サラ・ウォーターズ『エアーズ家の没落』と、「風呂敷を畳む」ということ
サラ・ウォーターズ「エアーズ家の没落」、たった今読み終わりました。ほぼ一気読み。
感想を一言で言うならば、めちゃめちゃ面白かった。こういう、結末がはっきりしないと言いますか……ミステリーならば「リドルストーリー」とでも称されるべき作風は、読後の居心地悪さゆえか、割に好き嫌いの分かれるところのようですが、私は大好きです。いやーほんとに面白かった。
恩田陸作品全般、セバスチャン・ジャプリゾ「シンデレラの罠」、ヘンリー・ジェイムズ「ねじの回転」などもこの系譜に加えてよいかと思いますが、こういったよくできた「リドルストーリーもの」を読むたびに、あれこれ腐心して「綺麗に」風呂敷を畳むことのいかに馬鹿らしいか、つくづく実感させられます。作家の伊坂幸太郎が、自身のインタビューで「風呂敷は畳む過程が一番つまらない」というようなことを語っていたけれど、読書体験を微弱ながらも重ねるたびに、その言葉が真理として胸に迫ってくる心地がします(個人的には、伊坂さんほど上手く風呂敷を畳む人を私は寡聞にして知らないのですが、逆に卓越した手腕を持つがゆえに天井を見てしまったのかも)。
とはいえ、ちりばめられた謎や不可解な伏線がラストで意味を与えられ、一枚の絵になるカタルシスと興奮も嫌いではないです。ですが一方で、手に届かないところにあった筈の謎が足元に落ちてきてしまった拍子抜け感、ありていに言えば「冷めてしまう」感覚に襲われることの方が実感としてははるかに多い。それこそ伊坂さんのようによっぽど「巧い」人がやるのでないと、それまで多くの謎で好奇心と期待をかきたてられた読者の目には、どうしても陳腐に映ります。
そういう意味で、発表から七十年経った今もその印象的な書き出しと共に人々に深く記憶され、評価されているウイリアム・アイリッシュ「幻の女」を私は全く評価しません。「派手な帽子を被った女を何故誰ひとりとして覚えていないのか?」という美しくけれんの利いた謎が、「犯人が口止めしてました!」なるそりゃないでしょな真相に堕してしまった時の落胆と失望と言ったら……。ミステリとしての体裁を整える、物語としての分かりやすい「落ち」をつける、ただそれだけのために、ちんけな「真相」とやらを無理やりこじつけるぐらいなら、いっそ美しい謎のままでいてくれ!(「斜め屋敷」レベルの力技になれば、いっそ様式美として楽しめるのですが……うーん難しい。)
人間には、「謎を解き明かしたい」という願望があるのと同時に、「謎には一段上でこちらを見下ろしほくそ笑んでいて欲しい」という欲求も、確かにあるのだと思います。全てを掌握できる世界なんてつまらない。それは物語を読むうえでも変わりません。「謎に手のひらの上で翻弄されたい」、この小説はそんな欲求をおしみなく満足させてくれる作品です。分厚さに最初はやや圧倒されますが、リーダビリティ抜群でぐいぐい読めます。お暇があれば是非。
(2011年ごろに別名義で書いたもの。最近更新ができずこれではいかんと思ったので、とりあえず昔書いたものの中からデータが残っているものを引っ張り出してきて載せました。)
人生が表面をさらうように交差する場所ーー『クワイエットルームにようこそ』
松尾スズキによる2007年の映画、『クワイエットルームにようこそ』を観た。以下感想を。ネタバレ注意。
フリーライターである作倉明日香(内田有紀)は、目覚めると見知らぬ病室にいた。そこは入院患者の中で「クワイエットルーム」と呼ばれる、精神病院女子病棟の保護室。ストレスの捌け口としてオーバードーズを行った明日香は意識を失い、内科で胃洗浄を受けたのち閉鎖病棟であるこの精神病院に担ぎ込まれたのだ。前後の記憶もなく、自殺未遂の意思もなかった明日香は風変わりな入院患者達や高圧的な看護師にとまどい、退院を希望するが、病人の言うことだとまともに取り合ってもらえない。病棟の中で過ごすうち、摂食障害の少女・ミキ(蒼井優)や、同室の女性・栗田(中村優子)、過食障害の西野(大竹しのぶ)らとの交流が始まる。こうして、明日香の奇妙な入院生活は幕を開けた。
というような話なのだが、面白かった。作品の手触りとしては、同じく精神病患者が主人公である『逃亡くそたわけ』が近いだろうか。人生に問題を抱えた主人公が、精神病院という「時の止まった場所」でもがき、同類との馴れ合いや衝突の果てに自分自身と向き合い、前へ進んでいく、というまあありがちなプロットなのだが、この映画、「精神病院」という舞台装置の使い方が抜群に上手い。
私は現在進行形でうつ病患者で、精神病院の入院経験も過去2回、計7ヶ月あるのだけど、そういう経験を踏まえた上で見る、この映画の中の精神病院は実にリアルだ。一般に想像されるような、見るからに「おかしい」人はほとんどいなくて、見た目「普通」のご婦人が突如ナースステーションのドアをガンガン叩きだしたりとか、妙に愛想が良いのがいたり妙に気前が良いのがいたり、「あるある」の連続。みんな症状は違えど同じ精神病という前提があり、構成員は流動的に入れ替わっていくから誰もが人間関係に関して適度にドライ、適度に割り切っていて、なりゆきで声をかけて絆が生まれるところなんか妙にリアル。主人公も、最初こそ「自分はここにいるような存在じゃない」「この人達と私は違う」と頑ななんだけど、周りにとっては「新しい同類」でしかなくて、そこのギャップも個人的にすごく覚えがあった。かようにリアリティ溢れる舞台・人間描写のお陰で、難なく物語世界に没入することができた。
