2020新作映画鑑賞総括

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2020年が終わった。

誰にとっても、等しく未曾有の一年だった。

一月に中国ではじめて確認された新型コロナウイルスは、瞬く間に世界各国へ広がった。ここ日本でも晩冬あたりから本格的に感染者数が増大し、コンサートなどのイベントは中止に、学校は休校に、仕事はリモートに切り替わり、ドラッグストアからはマスクが消えた。予定されていたオリンピックは延期となり、国民的コメディアンの訃報が世間を揺るがした。政府は緊急事態宣言を発令し、不要不急の外出が強く呼びかけられた。コロナの勢いは2021年に突入した今も未だ収束を見せず、毎日驚くほどの感染者数がテレビやネットで報じられ、人々は感染の不安に怯えながら、「ウィズコロナ」の生活に必死で適応しようとしている。

誰もが等しく恐怖し、疲弊し、打撃を受けた。経済的に立ち行かなくなった企業や飲食店も数多い。

そしてそれは、映画館も例外ではなかった。

特にミニシアターへの経済的打撃は凄まじく、有志の手によって「ミニシアター基金」が立ち上げられ、また各ミニシアターも、独自に援助を募った。

当たり前に通っていた大切なミニシアターが、いま存亡の危機にある。……あの時の不安感といったらなかった。私もできる限りの支援を行なった。宣言が解除され、再び無事に映画館へ訪れることができた時の安堵、嬉しさは今も忘れられない。

そう、コロナ禍でも、私の心に寄り添ってくれたのはいつも映画だった。マスクを着用し、ブランケットを持参し、入り口に設置されたアルコール消毒で手をヒリヒリさせながら、真っ暗なシアターの席に沈み込み、私は映画を観た。たくさん観た。

11月後半あたりからまた本格的に感染者数が増大し、個人的に外出を最低限まで控えるようになったので、悔しいことに12月公開の映画は一本も観ることができなかったのだが、健康には変えられない。仕方がないと納得している。

ということで、2020年新作映画鑑賞本数は79本。この中から特に良かった10本を選出した。それぞれ順番にコメント付きで紹介したい(一部、当時の感想を加筆修正している)。

 

10.「追龍」(香港)

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イギリス統治下の香港を舞台に、実在したマフィアと汚職警察の盛衰を描いた実録映画。

ドニーさんとアンディ・ラウW主演の香港ノワールということで、好きな要素しかない! と一も二もなく観に行った作品。レイトショーで行ったらギリギリまで私以外誰も入って来ず、「こんな熱量の高そうな映画を一人で観るのか……?」と思っていたらギリギリにおじさんが一人やってきて、しかも私と同じ一列目だったのがもうまず面白かった。突如生まれた謎の連帯感。ロビーにしれっと主演お二人のサイン入りポスターが飾られており、いたく興奮したこともよく覚えている。

この映画、語り口はあまり巧いとは言えず、変なところに説明を割いたり、かと思えば終盤やけに駆け足気味になったりで、正直損をしているなと思わなくもなかったのだが、もうとにかく男二人の絆が凄まじく、心熱くし、最後はさめざめと泣かされた。

かたや英国人警視からの暴行から救われ、かたや対立する人物・勢力から足を犠牲にしてまで助けられ、と窮地を救いあった間柄の、チンピラから麻薬王へ成り上がったドニーさん演じるサイホウと、持ち前の世渡りのうまさとマフィアとの癒着で出世街道を上り詰めていく汚職警官アンディ・ラウ演じるロック。互いへの恩義から始まったこの友情が素晴らしいのである。さまざまな思惑や世の流れに翻弄され、二人の間には次第に疑心暗鬼が生まれてくる……のだが、この関係は、同じくマフィアと刑事の絆を描いた名作「フェイク」を想起させる、なんとも心憎いラストシーンへと着地する。私は後半あたりからもうずっと、お願いだからこの二人が決裂してしまわないでくれ、そんな悲しいことにはならないでくれ……と祈りながら観ていたので、あのラストの会話は感慨深くてたまらなかった。元々個人的にマフィア映画が好きなのもあるが、それにしてもれっきとした悪人であるはずのこの二人の友情の不変をなぜここまで願ってしまうのか、といえばやはりこの誰もが知る名優二人の演技力だと思う。またセットも撮影も作り込まれており、汚れた薄暗い路地の水溜りや硝煙と血の匂いまで漂ってきそうな臨場感があった、これもこの映画を支えた大きな屋台骨であったろう。パンフレットをパラパラと読み返しながら、互いを疑いの目で見つつも、その潔白と繋がりを誰よりも信じたかったのは他でもない本人たちだったのだろうと考えていたら、なんだかまた泣けてきた。

