているらしく、演劇の世界ならではの制約が逆にワンシチュエーションの会話劇を生み、また学校で文字通り「はしの方」の立ち位置にいる、言ってみれば「きらきらしてない」登場人物たちにフォーカスを当てることで独特のドラマを演出するという仕上がりになっている。

これは多くの人が既に指摘していることだが、その点において本作は映画「桐島、部活やめるってよ」を想起させるし、個人的には、「大きなイベントのなかのごく限定された登場人物だけに焦点を当て、別段ドラマチックな出来事は起こらないながらも、人間関係やそこに居た人々の気持ちの変化を丹念に活写していく」という点で、恩田陸による小説「夜のピクニック」の読後感を大いに喚起させられるものがあった。

 

 「自分」が見つかる青春映画

王道青春映画は、いつもまぶしい。胸を焦がすような恋心や、すべてを捧げた部活動、強く結ばれた友情。憧れるけれど、そこに私(筆者)の居場所はなかった。でもこの映画には、確かに私がいたのだ。

 私の大好きな漫画「バーナード嬢曰く。」(施川ユウキ/一迅社)の最新刊に、こういう台詞がある。

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読者にそう思わせるのが文学の力というが

まるで僕のために書かれたような小説

 そういえばこの「バーナード嬢曰く。」も、図書室に集う読書好きの高校生たちが繰り広げる「きらきらしてない」青春漫画なのだが、それはそれとしてこの台詞、たぶん映画にも適用できる。「まるで僕(私)のために撮られたような映画」

そう、「アルプススタンドのはしの方」は、まさにそういう映画なのである。「桐島」でも多くの映画ファンが自身の学生時代を回顧していたが、本作も同様だ。この映画を観て、そこに自分を、またはかつての自分を見出さない観客は少ないのではないだろうか。「はしの方」にいた人間なら特に、この映画のどこかに自分を見つけるだろう。

少し私の話をする。

この映画のどこに自分を見つけるかは人それぞれだと思うが、私の見つけた「自分」は、学年トップの優等生・宮下(中村守里)だった。

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↑この子。

彼女は高校入学してから常に成績は学年トップ。だが人付き合いは苦手で、成績も、学年一位の座を吹奏楽部部長・久住(黒木ひかり)に奪われてしまったばかり。それだけでなく、密かに思いを寄せていた野球部の名ピッチャー・園田が久住と交際していることを知ってしまう。

私は最初から最後まで、この宮下に感情移入しっぱなしだった。というか、勝手に自分を重ねていた。私は学生時代、宮下みたいな子だった。

こんなに美人ではないし、学年トップなんて夢のまた夢(成績はよくて9、大体が7か8だった)、加えて女子校だったので好きな男子もなにもなかったが、人付き合いが苦手で、いつもだいたい一人だった。

休み時間、周りが机をくっつけて所狭しと弁当を広げる横で、私はひとり自分の席で弁当をかきこみ、そのあとはずっと本の世界に没頭していた。読書が好きだった。クラスメイトより、図書室の司書さんとのほうが仲がよかった。それでもたまに、田宮みたいな子が話しかけてくれて、それは不思議と嫌じゃなかった。作中に、「友達ともっと仲良くしたらどうだ」と先生に言われ、「友達っていなきゃだめですか?」と宮下が返すシーンがあるが、いつも一人でいる私を心配してくれた先生に全く同じことを失礼にも言い放ったことがあったし、冒頭、安田が宮下について「英語の授業でペアになったんだけど、全然会話がなくて……」というようなことを話すのだが、私も、私に対するまさに一言一句違わぬ陰口をたまたま聞いてしまったりもした。「はしの方」どころか、「一番はし」にいたのである。

 

本当は「はし」も「真ん中」もない世界で

 私は自分を「一番はし」だと思っていた。周りもおそらく同様の評価を私に対し下していただろう。それはある意味ではまったく正しい。輪の中で友達とわいわいと過ごしていた「みんな」と、その外れでひとりで読書に夢中になっていた「私」。その立ち位置の座標は揺らぎようもない。

だが本当にそうだろうか? 私は「はし」で、みんなは「真ん中」。それだけだろうか?