こうしたシニカルな描写をバックに、主人公・明日香が交流の中で自らに向き合っていく様子が描かれるのだが、終盤、観客は明日香と共に、意外な真実を目の当たりにする。実は明日香は、仕事に行き詰まり、恋人に別れを切り出された結果、明確に死を望んでODを行った自殺企画者であったことが恋人からの手紙で明かされるのだ。ここで観客ははじめて、この映画の主人公は「事件前後の記憶をなくした女性」というミステリにおける「信頼できない語り手」の定石的人物だったことに思い至る。
前半部分で登場人物達の生活をコミカルに描いておきながら、後半で一気にその暗部を抉り出すという構成はまったくもって恐ろしいとしか言いようがないのだが、そもそも精神病院とは、自らの病に向き合い、そこから抜け出して前を向いて歩くために、自分の中の何かと「カタをつける」場所である。そうであるからして、ミキの「食事をしない」理由の告白(ここの蒼井優の演技は凄みがあった。蒼井優、ナチュラルなイメージが強かったのだが、この映画ではきつめのメイクにドレッドヘアという出で立ちで、ドライでありながら情に厚い若い女性を好演していた。)、エスカレートしていく西野の異常性、そして明日香のODの真実とそこからの現実との直面は必然のものなのである。こうして明日香ははじめて自らの病理と向き合い、面会に来た恋人と別れの言葉を交わす。辛辣な展開ながらも、明日香が自立して一歩踏み出したことがわかる名シーンである。
辛辣といえば、この映画ではどこを切り取ってもとことん辛辣でありとことん登場人物たちを突き放した描き方をしている。たとえばラスト、明日香は退院するけれども、他の登場人物たちに回復の兆しは一切見えない。ミキは相変わらず食事を戻してしまうし、西野は盗癖が発覚し医療刑務所行きになってしまう。ミキと同じく摂食障害のサエ(高橋真唯)はジグソーパズルが完成したら食事を完食するという約束のもと、一度こそ実際に完食を果たすけれども、それは一度きりのことで、症状が好転したわけではまったくない。明日香と入れ替わりで退院していった栗田は、明日香の退院と同日にまたも入れ替わりで病院に担ぎ込まれてしまう。実は作中、私がもっともリアルだなと感じるのはここで、精神科に限らず、病院というのは自分がどんなに良くなろうが他人は自分と関係ないまったく他人のペースで病状を変化させていく場所だ。5年以上入院している患者の隣のベッドで、別の患者が3日で退院していく場所だ。どこかのレビューサイトで「主人公にばかり光が当たるのみで、周辺人物に解決が与えられていない」という批判を見かけたが、そのような意見に対しては、そもそも病院とはそういうところなのだ、としか言いようがないのである。作中のジグソーパズルに描かれたエッシャーの無限階段が象徴するように、人生とは簡単に解決がつくものではないのである。
だからこそ、無限階段を抜け出した明日香の門出は清々しい。患者達から餞別として受け取った寄せ書きをゴミ箱に放り込み(このシーンは非常に印象的なカットとして映画の中で位置付けられている。 栗田が語った通り、また、私事で申し訳ないが私自身そうしたように、「シャバに出るというのはそういうこと」なのである)、名実ともに過去と決別し、現実に折り合いをつけながら、未来へ向かってバスへ乗り込む。観客である私たちには、明日香の乗るバスの行き先はわからない(人生がそうであるように、明日香自身にもわからないのかもしれない)。荷物の中に入れたままになっていた栗田の連絡先のメモを風に乗せて窓の外に捨て、メモは風に乗ってカメラに向かって飛んでいき、「life is happy@loop.com」というこの映画のテーマを凝縮したようなメールアドレスが大写しになり、幕。
一切の綺麗事を排し、酷と言えるほどにキャラクター達を突き放した本作品は、しかしまぎれもない人生賛歌なのである。
あとどうでもいいところを突っ込むと、庵野秀明が医者役として出てきたばかりか怪我をして早々に舞台から退場したのには思わず吹き出したし(庵野ファン必見)、あとODやらかした患者が2週間で退院ってのはいくらなんでもありえない早さだと思うのだが(精神科の1ヶ月は内科の1日という言葉があって、つまり精神科とはそれほどに長い目で見る必要がある分野ということである)、まあ2時間の映画にそこのリアルを求めるのはいくらなんでも酷ってものだし別にいいか。
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「自衛」論の暴力性、非対称性
21日、出会い系で知り合った中一女子を連れ去った容疑で21歳の会社員が逮捕されている。
このニュースを受けた小池一夫氏のTwitterにおける発言が、数日前から物議をかもしている。ツイートの内容はこうだ。
【今日の家人】今日も中1の女の子を連れ去ったと、馬鹿な男が捕まっていたけど、きっかけはネットの出会い系サイトなのよ。中1で男が欲しかったのか、お金が欲しかったのか分からないけど、中1で出会い系サイトで男と知り合う女の子は、もう女の子じゃない。女。しかも、倫理観も貞操観念もない女。
— 小池一夫 (@koikekazuo) 2016, 2月 21
この件に関しては小池氏本人が既に公式ブログ上で謝罪をしている。「女の子じゃない。女。」という発言によって「女」という属性に俗物的で侮蔑すべきものであるというレッテルを貼った事への謝罪は一切見受けられないためわだかまりは残るが、巷に溢れる「不快にさせてしまったのなら謝ります、サーセンした」式謝罪と比べれば、自分がなぜあのような不適切な発言をするに至ったのか、またどうするべきだったのかが丁寧に分析されており、随分ましなものと思える。よって私としては小池氏のこの発言についてはとりあえずは納得したのだが、こういう発言が著名人の口から発せられてしまうレベルには、こういった「性犯罪は女性側の自衛不足による責任である」という意識が世間で共有されてしまっているわけで、決して問題そのものが解決したわけではない。私は前々からこの「自衛論」については思うところがあったので、この機会にちょっと書いておく。
