お母ちゃんは神様です--「湯を沸かすほどの熱い愛」

映画「湯を沸かすほどの熱い愛」を観た。以下感想を。ネタバレしています。

 

 

あらすじ:宮沢りえの「紙の月」以来となる映画主演作で、自主映画「チチを撮りに」で注目された中野量太監督の商業映画デビュー作。持ち前の明るさと強さで娘を育てている双葉が、突然の余命宣告を受けてしまう。双葉は残酷な現実を受け入れ、1年前に突然家出した夫を連れ帰り休業中の銭湯を再開させることや、気が優しすぎる娘を独り立ちさせることなど、4つの「絶対にやっておくべきこと」を実行していく。会う人すべてを包みこむ優しさと強さを持つ双葉役を宮沢が、娘の安澄役を杉咲花が演じる。失踪した夫役のオダギリジョーのほか、松坂桃李篠原ゆき子駿河太郎らが脇を固める。(映画.comより引用)

 

さて、いきなりだが、このエントリをお読みのみなさん、あなたはこの映画についてどのようなイメージをお持ちだろうか。既にご覧になった方はどういった感想を抱いただろう。まだ観てないよという方は、どのような内容を想像していらっしゃるだろうか。

私はこの映画を半年ほど前に、アマゾンプライムで観た。そもそも私のメインフィールド(というか好み)はアメリカンニューシネマやマフィア・ギャング・犯罪映画だ。こういったヒューマンドラマ系はあまり観ない。だが好きなアイドルが「この映画を観て泣いた」と雑誌の近況欄に書いていたのを思い出し、ちょうど入院中でアホほど時間があったので、「評価も高いしキャストも豪華だし、たまにはこういうのもいいだろう」と思い、軽い気持ちで観始めた。

 

そう、「ヒューマンドラマ」だと思って、「軽い気持ちで」観たのだ。そうしたらこれがとんでもなかった。

気持ち悪かった。そう、本当に気持ち悪い映画だったのだ。でもただ気持ち悪いと言っても何も通じないだろう。どこがどう気持ち悪いかは、これからたっぷりと書いていく。けれどまず、結論から言わせてもらおう。これは、家族愛を描いた涙のヒューマンドラマなどでは全くない。これは、間違いなく、宗教映画だ。

 

宗教映画とはどういうことか。何が私の心に「気持ち悪い」という感情を喚起させたのか。それは現実的な良識に照らして考えればたびたびかなり「アウト」なものであるにも関わらず、宮沢りえ演じる双葉の選択・命令・行動のすべてが劇中では完全に肯定されている点である。すべてプラスに転ぶ点である。宮沢りえは常に正しく、常に良い。要するに、宮沢りえイエス・キリストなのだ。

劇中から分かりやすい例を挙げよう。学校でいじめられ、制服まで盗まれている(言葉の暴力だけに留まらず実害が出ている)娘に、しかし宮沢りえは「逃げてはいけない、立ち向かえ」と言い放つ。一般論としていじめに対しどう対処するべきか、というのはケースバイケースであるのでここでは措くとして、明らかに逃げたがっている(実際に学校を暫く休みたいと訴えている)娘に、「なんにも変わらないよ、お母ちゃんと安澄は」と言って学校に行かせると言うのは、娘の意思を尊重せず娘を守る事を放棄しているという点で明らかに毒親の行動である。だが、結局学校へ向かった娘は、失くなった制服についての情報を担任が呼びかけるHRにおいて、母の言葉を思い出し己を鼓舞し、制服の代わりに着ていたジャージを自ら脱ぎ捨て下着姿になり、制服を返してくれ、と、母の言葉の通り「立ち向かう」。そして結局制服は戻り、いじめは収束する。一見「いい話」のようだが、「学校へ行け」と言った時点での宮沢りえには自分の娘がそのような形で立ち向かうことができるかなどというのは全く判る筈もないし、さらにただいじめられて帰ってくる可能性もじゅうぶんにあった。しかし結果的に母の判断は正しかったことが証明される。娘は戻ってきた制服を着て、宮沢りえに迎えられるのだ。この恐ろしい無謬性よ!しかもこの話はそれだけでは終わらない。下着姿になった娘が着用していた下着こそ、なんと制服が盗まれるずっと前に宮沢りえが娘に「大事な時のために」と買い与えた下着(このくだり単体でも随分気持ち悪いものがある)であったのだ!完全にキリスト教で言うところの「神の御技」である。

この映画は基本的にこうした教祖性と呼んでいいレベルの母親の正しさが反復される。しかもタチが悪いのが、そうしたエピソードのひとつひとつが、気持ち悪さはそのままに、圧倒的に「観客の胸を打つ」点である。ただお母さんが死んじゃって悲しい、という安易な御涙頂戴映画ではない。あまりにも狂った価値観の元に、この、人の心を動かす映画は築かれているのだ。恐ろしいとしかいいようがない。

 

ラストシーンについて、「怖い」という感想はしばしば見つける。母親を火葬した火力で銭湯の湯を沸かし、家族がそこに「あったかいね」などと言いながら浸かる、というのは確かに普通に常軌を逸しているし怖い。だが私はそれ以前に、前述した母親のカルト性が気持ち悪くて気持ち悪くて仕方がなかったのだ。

 

さて、思い切って更に付け加えると、この映画の製作者は双葉のキャラクター造形をイエス・キリストをモデルにして練り上げたのだと、私は半ば本気で考えているのだがどうだろう。親と子の関係が幾度も反復される点は聖書にインターテクスチュアリティを見いだすことが出来るし、血縁ではない間柄のなかで魂が継承されていく物語構造は、キリスト教の歴史そのものをなぞっていると指摘できる。松坂桃李演じるバックパッカーを見返りなしに愛を持って抱きしめ、進むべき道を示す様はキリスト像そのままだ。人間ピラミッドのシーンの最後、宮沢りえが「死にたくないよ、生きたい、生きたい」とひとり慟哭する場面などは、ゲッセマネの丘で「その盃をわたしから遠ざけて下さい」と涙を流し祈祷するキリストの姿に重なって仕方がなかったし、その死によって、残された共同体の結束がより固いものとされた点も、イエス・キリストの死によって地上の人間の罪が赦されたというキリスト教の教義との類似を見るのは私だけではないだろう。

