社会の外で生き延びろ━「ウィーアーリトルゾンビーズ」

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「ウィーアーリトルゾンビーズ」を、キネカ大森にて、「僕はイエス様が嫌い」との二本立てで観てきた。

 

この映画、ソフト化すらされていない時期に、異例の「丸一日無料配信」がなされていた。8月31日、つまり夏休みが終わる日=“最も憂鬱な日”に、「今悩んでいる中高生や当時悩んでいた自分自身へ向けて作った」いう長久允監督が「どうか絶望しないように」と踏み切ったそうだ。それを踏まえ、以下感想を。

 

その人を取り巻く世界、言ってみればちいさな「社会」のようなものに、しかし馴染めないという人はいつもどこでも一定数いる。打ち明けてしまえば昔の私がそうだったし、きっと長久監督自身にもそんな時期があったろう。そして、この映画において、ヒカリとイシ、タケムラ、そしてイクコの四人は、まさにそんな十字架を背負わされている。

 

長久允監督が、「悩んでいる中高生」に向けてこの映画を作ったというのは冒頭で既に述べたが、なにに「悩んで」かはこの映画を観た者なら誰でもすぐにわかるだろう。「社会に溶け込むことができない」ことに、だ。

 

彼らは社会に馴染めない。両親を亡くしたヒカリは、故人を偲び涙を流す親戚連中という「社会」に溶け込むことができない。悲しくもなく、涙も出ないからだ。いじめにあっている彼は、学校という「社会」にも馴染めない。他の三人もそれぞれの事情で、それぞれが社会とうまくやっていくことができていない。

 

そんな四人を描きながら、無理に社会に接続しなくてもいい、と長久監督は言う。四人のゾンビを売り出そうと舌舐めずりする大人たちの姿を見れば分かる通り、社会とは、タテマエとか、私利私欲とか、そんなものばかりでできている。そういえば、脇を固める形で「大人たち」を演じた役者たちが軒並み豪華な顔ぶれだったが、あれにもきっと意味があって、あれは要するに「社会」とわかちがたく存在し、また「社会」を象徴する、権威という厄介者のアレゴリーとして機能しているのだろう。そんな連中は気にしなくていい。社会と接続しなくても、絶望しない限り、彼ら、そして私たちの人生は続く。続けられる。映画が終わっても彼らの人生が続くように。そういえば、「親を亡くした子供たちがバンドを組み、自分たちはゾンビであると歌う」ことを、エモい、エモいと持ち上げてきた大人たちをも彼らが切り捨てていったことも忘れてはならない。エモいだなんて安っぽい言葉で消費するな、こちとら生きてるだけだ。「エモいとかダサっ」。

 

この映画、画も演出も台詞回しもとことん尖っている。それを「新しい感性だ」と捉えるか、「奇抜なことやりたいだけのオナニー」と一蹴するかは人によると思うけれど、私はこういうものを求めていたし、これからも希求される表現だと思う。

 

個人的に良かったなと思うのは、あの四人組は確かに仲間なんだけど、社会の外側という息苦しい場所で息をするために築いた共依存では全くないところ。全くベタベタしていない。四人というより、一人が四つ、とでもいうか。

 

散々褒めてきたので惜しかった点を言うと、冒頭、四人の「それまで」を順番に説明していく流れが、凝った演出とは対照にヒネリが無さすぎる。回想による説明のせいでストーリーが停滞し、若干の退屈を覚えた。ここをもっと拘っていれば、たびたび指摘される「CM的」という批判はぐっと減ったのではないかと思う。

 

「そうして私たちはプールに金魚を、」では、人生に当たり前のように絶望しているが故に無敵な、退屈で停滞した子供たちを描いた長久監督だが、本作ではそこから一歩前進し、絶望をダサいものと一刀両断し、ではどう生きればいいのかが示されていた。今後の長久監督作品が絶望という命題にどう向き合うのか、今から楽しみでならない。