(ちなみにこの謝罪に対しても納得していない人は当然多くいる。謝罪したからと言って罪が免ぜられるわけではないし、前述の通り「女」という属性を貶めたことへの謝罪もない。また、小池氏の「子供は出会い系サイトにアクセスすべきでない」という主張もそもそもが自衛論の上に立脚しているので、自衛論に反対する立場の人から反発があるのは至極当然なことだ。「謝罪したのだからもう批判しなくてもいいではないか」という声をちらほら見かけるが、そのような行為は怒りを表明し告発する者の口をふさぐ行為でしかなく、私はこれを断固批判する。)
「自衛をしなかった」ことは被害者の落ち度なのか
まず私の意見を述べよう。「自衛をしなかったこと」は、被害者の落ち度では全くない。どれだけ被害者が不用意であろうと、それで責任の所在が被害者にもあることには絶対にならない。
何故こう思うのかは、これから説明していく。
ここに一人の被害者がいるとする。彼、または彼女は、自分の身に降りかかるかもしれない犯罪に対し全くの無頓着であり、警戒を怠っていた。これは被害者の落ち度なのか。
答えは明確に否だ。加害行為というのは、被害者の不注意や隙を突いて悪事を働く加害者がいなければ成立しない。そして、相手に不注意や隙があれば加害行為を行っていいということは全くない。加害行為というのは、不法行為や犯罪のことだ。これは法律でも明確に禁じられている。よって、全ての責任は加害者(刑事事件の場合は行為者と呼ぶ)にある。
そもそも、「落ち度」という言葉は実にあいまいで、かつ考察に欠けた、極めて加害者視点のものだ。性犯罪被害の落ち度としてよく挙げられるのものとして、「夜道を一人で歩いていた」などがあるが、これを落ち度として断罪する者には、「タクシーに乗る金銭的余裕がなかったのかもしれない」というような考察が致命的に欠けている。そもそも、誰でも通れるはずの公道を歩いていたというそれだけで「落ち度」とされる、その理不尽さを想像してほしい。同じく落ち度として槍玉に挙げられる「露出の多い恰好をしていた」というのも同じだ。私たちは自分の趣味に合わせて装う権利がある。それを抑圧して「そんな恰好をしていたから」とは何事なのか。しかもどこからどこまでを「被害者の自業自得」とし、どこからを「これは加害者が悪い」とするかはジャッジする側が決めるのだから、極めて非対称だ。もちろん交通事故のような過失割合が関係してくる場合もあるが、それはお互い故意でないという前提があっての決まりであるし、法律という目に見える一律な基準がある。
(少し話は逸れるが、過去に、大宮駅で痴漢防止を呼び掛けた女子高生達のスカートの長さを指して「矛盾している」という発言を見かけたことがあるが、あれほど的を外した意見も珍しい。短いスカートで痴漢防止を訴えることは、「私達が短いスカートを履いているのは、あなた達が私を痴漢していい理由にはなりませんよ、させませんよ」という極めて強力なメッセージたりうるからだ。)
以上が、私が「落ち度論」を批判する理由である。
なぜ「落ち度論」は発生するのか
では、なぜこのような「落ち度論」は発生してしまうのか。
私が思うに、彼らは、個人の役目たる「自衛」「用心」と、社会の役目である「犯罪抑止」を混同しているのではないか。
勿論自衛や用心はするにこしたことはない。それは私も否定しない。だが、それとは別に、社会には、そして社会の一員たる私たちには、「犯罪抑止」に努める義務がある。そしてその義務は、個人の「自衛」の度合いによって揺らぐことはない。自衛をしていなかったからと言って、それでどうして被害の責任が被害者側に移ることになるのか? 自衛というのは個人の問題だ。個人がいくら自衛を怠ったとて、社会の問題である「犯罪抑止」とその先にある「事件解明」「加害者の処罰」は行われなければならない。
そこをいまいち理解できていない人が、まるで自衛さえすれば全ての被害が防げるかのような口振りで「自衛論」を振りかざすのではないか。
「自衛論」の行きつく果てのディストピア
どれだけ被害に合う側が警戒して慎重になっても、加害者はさらに知恵を絞って巧妙な手段を使ってくるだけだろうし、被害の責任を一部だけだとしても被害者に収れんさせだしたら、それこそ家から一歩も出られなくなる。
被害者の落ち度を「こいつにも非があった」と訳知り顔に裁くことは、結局後々自分の首を持締める結果になると言うことを、「自衛論」支持者は心に刻んでほしいと思う。なぜならそれは、「自分も些細な落ち度を理由に犯罪に巻き込まれても仕方ないですよ」と、自分への加害を暗に肯定する行為だからだ。常に隙を見せずに生活できる人などどこにもいない。自衛論を突きつめていって行きつく先は、完全なる弱肉強食社会だ。「いざというときのために護身術を習っておかずに殺された被害者が悪い」とか、「ボディーガードもつけず女子供で外を出歩いたら被害にあっても仕方がない」のような修羅の国である。
「自衛しろ」といい、しなかった者を裁くのは、自分自身の「平穏な暮らし」や「無事に生きる」事の価値をも低く見積もることだ。だからこそ私は、自衛論に断固反対するのだ。
補記:ネットでの出会いは「安易」なのか?
