2016年〜観た映画まとめ

ここ数年は割と入退院の繰り返しで、あまり映画は本数観れていないのですが、漸く生活も落ち着きだしたので、2015年にやったきり(2015年上半期観た映画まとめ - 東のエデン)だった、観た映画のまとめをやります。2016年からになります。なんだかんだで多いので、印象に残ったやつだけを。新旧入り混じってます。

 

裸足の季節

 

 

まずトルコの田舎町の風習に「これ現代の話だよね?」ってすごいびっくりしたんだが、でも結局あれらって日本にも強く根付いてる「女は早く結婚して子供産め」という風潮の延長線上にあるものなんだよな。学校行かずに花嫁修業、とかも「女に学歴は要らない」という言説を想起させるし……

気の良い兄ちゃん(彼がゲイであることがさりげなく示されてて、マイノリティ同士の連帯だと分かるようになってる)の助けを借りて、イスタンブールへ旅立ったラーレ。イスタンブールに行けばそれで即どうにかなるわけじゃない。ないけれど、自分を縛る抑圧を振り払って、自分の意志で立って歩けることこそが重要なんだよね。そのへんウテナ劇場版を思い出したり。

 

「よせ。どうせお前たちが行き着くのは、世界の果てだ。」
「そうかもしれない。でも、自分たちの意志でそこに行けるんだわ。」

 

五人姉妹がすごく美しくて健康的な色気があってしなやかで、まさに原題の「野生の仔馬」そのもの。色彩がすごく綺麗で目に楽しかったです。満足。

 

ロスト・バケーション

 

 

恐怖の緩急の付け方が素晴らしかった。主人公がサーフィンの途中1度砂浜に上がって電話で父と口論をするんだけど、それまではこれでもかというほど美しく撮られていた海が口論のあと再び沖へ向かう場面から一転、不安を煽る不穏な色彩とカメラワークに変わる。

佳境にさしかかるまでは鮫の姿はほとんどヒレか魚影しか見えないし、人が鮫に食われる様も引きのショットで映したり海面に広がる血の赤で表現したり、抑制された演出によって逆に恐怖が煽られるんだよな。

満潮(=主人公の一時避難先である海中の岩が沈む)までのタイムリミットを設けただけでなく、怪我の応急処置、カメラの回収、ブイまでの移動、照明弾の回収……と細かくクリアすべき課題を段階的に設定しているから、緊迫感がマンネリ化することなく持続して、そのへんも巧いなあと。

カモメが唯一の救いよね。カモメとのシークエンスがあるから主人公の置かれてる限界状況がより引き立つし、一種の清涼剤、箸休め的な役目を果たしていて、締めては緩められ、また締められる物語の手綱のおかげで飽きが来ない。

あと、主人公の水着姿をことさらに強調して撮らないところもポイント高かった。しかし主人公、あんな死ぬ思いしてよくまた笑って海行けるな?! 文系はおとなしく家にこもります。

 

愛と哀しみのボレロ

 

「戦争は憎しみあう者同士の戦いではない。愛し合う者たちの別離だ」とは劇中の台詞だが、愛する者との辛い別れに寄り添うように挿入される演奏やダンスのシーンは明るい曲調であってもどこか物哀しかった。

芸術が人を救えるのかどうかは分からない。人生はあまりに辛く苦しい故に、心の隙間を埋めるのがせいぜいなのかもしれない。だがラストシーン、異なる国で生まれた4組の家族がチャリティーショウという同じ場所に立ち高らかにボレロを歌い踊りあげる姿に、芸術の可能性を感じぬ者はいないだろう。

白眉はダビットとアンヌの再会シーンだろう。温かい木漏れ日の落ちる精神病院の庭で、ベンチに腰掛けるアンヌと、おずおずと近づいて行くダビット。台詞もなく、二人の後ろ姿を長回しのロングショットで捉えたこの場面には、失ってからずっと探し続けてきた愛する者との満たされた愛情が横溢している。

あと、これはまあどうでもいいのだが、異なる国籍の登場人物の物語を同時に描くポリフォニックな構造と、親子を同じ役者が一人二役で演じる配役(これ、何か意図があるんだろうか)のせいで、観ながら頭の整理にてんてこまいだった。実際、途中何度か巻き戻して見たし。

 

散歩する侵略者

 

意味不明の脚本改変に対する原作ファンとしての怒りはもう一周まわって私の中に存在しない。これは究極のバカ映画だ!!!

一つどうしても許せなかったのは、ラスト、宇宙人襲来が「愛」を知ったゆえに侵略をやめてしまったところで、これは本当に冷めた。隣国と戦争をやっていても、宇宙からの脅威が間近に迫っていても、寂れたラブホテルの一室で愛を誓う(誓い合う、になれないところがミソ)信治と鳴海の2人がこの物語の肝なんであって、「愛は地球を救う」と言わんばかりのあの展開には心の底から幻滅した。

あ、役者はキャスティング・演技ともに良かったです。

 

わたしを離さないで

 

役者の演技や美術、音楽、世界観にも決して文句はないんだけど、原作小説から削られている部分が多すぎてカズオ・イシグロ信者からすると全体的に感情の流れが物足りなかった。

特にカセットを聴いて枕を抱き体を揺らすキャシーをマダムが目撃するシーンを削ったのはまずいと思う。このタイトルがどれだけこの作品を象徴しているものであるのか分かってやってんのか? あと失くしたカセットをトミーが見つけるシーン。まあでもあの厚さの原作を二時間足らずの尺に収めたという点では上手くいった部類なのかな。

 

イージー★ライダー

 

自由を求めて誰に迷惑をかけるともなく無軌道に走っているだけなのに、余所者であることや人と身なりが違うというだけで保守的な社会から拒絶されて迫害されてあまつさえ殺されてしまうのバリきつかった。

ストーリーはあってないようなものなので退屈っちゃ退屈。
キャプテン・アメリカとビリーの絆とか繋がりがいまいち見えてこないので(二人の会話シーンも少なく、彼らのバックグラウンドに関する情報も無いに等しい)いまいち入り込めなかった感が。

音楽のチョイスは良い。全体的に拙いものの、当時のアメリカの空気感を伝えてくれるのでアメリカの現代史と絡めて観ると面白そう。

エンドロールを呆然と見ながら、自由とは何かについて暫し沈思してしまった。
映像作品としての出来の良さはともかくとして、衝撃を受けた作品だった。

 

戦場のメリークリスマス

 

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良かった。キスシーンとラストの「メリークリスマス」には思わず涙が出た。良かった。

キスシーンの個人的解釈を少し。戦場とは個人が個人でいられなくなる場所で、そこでは個々の尊厳や命の重さは剥奪される。それはヨノイとて同じである。彼は大日本帝国の軍人として自らを雁字搦めにしている。そうすることで彼は自分を律し戦場という過酷な場で自らを保っている。そこにセリアズは、キスという人間同士の間で交わされる非常に個人的な行為を持ち込むことで、ヨノイに己が紛れもない「個」であることを思い出させた。ヨノイが立っていられなくなったのは、自分が自分でしかないことを認識させられたからである。と私は受け取りました。

良かったんだけど、外国人俳優の日本語が半分くらい聞き取れなかった。ので、本当にこの映画のテーマを理解しきれているかは不明。

 

ジョゼと虎と魚たち

 

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「この人を守りたい」。「この人の力になりたい」。

口で言うのは簡単で、でもたかが長い人生の途中で偶然知り合っただけの関係。一生を捧げる義務も覚悟も本当は無かった。お互い夢を見ていただけ。いや、お互いというのは違うかな。夢を見ていたのはきっと、恒夫のほうだ。ジョゼは与えられた少しの間の心地よさへの返礼として、恒夫に夢を見せることを許した。

「僕には旅に出る理由なんて何ひとつない」。お互いがそこに居れば、それで良かった筈なのに。

基本的に男女の恋愛の機微が分からない人間なので(私が)、観ながら首を傾げる部分もあるにはあったが、細い蝋燭の火を分け合うように寄り添っていた二人の姿が忘れがたい。

 

ONCE ダブリンの街角で

 

音楽って不思議だ。

年齢も生育歴も性別も背負っているものも何もかも違う人々を、いとも簡単に結びつけてしまう。
劇中で名も明かされぬ1組の男女は、音楽によって出会い、音楽とともに仲を深めていく。そしてラスト、彼と彼女はやり残した過去やまだ見ぬ未来へとそれぞれ別の道を歩み出していく。勿論、音楽とともに。

音楽とは、人生に寄り添い、彩りを与えてくれる神様からの最高のプレゼントだ。

 

パーティで女の子に話しかけるには

 

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長いこと「パンクロック好き」を自称していると、「パンクロックの定義は?」と尋ねられることが多く、その度「……」と沈思した後、結局マトモな返答ができないでいたのだが、今、正解が分かった。

「『パーティで女の子に話しかけるには』を観ろ!」だ。

……が、宇宙人たちのあまりのサイケっぷりに、「これパンクというよりプログレでは……」と思ってしまったのもまた事実でした。

 

ラ・ラ・ランド

 