 

9.「ハスラーズ」(アメリカ)

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ストリップダンサーらがウォール街の裕福な男たちから大金を巻き上げた、これまた実在の事件から想を得た作品。

ジェニファー・ロペスをはじめとする、とんでもなくゴージャスでセクシーな女たちがひしめき合う絵面だけでもうベスト確実だった。大スクリーンで輝く女たちの美! 美! 美! サイコー!!! 

……と、観てる間はひたすらファビュラスマックス!(©️時籠ゆり)というテンションだったのだが、帰宅してパンフ読みながら色々思い返せば、丁寧に描かれていた彼女らの友情や、子を持つ母親としての想いがどっと流れ込んできて万感の思いに襲われ、まさしく一粒で二度も三度も美味しい映画であったなと。

コンスタンス・ウー演じるデスティニーと、J.LO演じるラモーナの友情は、「追龍」で描かれたそれと全く同じだ。生きるため、生き残るために築き、次第に唯一無二の関係となっていく友情。しかし自分や家族を守るために、そして己の犯した所業と時代のうねりに翻弄され、形を変えられてしまう友情。でも根本のところでは、決して変わらない友情。大切に仕舞ったままの写真。

「母親ってイカれてる」という台詞が今も忘れられない。子供のためなら全てを捨てられるよね。そう言い合いながら築いた絆を、子供のために手放さなくてはいけない彼女たちの境遇……。これを書いている今、日本では聡明な高校生たちがファミリーマートの「お母さん食堂」というラインナップ名を「旧弊な性役割規範に基づいている」とし鋭く批判しているのだが、この映画で描かれている「お母さん」の苦悩も同じ問題が根っこにある。産む性(これは身体機能上仕方ないのだが)、育てる性、家に入る性、「母親らしく」いることを社会に求められる性……。それは時に雇用の難しさだったり、男性と比べた時の教育の行き届かなさだったりといった面で表出してくる。彼女たちはプライドを持ってストリッパーをやっているし、その姿はとても美しいのだけれど、お金や舌なめずり顔と引き換えに自分の体が消費されていくのは、きっとたまにすごくやりきれないだろう。そのやりきれなさに、同じ道を子供には歩ませたくないという思いが加わって彼女たちを犯罪に駆り立てたことを、決して忘れてはいけないと思う。

そうそう、この映画のパンフレット、J.LOと監督(女性である)へのインタビューが掲載されているのだが、海外女優へのインタビューにありがちな「〜だわ」「〜なのよ」といった古臭いジェンダー観に基づいた口調ができる限り排除されており(残念ながら全部ではない)、おっ、と思った。

 

8.「37セカンズ」(日本)

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下半身付随という生まれ持った障害ゆえに車椅子生活を送る女性が、さまざまな人々と出会い自らの人生を切り開いてゆく傑作。

タブー視されている、というか「ないことになっている」、「障害者と性」、特に「若い女性障害者の性」を足掛かりとして、一人の女性の成長譚をやり切ったのが本当にすごい。観点が鋭すぎるし、それを描く上で演技にも脚本にも一切の逃げがない。真っ向からテーマにぶつかっている。

ここで少し私の話をさせてもらいたい。この名義でこの事をカミングアウトするのは多分初めてなのだが、私は精神障害者である。精神科系の厄介な病気を抱えていて、実際に障害者手帳も取得している。この映画の主人公が「見える障害」であるのに対し、精神障害は基本的に「見えない障害」である。私はこの映画を観て「見えるからこそ大変なことはこんなにあるのだ」と気付かされたのだが、それと同じくらい、見えない故の大変さも、またある。

数年前、外出先で具合が悪くなり、近くにあった交番に助けを求めたことがあった。震える手で鞄から頓服薬を取り出し飲む私の姿を見て、「何か病気を持ってるの?」と尋ねてきた警官に、これこれこういう病気で……と説明をすると、彼は、「ふーん、でもそんな風に見えないけどね。受け答えがしっかりしてるし、オシャレだし、化粧も綺麗だし」と言った。