これは冒頭で紹介した出会い系サイトの問題とも絡むのだが、出会い系サイトやSNS(出会い目的で作られたわけではないサービスでも、結果的に出会いの温床となっている場所は多々ある。多くの人が利用しているブログやツイッター、フェイスブックとて例外ではない)など、インターネットを介した出会いは「安易」なのか。「自衛」の観点から言って、責められるべきことなのか。これに関して、私見を述べる。
まず、私はインターネットでの出会いを安易なものではないと考える。それは、単純に「インターネット上の出会い」を「安易」とする論理的根拠が、(少なくとも、私が思いつく限りでは)ないからだ。「相手の顔が見えないから」というのはよく言われることだが、では逆に、相手の顔を見ただけでその人間性を判断できる人間がどこの世界にいるのか。「プロフィールをいくらでも偽れる」という特性もネットにはあるが、そんなものは顔見知りだって一緒だ。
また、これは記憶が定かでなく出典を明記できず申し訳ないし、それは私の論の弱さでしかないのだが、私の記憶では、ストーカー事件に発展した男女の出会いの場の第一位は「職場、学校」であった。ネットは三位ぐらいだっただろうか(本当に、あやふやで申し訳ない。データなどご存知の方がいらっしゃったらよろしければご連絡ください。すみません)。性犯罪事件でも、顔見知りによる犯行は三割を占めると言う。「ネットでの出会いが危険につながる」という確実なデータは(私の観測範囲内では)存在しないのだ。
というか、これだけSNSが発達して、ネット婚活なども普及している今日、ネットでの出会いをイコールで安易とみなすのは、早計である以前に時代錯誤なのではないかと思ってしまうのだが。
おわりに
ここまで読んでいただいた方、ありがとうございます。だらだらと私見を垂れ流しましたが、私とは意見が異なる方、反論したい方、当然いらっしゃることと思います。
また、ストーカー事件に発展した男女の出会いの場についてのデータを明記できず申し訳ないです。
私は自衛にまつわる事柄について現在のところは以上のように考えていますが、今後考えが変わることもあるでしょうし、まだまだ考えを深めたいと思っています。私に反論がある方、対話したいと言う方は、お気軽に話しかけていただければと思います。
奴隷の鎖自慢やめようぜという話
化粧は"マナー"という社会通念の矛盾と馬鹿馬鹿しさと怒り
「大変なのは女だけじゃない」という正論が新たな強制力に
やっと本題、戦うべき敵を見誤るなという話
2015年上半期観た映画まとめ
本のまとめをやったからには、映画のまとめもやらんとな、ということで。
2015年上半期を一言で表すならと聞かれたら、間髪入れず「映画」と答えるようなそんな半年だった。私はもともと映画が苦手で、だってテレビ見る習慣無いから二時間画面見つめてるだけでもう途方もなく疲れるし、読書と違ってまとまった時間取らなきゃいけないし、閉所恐怖症気味だから映画館怖いし、かといって家に一つしかない居間のテレビ占拠するのはなんか申し訳ないし、等々のごたくを並べこれまでろくに見ずにきたのだが(レンタル含め年に五本見れば良いほうとかそんなレベル)、ここでも散々書いてる通りAKB時代から応援してる前田敦子さんの出演映画が揃いもそろって名作ぞろいなうえ彼女自身も本を出すほどの(これについては前のエントリで書いた)映画好きであることや、一月ごろに親の勧めで見た『ゴッドファーザー』シリーズに体を蜂の巣にされる如くな衝撃を受けたのとで、どうもこりゃそうも言ってられんな、と観念した。元がオタク体質なので一旦決めると行動が早いもので、早速TSUTAYAディスカスに登録し、アル・パチーノやジョン・カザール、ロバート・デニーロ等ゴッドファーザー出演俳優の出演作から固めていって関連して70年代のアメリカ映画とかアメリカン・ニューシネマ作品だとかを片っ端から見る生活を現在も続けている。
こうして一度「映画」というフォーマットに触れてみるとそれはとても鮮烈で重厚でエキサイティングな文化で、何故今まで親しんでこなかったのかと過去の自分を恨む気持ちさえある。ともあれ今では、かつて一時間も読んでいれば頭痛に悩まされた字幕にも慣れ、難儀していた見なれぬ外国人俳優の顔の見分けもすっかりつくようになった。少々出遅れたものの、当分この趣味は手放さぬつもりである。
さて、上半期観た映画は53本だった。以下、なかでも印象に残った映画とその感想を。
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これを語らねばはじまらない運命の一作。四枚組のブルーレイBOXを揃え、原作本を揃え、ろくに英語も読めない癖にわざわざ本国からシナリオブックを取り寄せ、と大変なはまりっぷりは現在もつづいていて、ゴッドファーザーのことを考えない日は無いと言っても過言ではない。抑制されていながら、それでいて三時間私たちを離すことなく釘づけにするドラマチックな展開、俳優たちの名演、ニーノ・ロータの紡ぐ渋みと情緒溢れる音楽、撮影監督・ゴードンウィリスの今見ても画期的な撮影技術などなど、素晴らしい点を挙げればキリがないが、私があえて言及したいのは、この作品における「女性」の描かれ方である。
この時代(というかつい最近までそうなのだが)、とかく女性は「添え物」か「お色気要因」として描かれがちで、彼女らの内面を深く掘り下げた描写や、彼女らが積極的に動き物語に関与してくるということがもう一周回ってどうでもよくなるほど少ない。このゴッドファーザーという作品においてもそれは同様で、「男の世界」であるマフィア映画のなかにあって、マイケルの妻・ケイや、シチリアでの妻・アポロニア、妹であるコニー、娘であるメアリーらはことごとくファミリー業の「蚊帳の外」に置かれる(主人公でありドンであるマイケルが病に倒れた第三作でコニーが女ボス並みの活躍を見せているのは例外とする)。なのだが、それは単に「必要ないから」「男の足を引っ張るだけだから」「女は華を添えていればいいから」ではないところがミソで、彼女たちは徹底的にストーリーの蚊帳の外に置かれることで、逆に「ファミリー業に翻弄される被害者」、そしてなにより「暴力と某略が支配するマフィアの世界を一歩引いた地点から冷めた目でまなざす傍観者」としての立ち位置を明確に獲得しているのである。