一応言っておくが、このエントリは、この映画の持つ、愛や人を想うことといった力強いメッセージをいささかも否定するものではない。「あの人の為なら何でもしようと思えるんです、多分自分がそれ以上にしてもらっていると思うから」などの台詞も、実感を伴ってしっかりと胸に届いた。ただ、それら全ての要素の根っこを掘り起こした時に、あまりに異常な価値観が顔を出す、という見方を提示しておきたいだけである。

 

さて、宮沢りえの教祖性や、この映画がいかに聖書と相似するものを持っているかは十分書いた。だが、まだ足りない。

聖書を一度でも読んだことのある方は、難しいなとか、長いなとか、でも荘厳で美しいなとか、あの画家が描いていたのはこのシーンだったのかとか、キリスト教の歴史やイベントも知らず知らずのうちに自分達の生活に根ざしているのだなとか、きっと一言では表せない、様々な感想を抱いたことと思う。そして、こうは思わなかったか。不条理だな、怖いな、と。

そう。この映画における母親もまた、怖いのである。

カフェかなにかで、娘を連れた探偵と会っているシーンを思い返してほしい。あの母親は、せいぜい数回しか会ってない探偵の髭の剃り残しを指摘し、挙句、手で、抜いた。覚えていらっしゃるだろうか。あれは一体何なのだろう。あそこを観て私はもう、あ、この人おかしい人だ、と思って青くなった。まだある。その探偵が見つけてきた夫の家に突入した際、宮沢りえオダギリジョーをおたまで殴るのだが、殴ったことで頭から流れ出た血を、彼女は、おたまで、受け止めるのだ。もう嫌だ!何なんだあの女は。何のために挿入されたシーンなのだろう?分からない。あまりに意味不明だ。あまりに不条理だ。怖い。

怖い部分はまだある。松坂桃李に対する、「反吐が出る」発言。母親の家の窓ガラスに石を投げるシーン。娘の実の母親をいきなり引っぱたく場面。この映画で宮沢りえは神のような正しさを持っている反面、こうした攻撃性を持っていることがわかる。それだけなら、別にいいのだ。攻撃性というのは誰もが持っているものだから。怖いのは、その彼女の攻撃性が、全て、子供が見てないところで出てくるところだ。子供は車で待ってたり、寝てたりしていて、母の攻撃性に気付くことはない。闇だ。怖い。

 

あとはまあ……いつ倒れるとも知れない体でよく子供乗せて運転できるな?!とか、子供の前でラブホテルの話をする松阪桃李と、全く引くことなく彼の話を笑って聞く女3人の異常さとか、色々あるのだが、もうその辺は単に脚本上の粗だろう。

 

はてさて、とにかく、様々な意味でインパクトと引きずるものがある映画だった。繰り返し言うがこれは私にとっては宗教映画なので、好きだとか嫌いだとか言う感想はそもそも私の内には成り立たない。ただ受け入れるか、遠ざけるか、それだけである。こんな気持ち悪い映画、遠ざけたいなあ、と言いたいものの、際立った異常性ゆえに結局きっちり三回観てしまった上にこんな長ったらしいレビューを書き、午後のロードショーをしっかりと録画してしまった私も、大概宮沢りえのカルト性に当てられているのかもしれない。

 

 

 

 

「僕と君」からはじめる世界改革——「グリーンブック」

(※映画「グリーンブック」は、とっても面白い映画です。まだご覧になっていない方は、ネタバレ満載のこのエントリを読む前に、是非劇場に足を運んでみてください。)

 

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あらすじ

時は1962年、ニューヨークの一流ナイトクラブ、コパカバーナで用心棒を務めるトニー・リップは、ガサツで無学だが、腕っぷしとハッタリで家族や周囲に頼りにされていた。ある日、トニーは、黒人ピアニストの運転手としてスカウトされる。彼の名前はドクター・シャーリー、カーネギーホールを住処とし、ホワイトハウスでも演奏したほどの天才は、なぜか差別の色濃い南部での演奏ツアーを目論んでいた。二人は、〈黒人用旅行ガイド=グリーンブック〉を頼りに、出発するのだが─。

(公式サイトより引用)

 

「グリーンブック」の立ち位置

差別問題を社会的視点から説教臭く語るのではなく、あくまで市井の人々の「個人」という地平において描いているのが良い。トニーとドクターは生活スタイルも趣味嗜好も肌の色も異なるが、そんな二人が道中何度か衝突しながらも徐々に心を通わせていくいきさつを通して、この映画はするりと人種差別問題にメスを入れる。

二人の交流の描き方がなんとも見事だ。チキンを一緒に食べてみたり、家族への手紙を書くうえでアドバイスを受けたりと、共感しやすい卑近なエピソードを採ることでどこか「ほのぼの」かつコメディータッチでストーリーが進む。大きな起伏のない脚本も、二人の関係の変化を自然なものとして観客に提示することに一役買っている。

 

「さわやかコメディ映画」のさらに上を行く"残酷さ"

かといって、単なる「ほのぼの」では終わらず、人種差別にまつわる、背中に冷たいものが走るようなシビアな現実がしっかりと描かれているのもこの映画の見どころだ。たとえば序盤、トニーは、黒人業者が口をつけたグラスを、汚いものでも見るような目でゴミ箱に放り込む。何気なく入った衣料品店で、ドクターは試着を断られるし、とあるピアノの演奏会場には、白人用のトイレとは別に、屋外に粗末な仮設トイレが「黒人用」として用意されていたりする。「肌の色がどうであろうと、みんな分かり合える!」というような生ぬるく甘いヒューマンドラマでは全くない。トニーとドクターは友情を手に入れるけれども、世の中に蔓延る容易に越えられない断絶の壁の存在も念を押すように繰り返される。