中盤、宮下は(書いている内に自分を彼女に重ねるのが申し訳なくなってきた、彼女は「はしの方」にはいてもさすがに「一番はし」ではないだろう)、久住に自分の思いをぶつける。「久住さんは私の持ってないものを全部持っている」と。輝けない自分と、友達や恋人に恵まれ、いつも中心にいる久住。しかしそんな久住は同じくらい痛切な響きでこう言い返す、「真ん中は真ん中でしんどいの」と。

久住の発言は、宮下にとっては青天の霹靂のような激白であったろう。でも私は、宮下に自分を重ねながらも、「真ん中は真ん中でしんどい」ことを知っている。これは本当だ、なにしろ当事者の生の言葉を聞いたのだから。また私の話をする。

高校二年の修学旅行の夜のことだ。校外学習の夜といったら、部屋割りが生徒の自由に任されていない限り、いかに先生に見つからず仲の良い友達の元へ部屋を移動して夜を明かすかが最重要課題だと思うが、この年は先生の監視が特に厳しく、生徒間では、割と早くに諦念の空気が流れ、同じ部屋に割り当てられた者同士で一期一会の夜を楽しみましょう、という雰囲気になっていた。早く寝たかった私は会話に混ざることもなく、さっさと布団に横になっていたが、おしゃべりはもちろん聞こえてくる。そのなんてことない語らいの内容が、当時の私には衝撃だったのだ。

「なんでAとBはCさんの指揮が気に入らないの?Cさん頑張ってやってるじゃんね」(合唱コンクールの時期だった)

「私Dさん苦手なんだよね、同じグループにいつの間にか入ってきちゃったからやりづらい」

「Eさん一時期仲間はずれにされてたじゃん、あれ気の毒だった。話しかければよかったな」

 私は、「わたし」と「みんな」がいると思っていた。端っこにいる一人の「わたし」と、仲よさげな「みんな」。でもそうではなかった。「わたし」と「みんな」ではなく、「わたし」と「あの子」と「あの子」と「あの子」……がいるだけだった。「みんな」のなかにはたくさんの「あの子」がいて、「みんな」という大きな主語ではとても括れないのだった。それぞれ、仲の良い子がいて、苦手な子もいて、誰かに気を配ったり、時には居心地の悪い思いをしたりしていたのだった。楽しいときも、しんどいときもあるのだった。もちろんそんなこと普通の人は当たり前に知っているのだろうが、当時の私はあまりに周りに関心がなかった。「わたし」と「わたし以外」の間には壁があって、壁の向こうのみんなはいつも誰とでも仲がいいのだと思っていた(盲目に過ぎる)。

私の高校はそこそこの進学校で頭が良かったからかみんなモラルがあったし、女子だけだからか、「スクールカースト」と呼べるほど確固とした序列はなかったが、もちろんクラスはいくつものグループに分かれていたし、このグループは他に比べて派手だよなあとか、ゆったりした階層はやっぱり存在していた。けれどこの夜は、色々なグループの色々な階層の子たちが一つの部屋に集められて、私は後ろを向いて寝たふりをしながら、色んな本音を聞いた。聞くたびにびっくりした。

 「スクールカースト」という言葉はここ数年でもう世間にすっかり浸透した感があって、その言葉が当たり前にそばにある環境でサバイブしなくてはならない今の学生はさぞ大変だろうと同情するが、まるでルビンの壺のように、少し視座を変えてみるだけで、あんなに恐ろしかった「スクールカースト」はすっかり雲散霧消し、十人十色、それぞれ違う人間たちが見えてくるのだ。成績とか容姿とか、序列は付けようとすればあるけれど、そしてそれからは逃れられないけれど、でもその前に、人数と同じだけの種類があるのだ。

 もう一度問う。私は「はし」で、みんなは「真ん中」。分け方はそれだけか? その区分、果たしてそれだけが真実なのか?