終盤のifが、あまりにも、あまりにも美しくロマンチックでありそして切なかった。

2人は成功の代償としてお互いが結ばれるという道を捨てたけれど、それはバッドエンドではなく、女優、ピアニストとジャンルは違えど同じ「夢追い人」として互いの成功を静かに認め喜び合う、密やかなグッドエンドだった。男女の関係の最上級は何も結ばれることだけとは限らないのだ。

色彩も音楽も夢のように美しかった。夢を追い続ける二人が見ている世界も、きっとあんなふうに美しいのだろうと思う。

 

トレインスポッティング

 

ヤク中ってまじでこんな感じなんだろうか。まあクズの映画だなあと。

思い出したのは、山下敦弘監督作品「苦役列車」で、原作者の西村賢太が撮影を見学した際、主人公を演じる森山未來に、「貫多に感じるのは、共感ですか?憐憫ですか?」と尋ね、「憐憫ですね」という返答が帰ってきて満足そうにしていた、というエピソード。

私自身もかなりのクズである自覚はあるけど、トレインスポッティングの登場人物に対する感情はやはり同情でなく憐憫だな。

 

セッション

 

セッション [Blu-ray]

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プロフェッショナルたろうとする者同士の戦い。

即ち、狂気対狂気。

お互い歯を剥き出しにして、今にも相手の喉笛に噛みつかんとしている。

間違っても万人受けではない。嫌悪感を抱く者も多いだろうと思う。だが私はこういう、空気のピリピリと張り詰めた映画は好きだ。まあさすがに体型や生まれを持ち出して罵るモラハラっぷりにはちょっと不快感感じましたが。陳腐だが、問題作、という表現が一番的確かな。

 

マガディーラ  勇者転生

 

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十年前の作品ということで、CGの安っぽさは単に技術的なものなんでしゃーない。
どうしてもバーフバリと比べてしまうので、全体的に小ぢんまりしてるなーと感じたけど、バーフバリより先に観てたら普通に「何このダイナミックな映画!!」と思ったと思う。10年経っても、観客を釘付けにするだけの耐久性がこの映画にはある。冒頭のダンスシーンのダサさと冗長さは何とかならんのかと感じはしたけども。
バーフバリにない「現代パート」があるので(というかそちらが肝なので)、バイク、車、ヘリコプターを使った戦闘シーンが新鮮だった。ヘリコプターのプロペラで人を崖っぷちに追いやるとか、そのヘリコプターに車を盛大にぶつけて爆発させるとか、なんというかそういう「豪快に嘘なんだけど観客に最大のカタルシスを与えるアイデア力」は10年前から既に健在だったのだなあと。あんなん思い付く人他に居ませんて。
楽しませてもらいました。

 

モヒカン故郷に帰る

 

大好き。後半三十分はずっと半泣きで観てて、その流れでこれ書いてるから、なんか小難しい批評とか出来ないけど、もうほんと大好き。

こういう「エピソード積み重ね系」というか、この沖田監督とかあとは山下敦弘監督の持ち味である映画の構成は、起承転結やハラハラドキドキを求めている人には肩透かし食らったように感じるのだろう。勿論私もストーリーがしっかりコントロールされてる映画も好きだし、そしてやっぱりそういう作品こそが多くの人に支持されるんだろうけど、モヒカンみたいな映画は、積み重ねられたエピソードのお陰で各登場人物の感情の流れが自然に体に染み込んできて、暖かい気持ちになれたり、登場人物を実の家族や友達みたいに感じられたりして、そういうところが私は本当に好きです。

あと、この映画、役者さんがみんなほんと良かった。超脇役である吹奏楽のメンバーひとりひとりまで、「演技してる」っていうよりちゃんと映画の中で生きて息をしていて、隅々まで気が配られてるし、役者さんも手を抜かない、抜きたくないと思って役に臨んだんだろうなと。

なんだかとりとめのない感想になってしまったけど、要するに大事な映画がまた一つ増えて、すごく幸せです。

 

T2  トレインスポッティング

 

ストーリーというかテーマは前作と変わらない。いつになっても地に足をついて生きられないように生まれついたクズどもの物語。彼らに対する印象は前作のレビューで書いたものと全く変わらない。憐憫。それだけ。

そんなことよりも美術、カメラワーク、演出がひたっすらスタイリッシュ。これ編集相当大変だっただろうなあと。映像と音楽の快楽がやばかった。

そして前作から21年もの歳月が経ったのにも関わらず、主演俳優4人が亡くなってもおらず芸能界引退してもおらずオファーを蹴りもせず無事にちゃんと続編に出演出来たのってよく考えたらすごいなというか幸福だったなあと。私事ですまんが、私のオールタイム・ベスト映画であるゴッドファーザーシリーズは大人の事情で色々あったんで……。

 

はじまりのうた

 

「音楽の魔法だ 平凡な風景が意味のあるものに変わる 陳腐でつまらない景色が 美しく光り輝く真珠になる」

……これは作中の台詞の引用だが、この映画はまさにその「音楽の救済性」をこの上なく真正面から描いている。

仕事が上手くいかない時。家族と疎遠になっている時。恋人の浮気が発覚した時。音楽は彼ら彼女らにそっと寄り添い、前を向いて歩く活力を与えてくれる。世の中はうんざりすることばかりで、何もかもちっとも思い通りにならないし、時にアルコールに頼ったり、頬を涙が伝うけれど、そんな状況を「歌にする」ことで、創造のエネルギーにしたり、深刻な悩みをユーモアで骨折させることができる。

ONCE ダブリンの街角で」「シング・ストリート」もそうだったが、ジョン・カーニー監督は、そういう音楽の持つ力にすごく自覚的に作品を作っているのだと思うし、カーニー監督自身、音楽に助けられた経験が何度もあるのだろう。

参加する予定ではなかった娘が急遽ギターを弾いたり、たまたまその場にいた子供たちにコーラスを頼んだり、人と人を繋ぐものとして音楽を描いたのも素晴らしい。

個人的に好きなシーンは、プレイリストを夜の街を歩きながら2人並んで聴くところと、冒頭、職場でトラブル起こしたマーク・ラファロキーラ・ナイトレイの歌を聴いた時、アレンジが加えられて聴こえたところ!あれは音楽プロデューサーとしての彼の職業病というのもあるのだろうけど、それより何よりきっと彼があの曲にすごく心を打たれて、まるで愛する人の顔が実際より遥かに美しく目に映るように、あの曲がさらに豪華に、完成度の高いものとして感じられたんだと思う。

音楽を愛する人の、音楽を愛する人による、音楽を愛する人の為の、素晴らしい映画でした。

 

犯罪都市

 

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筋はまあよくあるっちゃああるけど、王道を往く故に痛快爽快。いやあ最高。
ドンソクさんは安定のかっこよさだし、悪役のユン・ゲサンさんももう全身から「もうとりあえずやばい悪者オーラ」出ててスクリーンに目が釘付けだった。元歌手の人なのね。好きな俳優さんがまた増えました。

ドンソクさんの腕っぷしの強さが説得力あったのもいいよね。まああの体格の時点で強いってのは一目瞭然なんだけど(笑)、冒頭、ナイフ持って喧嘩する男2人を電話しながら片手間に仲裁(?)するとか、言葉でなく具体的なエピソードによって彼がいかに強い男かってのを観客に説明してる。巧い。

カメラワークというか演出も全体的にすごく良かったなあと思った。音楽流れるタイミングもそうだし、極端な例挙げるならラストのトイレの個室から出てきたゲサンさんからカメラががーっと引いていって迎え撃つドンソクさんがスクリーンに映るとことか。泥臭いレベルに王道なんだけど、故に快感がすごい。

でも一つ言わせてくれ、あの少年!!!どうなった!!!助かったのどうなの?!?!ドンソクさんたちがあれだけ頑張って犯人逮捕したのは、あの少年をはじめとする市民の安全な生活を守る為であって、あの少年が息を吹き返すシーンがあれば、そのテーマももっと説得力をもって全面に来たのになあと。似たような話で韓国映画には「ベテラン」があるけど、あれは飛び降り自殺に見せかけられたジョンミンさんの友人が意識を回復するところで終わったのが最高だったから、どうしても比べて少しモヤモヤ。そこ拾ってくれてたらほんともっと良かったのになあ……!