また、黒人に対する偏見への言及の仕方も巧い。黒人であるドクターは、差別に直面した時、黙って引き下がる。対する白人のトニーは、怒りをあらわにして、たびたび反射的に相手を殴る。これは「黒人は野蛮である」という差別的な通説にクエスチョンを投げかけるだけでなく、そのような差別がいかに社会に蔓延しているかを、ドクターの「またか」と言わんばかりの諦観の表情で示す。こうした二重構造をこの映画は持っている。

 

 

アカデミー賞騒動と、「グリーンブック」のもつ確かな先進性

さて、おもにアカデミー賞の場において、この作品はとある批判に晒されている。「ドライビングMissデイジー」などでも指摘されていた、いわゆる「マジカル・二グロ」「白人の救世主」というステレオタイプが描かれ、その域を脱していない、というのが主な主張だ。

だが私は、そのような批判は物語の中で既に捨象されていると考える。何故ならこの映画は、人種差別についての問題提起以前に、徹頭徹尾ふたりの人間の友情を描いた、単純なロード・ムービーだと思うからだ。そもそもが、「黒人はこう描くべきだ」「白人の物語上での扱いはこうすべきだ」といった文脈を必要としていないし、なんならそういった文脈から二人が解放され、一対一の人間同士として互いに向き合うところがこの物語の肝なのである。

私は常々、黒人が、黒人であるという必然性を持たずに主人公となる作品が今の映画界に少なすぎることを憂いているのだが(従来の多くの作品で黒人は常に黒人であるゆえの苦悩を抱いて作中に登場し、その苦悩を描くことが作品のテーマとなる)、そもそも本来として、「人種差別をしてはいけない」という文章は根本のところがズレていて、正確には「誰しもが、どのような理由があろうと不当な扱いをされず、リスペクトされ、大切にされるべき」なのだ。人種、肌の色は、年齢、性別、国籍、セクシュアリティといった、"その人"を表す数ある属性の一つに過ぎない。もちろん黒人が肌の色を理由に迫害され、差別されてきた歴史は事実であり、そこを軽視するつもりはないし、してはいけないし、私達全員が常に考え向き合わなくてはならない問題である。だが「過ちに向き合い反省する白人」や「差別に対し怒り抵抗する黒人」の出てくる作品を作れ、というのはそれでまた新たなカテゴライズを生むだけであるし、時代の前進も期待できない。

感じの悪いレストランなんてこっちから願い下げだと揃って一緒に踵を返す、立ち寄ったバーでの即興のピアノ演奏が盛況で迎えられ自分のことのように喜ぶ、クリスマスパーティにも招待する。何故なら彼は八週間旅を共にした友人だから。そこには既に、相手が黒人だとかといった問題は何の意味も持たない。「黒人だから迫害しない」ではなく「誰もがどんな理由があろうと迫害されない」というのが人種差別問題の真の目指すべきゴールであろうし、それを鮮やかに体現してみせたこの映画が、この今もヘイトにまみれた世の中に風穴をあけることになるであろうと私が期待するのも、それだからなのである。

時代遅れの名作ーーシェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』

不勉強なもので、恥ずかしながらシェイクスピア作品は今まで四大悲劇しか読んだことがなかったのですが、先日「じゃじゃ馬ならし」を読み、ちょっとかなり納得のいかない内容だったもので軽く所感などを。

簡単に粗筋を述べると、金持ちの主人の家に美しい娘が二人いて、妹のほうは非常におとなしくしとやかで、こちらのほうは求婚者が絶えないのだけれども、片や姉のほうは家庭教師に暴力を振るうわ、人目もはばからず大声で暴言を吐くなど、要するに大変なじゃじゃ馬なわけである。で、父親は、「姉のほうに結婚相手が見つかるまでは妹のほうは何人たりとも結婚させない」と言うものだから、妹目当ての求婚者は非常に弱ってしまう。そこにとある旅の男が現れ、自分は金が欲しいから、姉のほうに求婚するつもりだ、と言う。当然姉のじゃじゃ馬っぷりを知る周囲の人間は、お前にあんな女が手に負えるはずがないと言うのだが、男は、自分には策がある、と宣言し、実際に彼女をすっかり手なずけて結婚してしまう。挙句の果てに、彼女は妹や知人の夫人に「妻とはこういうものであるべきよ」と「よい妻論」を説き、かくして「じゃじゃ馬ならし」は果たされた、ということで幕が引かれる。

勿論これはあくまで大筋であって、妹への求婚者たちの奮闘ぶりなど、喜劇にふさわしいおかしみも多々あるのだが、私はこの「自由で何者にも縛られない女性が、男の手によって”男に都合のいい女”に作りかえられてしまうという筋書きに、これが400年前の作品だという事実を加味しても、納得がいかなかった。

言うまでもなく、男女は対等であるべきだ。どちらかがどちらかの所有物になってはいけない。誰かが誰かにとって都合のよい存在になると言うことはつまり、彼女、もしくは彼が自分の尊厳を手放した(手放させられた)ということだ。女性が男の策にかかり、本人の預かり知らぬところで尊厳を失わされるこの物語は、私にとって恐怖以外の何物でもなかった。

実際にこの「じゃじゃ馬ならし」は、世界中のフェミニストから批判され、イギリスの作家、バーナード・ショーも、「まともな感覚を持った男なら誰しも、すっかり馴らされてしまったカタリーナの最後のセリフを女性の観客と一緒に聞くことに困惑しない筈はない」と書き記している。