それはPART1において、夫が名実ともにマフィアのボスと成り果てたことを静かに、しかし愕然と悟ったケイの表情がラストカットに置かれていることからも明白だ。そしてPART2以降、彼女の心は「五年以内に裏稼業から足を洗う」という約束を果たさないマイケルから離れていき、二人の間に生まれた娘は、PART3のラストで凶弾に倒れる。これは父から受け継いだ仕事を全うしつつ家族の為にマフィア家業から足を洗おうと奮闘するも尽く邪魔が入り、ついにはそれまでの幸せな思い出を懐古することにしか生きる意味を見いだせなくなったマイケルの人生とリンクしており、また成りあがりで一代にしてコルレオーネ・ファミリーの基盤をつくりあげ妻や子供にも恵まれた越えられぬ父・ヴィトーの人生との対比の役割も負っている。つまりゴッドファーザーという作品は、女性たちを徹底的に蚊帳の外へ置くことでむしろ彼女たちの存在に意味を与えると言う、「添え物であって添え物でない」という立ち位置の女性たちを描いた稀な映画でもあるのだ。この映画はベクデル・テストこそパスしていないものの、「マフィア物」という題材においては珍しく、女性たちが極めて重要な立場として出演する作品なのである。だから公開当時なされたというこの映画に対する「この作品はマフィアを肯定・賛美している」との指摘は、彼女たちの存在によって既に捨象されていることがわかる。他ならぬ彼女たちが、ファミリー業を冷ややかな目でまなざすからである。シリーズ三作を一週間ぐらいかけてじっくり観て、そのことに気付いた時「すげえ!」と膝を打ったんだが、何故か言及してる人を見ないのでここに書いておく。
もう冒頭からすでにカッコいい。カッコいいのにどこか力が抜けている、ダラけている。あのオフビート感。「I scream,you scream,we all scream for icecream!」のくだりが楽しすぎていつか何かやらかして刑務所行きになったら是非ともやろうと決心した(笑えねえよ)。そしてあの上着を交換して別れるラスト。原題の意味は、刑務所のスラングで「親しい兄弟のような間柄」だそうで。そういう間柄には、握手も挨拶も必要ないのだ。ただ上着を交換すれば、それでいいのだ。同監督の『パーマネント・バケーション』『ミステリー・トレイン』も大好きです。
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もともと私は文庫を常に持ち歩き人気のない場所でこっそり一人芝居をやらかしだすレベルのテネシー・ウィリアムズによる戯曲の大ファンで、そのゆえ戯曲はそもそも役者が演じることを前提に書かれたものであるにもかかわらず「映像化かあ……原作のイメージが損なわれたらどうしよう……」という謎の危惧を持って見始めたのだが全くの杞憂だった。ヴィヴィアン・リーの名演はもちろんだが、若き日の粗野な男を演じ切ったマーロン・ブランドが良い。あの野生の色気といったら!!プロダクション・コードがどうたらでブランチの夫が同性愛者だったという箇所が削除されているのが気に入らんが、まあ仕方ないでしょう。
ベティ・デイビスすげえーーーっ。一級品のサスペンスである本篇もさることながら、彼女の女優魂にものすごい衝撃を受けた一作。今の若手女優って何かと天真爛漫明るく元気系☆な売り出し方をされがちだが、これ、これだよ、こういうのを見たいんだよ私は!!キレイなお人形さんが「演じる」という魔法のもとで狂気の老婆にすら変貌する瞬間が見たいんだ私は。本篇ももうとにかく「ああどうなるの……!」「うわやめろ逃げて!」「おまわりさん!あっち!あっち!」と観ながら手に汗握りまくりだった。
ドラマチックでも、波乱万丈なわけでもない、多分どこにでもいるカップル。どこにでもある恋愛。それがなんでこんなに心地いいのか。出てくる人たちみんなそれぞれどこか変な人たちでありいい人たちで、しかしそうでありながらキャラクター化された「変人」「善人」ではなく、それぞれ考えや思いや主義や価値観のある生きた人間として描かれていたのがよかった。この世界の延長上に自分も居るな、と思える感覚と言おうか。あえて泣きに持っていかず、ふわっと終わったのもポイント高し。こういうゆったりした映画が好きだよ。あとお嬢様な吉高由里子可愛すぎですわ。ごきげんよう。
既に殿堂入りを果たしたゴッドファーザーを除けば今のところ暫定一位。何度見ても泣く。かかしはカラスを笑わせるんだ。アル・パチーノ演じるライアンとの交流による、ジーン・ハックマン演じるマックスの心境の変化が丁寧に描かれていてああもう思い出しただけで泣ける。何度見ても泣けるし、マックスもライアンも実在の人物のように大好きなんだけど、でも物語は淡々と進み、「泣かせる」演出やシーンがないのもポイント高い。ラストは、とある理由で精神病院に入院することになってしまったライアンの治療費に充てようと、夢の洗車屋資金として貯めていた金をマックスがデトロイトまで取りに行くため往復切符を買うシーンで終わるんだが、この終わり方がまた素晴らしい。財布の中の金は切符代には少し足りず、彼は靴の底に隠していた虎の子の十ドル紙幣をナイフでこじ開けて取りだすんだが、切符を無事手にしたマックスは、靴を直すために何度も受付のカウンターに叩きつける。彼の焦燥と、やり切れない思い、そして静かな決意が伝わってくる、素晴らしいラストカットである。アメリカン・ニューシネマの定石通り(?)、現実はままならないんだが、でも最後に小さな小さな希望を残すラストにぐっときた。数年後、マックスとライアンは、無事デトロイトで仲良く洗車屋を経営していると私は信じている(いかん、また涙が)。
何と言っても選曲が素晴らしい。たまに大滝詠一に細野晴臣に笠置シズ子にビートルズオマージュに……ととんでもなく趣味的でハイセンスな劇中曲の数々。それらはこれまた鮮やかで斬新で温かいさくらももこワールドそのものといった映像で彩られ、さながら日本版『イエロー・サブマリン』であり『ファンタジア』である。権利の関係なのか、DVD化されていないのが惜しい。アニメ映画としても傑作であるから、是非後世にも残したいのだが。
完全犯罪とかいう最大の難事業。トムのフィリップへの焼けつくばかりのルサンチマンに、果てしない殺人隠蔽工作。なんかどっと疲れた。ラスト、完全犯罪に酔いしれ「 太陽がいっぱいだ」と呟くトムは、前に自身が殺したフィリップの手で他でもないその太陽に背中を焼かれているんだよな。で、陶酔もつかの間、犯罪は露見すると。太陽とは常にこちらを見下ろす存在。逃れられない運命の象徴か、それとも「お天道様はお見通しだよ」ということか。原作読まなければ。しかしアラン・ドロンは本当にカッコいいですね。