そのとき、私は、「ああ、この人の世界には、受け答えがしっかりしていなくて、身だしなみに気を使うことができない障害者しかいないんだな」と思った。それは知り合いにいるとかいないとかの話ではない。「そうじゃない障害者もいると夢にも思っていない」と言うことだ。もちろん知らないことは悪いことでも恥ずかしいことでもないし、私の存在をきっかけに学んでくれたらありがたいな、とは思ったけれど、それ以前に、なんだかひどくがっくりきてしまったのを覚えている(これは相手が警官という立場だからこそ余計にかもしれない)。

健常者が十人十色であるように、障害者も人の数だけ気持ちがあり、在り方がある。性にも興味を持つし、自分の世界を広げたいとも思う。それをうまく言葉にできる人もいればそうでない人もいるし、オシャレだったりそうじゃなかったりする。

主人公ユマを演じたのは、自らも車椅子の障害者当事者である、演技初挑戦の女性・佳山明さん。彼女の演技は本当に素晴らしかった。ナチュラルで、なのに表情やセリフのひとつひとつが雄弁。脇を固める大東駿介さんや渡辺真起子さん、渋川清彦さんの演技は言うまでもない。佳山さんには今後もぜひ女優業を続けてほしいと思う。何度も述べた通り、障害者は、フィクションの中にも外にも当たり前に居るのだから。

 

7.「彼らは生きていた」(イギリス/ニュージーランド)

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不思議なドキュメンタリーである。第一次世界大戦の前線で戦う、英国軍の当時の映像を延々流し、そこに実際に戦闘に参加した軍人のインタビュー(ナレーション?独白?)が被さっている。99分間、徹頭徹尾それだけの映画だ。ストーリーも山場も、オチさえ特にない。

それなのに何故だろう。全く目が離せなかった。

「彼らは生きていた」というタイトルが重い。原題は「They shall not grow old」。こちらも重い。戦争で無惨に死んでいった彼らは、当たり前のようにスクリーンに映し出されていた死体たちは、家も家族もあって、恋人も友人もいて、夢も仕事もある、戦争さえなければ「生きていた」なんて過去形で語られるはずじゃない若者たちなのだ。「grow old」するはずだったのだ。

本筋とは全く関係ないが、みんなそれはそれは頻繁に紅茶を飲むので、イギリスとは本当に紅茶の国なのだなと驚いた。水じゃないんだ、ちゃんとお茶入れるんだ。

 

6.「マルモイ ことばあつめ」(韓国)

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朝鮮語が禁じられた日本統治下の朝鮮で、母国語の辞書を作るため奮闘した人々の姿を描いた傑作。

命の危険をも飲み込み、膨大な時間と労力をかけ母国語を護ろうとした主人公たち。韓国は、大戦後自国の言葉を取り戻した唯一の国なのだそうだ。日本人が犯した悪行を悔悟しつつ、「ことば」が持つ力と価値を改めて学ばされた二時間だった。

文字が読めなかった主人公・パンスは、辞書編纂の過程で文字を覚えることで自身の世界を大きく広げてゆく。小説を読んで涙を流し、その様子を見たジョンファンと一気に打ち解けたり、通りがかる店の看板を片っ端から読み上げたり。「ことば」を知る、持つ、使う喜びに溢れた、象徴的なシーンだ。「ことば」とは、アイデンティティや文化、何より喜びと切っても切れないものであるということが、これだけの描写で、どんなに台詞を尽くすより雄弁に語られる。だからこそその宝を簒奪しようとする日本人の残忍さも、彼らから母国語を守ろうとした主人公たちの情熱も、強い説得力を持って胸に届く。

危険を顧みず母国語を守った彼らの信念は素晴らしい。だが本当の理想は、リスクを取らずしても大切なものを大切にできる世界だ。本当に良い世界を志向するなら、私達のするべきは、だから彼らを徒に美化する事ではなく、良い未来を阻む者に対し毅然と立ち向かい、NOを突きつける事にあると感じた。

「一人の十歩より十人の一歩」という台詞が作中に登場する。一部の所謂富裕層、ホワイトカラーだけが力を付けたとしても世の中は前進しない、と。現代日本にも適用できそうなフレーズだ。それこそ上野千鶴子先生の東大祝辞のような。オム・ユナ氏の作品はいつも、現実に即している。