それでも、時代は、価値観は、アップデートされている。
テルマ&ルイーズ』『少女革命ウテナ』『アナと雪の女王』『マッドマックス怒りのデスロード』『茨の城』そしてその映画化である『お嬢さん』等々、「抑圧されていた女性が同性との連帯を通して自己の開放を果たし自由な世界へ歩きだしてゆく」というテーマの物語は、次々と生み出され続けているのだ。だからこそ、その対極に位置する物語であるところの「じゃじゃ馬ならし」は非常に苦い読後感の残る作品となった。

じゃじゃ馬ならし」が、劇作品としての完成度の高さはそれとして、テーマ性については、「もう古いよね、時代錯誤だよね」と言える時代になっていることを、私は心から嬉しく思います。

 

 

じゃじゃ馬ならし・空騒ぎ (新潮文庫)

じゃじゃ馬ならし・空騒ぎ (新潮文庫)

 

 

 

 

サラ・ウォーターズ『エアーズ家の没落』と、「風呂敷を畳む」ということ

 

エアーズ家の没落上 (創元推理文庫)

エアーズ家の没落上 (創元推理文庫)

 

 

 

エアーズ家の没落下 (創元推理文庫)

エアーズ家の没落下 (創元推理文庫)

 

 

 

 サラ・ウォーターズ「エアーズ家の没落」、たった今読み終わりました。ほぼ一気読み。
 
 感想を一言で言うならば、めちゃめちゃ面白かった。こういう、結末がはっきりしないと言いますか……ミステリーならば「リドルストーリー」とでも称されるべき作風は、読後の居心地悪さゆえか、割に好き嫌いの分かれるところのようですが、私は大好きです。いやーほんとに面白かった。
 
 恩田陸作品全般、セバスチャン・ジャプリゾ「シンデレラの罠」、ヘンリー・ジェイムズ「ねじの回転」などもこの系譜に加えてよいかと思いますが、こういったよくできた「リドルストーリーもの」を読むたびに、あれこれ腐心して「綺麗に」風呂敷を畳むことのいかに馬鹿らしいか、つくづく実感させられます。作家の伊坂幸太郎が、自身のインタビューで「風呂敷は畳む過程が一番つまらない」というようなことを語っていたけれど、読書体験を微弱ながらも重ねるたびに、その言葉が真理として胸に迫ってくる心地がします(個人的には、伊坂さんほど上手く風呂敷を畳む人を私は寡聞にして知らないのですが、逆に卓越した手腕を持つがゆえに天井を見てしまったのかも)。
 
 とはいえ、ちりばめられた謎や不可解な伏線がラストで意味を与えられ、一枚の絵になるカタルシスと興奮も嫌いではないです。ですが一方で、手に届かないところにあった筈の謎が足元に落ちてきてしまった拍子抜け感、ありていに言えば「冷めてしまう」感覚に襲われることの方が実感としてははるかに多い。それこそ伊坂さんのようによっぽど「巧い」人がやるのでないと、それまで多くの謎で好奇心と期待をかきたてられた読者の目には、どうしても陳腐に映ります。

 そういう意味で、発表から七十年経った今もその印象的な書き出しと共に人々に深く記憶され、評価されているウイリアムアイリッシュ「幻の女」を私は全く評価しません。「派手な帽子を被った女を何故誰ひとりとして覚えていないのか?」という美しくけれんの利いた謎が、「犯人が口止めしてました!」なるそりゃないでしょな真相に堕してしまった時の落胆と失望と言ったら……。ミステリとしての体裁を整える、物語としての分かりやすい「落ち」をつける、ただそれだけのために、ちんけな「真相」とやらを無理やりこじつけるぐらいなら、いっそ美しい謎のままでいてくれ!(「斜め屋敷」レベルの力技になれば、いっそ様式美として楽しめるのですが……うーん難しい。)

 人間には、「謎を解き明かしたい」という願望があるのと同時に、「謎には一段上でこちらを見下ろしほくそ笑んでいて欲しい」という欲求も、確かにあるのだと思います。全てを掌握できる世界なんてつまらない。それは物語を読むうえでも変わりません。「謎に手のひらの上で翻弄されたい」、この小説はそんな欲求をおしみなく満足させてくれる作品です。分厚さに最初はやや圧倒されますが、リーダビリティ抜群でぐいぐい読めます。お暇があれば是非。

 

(2011年ごろに別名義で書いたもの。最近更新ができずこれではいかんと思ったので、とりあえず昔書いたものの中からデータが残っているものを引っ張り出してきて載せました。)

人生が表面をさらうように交差する場所ーー『クワイエットルームにようこそ』

松尾スズキによる2007年の映画、『クワイエットルームにようこそ』を観た。以下感想を。ネタバレ注意。
 
フリーライターである作倉明日香(内田有紀)は、目覚めると見知らぬ病室にいた。そこは入院患者の中で「クワイエットルーム」と呼ばれる、精神病院女子病棟の保護室。ストレスの捌け口としてオーバードーズを行った明日香は意識を失い、内科で胃洗浄を受けたのち閉鎖病棟であるこの精神病院に担ぎ込まれたのだ。前後の記憶もなく、自殺未遂の意思もなかった明日香は風変わりな入院患者達や高圧的な看護師にとまどい、退院を希望するが、病人の言うことだとまともに取り合ってもらえない。病棟の中で過ごすうち、摂食障害の少女・ミキ(蒼井優)や、同室の女性・栗田(中村優子)、過食障害の西野(大竹しのぶ)らとの交流が始まる。こうして、明日香の奇妙な入院生活は幕を開けた。
 