あと、ラストのトイレのシーン、もうちょいドンソクさんと悪役の戦闘力が拮抗してればもっと面白かったのになあとは思った。また「ベテラン」を引き合いに出してしまうけど、あれはジョンミンさんかなり苦戦してたよね。これはわりとドンソクさん無双だったんで、ラストの対決なんだから、もっと手に汗握る感じにしてくれていいのよ。

 

バッド・ジーニアス  危険な天才たち

 

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初のタイ映画。

130分があっという間!次から次へと襲いかかるハラハラドキドキで、スクリーンに釘付けだった。テンポがとにかく良い。ただのエンターテインメントに留まらず、経済格差や学歴社会の問題にとても自然な形で切り込んでいて、とことんスキのない極上の一品。

この映画の宣伝で、"高校生版「オーシャンズ11」"だと評されていたので、ラストは当然カンニングを成功させて大金手にしてウェーイって感じだろうと思って観てたら、まさかの正反対の終わり方で、そうでなくてもマフィア映画やアメリカンニューシネマ系のアウトローな奴らが大好きときているので、劇場を出てすぐは、成功のカタルシスを期待していた心が宙ぶらりんのまま何処にも行けず正直若干モヤった。はいはい真面目で大いに結構ですね、みたいな。

の、だ、け、れ、ど、少し時間を置いてよく考えたら、主人公は頭脳は鋭いものの成り行きでカンニングに協力しただけのただの高校生。盗みのプロフェッショナルが集まるオーシャンズシリーズとはわけが違う。彼女は当然アウトローとして生きていきたいわけでもなし、自分の犯した罪を見つめて反省して、償うことこそがこの映画の落とし前だよなあと。

ピアノの運指、鉛筆のバーコード、とカンニングの手段が非常に巧みかつ絵的にも映える映える。ちょっとした親切心で始めた事業が多くの人を巻き込んで誰にも制御できない大きな渦に変貌してゆく様も実際的であった。

誰もが経験してきた「テストの成績で将来が決定する怖さ」や「親からの重圧」を扱っているので様々なキャラクターに感情移入出来るのもこの映画の強みよね。

主人公役の子が無駄にスタイル良いな、と思いながら観てたんだが、パンフ読んでモデルである事が判明して納得したと同時に演技初挑戦と知りぶっ飛んだ。父親との距離感、罪悪感とスリルの間で揺れ動く心情など、複雑な役を難なくこなしているのが凄い。今後も是非女優業にも力を入れて欲しい。追いかけます。

あと、まあこれはどうでもいいんだが、トイレの個室で「長すぎるぞ、出てこい」と言われて一言も返事しないなんて逆に怪しまれるだろ!「お腹壊しちゃって……」とか言うぐらいのアドリブ力付けとけよ青年!と思ったが、まあ冷静な判断が出来なくなるレベルにリスキーかつ緊張する役所背負わされたってことよなあ。あの青年と主人公、最後に選んだ道は大きく変わってしまったけれど、あの映画においては誰もが加害者かつ被害者なわけで、そういった多層的な構造も見事だなあと。

 

ボヘミアン・ラプソディ

 

ラスト20分、チャリティコンサートのステージに入っていくフレディの後ろ姿が映し出された瞬間からなんか知らないけど涙がだーって流れてきてあとはひたすら号泣しながら観ていた。

なんていうか、生まれた時には既に彼が故人であった私らの世代とか、そうでなくても海の向こうでコンサートに行けなかった多くのQueenファンの無念、いやそれだけじゃない。フレディは病死しているから、解散コンサートも出来なかった。つまり生で聴いた人のなかにも、はっきりと「これが最後だ」と覚悟して立ち会えた人は一人もいない。別れは突然やってきた。そういう全てのファンを、あの20分は確かに救済したんだと思う。愛を追い求めながら無念にも亡くなったフレディ・マーキュリーと、私たちファン、両者の魂を成仏させてくれた気がして、本当に涙が止まらなかった。この映画に関わった全ての人、そしてQueenに、心からありがとう。

 

コインロッカーの女

 

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5.0
因業と呪い、そして歪んだ「愛」の物語。
コインロッカーに捨てられたその時から、イリョンはその人生を血の繋がらぬ母、つまり「他人」に牛耳られてきた。
他者に命じられて金を取り立てる。他人の益の為に人を殺す。
母をその手にかけた時、彼女は彼女の人生を己の手網のもとに取り戻したに見えた。
だが今際のきわ、母が苦悶の中で絞り出した「自分で決めろ」という言葉で、彼女は自分の人生を自分の手に取り戻すどころか、永遠に母の意思のもとに生きることになる。何故なら、この後彼女がどのように自由意志を行使しようと、それはすべてあまねく「自分で決めろ」という母の言葉の上に成り立つものになるからである。「自分で決める」ことを、決められた。こうしてイリョンは未来永劫、母の言葉に呪われる。
己の人生の最初の場所であったコインロッカーから母との養子縁組の書類を見つけ、イリョンは名実ともに母の呪いのもとに生きることになる。かつて母がそうであったように。

ソッキョン殺害時に母がイリョンを殺さなかったのは、イリョンへの最後通告だったんだと思う。少し親しくなった程度の男一人を殺すどころじゃない、もっと残酷で自分の意思ではどうにもならない事態がこれからお前を待ってるぞ、そこにお前は生まれた時からいるんだぞという。

全体的に薄暗い画面が作中の大半を占めるあの映画の中で、しかし家族写真の回想シーンは切ないほど光が眩しくて、やはりあの映画は歪んでいようとなんであろうと母のイリョンへの「愛」が死によって貫徹する話なのだと思った。お前はこれから自分で決めろ、ということを親として「決める」という呪い、笑え、という呪い。母は他でもない自分の死という最大のものでイリョンを未来永劫解けない愛という名の呪いで縛り付けた。

役者の演技がとにかく皆鬼気迫っている。1本ピーンと糸を張ったように突き放しながらも情感滲み出る音楽もいい。ラストは同じく韓国映画「新しき世界」を思い出したり。

 

キング・オブ・エジプト

 

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なんか、キャラクターの造形がすっごいリアルなゲームの実況を見てる感覚というか、週刊少年ジャンプの漫画をめっちゃ金かけて映像化した印象というか……脚本も演出も良くも悪くもざっくりしてる。

衣装や美術はかなり凝っていて綺麗なのに、魅せ方がいまいちなので生かしきれていない。バトルシーンもやった者勝ちというか、キャラクターが各々自分の属性に沿った闘い方をするので(このへんほんとゲームっぽい)、誰がどの位強いのかとかあんまり読み取れない。

要するにこれは頭空っぽにして考えるより感じろって路線の作品なんだと思う。……のだが、折角「感じ」たいのに前述の通り演出が今ひとつなので大して視覚的快楽も得られないんよなあ。まあ、半年にいっぺんくらいはこういうの観ても悪くないかなって感じ。それ以上でも以下でもない。

 

スパイ・ゲーム

 

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男どうしの絆というと、やはり主演・ロバート・レッドフォード出世作・「明日に向って撃て!」が真っ先に思いつきますが、まあこれもストーリーこそ騙し騙されで錯綜するものの、本当に真正面からの「男の絆」映画でした。こういうのほんと好き。

カット割り、カメラワーク、音楽なども適度にスタイリッシュ、適度に足が地に着いており、スパイ映画とはかくあるべきだ!という感じの良作でしたね。

しかしブラピのスパイ活動の理由が結局好きな女を助けるっつう極めて個人的なものであったのがなんとも。いや愛を完徹するのは素晴らしいと思うんですが、出来れば仕事人としてすべてを全うして欲しかった。まあこれはもう個人の好みですね。

 

小さな悪の華

 

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フランス映画の面目躍如。

キリスト教圏だからこそ成立する中二病、と言ってしまえばそれまでだが、インモラルに付き纏うある種淫靡な美しさに魅せられた二人の少女が悪に従い悪に殉ずる姿の凄まじさよ。

悪魔主義に自ら望んで染められていく彼女らはきっと、炎に包まれてなお自分達の行動が起こした事の重大さにも罪深さにも本当の意味では気付いていなくて、その視野の狭いあたりも思春期という言葉がしっくりきますね。

媒体問わずいわゆる「恐るべき子供たち」とでも呼べるジャンルが、狭いながらも確立されているが、数多ある作品群のなかでも、この作品はとことん徹底的。

なんか結論のまとめに困ったので、同じくフランスの作家であり、代表作のタイトルからしてまんま「恐るべき子供たち」であるジャン・コクトーの作中の一文を引用して〆ましょうかね。

「世間知らずで、罪を犯すほど純粋で、善と悪を見分けることができない子供たち」ーージャン・コクトー恐るべき子供たち』(光文社古典新訳文庫)より

 

川の底からこんにちは

 

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いやー良かった!前半は正直、主人公の投げやりな性格や周りの人間の性格の悪さに割と苦痛だったんだけど、観終わってみればそれらの要素も全てこの素晴らしい映画を作り上げる為の必要材料だった。

「しょうがないですよね」で妥協するんじゃなくて、会社で見下されても、男に捨てられても、「中の下」でも、もう何でもいいから、とりあえずグダグダ文句垂れたりする前に開き直れ!自分を愛さなくてもいい、認めろ!目の前のことをやれ!っていう泥臭くも愛すべきメッセージ。

笑いにも泣きにも無理矢理にはもっていかず、突き放し気味の演出が良かった。父親が亡くなった次の日に主人公が喪服姿でいつものようにウンコ撒く、そのバランス感覚最高。

満島ひかりの剥き出しの演技が光っている。社歌のシーンとか爆笑した。子役もいい演技してたなー。ラストシーンは号泣しながら爆笑するという大変稀有な映画体験ができた。

ダルいけど、しょうがないから頑張ってやっか。って思える。脱力しながらも前向きに笑える映画。

 

ウォールフラワー

 

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青春要素や主人公の成長、そのあたりは良かったんだけど、叔母とのトラウマや幻覚への言及があまりに中途半端。まあ原作モノだし仕方がない面はあるのだろうけれど、性的虐待や精神病といった映画によってはそれだけで主題になりうる重いテーマを扱うならもうちょい尺とって丁寧に説明すべきでは。正直ノイズにしか思えなくて、せっかく青春の煌めきや痛みにノッていたのにそこへの言及があるたびに足を引っ張られた印象。