 

「はし」と「真ん中」の破壊の到達点としての、「ナイス演奏!」

この映画で私が一番好きなシーンは、宮下が久住を「ナイス演奏!」と称える場面だ。実際、この映画の白眉であろう。あの瞬間、あの二人からは「はし」とか「真ん中」だとかいうくだらない概念は綺麗に消え去り、ただただ対等でシンプルな「わたし」と「あの子」になり、それぞれの青春に刻まれるであろう輝きのみがそこに残る。

「はし」と「真ん中」という二項対立をタイトルと序盤で提示しておきながら、ストーリーを進めていく途上で丹念にそれを破壊してゆく手腕の美しさ、巧みさ。あの「ナイス演奏!」は、その最終到達地点であり、破壊の成功を高らかに告げるファンファーレで、だからこそ感動を誘うのである。

ただこのシーン、ちょっと唐突に感じることも確かである。「真ん中は真ん中でしんどいの」という言葉の真意を理解するにはもっと二人の間にコミュニケーションが必要な気がするし、失恋から立ち直り恋敵を認められるようになるにはいささか短時間にすぎる。宮下はなぜ自分の気持ちを吹っ切って久住にエールを送ることができたのだろうか。

私が思うに、吹っ切ったからエールが送れたのではないのである。逆だ。「ナイス演奏!」を言えたことが、失恋を吹っ切るためのブースターとなるのである。”久住を認められる自分”を無理矢理にでも作って、嫉妬や引け目といった感情に蓋をする。一見ただの誤魔化しだが、とても度胸の要ることだし、自分の気持ちを吹っ切ろう、昇華させようという動機なしではできないことだ。何がどうであろうと辛い感情に折り合いを付けて生きていかねばならないのだし、案外嘘が誠になったりもする。なにより、久住から差し出されたスポーツドリンクを受け取ろうともしなかったあの時の宮下を思い出して欲しい。ポジティブさと勇気を身につけた少女の姿が、そこにはある。

 

 循環する「がんばれ」

 また私の思い出話になって恐縮なのだが、小学校の頃、運動会の応援練習の時間、一人の男子が「応援の声なんて徒競走や騎馬戦頑張ってる奴に聞こえるわけないじゃん! それどころじゃないもん!」と大声で混ぜっ返したことがある。案の定彼は先生にきっちり絞られていたけど、私は内心そうだよなあとその言葉に頷いていた。

作中、英語教師で熱血漢の厚木先生は、時折安田たちのもとにやってきては、「もっと声出して応援しろよ!」と叱咤する。そして自ら見本を見せるように、大声で、血を吐くまで「がんばれ」と叫ぶ。

でもきっと、その声は試合中の園田にも矢野にも聞こえていない。「それどころじゃない」からだ。安田たちが最後まで応援を放棄したとして、「今日は応援席、声出てねえな、やる気出ねえな」なんて思うわけがない。

じゃあ、どうして私たちは応援なんてするのだろうか?

応援どころか自分の学校の野球部が出場している野球観戦にもどこか無関心だった安田たちは、だが紆余曲折を経て、クライマックス、声を限りに「がんばれ」と応援をはじめる。

 安田は演劇部の大会を目前にして、棄権せざるを得なかった。田宮は自分が棄権の原因を作ったことを、ずっと引け目に感じている。宮下は失恋しただけでなくはじめて学年トップを明け渡し、藤野は自分の才能の限界を感じ、野球部を退部した。四人とも、負けのこんだ状況にいた。

劣勢なのは四人だけではない。野球部もまた、苦しい試合を強いられていた。それでも諦めず、相手校に立ち向かう野球部。

私が宮下に自分を重ねながらこの映画を観たように、安田たちは、そんな野球部に自分たちを重ねたのだろうと私は解釈している。自分たちもまだ、立ち向かえる。まだ負けと決まったわけじゃない、と。