というような話なのだが、面白かった。作品の手触りとしては、同じく精神病患者が主人公である『逃亡くそたわけ』が近いだろうか。人生に問題を抱えた主人公が、精神病院という「時の止まった場所」でもがき、同類との馴れ合いや衝突の果てに自分自身と向き合い、前へ進んでいく、というまあありがちなプロットなのだが、この映画、「精神病院」という舞台装置の使い方が抜群に上手い。
私は現在進行形でうつ病患者で、精神病院の入院経験も過去2回、計7ヶ月あるのだけど、そういう経験を踏まえた上で見る、この映画の中の精神病院は実にリアルだ。一般に想像されるような、見るからに「おかしい」人はほとんどいなくて、見た目「普通」のご婦人が突如ナースステーションのドアをガンガン叩きだしたりとか、妙に愛想が良いのがいたり妙に気前が良いのがいたり、「あるある」の連続。みんな症状は違えど同じ精神病という前提があり、構成員は流動的に入れ替わっていくから誰もが人間関係に関して適度にドライ、適度に割り切っていて、なりゆきで声をかけて絆が生まれるところなんか妙にリアル。主人公も、最初こそ「自分はここにいるような存在じゃない」「この人達と私は違う」と頑ななんだけど、周りにとっては「新しい同類」でしかなくて、そこのギャップも個人的にすごく覚えがあった。かようにリアリティ溢れる舞台・人間描写のお陰で、難なく物語世界に没入することができた。
こうしたシニカルな描写をバックに、主人公・明日香が交流の中で自らに向き合っていく様子が描かれるのだが、終盤、観客は明日香と共に、意外な真実を目の当たりにする。実は明日香は、仕事に行き詰まり、恋人に別れを切り出された結果、明確に死を望んでODを行った自殺企画者であったことが恋人からの手紙で明かされるのだ。ここで観客ははじめて、この映画の主人公は「事件前後の記憶をなくした女性」というミステリにおける「信頼できない語り手」の定石的人物だったことに思い至る。
前半部分で登場人物達の生活をコミカルに描いておきながら、後半で一気にその暗部を抉り出すという構成はまったくもって恐ろしいとしか言いようがないのだが、そもそも精神病院とは、自らの病に向き合い、そこから抜け出して前を向いて歩くために、自分の中の何かと「カタをつける」場所である。そうであるからして、ミキの「食事をしない」理由の告白(ここの蒼井優の演技は凄みがあった。蒼井優、ナチュラルなイメージが強かったのだが、この映画ではきつめのメイクにドレッドヘアという出で立ちで、ドライでありながら情に厚い若い女性を好演していた。)、エスカレートしていく西野の異常性、そして明日香のODの真実とそこからの現実との直面は必然のものなのである。こうして明日香ははじめて自らの病理と向き合い、面会に来た恋人と別れの言葉を交わす。辛辣な展開ながらも、明日香が自立して一歩踏み出したことがわかる名シーンである。
辛辣といえば、この映画ではどこを切り取ってもとことん辛辣でありとことん登場人物たちを突き放した描き方をしている。たとえばラスト、明日香は退院するけれども、他の登場人物たちに回復の兆しは一切見えない。ミキは相変わらず食事を戻してしまうし、西野は盗癖が発覚し医療刑務所行きになってしまう。ミキと同じく摂食障害のサエ(高橋真唯)はジグソーパズルが完成したら食事を完食するという約束のもと、一度こそ実際に完食を果たすけれども、それは一度きりのことで、症状が好転したわけではまったくない。明日香と入れ替わりで退院していった栗田は、明日香の退院と同日にまたも入れ替わりで病院に担ぎ込まれてしまう。実は作中、私がもっともリアルだなと感じるのはここで、精神科に限らず、病院というのは自分がどんなに良くなろうが他人は自分と関係ないまったく他人のペースで病状を変化させていく場所だ。5年以上入院している患者の隣のベッドで、別の患者が3日で退院していく場所だ。どこかのレビューサイトで「主人公にばかり光が当たるのみで、周辺人物に解決が与えられていない」という批判を見かけたが、そのような意見に対しては、そもそも病院とはそういうところなのだ、としか言いようがないのである。作中のジグソーパズルに描かれたエッシャーの無限階段が象徴するように、人生とは簡単に解決がつくものではないのである。

だからこそ、無限階段を抜け出した明日香の門出は清々しい。患者達から餞別として受け取った寄せ書きをゴミ箱に放り込み(このシーンは非常に印象的なカットとして映画の中で位置付けられている。 栗田が語った通り、また、私事で申し訳ないが私自身そうしたように、「シャバに出るというのはそういうこと」なのである)、名実ともに過去と決別し、現実に折り合いをつけながら、未来へ向かってバスへ乗り込む。観客である私たちには、明日香の乗るバスの行き先はわからない(人生がそうであるように、明日香自身にもわからないのかもしれない)。荷物の中に入れたままになっていた栗田の連絡先のメモを風に乗せて窓の外に捨て、メモは風に乗ってカメラに向かって飛んでいき、「life is happy@loop.com」というこの映画のテーマを凝縮したようなメールアドレスが大写しになり、幕。

 一切の綺麗事を排し、酷と言えるほどにキャラクター達を突き放した本作品は、しかしまぎれもない人生賛歌なのである。

 

あとどうでもいいところを突っ込むと、庵野秀明が医者役として出てきたばかりか怪我をして早々に舞台から退場したのには思わず吹き出したし(庵野ファン必見)、あとODやらかした患者が2週間で退院ってのはいくらなんでもありえない早さだと思うのだが(精神科の1ヶ月は内科の1日という言葉があって、つまり精神科とはそれほどに長い目で見る必要がある分野ということである)、まあ2時間の映画にそこのリアルを求めるのはいくらなんでも酷ってものだし別にいいか。

 

 

 



 

 

 

 

「自衛」論の暴力性、非対称性

 21日、出会い系で知り合った中一女子を連れ去った容疑で21歳の会社員が逮捕されている。

www.sponichi.co.jp

 このニュースを受けた小池一夫氏のTwitterにおける発言が、数日前から物議をかもしている。ツイートの内容はこうだ。

  この件に関しては小池氏本人が既に公式ブログ上で謝罪をしている。「女の子じゃない。女。」という発言によって「女」という属性に俗物的で侮蔑すべきものであるというレッテルを貼った事への謝罪は一切見受けられないためわだかまりは残るが、巷に溢れる「不快にさせてしまったのなら謝ります、サーセンした」式謝罪と比べれば、自分がなぜあのような不適切な発言をするに至ったのか、またどうするべきだったのかが丁寧に分析されており、随分ましなものと思える。よって私としては小池氏のこの発言についてはとりあえずは納得したのだが、こういう発言が著名人の口から発せられてしまうレベルには、こういった「性犯罪は女性側の自衛不足による責任である」という意識が世間で共有されてしまっているわけで、決して問題そのものが解決したわけではない。私は前々からこの「自衛論」については思うところがあったので、この機会にちょっと書いておく。