国語の先生とのエピソードが良かった。あの時期って、歳の近い友達や恋人は勿論だけれども、メンターとなってくれる大人との触れ合いでその後の人生が大きく変わってゆくものだと思うので。

 

アイアムサム

 

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とにかく人間描写が良い。脇役の隅々に至るまで感情の流れや人柄が深く描かれている。

サムでいえば、まずルーシーが生まれ、サムがビートルズの「Lucy in the sky with diamonds」をの詩の一片を口ずさむところからして、あのシーン、あの描写ひとつでサムがどういう人間なのか、生まれてきた娘に対してどういう気持ちでいるのかがダイレクトに伝わってくる。部屋にもビートルズのポスターが貼ってあったりして、こういう細かい描写のひとつひとつがキャラクターに説得力と深みを与えるのだと思った。こういうところを疎かにしない映画はそれだけで傑作になる可能性を秘めているし、実際そうである場合が多い(経験上)。そういえば今作でルーシーを演じるダコタ・ファニングの最新作、「500ページの夢の束」でも(こちらも本作と同じくハンディキャップを持った主人公の話なのだが)、主人公が「スタートレックシリーズ」の大ファンだったな(ちなみにこの曲、ビートルズのなかで個人的に一番好きな曲なのでもう冒頭からやばかった……というのは私事なので割愛)。

ルーシーも、女性弁護士も、サムの友人達(靴屋のシーンが好きだ)も、皆とても良かったが、個人的にはルーシーの里親の女性が好きだった。最初はサムをルーシーに近づけまいとするのだが、ルーシーとサムをいかに愛しあっているか、お互いを大切に想っているかを知るにつれ、当初は煙たがっていたサムをルーシーと会わせる事を認める。最近ネットだか本でだかで読んだ文章で、「養子縁組制度というのは、子供を欲しがっている親のためではなく、親を必要としている子供のために存在し、またそうあるべきである」というようなものがあったのだが、この里親の女性はまさにそれを体現させているなと思った。自分の意に沿わないことでも、愛する人が何を一番望んでいるか、何が相手のためになるか。それを考え、実行することこそが愛なのだと。

ラスト、歳の近い子供たちとサッカーに興じるルーシーを、サムやルーシーを愛する人々が笑顔で見守るシーンは、映画史に残る名シークエンスだと思う。なんというか、「親権」というのは法律上でこそ「奪い合う」ものだけれども、心の上ではそうではなくて、子供を愛おしむ全ての人が「共有」し、それぞれがそれぞれの形で見守っていければいいよね、という考え方が大事だし、それが一番子供のためにもなるのではないか、と、あのキラキラした幸福なラストシーンを観ながら感じた。

題材が題材だけに、ともすれば説教臭くなってしまうところを、愛で溢れた脚本や演出が、絶妙に心を温めてくれる素晴らしい映画だった。

 

未来を花束にして

 

未来を花束にして [DVD]

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今私達が当然のように手にできている権利は、かつては当たり前などでは全くなくて、先人達が様々なものを犠牲にしてやっとの事で獲得してくれたものだということが、改めて身に染みて感謝と尊敬と共に実感できる作品だった。

ショーウィンドウに石を投げつけたりポストに火をつけたりというのは、それ単体で見れば野蛮な行為だが、そこには長く平和的に訴え続けるも無視を決め込まれたというバックボーンが存在する。冒頭の場面で女性活動家が「言葉より行動を」と叫ぶが、彼女らがそこに行き着くまでの道程でいかほどの苦渋があったのか。それを理解しない者たちからどれだけの嘲笑や陰口を受けたのか。痛みなしに改革などあり得ないというのは不条理な事実だが、その不条理を飲み込んででも、掴み取らなくてはならないものがあるのだ。

全体的に良かったが、特にいいなと思ったのは、参政権ゲットしてハッピーエンド、という終わり方にしなかったところ。彼女らに作中で勝利を与えるのは簡単だけれど、あえて「これからも闘いは続く」というような終わり方にすることによって、この作中で描かれる女性差別は決して無くなったわけじゃなくて、今もまだ形を変えて存在していて、今この映画を観ている自分たちも当事者として考え、動いていかなくてはいけないのだな、と問題意識を持たせる構造になっている。ここでこういうことを書くのは野暮かもしれないが、彼女らが闘い続けた結果獲得した婦人参政権は今でこそ私の手のなかにあるけれど、こんにちの日本において、現政権の性差別をふくんだ保守的・懐古主義的な政治が行くところまで行き着けば、女性や弱者の参政権はあっさりと摘み取られてしまってもおかしくないと思うのだ。この国で生きていて、少なくともわたしにはそういう実感がある。だから、権利を持つ手のもう一方の手で、私達は投げるための石を持つ覚悟をしなくてはならない。

家族を失い、職を失い、逮捕され、劣悪な環境で罵声を浴びせられ続け、それでも己や次の世代のために闘うことをやめなかった女性たち。彼女たちの運動は、今を生きる私達にもたしかに引き継がれているのだ。

未だに女性差別は様々な国で、様々な形で、生活の様々な場面で根付いている。自分はそれらに毅然とNOを突きつけ、闘う事ができるか、観ながらずっと己に問いかけていた。

 

ミッドナイト・イン・パリ

 

「昔は良かった」。「あの時代に生まれたかった」。
私は70年代の映画や90年代の音楽が好きなもので、それらをリアルタイムで楽しめた世代であるところの両親や祖父母の当時の話を聞くたびに、心からそう思う。
この映画の登場人物の多くも同じだ。文学、絵画、詩、音楽……何かしらの芸術を愛し、芸術に生きる彼らは、「偉大なる先人」の生きた時代に惹かれている。

この映画の主人公であり、婚約者達と憧れのパリを観光している、小説執筆中のハリウッドの脚本家・ギルは、フィッツジェラルドジャン・コクトーピカソヘミングウェイら、彼にとっての「偉大なる先人」の生きる1920年代のパリへと毎夜のごとくタイムスリップする。私達は彼の目を通して、その時代を追体験する。"現在"の住民である彼は幾度も口にする。「もっと昔に生まれたかった」。そう、同じく"現在"を生きる私達を代弁するかのように。
しかし、私達はギルと同時に、意外なことに気付き始める。「黄金時代」であるところの20年代を生きる人々が、「私にとって過去は偉大なカリスマなの」「"今の"画家には描けない」「ルネサンス期に生まれたかった」と、次々と過去への憧憬と、現在への不満を語り出すのだ。
やがて彼は、そして私達は気づく。どんな時代にもそれぞれの時代のカリスマがあり、その時々の不満がある。人生というのは不満に満ちていて、だからこそ完璧な過去にすがりたくなるのだと。そしてそれは、私達が今を生きているからこそなのだと。そして何より、ギルの小説の主人公の職場がノスタルジー・ショップ(古き昔の道具や記念グッズを売る店)であるように、また、フォークナーが「過去は死なない、過去ですらない」と言ったように、"今"というのは"過去"の堆積の上に成り立っているのだと。

所謂「昔は良かった」系の映画なのだろうなと思って観ていたのだが、蓋を開けてみれば、「昔の素晴らしさ」を描くことで「今を生きること」の価値を高らかに宣言するという構造の妙に唸らされた。思えば、"今"のパリの街並みをひたすら美しく映す冒頭数分から、既にこの映画は「今を生きること」を全力で賛美しているのだ。

これは私個人の意見だが、フィクションというのは現実からの逃避場所ではなく、明日を歩く活力の源であるべきだ、と常々思っているので、今を生きること、つまり人生を生きることはこんなにも素晴らしいのだという人生賛歌が作品の隅々から謳われているのがほんとうに良かった。また、パリの街並みや音楽の美しさも言うまでもない。私はこれからも、両親や祖父母の話を聞くたびに彼らを羨ましく思うのだろうけれど、同時に、今この時を生きられることを、幸福なこととして胸を張って生きていけるだろうと思う。

 

超高速!参勤交代リターンズ

 

超高速! 参勤交代リターンズ [DVD]

超高速! 参勤交代リターンズ [DVD]

 

一作目と同じく、勧善懲悪、人情モノ、誰も傷つけず、誰もが安心して観られる娯楽作。とにかく、笑い、策の面白さ、人情、殺陣と言った要素のバランスが絶妙。小説版ファンとしては、やや一本道すぎる脚本やキャラクター描写の深みが足りない点が惜しく思えるが、二時間の映画にまとめるには枝葉をいくつか切り落とさなければならないことも理解できるし、切り落としていい枝葉といけない枝葉の区別が製作の中でしっかり付いているので食い足りない印象はない。

物語としての前提がまず「金も人も無いなかでお上に命じられ数日で参勤交代」という「大嘘」なので、鎧を貫く矢じりや、かすり傷ひとつ負わず敵を圧倒する味方軍など、ともすれば冷めてしまうリアリティの無さも、「そういうもの」として(少なくとも私は)楽しむことができた。リアリティは無いが、リアリティラインはしっかり設定されているのだ。