「問題に無知・無関心であった主人公が徐々に正義に目覚め行動する」という大筋は、オム・ユナ監督が以前脚本を手がけた「タクシー運転手」と同様だが、今作は更に踏み込み、「未来への継承」というテーマも盛り込んでいた。そして手紙で子どもに思いを伝えられるのも、「ことば」あってのことなのだ。

「タクシー運転手」もそうだったが、オム・ユナ氏の手がける作品は、観賞後、ずっしりと重い大切なバトンを手渡された感覚になる。それは誰かの文化やアイデンティティを奪ってはならないという過去からの学びでもあるし、己のそれを守らねばという使命感でもある。

「同志」であるパンスとジョンファンの凸凹コンビっぷりも観ていて楽しく、またクライマックスは大きな感動を誘う。娯楽性と社会性が絶妙なバランスで成り立っており、アンコール上映がなされたのも納得の素晴らしい映画であった。

 

5.「静かな雨」(日本)

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足の悪い青年と、たい焼き屋を営む記憶障害を持つ女性の、静謐で美しい恋愛映画。

この映画では、とにかくこの二人が「並ぶ」ショットが印象的に反復される。サン=テグジュペリ箴言に、「愛するとはお互いが見つめ合うことではなく同じ方向を見つめることである」というものがあるが、なるほど、この映画に照らし合わせるとしっくりくる。仲野太賀さん演じる行助は足に障害を背負いつつも大学に勤めているし、衛藤美彩さん演じるこよみも、事故により記憶障害を抱えてもたい焼き屋を続ける。それぞれハンディキャップを抱えながらも、二人はちゃんと自立しているのだ。そんな二人が共に人生を歩もうとした時、向かい合うのではなく隣に並ぶのはきっと必然だし、そこにあるのは、依存や傷の舐め合いではなく、前を向いて未来を切り開いていく関係以外の何物でもないだろう。

しかし仲野太賀さんはどの映画でもどの役でも本当に素晴らしい演技をするなと思う。今一番追いかけたい俳優だ。衛藤さんも映画初出演とは思えぬ安定した演技力で、印象に残った。太賀さんを向こうに回して、全く拙い面がない。もっと彼女の演技が見たい。

私は冬がとにかく嫌いなのだが、二人が今頃どこかで並んであつあつのたい焼きを頬張っているかもしれないと思うと、不思議と許せる気がする。作中に出てくる、あんこがはみ出して少し焦げたたい焼きが美味しそうすぎて忘れられない。

 

4.「生きちゃった」(日本)

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私は相当石井裕也監督作品が好きらしい。去年も「町田くんの世界」がベスト1だったし、彼の映画に打ちのめされたり魂が震えたりしなかったことがない。相性がいいのだろうか。

この作品は彼の「原点回帰」らしい。なるほど、決して洗練されてはいないが、その分剥き出しの、力強く泥臭いまでのエネルギーが横溢していた作品であった。

正直シナリオ自体は、石井監督のフィルモグラフィーの中で飛び抜けて巧みだとも強度が高いとも思わなかったのだけれど(テロップで「半年後」と時間を進めていくやり方は相当に雑で無粋だと思う、小説ではなく映画なのだから映像で提示するべきだと思うのだが)、とにかく作品そのものの熱が凄まじい。役者陣の演技も凄まじい。私はこのエネルギーに完全にガツンと殴られてしまった。圧倒された。特に大島優子がすごい。ベッドシーンなど、わかりやすくハードなパートを多く割り振られているというのもあるが、全編を通じてシアター内の空気さえ震わすほどの気迫があった。そういえば話は逸れるが前作「町田くんの世界」には前田敦子が出ていた、石井監督は本作をもってAKB48最盛期のツートップを両方自作で起用したことになる。ファンとして嬉しい限りだ。

そしてやはり、ラストシーンである。「英語だと、すらすら本音が言える」。「言おうと思っても、なんでだろう。声が出ないんだ。日本人だからかな」。仲野太賀さん演じる厚久は作中でそう繰り返す。彼は心の中に本音を仕舞い込んで、全部黙って受け入れて生きてきた。妻の小言にも、不倫にも、実の子供と引き離されたことに対してまでも。そんな彼がはじめて、ちゃんと気持ちを言葉にするのだ。言ったって何も変わらなくても。今更どうにもならなくても。あの嗚咽。表情。震えた。