洗練の極みを尽くしたカメラワーク。醜悪さが露骨に映し出された画面の中で、ジャンヌの流す涙だけが美しい。火刑のシーンになだれこんでいくにつれかねてより感じていた息苦しさは増していき、映画が終わると放心状態で暫く動けなかった。業火に焼かれ天に昇らんとするジャンヌと、乳を口に含む乳飲み子の、生と死の残酷なまでの対比。トーキーとは異なるテンポ、小説のページを繰るような淡々としたリズムもこの映画から立ち上る神々しさに一役買っている。トーキー映画が誕生したことにより、情報を台詞で伝えられるようになり、逆に映像の持つ力を最大限発揮する努力を作り手が放棄するようになった、という指摘をどこかで読んだ気がするが、まさに「映像の力」をドカンと付きつけられた感じ。ちなみにこれ、TSUTAYAディスカスに入っておらず近所の公共図書館で観た。こんだけの名作を入れないとか、どんだけだよ。
ポール・オースターの短編を原作に、煙草屋を軸に展開される群像劇。そこに描かれるエピソードの一つ一つは、小さな出会いの偶然を伴ってゆるやかに交差する。それらは決して劇的なわけでも大きな結末を持つわけでもないのだけれど、まさに煙草の煙の如く漂うような心地良さを残す。十年以上同じ場所、同じ時間で写真を撮り続ける煙草屋の主人を演じたハーヴェイ・カイテルの演技が良い。正直、ラストシーンで描かれるエピソードはそれほど良い話とも思えなかったのだけれど、多分この映画ではそれが正解だ。派手な登場人物や劇的な出来事に頼らないこの映画では。どこかにいそうな人々。誰にでも訪れるであろう小さな出会い。そういうもので形作られるこの世界は決して劇的になりきれず、どこか小さな瑕疵を伴う。ラストシーンで描かれる赤の他人二人の心の交流は、カメラの窃盗という小さな「ケチ」がつくことで美談になりきれなかった。だからこそこの物語のラストを彩るエピソードたりえたのだ。そしてその小さな瑕疵は、彼の十年以上続く欠かさぬ日課に繋がって、それが不運な事件で妻を亡くした作家と彼女をささやかな再開へと導く。そういう現実感、ふわっと生じてふわっと漂ったままの雰囲気が地に足を付いて生きている感じがして見ていて安心した。喫煙シーンが多いが、よくある映画のように変にスタイリッシュさを演出するための小道具としてではなく、あくまで生活に則った日常の一部として描かれていたのも好きです。
もう最高。最高だよ。この恬淡としたリズム。平熱感。観ながらひたすらニヤニヤ。ボロ民宿で臭い布団にくるまって二人して笑うシーンではこっちまで声出して笑ったw 微妙な居心地の悪さ、盛り上がりきらない旅の情景。どこまでもリアル。この監督は毎回主題歌の選曲が秀逸。原作も読みたい。多分この二人、後々この旅を思い返しては一緒に笑うんだろうな。印象に残る出来事って、劇的だったり夢みたいな体験とは限らなくて、意外とこういう何でもないことだったりするんだよなあ。山下監督の映画は結構観ているんですが、外れが無いです。こういうリズムの映画が好きなんだなあと最近やっと分かってきたところ。ちなみに監督の作品で一番好きなのは『苦役列車』。これは今度個別にレビュー記事書く予定。……予定。
目がああ目がああああ(悶絶)。はいえ、グロテスクを滑稽さにまで押し上げている作品は嫌いじゃない。というかグロテスクって本来生命の持つ一側面であって決して現実から遊離した概念じゃないんだが、医療や社会保障が整備され地面がコンクリートに覆われた現代においては「死」「怪我」や「虫」「動物の死体」って「非現実」、つまりシュールレアリスムの主題となりうるんだよな。だからおそらく、この映画が製作された1928年よりも、現代のほうがずっとこの映画の「非現実」的な趣は増していると思う。しかし目が……。
リコ、お願い病院行こ?!ってなった。で、考えたんだが、彼の「死ぬのは怖い、でも医者にはかかりたくない」って哀願は、社会で虐げられた者の痛みであり、不信そのものなんだよな。おそらく幼少期から貧しい生活を強いられていて、医学に助けられた経験もなく、社会保障から取りこぼされた身としては、物質面の救済者の代表である医者には不信感と恐怖しかないのだろう。辛い。ちなみにこの映画が原点だという漫画家・吉田秋生の『カリフォルニア物語』も良いです。是非に。
ひたすら逃げてるだけの映画だなあと思ったんだけど、彼らが逃げてるのは、彼らを包摂しようと迫ってくる「社会」であり「規範」なんだよな。そこを思うと本当に悲しくなった。ラストのストップモーションに泣いた。彼らは十中八九蜂の巣になって死んだんだけど、でも彼らの絆と、「明日に向かって撃」たんとした気骨は死なないんだよな。ということを、あの鮮烈なラストカットを見ながら思いました。アメリカン・ニューシネマの作品って、大抵どっちかかかたっぽが死んでしまうけど、両方死なせてもなお、彼らの「生」を画面に焼き付ける方法があるのか、と衝撃だった。あとポールニューマンとロバートレッドフォードかっこいい。それと馬が沢山出てきて大変可愛うございました。ありがとうございました。
他にもいろいろ観ましたが、特筆して語りたいのはこのぐらいです。下半期も良い映画に沢山出会えることを願って。
2015上半期読んだ本まとめ
折角ブログも始めたんだしこういうまとめもやってみようかと思う。一応記録自体は読書メーター/鑑賞メーターでつけているのだが、必ずしも感想を記している訳ではないし、たまにはアウトプットでもしてみようかと。
人魚伝説を軸に展開される壮大なSF大作。物語は頁を繰るにつれともすれば非現実的と呼べる方向に進行していくが、読者を捕まえて離さない抜群のリーダビリティと、虚構と現実の境界を埋めて溶かす科学考証が根底にあるので常に説得力を持ち、読みながら白けるということが全く無かった。物語は終盤に至っても収束するどころかどんどんスケールを増して膨張していき、読む者を圧倒させる。これは恩田陸の作品群を読んでも思うことだが、物語というのはなんでもかんでも風呂敷を畳めばいいわけじゃないのだ。しばしば小説より奇なりと形容される事実は瑣末でけち臭い伏線や全てが収まるべきところに嵌るパズルのピースとは無縁であり、寧ろどうあっても解明できぬ謎をかき抱いてこちらの手の届かない高みで私たちを見下ろして笑っている。全てを掌握できる世界なんぞつまらないと、こういう上手く結末を「投げた」フィクションに出会うたび実感する。