(ちなみにこの謝罪に対しても納得していない人は当然多くいる。謝罪したからと言って罪が免ぜられるわけではないし、前述の通り「女」という属性を貶めたことへの謝罪もない。また、小池氏の「子供は出会い系サイトにアクセスすべきでない」という主張もそもそもが自衛論の上に立脚しているので、自衛論に反対する立場の人から反発があるのは至極当然なことだ。「謝罪したのだからもう批判しなくてもいいではないか」という声をちらほら見かけるが、そのような行為は怒りを表明し告発する者の口をふさぐ行為でしかなく、私はこれを断固批判する。)

 

「自衛をしなかった」ことは被害者の落ち度なのか

 まず私の意見を述べよう。「自衛をしなかったこと」は、被害者の落ち度では全くない。どれだけ被害者が不用意であろうと、それで責任の所在が被害者にもあることには絶対にならない。

 何故こう思うのかは、これから説明していく。

 ここに一人の被害者がいるとする。彼、または彼女は、自分の身に降りかかるかもしれない犯罪に対し全くの無頓着であり、警戒を怠っていた。これは被害者の落ち度なのか。

 答えは明確に否だ。加害行為というのは、被害者の不注意や隙を突いて悪事を働く加害者がいなければ成立しない。そして、相手に不注意や隙があれば加害行為を行っていいということは全くない。加害行為というのは、不法行為や犯罪のことだ。これは法律でも明確に禁じられている。よって、全ての責任は加害者(刑事事件の場合は行為者と呼ぶ)にある。

 そもそも、「落ち度」という言葉は実にあいまいで、かつ考察に欠けた、極めて加害者視点のものだ。性犯罪被害の落ち度としてよく挙げられるのものとして、「夜道を一人で歩いていた」などがあるが、これを落ち度として断罪する者には、「タクシーに乗る金銭的余裕がなかったのかもしれない」というような考察が致命的に欠けている。そもそも、誰でも通れるはずの公道を歩いていたというそれだけで「落ち度」とされる、その理不尽さを想像してほしい。同じく落ち度として槍玉に挙げられる「露出の多い恰好をしていた」というのも同じだ。私たちは自分の趣味に合わせて装う権利がある。それを抑圧して「そんな恰好をしていたから」とは何事なのか。しかもどこからどこまでを「被害者の自業自得」とし、どこからを「これは加害者が悪い」とするかはジャッジする側が決めるのだから、極めて非対称だ。もちろん交通事故のような過失割合が関係してくる場合もあるが、それはお互い故意でないという前提があっての決まりであるし、法律という目に見える一律な基準がある。

(少し話は逸れるが、過去に、大宮駅で痴漢防止を呼び掛けた女子高生達のスカートの長さを指して「矛盾している」という発言を見かけたことがあるが、あれほど的を外した意見も珍しい。短いスカートで痴漢防止を訴えることは、「私達が短いスカートを履いているのは、あなた達が私を痴漢していい理由にはなりませんよ、させませんよ」という極めて強力なメッセージたりうるからだ。)

 以上が、私が「落ち度論」を批判する理由である。

 

なぜ「落ち度論」は発生するのか

 では、なぜこのような「落ち度論」は発生してしまうのか。

 私が思うに、彼らは、個人の役目たる「自衛」「用心」と、社会の役目である「犯罪抑止」を混同しているのではないか。

 勿論自衛や用心はするにこしたことはない。それは私も否定しない。だが、それとは別に、社会には、そして社会の一員たる私たちには、「犯罪抑止」に努める義務がある。そしてその義務は、個人の「自衛」の度合いによって揺らぐことはない。自衛をしていなかったからと言って、それでどうして被害の責任が被害者側に移ることになるのか? 自衛というのは個人の問題だ。個人がいくら自衛を怠ったとて、社会の問題である「犯罪抑止」とその先にある「事件解明」「加害者の処罰」は行われなければならない。

 そこをいまいち理解できていない人が、まるで自衛さえすれば全ての被害が防げるかのような口振りで「自衛論」を振りかざすのではないか。

 

「自衛論」の行きつく果てのディストピア

 どれだけ被害に合う側が警戒して慎重になっても、加害者はさらに知恵を絞って巧妙な手段を使ってくるだけだろうし、被害の責任を一部だけだとしても被害者に収れんさせだしたら、それこそ家から一歩も出られなくなる。

 被害者の落ち度を「こいつにも非があった」と訳知り顔に裁くことは、結局後々自分の首を持締める結果になると言うことを、「自衛論」支持者は心に刻んでほしいと思う。なぜならそれは、「自分も些細な落ち度を理由に犯罪に巻き込まれても仕方ないですよ」と、自分への加害を暗に肯定する行為だからだ。常に隙を見せずに生活できる人などどこにもいない。自衛論を突きつめていって行きつく先は、完全なる弱肉強食社会だ。「いざというときのために護身術を習っておかずに殺された被害者が悪い」とか、「ボディーガードもつけず女子供で外を出歩いたら被害にあっても仕方がない」のような修羅の国である。

 「自衛しろ」といい、しなかった者を裁くのは、自分自身の「平穏な暮らし」や「無事に生きる」事の価値をも低く見積もることだ。だからこそ私は、自衛論に断固反対するのだ。

 

補記:ネットでの出会いは「安易」なのか?