また、ここでは分かりやすいラストの千対七人の戦を例に挙げるが、味方七人の軍勢が引き気味のショットでカメラに向かって歩いてくるカットや、佐々木蔵之介演じる政惇の「人の大事は誰と出会ったかだ!人は、宝だ!」など、画もセリフもちゃんとキマっている。

前作や小説版のメインテーマであった、人を信じること、人を思うこと、人のために尽くすこと、正義に殉ずること、といったテーマもきっちり継承されている。随所に笑いも散りばめられており、説教臭さも鼻につかない。笑顔で観れてたまにハラハラして最後は爽快な気分で席を立つことができる、エンターテイメントとしての映画として、何気に傑作なのではないかと思う。

散々褒めてきたので、勿体無かった点をひとつ。主人公・内藤政惇の存在感がいまいち薄い。人情家で家臣に慕われ、民に慕われ、村の子供たちの名前も一人残らず覚えている、という設定自体は主人公像として素晴らしいものだと思うが、それらはあくまで「設定」であって、じゅうぶんな描写が伴っていない(全く描写されていないわけではないが)。家臣が皆それぞれ脇役としてキャラが立っており埋もれてしまった感が。結果的に悪役・信祝の方が印象が強くなってしまっている。二時間でテーマを押し出しつつ笑いも人情も入れてストーリーを運びなおかつ人間を描く、というのは並大抵の事ではないのだろうが、なまじすごく楽しく観れただけに、そこだけが少し残念。

 

オーシャンズ11

 

オーシャンズ11 [Blu-ray]

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安心して観れる、王道かつスリリングな娯楽作。ターゲットの予想は言うに及ばず、私達観客の予想をも上回ってくれる展開と策がめちゃめちゃ爽快。音楽や画、テンポもとにかくひたすらスタイリッシュ。
まあそれはいいんだけど、15年以上前の作品だから仕方がないとも思うんだが、ジョージ・クルーニーの元妻があまりにモノ扱いというか、完全に男同士の駆け引きのトロフィーと化してるのがやっぱりちょっと……。まあでも、昨年の新作・オーシャンズ8が全員女性であるところを見る限り、制作側はちゃんと時代性を反映して過去作の問題点に新作で落とし前をつける姿勢でいると評価できるのかな? 本作含め13までの三作で「カッコいい男達」を描いてしかもちゃんと成功している状況下にあって、これがもし生半可な監督なら「男のロマンこそこのシリーズのキモ!」って思考停止しちゃいそうなところを、「いやこれが全員女でも同じようにカッコよくなるんじゃね?」って発想できて実際に実現させしかもちゃんと成功しているのは、さすがエンタメの何たるかを分かっているんだなという感じ。ただ本作を単体として今観るとちょっとなあ、ってトコですかね。

 

時計じかけのオレンジ

 

時計じかけのオレンジ [DVD]

時計じかけのオレンジ [DVD]

 

美術や音楽がとにかく洗練されていて、先鋭的に磨き上げられた暴力の美しさに興奮しながら観ているんだけど、ふと何気なく自分の手の平を見下ろした時に、おのれの中にも存在する暴力性に気付かされてふっと真顔になる。みたいな映画。タイトルとかテーマは要するにキリスト教で言う所の「人間の自由意志」なんだろうけど、そんなことより嫌悪感に到達するギリギリのとこまでの露悪趣味ってここまで人をハイにさせるんだなと驚愕。この映画は隅々までスタイリッシュに作り込まれているけれど、その芸術性が単なる視覚的快楽に留まらずに、秩序とか正義感みたいなものを薄皮を剥くように一枚一枚丁寧に引っぺがしていったあと最後に顔を出す自分の中の暴力性に気付かせるという構造を支えてるのが見事。原作はともかく、ことこの映画に関しては「このタイトルは何の暗喩なのだろう」みたいな考察は多分野暮では(映画内ではそもそもオレンジのオの字も出てこないし、原作読めば考えるまでもなく普通に説明されているので)。あとアレックスのコスプレしたい。右目下瞼のつけまつげマジかっこいい……キューブリック天才……

 

 

スカーフェイス

 

スカーフェイス [Blu-ray]

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自分、パチーノ好き好き言ってるけど、70年代パチーノばっか観てたので、何気に80年代の彼の出演作観るのって初めてかもしれん。

展開がとにかくテンポいい上に、敵対勢力との戦い、女との駆け引き、仲間の裏切り、下克上、家族との確執、と描かれる状況も刻々と変化してゆくので、長尺だけど全く気が散らずに夢中でラストまで突っ切れる。

トップまでのし上がった瞬間から既に落ちぶれてるのがビンビンに伝わってくるパチーノの怪演がもう最高。私はとにかくゴッドファーザーシリーズが大好きなんだけど、同じマフィアでもこの作品におけるそれは時代も目的も全く違う。シチリアから逃げるために移民としてアメリカへ渡ってきて、社会で生き延びる為の手段として権力を手にし、麻薬の売買には一生関わろうとしなかったヴィト・コルレオーネや、父親から受け継いだファミリー業を完遂する為に冷酷さと禁欲を己に強いたマイケル・コルレオーネに対し、この映画の主人公・トニーの目的はどこまでも金と女とヤク、つまり己の欲望のみに忠実に動く。トニーの部屋の絢爛豪華ぶりやしょっちゅうヤク吸ってる姿からもそれは一目瞭然。だから部下や友人は付いてこないし、女は離れていくし、最後は殺されるし。マイケルやヴィトも勿論良い暮らしはしてるんだけど、己の身の丈にあった生活を選んだら自然とそうなったのであろう彼らと違って、トニーはとにかく金のために行動し、そうして入ってきた金で武装する。ガンガン殺人犯すのも、冷酷でクレバーだからではなくて、単に沸点低くて自分の邪魔になる人間に我慢できないだけ。無駄に装飾された椅子に座って、絢爛豪華な調度品が置かれた机の上のヤク吸いながらパイプふかす彼の姿は、痛々しいと言っても良いほどに力と金とに溺れている。こういうトニーの性格というかある種の脆さが、話が進むごとに露呈していく作りが堪らんすね。

なんであそこまで妹に清廉性を求めるのかなーと思ったけど、もしかしてあの妹は映画の機能的にはかつて純粋であったトニーの魂のアレゴリーで、決して侵すことのできない、侵しちゃならない己の聖域としての象徴なのかな。だからジーナが死んだ(=マトモな人間性を永遠に失った)あと、トニーは鬼神になるしかなかったし、その先にあるのは破滅だった。血で汚されていくプールに浮かんだトニーの姿を映したあとの「世界はあなたのもの」はめっちゃくちゃ皮肉が効いてて大好きでした。

 

ショーシャンクの空に

 

ショーシャンクの空に [DVD]

ショーシャンクの空に [DVD]

 

無実の罪で刑務所に入れられた主人公が自由を手に入れる……っていうめっちゃざっくりしたあらすじだけ知ってて観始めたんだが、調達屋が出てきた時点で何故か私は「よっしゃ、この主人公はこいつ経由で証拠を外部からひとつひとつ手に入れて己の身の潔白を明かし自由になるんだな、どうやるんやろ、そこらへんの技巧楽しみだな」と完全に思い込んだので(韓国映画「華麗なるリベンジ」の影響か?)、まさかの脱獄でめっちゃびっくりした。でも、途方も無い時間をかけて、多分彼自身ときたまに途方に暮れつつ、それでも諦めることなく、己の未来を切り開くかのように少しずつ少しずつ壁を削ったんだな、と思ったらめっちゃ涙出てきた。角部屋でよかったね、とは思ったけど。

長尺のうえに、ほとんどが刑務所のなかのシーンであるにも関わらず、冗長に感じたり話がダレてしまう部分が全く無い。一本の映画として完成度がはちゃめちゃに高い。名作名作言われている所以が身をもって分かった。

だが不満点がないわけではなく。主人公が「希望」がどうこう、って話すシーンがあったと思うんだが、主人公に直接「希望」とか喋らせたのはあれはもう陳腐としか言いようがないと思った。どんな作品にもテーマやメッセージがあると思うんだけど、それをそのまんま台詞として登場人物に喋らせるのは明らかにNGだろう。そのまま言葉にしちゃうなら二時間以上の映画作るなんて回りくどい事やってないで監督か脚本家が駅前とかで「どんな境遇でも希望を捨てないことが大事です」って演説すれば良いんであって、そうしないでひとつの作品に乗せて観客に届ける道を選んだのなら、それはエピソードに託さなくてはいけない。しかも本作、テーマを伝えるだけのエピソードはちゃんと十分に積み重ねられているのだから、そこで駄目押しみたいにキャラクターに言わせたのは最後の最後で観客を信頼していないというか、臆病だなあと。それまで沢山の力強いエピソードをひとつひとつ組み上げてきた意味が無い。そこ除けば、本当に素晴らしい映画だと思った。

 

鍵泥棒のメソッド

 

鍵泥棒のメソッド [Blu-ray]

