不可逆の青春─「葬式の名人」

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映画に限らず、フィクションならだいたい何でもそうなのだが、アクションだのサスペンスだのと数多あるジャンルのなかで、「青春モノ」というのは受け手からの愛され方という点で群を抜いて強い。青春時代というのは誰もが通過してきた地点であるから共感を誘うし、登場人物たちが恋や部活に励む姿はそれだけで単純に清々しい。今年国内で公開された映画の中だけでも、一体いくつもの割合を青春映画が占めるだろう。映画館の予告で知る範囲だけでも、あまりに多いので観る前から食傷気味になってしまうぐらいだ。

 

そんな青春映画覇権状態の日本映画界にあって、しかしここでアンチ・青春映画、言い方が悪ければ脱・青春映画とも呼べる作品が登場した。前田敦子高良健吾を主役に据え、樋口尚文監督がメガホンを取った、「葬式の名人」である。

 

本作は、川端康成のいくつかの短編をベースにし、大阪府茨木市の市政70周年の記念事業として制作された。前田敦子演じるシングルマザーの雪子は、高校時代の同級生・吉田創(白洲迅)の訃報を受けて、旧友と再開する。そのなかには、吉田と野球部でバッテリーを組んでいた豊川(高良健吾)の姿もあった。吉田をもう一度、母校に連れて行ってやりたいという豊川の提案で、集まった同級生たちは棺桶をかつぎ街を練り歩き、懐かしき学生時代の思い出話に花を咲かせる。

 

……とここまで書けば、手垢のついた青春モノにどっぷり浸かった我々は、まるで高校時代に戻ったようにはしゃぐ登場人物たちの姿を思い浮かべるだろう。実際、何らかの事件やアクシデントにより集まった大人たちが、いつしか少年少女のように心を通わせていくという展開は、青春モノの変化球として常套だ。それはそれで良いものなのだが、しかし本作は違う。

 

思い出にひたる彼らの姿は、どこから見ても大人だ。大人だけの嗜好物であるお酒で盛り上がり、「棺に入ると体が若返る」といいながらかわりばんこに棺の中に体を沈めて行ったりする。それらはどこまでも「大人であるからこそ」の行為で、そこに少年少女の面影はない。

 

また、思い出話に賑わう場面こそあるものの、それらはひじょうに断片的であるし、回想シーンに至ってはほとんど無いと言っていい。どしゃ降りで視界も悪い雨の中を歩く雪子らがフラッシュバックのように挿入されるだけだ。彼らを再会させたこの映画のキーパーソンである吉田の存在感もどこか希薄である。まるで「ゴドーを待ちながら」あらため「吉田を待ちながら」とでも言わんばかりに、彼不在のまま話は進む。

 

さて、このどこか浮遊感のあるこの映画は、終盤にさしかかる頃、突如ファンタジー世界へと突入する。吉田と川の字に昼寝した雪子と豊川は、目覚めると白く発光する見知らぬ女(有馬稲子)がこちらを見つめていることに気づくのである。女は言う。「自分は夢を見せるのではない、夢を“消す”のである」と。

 

言わずもがな、青春とは言い換えれば「夢を見ている」状態である。自分の将来に、幸福に、根拠なき自信に。大人になるということは、そういう夢を一つ一つ心から引っぺがして、客観的に現実を見定めていく行為と同義だ。そうしてすっかり大人になった雪子と豊川に、女は駄目押しのように「夢を“消す”のだ」と述べる。

 

そして女はおもむろに己の右腕を外し、二人に渡す。それを遺体となって横たわる吉田の右手にかざすようにすると、高校時代痛めたはずの吉田の右腕は復活する。夜のグラウンドで、雪子との子供である、あきお(阿比留照太)とキャッチボールをする吉田。ここで彼は二人と会話を交わすのだが、このやりとりはどこか淡白で味気ない。実を言うと謎の女が出てくるくだりからの展開は雪子の夢の中の出来事なのだが、自由であるはずの夢の中でも雪子が吉田と何らかの甘い関わりを持つことはない。かつて吉田と恋仲で子供までもうけたはずの雪子は、ひとりの息子を持つ大人として、不可逆の喪失を痛いほど知っているのだ。

 

そう。この映画の中で、いくつも例を挙げたように、青春というのは不可逆だ。そして高校時代から十年の月日が経ち、大人となった登場人物たちは、既にそれを喪失している。そして二度とその時代に帰ることはできない。馴染んだ校舎は建て替えられ、思い出の木も切られてしまった。時間はするすると彼らの上を通り過ぎて、気がつけば十年が経っていた。

 

この映画は青春の不可逆性をこれでもかと強調する。「あんな夏はもうないな」。雪子は呟く。時に笑い、時に泣きながら、彼ら、彼女たちは、もう戻れない過去と一緒に、旧友を供養して、それから、それぞれに前を向く。青春を脱却したひとりの自立した人間として。人はそうして生きてゆくものなのだから。