恩田陸の新刊は必ず買うと決めている。そんなわけで発売直後にうきうきしながら読んだ本。これが大当たり。小説ともエッセイともルポルタージュともつかない構造のこの本は、吸血鬼を名乗る謎の男の存在や、合間に挿入される作中作も相まって、恩田陸が東京という街を形容するのにしばしば用いる「モザイク構造」そのもの。土地からインスピレーションを得ることが多いという恩田陸ならではの作風で、東京へ行きたくなった。ふとした時に適当なページを開いて一章ずつ何気なく読み返しても楽しい。好みは分かれそうだが、私は大好きな本。
AKB時代から応援している前田敦子さんのAERAでの連載をまとめたエッセイ。彼女に影響されて映画を観るようになったと言っても過言ではない自分にとっては大変タイムリーな本だった。「論じたいわけではなく、ただ浅く軽く好きでありたい」というのは何かのインタビューでの彼女の言葉だが、その言葉が象徴するように、知識人ぶった大上段からの評論ではなく、あくまでソフトな語り口で淡々と、しかし心底楽しそうに映画を紹介する文章は、良い映画を人と共有することの楽しさを実感させてくれる。映画を観るたび本書を読み返すだろう、読み返すたび映画を観るだろう、そう思わせてくれる良著。シンプルでさらっとした語り口ながら、映画の本質を捉えた的確な感想が多く、ああそういうことだったのか、とこの本を読んで改めて咀嚼できた映画も多い。
山下敦弘監督が2016年に収録作『オーバー・フェンス』を映画化するということで手に取った本。閉塞された青春の只中のぬるま湯のような倦怠と痛みにヒリヒリしながら読んだ。しかしこのオフビート感、山下監督が映画化しないで誰がするんだって感じである。公開を楽しみに待ちつつ、彼の他の作品も手に取ってみようと思う。
ラスト五分の驚愕と、ラスト五秒の恐怖―映画『イニシエーション・ラブ』
(※映画『イニシエーション・ラブ』は、とっても面白い映画です。予告編や公式サイトでも散々宣伝されている通り、驚きのどんでん返しも用意されていますので、まだこの映画を観ていない方は、ぜひまず劇場に足を運んでから、ネタバレ満載のこのエントリを読んでください。)
忘れもしない先月の25日、私は夜のネオンサインをかき分けて走る電車内でぼんやりと車窓を眺めながら、茫然自失の状態にあった。普段ならひと駅分も揺られれば相当な不快感に襲われるはずの肩が触れ合わんばかりの混雑もこの時ばかりは意識の外だった。あれからもう一カ月近くが経つが、未だにどうやって帰ったかはっきりと覚えていない。
映画『イニシエーション・ラブ』を観たからである。
……というのは些か大袈裟であるにしても、私がこの映画から受けた衝撃は否定すべくもない。ただし、その内実は同じくこの映画を観た人の感触とは少々異なっているかもしれない。この映画『イニシエーション・ラブ』は、「ラスト5分の衝撃」という触れ込みで売っている映画なのだが、私が真に驚愕し、そして恐怖したのは、ラスト5分ではない、ラスト5秒、その瞬間であった。
退屈な原作ー乾くるみ『イニシエーション・ラブ』
映像化不可能と思われた原作、その巧みな実写化
大河ドラマなどで、幼年、成年、老年時代をそれぞれ別の俳優が演じる、ひとり二役ならぬ、ふたりひと役のようなことがありますよね。そのように、太ってる時代と痩せてる時代を別の俳優が演じていると思わせれば、仕掛けが成立すると思ったんです。最初に太った朴訥な男を出して、彼が繭子に「君のために痩せるよ」と言ったところで場面が変わり、イケメンが登場。イケメンになった途端、調子こいて他の女に乗り換えて見えると言う構造でやってほしいとお願いしたんです。
そう。「別の人間二人をひとりの人間と錯覚させる」という難関を、映画版では、「太っている時代」と「痩せている時代」を設定し、それぞれを別の俳優に演じさせることによってクリアーしたのだ(ちなみに鈴木の「太っている時代」を演じたのは、ドラマ『モテキ』で主人公の肥満時を演じた俳優・森田甘路さん。彼には既に「ふたりひと役」をこなしたという「アリバイ」があり、それも視聴者を欺くトリックとして機能したとも言える)。
つまり、小説という媒体の特性に依存したトリックを、今度は「同じ役を異なる役者が演じる(視聴者は"そういうもの"と飲み込んで難なく物語世界に没入する)」という映像作品のお約束の利用によって成立させたのである。これは、見事としか言いようが無い。前章で散々原作をこき下ろしたが、こうして見るとやはり乾くるみという作家の「アイデア力」は頭抜けている。クリエイターとして、その媒体が持つ特性とその裏側にある「盲点」に、相当自覚的で敏感な作家なのだろう。
文句無しの実写化だった。「デブ時代」の鈴木と、松田翔太演じる鈴木が別人だと分かる、「ラスト5分の驚愕」。だがそれだけでは、「原作小説の映像化」としては満点でも、益体も無い恋愛小説が益体も無い恋愛映画に変わっただけなのだから、一本の映画、作品としては「つまらない」ままだ。しかし堤監督は、この作品に原作にはないあるエッセンスを盛り込むことによって、つまらない筋書きに新たな「顔」を与えている。そしてそれこそが、記事タイトルにも冠した「ラスト5秒の恐怖」、その元凶なのだ。
ヒロインはサイコパス?ラスト5秒の恐怖
ここでまず、原作の「ラスト二行」、そして映画の「ラスト五分」で何が起こったか説明したい。繭子との破局を迎えた後のB面の鈴木(辰也)は、繭子に間違い電話をかけてしまう。受話器が外れる音がして聞こえてきたのは、
「もしもし、たっくん?」
という、あまりにも「普通の」トーンの繭子の声だった。
辰也は衝撃を受ける。「まさか」、というリアクションでおずおずと自分の名を呼ぶのなら分かる。もしくは、たっくんであってほしい、と祈るように言うのならば。しかし、受話器越しの繭子の声は、まだ二人が蜜月時代にあったころ毎日電話をしていた時のような、あまりに「普通の」トーンだったのだ。折しも世間はクリスマスムードを迎える頃、イヴの日辰也は東京での新しい彼女・美弥子の家へ招かれる。両親との歓談もそこそこに、美弥子の部屋で二人きりとなった辰也の頭の中には、依然として「繭子はまだ自分との別れが飲み込めていないのではないか、今頃繭子は、別れた後キャンセルしたはずのホテルの前で自分を待っているのではないか」という疑念が渦巻いている。