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こういう「軽い気持ちで安心して観れる娯作」って、もっと評価されていいと思う。何気に作る上で一番技術が必要とされる分野では。問題提起としての側面がある作品や、壮大であったり、重い主題を扱った作品は、多少の粗があったとしてもテーマに強度があるからそこで観客を引っ張っていけるけど、この作品のような単刀直入、直球まっすぐなエンタメは、どの観客も傷つけてはいけないし、とりあえず話を転がしてくれるインパクトのある主題も持たないぶん、脚本や演出がよっぽど巧くないと観客をラストシーンまで連れていくことができないと思うので。

まあ御託はこれくらいにして、とにかく楽しく観ることができました。大満足。何度も笑ったし、ちょっとハラハラもしたし、最後は幸せな気持ちでエンドロール迎えられたし。「あー楽しかった」で終われる作品、もっと評価されていいし、もっと沢山作られてほしい。人に薦めやすいのもこの手の映画の良いところだよな。

あとどうでもいいけど、堺雅人香川照之って共演多いなーとふと。しかもどの作品も割とがっつり絡むし。この作品で、そのおふたりの俳優さんがもっと好きになりました。

 

あぜ道のダンディ

 

あぜ道のダンディ [DVD]

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川の底からこんにちは」もそうだったけれど、序盤わりとストレスフルなのに、観終わってしまえば、これほど愛おしい映画が他にあるだろうか、ってしみじみ思える良作。

「川の底〜」と同じく、「笑い」ポイントは多々あるんだけれど、それらがただの「ウケる〜」みたいな安っぽい単純な笑いで完結しておらず、そこにプラスアルファとしてある種複雑な感情が注がれているのが良い。例えばお母さんのテープのうさぎのダンスにしても、娘の「安月給」連呼にしても、主人公の癌疑惑で先走って遺影まで作っちゃうとこにしても、彼らは別に誰かを笑わせようとかふざけているとかアホだからだとかいうわけじゃなく、彼らはどこまでも真剣でやっていて、でもその真剣さがはたから見るとどこか「ズッコケて」いて、そこではじめて生まれるのが本作に散りばめられた「笑い」なのだ。まず前提として、「彼らは真面目であり、真剣」なのである。そしてここからが重要なのだが、彼らの真剣さはどこから来るのかと言えば、それは彼らの胸中を満たす、やり切れなさや申し訳なさ、悔しさといった思いだ。前述した複雑な感情とはそれである。だからこそそれを観た私達観客は、笑いながらも、同時に、切なかったり苦しかったりといった情動を己のなかに見つけるし、そこに名前をつけるならば、それは「愛しさ」であったり「哀愁」であったりするのだと思う。

また、さらに翻って言えば、切なさや苦しさを、笑いでくるんだ上でこちらに投げてくれるので、深刻だったり重い映画にならないのも素晴らしい。この映画の登場人物たちはどいつもこいつも不器用で一生懸命で、そしてそんなところが堪らなく愛おしいけれど、だからといってこの映画がありがちな「不器用な人々が織りなす感動ストーリー」みたいなものと一線を画す出来・後味であるのも、それだからこそだ。

うさぎのダンスのシーンとか、「依然として後方」とセルフ実況中継しながら自転車を漕ぐところとか、瞬間最大風速的に愛おしい一コマも多かった。この世に存在するあまねく全ての映画は、作品そのものの印象を、楽しいとかカッコいいとかハラハラドキドキとかそれぞれ一言で表すことができると思うんだけど、この映画は間違いなく「愛おしい」だなあ。

 

 

ハンサム★スーツ

 

ハンサム★スーツ [DVD]

ハンサム★スーツ [DVD]

 

たいして期待せず観始めたんだけど、面白かった! 終盤はなんだかホロリとしてしまった。ペーパーを買った帰り道、「他人の小さな幸せ」を見つけるゲームのシーンは観客としても多幸感があって、主人公の心情に説得力があった。あのふたりの人柄の素敵さをすごく丹念に描いてあって、終始笑顔で観れたし、エンタメとして最高。

ただ、残念だったのが……ブサイクな男の幸せ(気付かないだけで本当は琢朗のまわりにあった小さな幸せ)、ブサイクな女の幸せ(モトエとしての姿のままで好きになってもらえた)、ときて「ハンサムな男」「美人な女」の幸せに言及がないのは気になった。見た目だけでチヤホヤされて内面を見てもらえない、という北川景子の悩みに、結局最後までアンサーがなかったので。あと、公園でのブサイク時琢朗の「ブサイクだと中身どころか興味すら持ってもらえない」も結局フォロー無しだったなあ。杏仁としての成功も顔ありきの虚飾にすぎなかったし。まあこの映画で制作側が描きたかったのは美醜についてのアレコレよりも、自分の周りにある小さな幸せを見失うな、大切にしろ、というところなのだと思うし、そこに関しては完璧で、とても楽しく観れたのは確か。ただ美醜というデリケートかつ誰にとっても切り離せない問題をモチーフに作った以上、そこはもっと丁寧に扱って欲しかった。

役者はみんな凄かったなあ。ハンサムになった琢朗がついつい地を出しちゃうとこなんか、谷原章介が塚地の演技やクセを絶妙にコピーしてて爆笑。

 

 

ヘアスプレー

 

ヘアスプレー [DVD]

ヘアスプレー [DVD]

 

ひたすら楽しくて、キュートで、ポップで、そのテンションのままちゃっかり人種問題にまで深く切り込んだ誰もが知る名作。

ヒロイン・トレーシーが、前向きなんだけど、何があっても気にしない!じゃなくて、辛い事があったら一回落ち込んで、そこから立ち直る、というプロセスをきっちり描いているのが良かった。彼女は超人じゃなくて、私達観客と同じ人間なんだよ、という。だからこそ親しみが持てるし、ともすれば鬱陶しくなりそうなところを綺麗に回避している。

肌の色、体型といった、「ありのまま」を大切にしながらも、一方で「髪型やファッションで理想の自分になる」ことの素晴らしさも肯定しているところも好き。「"人と違ってる"のがいいことなの」という作中の台詞からも分かる通り、自分が自分であることを心から愛そう!っていう、ダンスで歌で伝えられる力強いメッセージ。またそのミュージカル部分がひたすらにハッピーで、人種差別なんてくっだらないなあ、それよりこの映画の登場人物達みたいに人生楽しもうよ、っていう視点から問題提起されているので説教臭さがなく、むしろ説得力がある。

意地悪親子のお母さんのほう、なんか見覚えあんなーと思ったらアイアムサムの人か!ほぼ真逆の役柄なのにどっちもこれ以上ないほど役にはまっていた。

楽しかったです。今度は友達や家族と観たいなー。

 

マッドマックス2

 

マッドマックスFRの原点全てここにあり!って感じだった。世界観にしても車のデザインやキャラクターのビジュアルにしても。1とは完全に別物。どっちも好きだけど、この作風の変化、いったい監督に何があったのだろうか?

という邪推はさておき、ガソリンや弾が貴重だ、っていう設定を、登場人物に逐一台詞で説明させるんじゃなくて、キャラクターが矢や銛を使ってたり、弾をスーツケースに大事にしまわせたり、溢れるガソリンを容器で受け止めることで集めていたりといった、あくまで「映像」による「描写」で説明する姿勢が観客に対して誠実だなと思った。観客を信頼しているというか。FRもそうだったけど、あの姿勢はここから継承されているのだなと感慨があった。

乾いた大地での派手かつ容赦無い命のやり取りのなかであのオルゴールが唯一のイノセントな部分というか清涼剤の役目を果たしていて、ただの暴力映画に留まっていないのも好きだ。マックスとあの子供の心の交流、戦場で互いを信じる、ある種ピュアな精神性みたいなもののアレゴリーなのだろうか?良い映画であった。

 

 

2001年宇宙の旅

 

2001年宇宙の旅 [Blu-ray]

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これ、腐すことはいくらでもできて、例えば説明を限りなく省き観客を未知の世界に誘う作りにより完成した究極の意味不明映画であるし、尺の取り方もわざとにしても超不親切なんだけど、観客に理屈じゃない恐怖を与える手腕がべらぼうに巧いし、観衆の価値観やものの見方を傷つける装置としての芸術としてあまりに完璧なので、最後は恐怖と興奮に身体中鳥肌立てながら白旗を上げるしかないさいこうの映画なんだよな。でも何度観てもほんっっっっっとうに眠いです。

 

チチを撮りに

 

チチを撮りに [DVD]

チチを撮りに [DVD]

 

「あの」湯を沸かすほどの熱い愛の中野量太監督の中編。二本目を観ることで中野監督の理想の母親像みたいなのがよりクリアに見えてきて、なんつーかこりゃキツイ。

監督の描く母親像、いやまあ二本しか観てないんでおちおち語れないんですけど、とりあえず二本観た限りでは、家族の中で母が絶対的権力者として君臨していて、娘達が母のマインドを受け継いでいることが問答無用で良しとされているの普通に怖いんですよね。逃げ場が絶望的に無い。

あと、「湯を沸かす〜」でも本作でも、母親が娘のブラジャーを干すシーンがあり、その後娘に新品のブラジャーを買ってきたり買おうかと提案してくるシーンが割と印象的に挿入されているのが本当に気持ち悪いです。男性監督だから母と娘の関係がよく分かってないのかもしれないけど、「えっまたブラジャー…」とものすごく引きました。