どうして「がんばれ」と応援するのか? それは、自分が彼らに「がんばれ」を貰っていたからなのだと思う。いわば「がんばれ」のキャッチボール。甲子園を題材にした映画としてこれほど美しい構図はないし、青春映画の一場面としても非常に爽やかだと思う。前章で述べた宮下の勇気も、きっとここから来ていると思うのだがどうだろう。

 

「しょうがない」へ至り、「しょうがない」を超えろ

 「しょうがない」。本作の一番のテーマはこれだろう。安田たちは、作中、何度も「しょうがない」を口にする。

ああいう若い子(役者さんの年齢は存じ上げないが)がしきりに「しょうがない」と口にする様子を見るのは、一人の大人として、そんなことを思わせてしまう社会にしてしまってごめんよ、と申し訳なくもなるのだが、しかし、「しょうがない」、それ自体は別に悪くもなんともない言葉だと思うのだ。

人生は100%上手くいったりなんてしない。どこかで折り合いを付けなければいけない場面は死ぬほどある。「しょうがない」という言葉は、怒ったり泣きわめいたりしたくなる気持ちをどうにかこうにかあやしてなだめすかして自分を納得させるための大事な呪文だ。

私には、十代の終わりから患った厄介な持病がある。時期が時期だけに、私の人生は、それまで漠然と描いていた青写真とはまるで違う方向に走り出してしまった。たまたま適性のある仕事と出会い、療養しながら働いており今のところ食うには困らないが、正直、色々なことが思い通りにいっていない。今でこそ「しょうがない」と開き直れるようになったが、そこにたどり着くまでは何年もかかった。

アルプススタンドのはしにいた四人だって同じだ。演劇の大会の日、出場できないことを知らされ、顧問に肩を叩かれた安田。あの時の彼女は、決して「しょうがない」だなんて穏やかな表情はしていなかった。大会の日にインフルエンザになった田宮は「しょうがない」にすら至れずに、あのときああだったら、と一人で自分を責めている。宮下は失恋したショックでいっときまともに座っていられなくなったし、藤野も自分の才能に見切りを付けて野球部を辞めるまでに、一体何度絶望したことだろう。後ろ向きな響きのある「しょうがない」は、実は絶望や理不尽など、様々な感情を経てたどり着く一つの到達点なのだ。そして本作は「しょうがない」に至るまでがどれだけ辛いか、さきほど記したような描写を通してきっちり描いている。

 重要なのは、だから、「しょうがない」のあとに、「では、どうするか」があるかないかだ。 園田のような才能がないから、「しょうがないから」せめて地道に愚直に努力を続けた矢野。野球部の顧問になれなかったから、「しょうがないから」せめて観客席で全力で声が枯れるまで応援した厚木先生。この二人の行く先は? それはもう、この映画を観た人なら誰だって知っている。

 この映画は、「しょうがない、はダメ」ではなく、「しょうがないから諦めよう」から「しょうがないならさあどうする?」へ到達するまでの映画なのだ。

 

 まとめ

 この映画、普通にスルーしていたのだが、Twitterのタイムラインをやたら賑わせており、時間をがんばって作り観に行った。野球のルールを1ミリも知らないけれど大丈夫だろうか? という危惧はあったが、結果的にさして問題なかったように思う(知っていたら厚木先生の「人生は送りバントだ」「空振り三振だ」がより面白かったのかもしれない)。ちなみに野球に関しては今も何もわからない。映画そのものに関しては、この通り大満足。割と序盤からなんか分からないが泣けて泣けて、すっと胸のすくような気持ちで劇場を後にできた(しかしパンフレットが売り切れていたのでまた泣いた。「しょうがないから」通販したので近日中に届くと思います)。間違いなく今年ベスト級の作品でした。同時期に「コンフィデンスマンJP プリンセス編」や「今日から俺は」など邦画大作が並び、今週からだと「ドラえもん」も公開されるため、もともと多いとは言えなかった公開館・公開回数がさらに減らされてそうですが、お盆休み、何か一本観たいなあという方はぜひ本作を。

ここまでお読みくださりありがとうございました。