出来のいい、「うまい」映画はいくらでもある。「面白い」作品も。だが、これだけのパワーを持った映画はなかなかない。好みは分かれると思うが、私は好きだ。大好きだ。

そうそう、この映画、パンフレットが充実の極みだった。値段こそ千二百円と高額なものの、まず分厚さからして一般的なパンフレットの三倍はゆうにある。インタビューなどの文字もこれ以上ないほど細かく、情報量がぎっしり。何より監督の撮影台本(監督本人による詳細な書き込み付き)がまるまる載っかっている。劇中歌のデータ配布までつくという太っ腹ぷり。本当に観に行ってよかった、と心から思える映画だった。

 

3.「破壊の日」(日本)

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ぶっちゃけ、意味は分からない。だがこの映画はそれでいいのだと思う。芸術は、「鑑賞するもの」と「体感するもの」の二つに分けられると思うのだが、この映画は明らかに後者。冒頭の、怒りと禍々しさの権化のような地響きにも似た重低音からもそれが分かる。60分と短いし、あらすじや予告からも起承転結のあるストーリーラインを持つ映画では決してないのだろうと想像できる故、劇場で観るかは正直かなり迷ったのだが、行ってみて正解だった。あの“音”は映画館じゃないと出せない。2020年に公開される新作がなければ、という監督の言葉は本当だった。

スクランブル交差点でのシーンは唸った。コロナ情勢下でゲリラ撮影されているゆえ、道行く人々が全員マスクを着用しているのだ。ある意味作中の何よりも異様な光景なのだが、私達は既にその非日常が日常となった世界線へ来てしまった。

それは確実に今しか撮れない画だし、プリミティブな怒りという本作のモチーフが偶然ではありながらより深化している。また、逆に、「リアル」や「普通」という概念が崩壊してしまった今の情勢をカメラに収め、難解なりに意味を与えることで、恐怖心の中暮らす観客の心を救い、祓ってくれたという印象。フィクションが人の心を救うというのは、きっとこういうことなのだろうと思うし、数多ある媒体の中でも、最も具体的に情報を活写する映画というフォーマットでそれをやってくれたのがとても良かった。難解ながらどこか清々しい後味の映画。人間、癒しばっかじゃなく、たまには怒りに駆り立てられることも必要なのだ。

 

2.「ブラインドスポッティング」

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海外のニュースで悲しいことに時たま耳にする、白人警官による黒人への発砲事件を題材に、人種問題に軽やかに、しかし鋭くメスを入れた傑作。単純に一本の映画としての完成度もとにかく高い。笑いと緊迫感、緩急の付け方とそのバランスが素晴らしい。

さて、ルビンの壺、をご存知だろうか。一枚の絵が、見方によって、壺にも向かい合う人間の顔にも見えるあれだ。「ブラインドスポッティング」、それは「盲点」のこと。壺として見ている時、私たちは人間の顔を知覚することができない。黒人の感じている恐怖を、黒人から見える世界がどんなものかを、白人が本当の意味で理解することができないように。なんと鮮やかな問題の提示の仕方であろうか。しかもこの映画はそれだけでは終わらない。ルビンの壺がそうであるように、逆も然りなのだ。黒人社会で生まれ育った白人の感じる居心地の悪さを、黒人である主人公が理解できる日は来ない。

私はどちらかというと白人であるマイルズのしんどさに共鳴してしまった方だ。ツッパっていないと、黒人のコミュニティの中で「余所者」扱いされるのでは無いかという恐怖。命の危険とは比べるべくもないけれど、本人からしたら一大事だ。なまじ世間では白人が圧倒的強者であるだけに、その苦悩を理解されることも少ないだろう。

この映画を観ていて、一部で「グリーンブック」に集中した批判を思い出した。私は「グリーンブック」も好きだ。あれはあれで、可能な限りの誠実さを追求していると感じたし、そもそも人種問題のゴールは、「黒人であることで迫害されない」ではなく、「誰もがどんな理由があろうと迫害されない」ことにあると思うからだ。だが本作を観て、少し考えが変わったように思う。己の抱えるマイノリティ要素によって、命をも脅かされる危機を感じている人にとって、「グリーンブック」の「チキンの美味さに人種なんて関係ないよね!」というある種の無邪気さは、マジョリティの傲慢と盲目にしか映らないのではないか、と。「誰もがどんな理由があろうと〜」はその通りではあるが、しかし今現に迫害されている/される危機に瀕している黒人側からしたら、「じゃあまず今現に存在している黒人への迫害をやめろ、話はそれからだ」としか思えないのではないか、と。