で、やっぱ、「お母ちゃん」なんですよね。呼称。「ママ」でも「お母さん」でもなく。お母ちゃん。さばけていて開けっぴろげで肝っ玉母ちゃんなんだけど不器用さというかある種の弱さもあるという。中野監督の願望としての母親像が映画見てるともうビシバシ伝わってきてひたすらキツいんだよなあ。

この監督は基本的に「家族」を描きたい人なんだと思うんだけど、顕著な「母親像」はじめ、姉妹や親子の連帯や情がナンジャコリャってレベルで独特(婉曲的表現)なので、結果映画全体がものすごいえも言われぬ気持ち悪さにつつまれるんですよね……あー怖いものを見た(好きです)。

 

新感線  ファイナル・エクスプレス

 

新感染 ファイナル・エクスプレス [Blu-ray]

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はじめてのゾンビ映画。世に存在するゾンビ映画がどのようなものなのかは知らないが、そういったジャンルの鎖から解放した1本の独立した作品として観ても、ゾンビが活劇にちゃんと機能していたので、まあいいんではないか。
家族愛、恋愛要素、泣かせの演出、クズな悪役、正義にバトル……ともうほんと笑っちゃうほど要素詰め詰め映画だったんだけど、そういった映画にありがちな、結局全部安易で中途半端で観客を舐め切ったようなところが目につき過ぎないのが良かった(そういうきらいが全く無いとは言わん)。どの要素もちゃんと機能してた。
あと、私はほんとこの邦題に最初ガックリきたんだが、そういう王道な「ゾンビもの」をやりつつ、そこに考えつく限りのヒューマンドラマを注ぎ込みまくった故に生まれたある種のカオス感が、滅茶苦茶な邦題に意外とマッチしているんでは?と思ったり。
あとは……ゾンビから必死に逃げたり闘ったり知恵を絞ったりと前半緊迫したパニックゾンビムービーだったのに、後半、主要人物が死んだり感染する度にスローモーションになるのでテンポがめためたになったのは少々残念。こういうスローモーション演出はよく見るけれど、スローモーションに頼らないと観客に涙を流させることもできなくて、逆に言えばスローモーションかけとけば感動するだろうって思ってるんだろうか。なんかなあ。
まあ、楽しかったです。ドンソクさんは出演作品観る度に惚れる。

 

 

沈まない三つの家

 

中野量太監督作品 沈まない三つの家/お兄チャンは戦場に行った! ? [DVD]

中野量太監督作品 沈まない三つの家/お兄チャンは戦場に行った! ? [DVD]

 

「湯を沸かす〜」も「チチを撮りに」もそうだったけど、中野監督はどこか「欠けた」家族を欠けたまま肯定するというか、むしろ欠けてるからこそ充たされる瞬間があるというのを描くのが巧いなと思う。

中野作品は本作で言えば太股、「湯を〜」「チチを撮りに」で言えばブラジャーと、作品中での少女に対する視線にナチュラルに変態性が宿っているので、時々ふと真顔にさせられるというか、ただの「お涙頂戴家族映画」で終わらないのがサイコー。

あと、水中ゴーグルの使い方が本当に秀逸で、ゴーグルというのは空間を水中と隔てる装置なんだけど、ラスト、ゴーグルを外すと中に溜まった涙が溢れ出したという事は、息子を亡くした母親は涙が溜まったゴーグルの「水中側」に居たんだよな。沈みかけていたという。ゴーグルを外した、すると涙が溢れ出た、そういう画としてのうつくしさに留まらず、そこに「川」「沈む、沈まない」という概念を当てはめたときに非常にロジカルな作品構造が押し付けがましくない形で浮かび上がってくるというのがすごいし、もっと検証すればどんどん出てくるんだろう。

 

クレイマー、クレイマー

 

これは父と子の絆を描く心温まるヒューマンドラマでも、緊張感溢れる法廷映画でもない。
これはふたりの大人がそれぞれ自分の問題と愛する子供のために何が出来るかに向き合い、「カタをつける」映画。
テッドもジョアンナも、それぞれ思う所あるもののお互いが憎いのじゃない。傷つけたいわけでもない。どちらかが悪いわけでもない。じゃあどうする?っていう映画。

ジョアンナに突然出て行かれて、テッドは慣れぬ家事育児で精一杯。仕事との両立で苦悩しつつ、自分がそれまでいかにジョアンナに対して不誠実な夫であったかに向き合っていく。ジョアンナも同じ。遠き地カリフォルニアで本当の自分を取り戻し、自分にとって一番大切なのは何か? を考えていた。

テッドもジョアンナも、結局いちばんに考えているのは息子のこと。だからこそテッドは自分が勝訴する道を捨ててでも息子を法廷に立たせることを拒んだし、ラストのジョアンナもそう。夫婦としてはもう元に戻ることは出来なくなってしまったけれど、「父」であり「母」なのは揺るがない。

親権をめぐってふたりが法廷に立つ場面はもっとも辛いシーンだ。本人達が「これが本当に自分たちがやりたかった事なのか?」と自問する傍らで、ふたりの弁護士ばかりがヒートアップしひたすらに互いを「親の資格なし」と責め立てる。苦痛の表情から、それぞれの葛藤が痛いほど伝わってくる。

すごいのは四十年前の作品であるにも関わらずそれこそ現代の日本に通ずる社会的問題をしっかり扱っている点。仕事と育児の両立の難しさ。女性が仕事を辞めて家庭に入ることを良しとされる風潮。そのことで女性の心がいかに引き裂かれるか。「子供と父親の絆と愛の奮闘記」なんてヌルい映画では全く無い。「ウーマンリブ」を笑っていたテッドがのちに「自分は妻をかたにはめようとしていた」と語るところなんか鑑みても、この映画は真っ向から社会問題を観客に投げかけていることがわかる。女性が「妻」「母親」の役割だけ求められ、「一つの人格を持った個人」として扱われない、現代にも色濃く残る問題に、この作品は切り込んでいる。

「子供のためにヨリを戻そう!(キラキラ)」みたいにならないのもヌルくなくて最高だ。二人は夫婦としてはもう破綻している。お互い歩み寄れたけど、元の関係には戻れない。心が離れてしまったことを無理に修復する必要も、まして後ろめたく思う必要も全く無い。人が人を思いやり愛する描写が全編にわたり満ちていて、とても美しいのだけれど、綺麗事は一切描かない。

名作の誉れ高いゆえんに納得するしかない、素晴らしい映画だった。

 

 

グランド・ホテル

 

グランド・ホテル [DVD]

グランド・ホテル [DVD]

 

「死と運命変転と再生」の物語。

一人の男が宿泊客たちの運命を変えていく。落ち目のバレリーナは愛を得、傲慢な実業家は転落し、年老いた男と美しい速記屋は共に旅に出る。そしてフロントマンのもとには、子供が無事産まれたとの報が届く。

一人の男の死によって生まれた人間関係や愛といった他キャラクターと男爵との濃い縁を描き、そして彼ら全員がホテルを去った後、新しい命が生まれるのが構造として美しい。「宿泊客の人生を動かした男が死んだ事で変化は永遠となり、ラスト、赤児が生まれた報が入る」という、映画を一本のシークエンスとして捉えた時の完成度が完璧。

……要するにホテルにとってはこの映画で描かれた一連の波乱の一幕も、ただの日常でしかないことが、互いに全く無関係の「死」と「誕生」が端的かつ非常に美しい形で示されているわけで。めっちゃ巧すぎじゃないですかこれ???

とにかく最後に赤児が生まれるのが最高。ホテルはこれからも様々な死と誕生と生活を見つめながら何もなかったように続いていく。「グランドホテルは世界中どこにでもあるさ」っていうラストの台詞がまたそれを駄目押しのように押し出している。劇的なわけじゃない、特別な出来事のわけではない。ホテルはそれまでもこれからも様々なドラマを目撃する。世界中で。そういう終始マクロな視点で物語が語られるのが良い。まさに「グランドホテル 人が来ては去りゆく 何事もなかったように」なのだ。

グランドホテル形式の映画を多く観ているわけではないので偉そうな事は言えないが、登場人物達が絡み合う土地は、他でもないそれ自体こそがその物語の真の主人公であり、登場人物達はその上で運命に踊らされる幸福な傀儡に過ぎないし、群集劇とは一定の空間が持つ逃れられぬ定めの物語なんだよな。

様々な人間関係を繋げ縁をつくり愛を与えたキーパーソンの男が、彼こそが、死ぬ、っていうのがほんとにひたすらに神(語彙喪失)。彼はそこにはもう永遠に関われない。だけど彼が居なかったら何も生まれなかった。彼は「グランド・ホテル」という“土地”が登場人物たちに差し向けた使者なのだ。死んではじめて役目を達成したのも、それだからこそなのである。

素晴らしい映画だった。時代を経て残るものにはやっぱり力が宿っているし、単純に演出や構造も図抜けている。サイコーであった。

 

遊星からの物体X

 

遊星からの物体X [Blu-ray]

遊星からの物体X [Blu-ray]

 

めちゃめちゃ面白かった!!!最高!!!!

