「ジョーカー」という危険な映画と、その牙を抜いてみせる「ボーダー 二つの世界」について

2019年10月4日、今年もっとも映画界を揺るがせた作品のうちの一本・「ジョーカー」が公開された。コメディアンとして人に笑顔を与えることを目標としていた主人公・アーサーが、生まれもった障害や周囲からの迫害、福祉の打ち切りなどによって徐々に追い詰められ、「バットマン」シリーズのヴィラン・ジョーカーに変貌していく様を描いた問題作だ。

そしてその「ジョーカー」公開の一週間後、「ジョーカー」に比類する衝撃作・「ボーダー 二つの世界」が公開された。醜い容姿を持ちながら、違法を行う者を嗅ぎ分ける特殊能力を有する女性・ティナが、勤務先である入国管理局で出会った男性・ヴォーレと出会い、相通ずるものを感じ惹かれ合う過程で、自らの出生の秘密を知っていくという、こちらも相当にショッキングな作品だ。

どちらも、観終えたあと心をがつんと殴られたような感情に襲われたが、この二本が似ているのは、なにもその衝撃度だけではなかった。私は「ボーダー」を観た直後、

……というツイートをしたのだが、というのも、この二作は、迫害された弱者が社会に復讐する様を描いたという点でかなり通ずるところのある作品だからだ。

次に書くことは「ボーダー」のネタバレになるので、未見の方には気をつけていただきたいのだが、「ボーダー」のティナとヴォーレは実は人間ではない。虫を食べ、人の心を嗅ぎ分ける、トロルという種族なのである。とはいえティナは、醜い容姿こそあれ、職もあり同居人もおり隣人との関係も良好、という、「社会に適合できているマイノリティ」だ。

だが、ヴォーレは違う。彼は、両親を長い間拷問のような実験にかけられた挙句、孤児院で苦しみながら育った「迫害されてきたマイノリティ」。そう、彼は、トゥレット症候群を持ち、そのことで他者からの迫害を受けている、「ジョーカー」のアーサーと同じなのだ。また、ヴォーレは人間社会への恨みから、自分が産んだトロルの子どもを他人の赤ん坊とすり替え売り飛ばすという反社会的行為を行なっており、これは社会に押し込められた果てに殺人に至ったアーサーとの二つ目の共通点といえるだろう。

アーサーとヴォーレの共通点はまだある。それは、「彼らの反社会的行為に対し、一定の納得が可能である」という点だ。

ヴォーレは人間の子どもをすり替えて売っている。許されないことだが、いっぽうで「そんなに酷い目に遭ってきて、人間に恨みを持つなという方が難しいよな」と合点もいく。少なくとも私はそうだった。

「ジョーカー」でもそれは同じだ。私はジョーカーを観たあと、

……というツイートをしたのだが、実際アーサーの行為は、(それを許す許さないとはまた別の次元で)多かれ少なかれ得心がいってしまうのである。

だがこの考え方は、やっぱりすごく危険だ。理解できることと許すことを完璧に分けて考えることはとても難しいし、真に彼らの行為を「許さない」ためには、「理解できるよね」と言うことすら慎重にならなければいけない。追い詰められた人が、「でも加害者にも同情できちゃうよね」という言葉を聞いて、ポンと悪の道に背中を押されかねないからだ。

だから私たちは、「理解できない」と言うべきなのだと思う。社会の一員として、何がなんでも。心の中でどう思っていようとも、口で、文字で、言葉を発するとき、「理解できない」、そして「許さない」と言わなくてはならない。ティナがヴォーレの所業に対して怒り、許さなかったように。

 


さて、攻撃的なやり方で社会に反旗を翻す相手に対しどう接するべきなのかは、さっきまで語ってきた。では、もし自分がアーサーやヴォーレの立場に立たされたとき、私たちはどうすればいいのだろうか。倫理に叛く行動で、自分を迫害してきた側に仇をなさないためには。その答えは実は、「ボーダー」の作中にしっかりと描かれている。それは、本当に月並みな言葉で申し訳ないのだが、人に必要とされ、そして己を愛する、この二点に他ならない。

ティナは「誰も傷つけたくないというこの気持ちも人間的なもの?」とヴォーレに対峙し言ったけれど、実際、彼女は一旦本能に身を任せはしたものの、ついぞ超えてはいけない一線を超えなかった。それはティナが社会のなかで充足を得ているからだと私は解釈している。彼女は酷い言葉や好奇の目線に晒されてもいるけれど、自分にしかできない仕事をし、隣人とも持ちつ持たれつの関係を築いている。娘が欲しいという自分勝手な理由ながらも、父親にも必要とされた。彼女は、自分が社会のなかで役割を果たしていることを知っている。

「己を愛する」ことも、実は彼女はクリアしている。それはまさしくこの映画のラストカット、トロルの赤ん坊を抱きしめ、笑顔を見せるティナの姿からよく分かる。自分と同じ、異形の生き物である赤ん坊は、マイノリティである彼女の分身であると読み取れる。彼女は自分自身に笑顔を向け、愛を注いだのだ。

外見、能力、果ては種族まで人と違う彼女が紆余曲折を経つつも闇落ちせずに済んだのは、多分そういうわけだ。いっぽうで「ジョーカー」のアーサーには、自己愛も、他人からの要請もなかった。彼はどこまでも孤独だった。

このように、「ボーダー」という作品は、「ジョーカー」に対する一つの解となっていると言える。ツイートした、「この二本が同時期に公開されたのは映画にとっても観客にとっても幸運だった」というのはそういうわけである。

自分を愛するだけではダメで、人に必要とされることも必要、というのは本当に世知辛い話なのだが、この二つの作品をマイノリティ映画として社会的な文脈で観たときに、ここでいう「必要とされる」というのは「多様性を認められる」「社会で役割を与えられる」ということとイコールになると思うし、そうなってはじめて自己肯定感も育つと思うので、結局、そういう健全な社会を作る義務が私たちにはあるのだと思うし、もっと言えば、そんな社会を作ってくれよ、というバトンを、この二つの映画は観客に渡したと言えるのだと思う。

 

 

一つの作品が目の前にあるとして、それを読解する上で、ジャンルや制作年が違う別の作品をぶつけてみたときに、思わぬ触媒としての効果が生まれて、双方の理解が深まる瞬間というのがたまにある。映画「タクシードライバー」と町田康の小説「告白」がそうだったし、「ゴッドファーザー PARTⅡ」と「新しき世界」もそうだ。

今回の場合、「ジョーカー」と「ボーダー」でその現象が私の中に起こったので、こうして記事をしたためた次第である。「ジョーカー」は、観客に大絶賛で迎えられながらも、一部の評論家らから「現実での暴力を誘発しかねない危険な映画」であると評されたというが、まったくの偶然にも、「ボーダー」がその危険性にそっと安全装置をかけた具合になった。あくまで偶然、かつ私の勝手な解釈ではあるが、ひとつの映画の問題を同じくひとつの映画作品がフォローするというのは、映画が社会に負っている役割と責任を概念としての映画それ自身で果たしたようで大変面白い。社会の一員として健全な社会を作っていくことを忘れずにおりつつ、これからもこういう体験ができるといいなと思う。

 

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