美弥子は言う。「何考えてるの、辰也」。ここではじめてB面の鈴木の名前が明かされる。辰也は答える。「何でもない」。
……と、最後の二行ではじめてA面のそれとは違う「鈴木」のファーストネームが明らかにされることで、「これは同時進行の物語だったのか!」と読者に悟らせる仕掛けになっているのが原作。当然、「鈴木」の一人称によって進行するこの物語からは、繭子の二重恋愛が「単に寂しかったから」なのか、それとも何か別の理由が存在するのかは想像するしかない。
だが、映画の場合ラストは大きく異なる。辰也は美弥子の部屋で彼の疑念を彼女に直接吐露し、「そんなまさか」と引きとめる美弥子を振り切って彼女の家を飛び出す(この辺映像的な派手さも狙っているのだろう)。車のエンジンをかけ向かうのは、イヴに一緒に食事をしようと約束していたホテルの前。夜の中高速道路を飛ばし、待ち合わせ場所にたどりついた辰也の想像は的中、ドレスアップした繭子が笑顔でそこに立っている。「マユ!」駆け出した辰也。そこで彼はいきなり前に飛び出してきた男とぶつかり転倒。そう、その男こそが、A面の「鈴木」、夕樹だったのだ。「たっくん、大丈夫?」夕樹を助け起こす繭子の言葉に耳を疑う辰也。続いて繭子は辰也に「すみません、大丈夫ですか?」と声を掛けかけ、「たっくん?」と驚きの表情。
想定外の展開に二の句が継げないでいる辰也に、繭子はあくまで笑顔で言う。「どうしたの?たっくん」。
この笑顔の衝撃よ。これこそ私が「恐怖」した「ラスト五秒」の正体だ。
まともな感性を持った人間なら、二股をかけていた男同士が鉢合わせするなどと言う最大級の修羅場に見舞われれば到底「笑顔」ではいられないだろう。焦り、狼狽し、何とかその場を取り繕おうと必死になるはずだ。しかし繭子はあくまで笑顔のままなのだ。まるで当然のように、平常心そのものの様子で「どうしたの?」と真正面からカメラに向かって問いかけるのだ。これが映画のラストカット。その後のエンドロールでは舞台となった80年代の風俗のあれこれがスタッフロールと共に紹介されていたが、あの笑顔の衝撃で到底楽しむどころではなかった。なんてこった、ヒロインは常人の心を持たぬサイコパスだったのか?!
要る? 要らない? 最後の「答え合わせ」
ところで、この繭子の「笑顔」の直前、この映画の最後には、映画のシーンをご丁寧に「本来の時系列順」に並び替え、作品の仕掛けを解説する、「答え合わせ」パートが挿入される(辰也とのデートでコーラをこぼしてしまったワンピースを、夕樹と電話しながら拭いているシーンなど、作中に張られた伏線まで丹念に見せている)。レビューサイトなどを見ていると、「あの答え合わせは要らなかった」という声が割に多いことに気づく。「あれでは"二回観"ないよ」と。また、そもそも「最後の五分、全てが覆る。あなたは必ず二回見る」という宣伝文句自体、観客の猜疑心を煽っていて、ラスト五分の驚きを削いでしまっている、という指摘も多い。
だが、私はこう考える。「とっくに人口に膾炙した、ベストセラー小説の映画化で観客を騙す」ことに、そもそも監督の主眼は(全くとは言わずとも)なかったのだと。そして、真の主眼を解きほぐす鍵は、他でもない「ラスト5秒」に隠されているのだと。
ここで、パンフレットの堤監督コメントを引用する。
それにしても、なぜ繭子はふたりの男と二重生活を送っていたのか。(中略)ふつうに考えれば寂しかったからだと思いますが、実はもっと巨悪の因子を持っていて、このまま10年後には、10人ぐらいの男と付き合って、保険金殺人とか猟奇的な殺人事件を起こしているかもしれません。そんな危険性の片鱗も画面にそっと込めました(笑)。
そうなのだ。あのラスト5秒の笑顔こそ、どんでん返しのアイデアを実現させるための傀儡でしかなかった筋書きに、映像化にあたって堤監督が付け加えた新たなテーマだったのだ。ラスト5分、ミステリーへと変貌した恋愛映画は、ラスト5秒で、繭子という常軌を逸した人間を描いたサイコホラーへと新たな変貌を遂げるのである。これは私見だが、あの宣伝文句や答え合わせすらも、真のテーマー繭子という人間性ーを覆い隠し、観客をラスト5秒で恐怖に突き落とすためのレッドヘリングであったと解釈している。「この作品には仕掛けがある」という情報を前もって与えられた観客の注意は自然とその仕掛けを暴くための伏線探しに集中し、登場人物個々の人間性の読み取りから逸れていく結果となるからである(そういう意味で、まっさらな知識で臨んだ者よりも、原作既読の観客の方が、ラスト5秒で受ける衝撃は大きいかもしれない。彼らにはトリックの根幹を予め知っているが故の余裕があるからである)。
キュートな笑顔の奥の掴みどころのない魅力 女優・前田敦子
渡辺 前田さんって"⚪︎⚪︎キャラ"みたいにはっきり決まってないと思うんです。見た目も性格も、一つのキャラでくくられないというか。ーファンを限定していない感じ?
渡辺 そうなんです。(中略)いい意味で掴みどころのない不思議なオーラとでも言いますか……。そしたら、たまたま先輩たちが前田さんに「あっちゃんって謎だよね?」って話しているのを聞いて、ずっと一緒にいる人から見ても、そういう印象なんだと思ったことを覚えています。前田さんって、MVによっても印象が変わるし、振り付けによっても違いますよね。(中略)そういう謎というか、何にも当てはまらない感じが、AKBのセンターに必要なのかなって思いました。
記憶が不確かなため出典を上げることが出来ず申し訳ないのだが、『イニシエーション・ラブ』に関してのインタビューで、堤監督が彼女の起用に関して「前田敦子と一対一で向き合って落ちない男はいない」という主旨のことを発言したことがあった。それにはファンとして諸手を挙げて賛成するところであるが、それ以上に、繭子という難しい役を演じるにあたって、彼女のこの「ニュートラルさ」「"謎"な印象」、「何考えてるか分かんない感」とでも言うべきものが絶妙に効いていたと思うのだ。あの笑顔で迫られれば降参するしかないキュートさの一方で、「この子なら不穏な事考えていてもおかしくないな」と思わせる、何か。何者でもない故に、何者にでもなれるバランス感覚。前田敦子のこの持ち味は、彼女の今後の女優業において大きな武器となると思うのだが、どうだろう。
まとめ