 これは冒頭で紹介した出会い系サイトの問題とも絡むのだが、出会い系サイトやSNS(出会い目的で作られたわけではないサービスでも、結果的に出会いの温床となっている場所は多々ある。多くの人が利用しているブログやツイッターフェイスブックとて例外ではない)など、インターネットを介した出会いは「安易」なのか。「自衛」の観点から言って、責められるべきことなのか。これに関して、私見を述べる。

 まず、私はインターネットでの出会いを安易なものではないと考える。それは、単純に「インターネット上の出会い」を「安易」とする論理的根拠が、(少なくとも、私が思いつく限りでは)ないからだ。「相手の顔が見えないから」というのはよく言われることだが、では逆に、相手の顔を見ただけでその人間性を判断できる人間がどこの世界にいるのか。「プロフィールをいくらでも偽れる」という特性もネットにはあるが、そんなものは顔見知りだって一緒だ。

 また、これは記憶が定かでなく出典を明記できず申し訳ないし、それは私の論の弱さでしかないのだが、私の記憶では、ストーカー事件に発展した男女の出会いの場の第一位は「職場、学校」であった。ネットは三位ぐらいだっただろうか(本当に、あやふやで申し訳ない。データなどご存知の方がいらっしゃったらよろしければご連絡ください。すみません)。性犯罪事件でも、顔見知りによる犯行は三割を占めると言う。「ネットでの出会いが危険につながる」という確実なデータは(私の観測範囲内では)存在しないのだ。

 というか、これだけSNSが発達して、ネット婚活なども普及している今日、ネットでの出会いをイコールで安易とみなすのは、早計である以前に時代錯誤なのではないかと思ってしまうのだが。

 

おわりに

 ここまで読んでいただいた方、ありがとうございます。だらだらと私見を垂れ流しましたが、私とは意見が異なる方、反論したい方、当然いらっしゃることと思います。

 また、ストーカー事件に発展した男女の出会いの場についてのデータを明記できず申し訳ないです。

 私は自衛にまつわる事柄について現在のところは以上のように考えていますが、今後考えが変わることもあるでしょうし、まだまだ考えを深めたいと思っています。私に反論がある方、対話したいと言う方は、お気軽に話しかけていただければと思います。

 

 

 

奴隷の鎖自慢やめようぜという話

 昨日ぐらいから、男「女はなんでヒールなんかはくんだ?」女「他に選択肢がないんだよ!」 - Togetterまとめ多分このまとめが発端なんだと思うが、Twitterのタイムラインは「ヒール履くのがマナーって風潮マジでクソ」というツイートで一色だった。ヒールの辛さを切々と語るツイート群に深く頷きつつ眺めていると、議論は同じく女性に課せられている社会通念である「化粧」に関するマナーの理不尽さにまで及び、これは現在に至るまで白熱している。
 そこまではいいんだが、「男だって髭剃りやネクタイ等マナーに縛られている、大変なのは女だけではない」という的外れにも程がある意見や、更にそれに対するカウンターとしての「女は髭だけじゃなく全身の毛剃ってるんだ」という意見も同時に目立つようになってきて、お約束の流れながらその不毛さに頭が痛くなってきたので、ちょっと思うところ書いておく。つまるところこの話はタイトルにも冠した通り「奴隷の鎖自慢やめないか」という結論に帰結するので、Twitterで一言呟けば済む話ではあるのだが、化粧やヒールに対する個人的な意見とかも交えると話がとっちらかってきて自分でも訳がわからなくなりそうなのでブログに書こうと思った次第である。


化粧は"マナー"という社会通念の矛盾と馬鹿馬鹿しさと怒り

 私は「身だしなみ」「テーブルマナー」「ドレスコード」などのあらゆる根拠不明の社会通念に対し全力で中指立てているタイプの人間である。そんな私でも、社会において、身だしなみとして「清潔さ」が求められることの正当性は理解している。不衛生は健康への害に直結するからである。
 だが身だしなみとして当然のごとく求められている「化粧」は要するに顔面を油で塗りたくる行為であるわけで、実際に不十分なクレンジングが肌を傷めるように、「清潔」「衛生」とはむしろ対極の行為と言える。これがマナーのなかに当然のように組み込まれていることは明らかな矛盾である。これはどういうことかというと、結局のところ、実際のところ社会で重要視されているのは衛生観念としての「清潔さ」ではなく、イメージとしての「清潔"感"」なのである。顔面に油を塗り込むことで肌が乾燥し、その結果どれだけ肌が傷み「清潔さ」を失おうとも、肌が均一なトーンに整い見た目が「綺麗」ならばそれで「身だしなみ」のテストはパスするのである。
 私が何故「化粧」や「ヒール着用」などの「身だしなみ」や、「テーブルマナー」「ドレスコード」を蛇蝎のごとく嫌うのかといえばこういう矛盾ゆえである。どれだけ肌が傷み足に負荷がかかろうとも、「ヒールは女性らしい」「ナチュラルな化粧は女性を美しくする」なるふんわりしたイメージによって支えられた主観が物を言う、その根拠のなさが気に入らないからである。「ドレスコードを守るのは居合わせた人への敬意だ」「所作が美しいと見ている人も気持ちがいい」なる思考停止したイメージによって築かれた価値観に隷属させられることに納得がゆかないからである。「女性は身だしなみに気を遣って職場に華を添えましょう!」「結婚式のゲスト女性は明るい色のドレスを着て会場に華やかさを!」とか、女性誌やマナー指南本でしょっちゅう見るが、そんなに「華」とやらが欲しいなら職場や会場の壁といい天井といい七色にでも塗ったらいかがかと言いたい。お願いだから(こっちが頭を下げて"お願い"してやる義理なんざどこにもないんだが)お前の「キレイなものが見たいよ〜」という馬鹿馬鹿しい個人的な欲求にこちらを巻き込んでくれるなという話である。大分前の号だが雑誌ROLaのセーラームーン特集における少年アヤちゃんさんのコラムで「女の身だしなみに化粧が含まれているというのは、女は清潔さにとどまらず美しさまで社会に求められているということだ」という旨の文章があって、首がもげるほど頷いた記憶があるのだが、つまりそういうことである。美しさなんてものはあるにこしたことはないものの無くても命や健康に何ら関わることのない、個人的な欲求であり娯楽である。どういう形であろうと、それを生きた人間である私に求めるのは御免被ると声を大にして言いたい。
 ここで断っておくが、「本人が自分の意思で美しく装うこと」と「外野に強制されて美しく装うこと」は全く別物である。「美しく装うことが好き」であることと、「美しさを強要されることが嫌い」であることは当然ながら両立する。良い例えが思いつかず申し訳ないが、ピンと来ない人は例えば「面白い映画を観ることを他人に強制される」状況を想像して欲しい。誰しも面白い映画は好きだ。だがその時の気分や予定や体調によって観たくない場合もある。美しく装うことも同じだ。普段は化粧やお洒落が好きでも、肌の調子が悪くこれ以上負担をかけたくない時や、気分が乗らない日もある。そして「他人に面白い映画を観ていて欲しい」という欲求も「他人に美しく装っていて欲しい」という欲求も、どちらも科学的根拠に基づかない個人的な趣味であり好みである。そういう個人の好みを「マナー」にまで敷衍して他人に強制することがおかしいと言っているのであって、化粧やヒールそのものを断罪しているわけではない。社会通念としての化粧に怒りを表明しながら毎シーズン新作コスメの情報に心躍らせる私のような存在は、だから全く矛盾しないし、こういう女性は実際に多いと思われる。