結局想像力と学びが一番大切なのだろうと思う。いろいろな立場に立つ、いろいろな人の気持ちを想像し相手の視点に立つよう努めれば、ある程度問題は見えてくる。解決方法も。でも自力でルビンの壺のカラクリを解ける人間はどこにもいないから、想像力を正しく使うために、学ぶことを絶やしてはならないのだろう。

 

1.「娘は戦場で生まれた」(イギリス/アメリカ/シリア)

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2020前半でもベスト1に入れた映画。これを超えるものに今年は出会わなかった。

激しい内戦が続くシリアの都市アレッポ。カメラを手にするのは、ジャーナリズムに憧れた一人の女性、ワアド。彼女は医師を志す男性と出会い、結婚。やがて一人の子を宿す。子供の名前は、サマ(アラビア語で“空”の意)。ワアドは幾度も迷いながら、それでもカメラを回し続ける。廃墟で区切られた戦闘機飛び交う空が、鳥が歌い月が眠る空に変わることを願いながら。愛する人たちの生きた証を留めるために。

印象的なシーンしかなかった。今もたくさんの情景が脳裏に浮かんでくる。血で真っ赤に染まった床。顔じゅう血だらけの子供達。「家族は?」と聞かれて、「死んだ」と答える幼い子供。死んだ子供や、孫の遺体に取り縋る女性たち。二度と忘れられない。

とりわけ印象的だったシーンが二つある。

一つは、大怪我で運び込まれた妊婦の姿。急遽帝王切開をすることになった。取り出された赤ん坊は、息をしていない。沈黙したままの赤ん坊に、医師は懸命にマッサージを施す。まだ泣かない。まだ泣かない。もう駄目なのではないか? それでも医師は諦めない。……泣いた! 少しずつだが産声を上げはじめた赤ん坊。シアターに座った全ての観客が、止めていた息を同時に吐き出した。ワアドさんによるナレーションが、母子ともに無事だと伝える。無数の命が一瞬で失われゆく中で産まれた一つの小さな命だ。

そして、忘れられないもう一つは、亡くなった子供に取り縋る母親の後ろ姿。母親は、ワアドさんがカメラを回していることに気づく。「撮ってるの?」取り乱しながら尋ねる母親。抗議するのかと思ったら、違った。母親は「全部撮って!」と叫んだのだ。明らかに異常なことが毎日行われている。愛する子供は腕の中でもう息をしていない。この惨状をどうか記録して。世界中に突きつけて。これでいいのかと。これは許されるのかと。自分と家族の命を守ることで精一杯な市民たちが、ワアドさんのカメラに怒りとSOSを託したのだ。そしてその映像は、すでに私たち観客にも託されている。

「この殺戮が世界中に報道された、でも何も変わらない。世界がこんなことを許すなんて」という内容のナレーションもあった。もう、それはそれはハッとさせられたものだ。シリアの内戦は私もニュースで知っていた。世界の飢餓人口の多さも、難民問題も、信じられない低賃金で働く子供達のことも。でも今まで私は何もしなかった。

シリアの人々の悲鳴がワアドさんの手によって託された今、自分に何ができるのかと考え、いろいろ調べて、特別定額給付金の一部を、国連に寄付をすることにした。この寄付は、少額ながらも今も続けている。

私には国を動かす権力はない。医学の特別な知識があるわけでもない。語学もからっきしだ。だから当面私にできることは寄付くらいしかないのだけれど、映画に、それも当事者の手からなる作品に、こうして具体的に背中を押されたのは全くの初めてで、そういう意味でもこの映画は印象深く、忘れることができない、今年ダントツで一位の作品となった。

 

 

まとめ

というわけで2020年新作映画鑑賞総括、終了です。大変長々と失礼しました。旧作ベストもやろうと思ってたのですが、旧作だけで150本以上となっており、選出がかなり難しいため、新作のみとさせていただきます。今年はまだ当分映画館へ行けそうにないので、代わりに古典映画を攻めていこうと思っております。

 

今年も素晴らしい映画との出会いがたくさんあることを願って。