「大変なのは女だけじゃない」という正論が新たな強制力に

 上記のようなことを語っていると、必ず出てくるのが「男だって髭剃りやネクタイ等根拠不明のマナーに縛られている、女性ばかりが大変だと思うな」という声だ。海外では髭を生やすのが当然とされている文化圏も多いし、ネクタイに至っては通気性など機能性を明らかに欠いているので、それ単独で見ればこの意見は全く正しい。私自身、髭の剃り跡に血をにじませ窮屈なスーツに身を包んで出勤していく父の姿を見ていることもあって、男性に課せられたこのような根拠不明のルールには断固反対する立場である。だが問題なのはその言葉が発せられた状況である。理不尽な社会通念に異を唱える女性の意見に反論する形で発せられた瞬間、同じく正当な問題提起としても機能する筈であったこの言葉は、なんらの状況改善に繋がらなくなるどころか、「俺だって耐えてるんだからお前も我慢しろ」という新たに私達を縛る「根拠不明のマナー」に変わる。
 何度も言うが、私は男も女も関係無く根拠なき社会の強制から解放されるべきだと思っている。私に限らず、どの女性もそうだろうと思う。私や、他の女性が女に課せられたマナーにばかり反応して怒っているとすれば、それは私自身が女だからだ。問題を肌で感じる当事者だからだ。私が「女はこんな理不尽なマナーを課せられている、理不尽だ」と主張する時、私の言葉が意味するのはその言葉がそれ以上でも以下でもない。「それに比べて男はいいよね」というありもしない文脈を勝手に補完して「辛いのは女だけじゃない!」と言う男性は少なくないが、全くそんな意図はなく、的外れだ。男性に課せられた理不尽を表明したいのなら、「女性がこんな苦役を課せられているように、われわれ男性もこういう負担を強いられている。どちらも理不尽だ、是正されるべきだ」と言った方がよっぽど的確だし、状況改善も近づく。

やっと本題、戦うべき敵を見誤るなという話

 議論が白熱してくると、さらに悪いことに、「大変なのは女だけじゃない、女に化粧があるように男だって髭剃りがあるんだ」という論点のずれた意見に対し、「女は顔だけじゃなく腕も足も剃ってるんだ」とそのずれた論点に乗っかった反論まで出てくるようになる。この当初の論点から全く逸脱した男女間の不毛なすれ違いは、要するに、タイトルで書いた通り「奴隷の鎖自慢」という言葉でまとめることができると思う。「大変なのはお前だけじゃない」「いやこっちはもっと大変だ」、このやりとりは、「大変」と判断される苦労のハードルをどんどん上げていき、結果的に双方の首を絞める。しかもいつの間にか敵が「理不尽なマナー」から「この程度で"大変だ"と騒ぐ異性」へすり替わっている。問題解決はどんどん遠のく。
 課せられた理不尽さの度合いの非対称が男女間にあるのは確かかもしれない。苦痛なんて比べるものではないが、「男は髭を剃らねばならないのだ」と言われれば、確かに女は「女は全身を剃っている」と返すことができる。だがそれは結局奴隷が鎖の重さを自慢し合うことにしかならない。「私/俺だって耐えてるんだからお前も我慢しろ」という新たな圧力を生み出す結果にしかならない。
 これをやめようよと言いたくてこのエントリを書いている。「あなたが大変なように私も大変なんだから我慢しろ」もしくは「私はもっと大変なんだから我慢しろ」ではなく、「私もあなたも大変だよね、理不尽だよね、一緒に戦おう、変えよう」という考え方をしたいと思ってこれを書いている。この窮屈な社会に包摂されて生きている以上、私達は性別関係なしに「根拠不明な社会通念」に服従させられた奴隷である。奴隷が鎖の重さを自慢し合って、「その程度の重さで"大変"とかwww」と言い合って、得をするのは、喜ぶのは、奴隷たちを鎖で繋いでいる側だ。それは理不尽な社会通念そのものであり、そしてその社会通念をよしとしているこの社会の構造だ。私達は同じ奴隷として、この敵に共闘して立ち向かっていくことができるはずだ。「男だって大変だぞ」「女はもっと大変だ」と言い合うことは、その敵から目をそらすことと同じだ。戦うべき相手を見誤ってはいけない。手を取り合って戦うべきなのだ。