私はふだんミステリを中心に本を読むのだけれど、ミステリにはクローズド・サークルというジャンルがあり、これは日本では吹雪の山荘などと呼称されるのだが、要するに外部との接触が一切断たれた状態で、閉ざされた空間のなかで一人また一人と惨劇が起きる、でも誰も逃げられない、そして誰も信じられない……というシチュエーションを描いたもので、それで言えば、この「遊星からの物体X」は、まさしくSF &ホラー版クローズド・サークルだった。

登場人物たちが次第に疑心暗鬼に取り憑かれていく様とか、ヒステリー起こす奴が出てきたり、犯人探しならぬ「エイリアン探し」を皆で始めたり、登場人物が不用意に一人で行動しはじめたりと、もう私が今まで散々読んできたクローズド・サークルミステリそのまま。外部と通信がつかなかったり、何者かの手によってヘリコプターが壊されて脱出不可能になったりするところも既視感バリバリ(ちなみにミステリだと車のタイヤがパンクさせられたりしている)。クローズド・サークルものは場面が変化せず地味なのでほとんど映像化されないのだが(本格嫌いの層の厚さもあるだろう)、SF、それもエイリアンものとくりゃあ絵になりますよね。ひたすら楽しかった。

音楽とかカメラワークの演出もやり過ぎず少な過ぎず、観客の恐怖感やハラハラドキドキをこりゃまた煽る煽る。血液採取してエイリアンかどうか順番に調べるとこなんかも、思わず息を詰めて見入ってしまった。二転三転するプロットといい単純明快かつ必然性のある設定といいとにかく観客の心を掴みつつ転がせまくる手腕が絶妙であった。エイリアンのグロテスクな見た目に拒絶反応を覚える観客もいるだろうけれど、こうまで面白きゃそれでもスクリーンから目が離せないんじゃないかな。

怖さやハラハラドキドキだけじゃなく、疑心暗鬼に取り憑かれる人間心理の描き方も巧い。登場人物がみんな違った反応、違った考え方で動いていて、キャラクターを単なる駒ではなくちゃんと生きた人間として創り上げてシュミレートした上で対立や協力関係を設定したのだろうな、と感じた。ただキャラクターにギャーギャー逃げ惑わせるだけのホラーは多いが、この作品は使える設定全て使って一つでも多い側面から観客を楽しませようという気概が伝わってくる。ラストのやりきった絶望感も最高。

そしてこの作品が1982年の作と知り、驚愕。エイリアンからのびて絡みつく触手はじめ、あの時代にどうやって撮ったのだろう。ここまで釘付けになって映画を観たのは久々だ。名作は決して古びないのだなと改めて思う。

 

怒り

 

怒り DVD 通常版

怒り DVD 通常版

 

原作既読のため、「誰が山神なのか」というのが分かっていたにも関わらず、この決して短くない映画を最後まで楽しめたのは、多分ひとえに役者(とその能力を最大限に引き出す監督)の力だと思う。とにかくどの役者も鬼気迫っていた。特に、広瀬すずの男友達役の方が演技初挑戦と知ったときは本気で驚いた。あの森山未來を向こうに回して、全く稚拙な部分がない。他の役者も、実際に同居生活したり、無人島生活したり、体重を増やしたり絞ったり、顔に自ら傷を作ったり……。勿論そういう目に見える分かりやすい役作りだけでなく、撮影も、脚本も、演出も、音楽も、「これでいいだろ」と妥協して作った部分が一切無く思える。これは凄い。

だからだろうか、「大切な人が殺人犯なのではないか」と苦悩する登場人物達に、違うよ、あんたの好きな人はそんな人じゃないよ、と画面の中入っていって言ってやりたいと本気で思った。

原作者・吉田修一が語った通り、これは「最後まで犯人を決めずに書かれた」物語であり、また伏線なども特に張られているわけではないため、この作品においてミステリ的な要素はあくまでオマケかと。

さて、タイトルにも冠されている、この映画のテーマとも言える「怒り」とは何なのだろう。
たしかにこの作品にはたくさんの「怒り」が満ちている。大切な人を信じられなかった己への怒り。自分に乱暴を働いた米兵への怒り。友達を守れなかった自分への怒り。夏の暑さへの、電話で小馬鹿にされたことへの、己を憐れんだ女に恵まれた一杯の麦茶への、そういう一言では言えないけど、誰もがきっと知っている「何か」への怒り。
血文字で書かれた、大きな「怒」の字。それを書いた山神は、先程私が並べたたくさんの「怒り」たち、いやそれだけではない、この世にあまねく存在する、全ての怒りを全部背負った、概念としての、観念としての「怒り」を体現する為に遣わされた使者なのではないか、と思う。彼が東京や千葉の容疑者のように愛する相手を最後まで持つことが出来なかったのも、どこまでも使者でしかない彼にはそういった存在は不要であるからだし、一年前突然被害者夫婦のもとに現れ二人を殺し、最後には自分自身が殺されたのも、その役目をついに果たしたからだろう。彼はこの世の怒り全てを引き受け、生まれ、死んだのだ。

あと、パンフ読んでて気になった事をひとつ。広瀬すずは、暴行シーンを撮影したあとしばらく、他人に接触されることが気持ち悪くてたまらなかったという。役に入り込み感情を追体験するというのは役者としては避けられないことだが、制作姿勢として、もう少し彼女の精神的負担を軽くする配慮はできなかったのだろうか。例えば韓国映画「トガニ」では、子役に保護者を付き添わせ、撮影のうえでも、恐怖心を与えない演技指導をしたという。もちろん広瀬すずは子役ではないし、そこまでやれとは言わないが、事実、暴行シーンも生々しく露悪的であったので、その部分に関しては、彼女への配慮は出来なかったのかな、と。どれだけ苦しかろうと役に対して正面から向き合うというのは役者としては己に課す命題だと分かっているし、広瀬すず自身もプロとしての自覚ゆえにあのシーンに臨んだはずなので余計なお世話と言われたらそこまでなんだが。

 

 

ニュー・シネマ・パラダイス

 

ニュー・シネマ・パラダイス 完全オリジナル版 [DVD]

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「映画」をモチーフにした物語を「映画」という表現媒体で語るのは、作品に含みを持たせていてすごく良かった。作中の登場人物が楽しんでいるのも、今自分が画面に釘付けになっているのも、同じ「映画」なのだという一種のメタ構造が生まれることにより、作中人物の感動がよりダイレクトに伝わってくると同時に、脈々と続いてきた「映画」の歴史を回顧させる作りになっている。
そして、音楽のいちいちが、映像のいちいちがなんと美しいこと!エレナの家の近くで何日も何日も立ち続けるトトの恋が叶い、映写室で抱き合いキスをするシーンには、普段恋愛モノにあまり興味を持てない私も心から酔いしれた。

私は年齢的にはアルフレドよりもトトにずっと近いので、アルフレドの「ここを出て行け、帰ってくるな」の真意がいまいちピンと来ず(「シチリアの小さな街で一生を終えてほしくない、大好きな弟子であるトトには広い世界を見てほしい」という愛の鞭であるのかな、と忖度する事はできるけれど)。でもこれは推測するとか考えるとかいうのではなく、きっと歳をとるにつれて自然と分かってくるものなのだろう。
「これは全部お前にやる、だが私が保管する」と言われてそのままになっていたキスシーンの集積のフィルムを数十年越しに形見として受け取り、誰もいない映画館で一人で見るシーンは映画史に残る名シークエンスではあるまいか。あそこでトトに涙を流させず、うっとりと満足気にスクリーンを観させるのが最高。そう、彼には泣く必要なんてない。なぜなら、あれは彼とアルフレドが生涯をかけて愛した大好きな「映画」なのだから!

さて、以下は物語の流れには関係ないが、この映画を観てふと思った事をつらつらと。

ここ数年の日本の映画界での新しい流れといえば、なにより「発声可能上映」「応援上映」といった観客参加型の上映形態が確立された事だろう。まるでコンサートのように観客はスクリーンに声援を送り、喚起された感情を全身で表す。こういった試みは既に一定の層に支持されており、実際、人気の作品の応援上映は、時にチケット争奪戦となることもあるそうだ。今後、こうした流れはさらに広がっていくことだろう。
だが、翻って言えば、この国では、「普通」の形態の上映において、観客はかなりの「不自由」を強いられていると言うことができる。音の出る飲食は敬遠され、笑い声も控えめに、ヒソヒソ話も眉をひそめられる。しかし、それは随分と窮屈な風潮ではないだろうか。この、少年と映写技師の交流を描いた名画を観ながら、私はそんなことを考えていた。

TVも普及していない、娯楽の少ない時代と町を舞台にしたこの作品では、人々の唯一の娯楽として、「映画」という題材が採られる。人々は毎日のように映画館に詰めかけ、スクリーンに映し出される光景に夢中になる。彼らにはせせこましい「鑑賞マナー」などない。楽しかったり、美しいシーンでは歓声を上げるし、キスシーンがカットされたらブーイングもする。もしそこが日本の映画館であったら、彼らは「マナー違反」と烙印を押されてしまうかもしれない。だが、素晴らしい作品を受容する、感受性に訴えかけられる、その感動を声として身振りとして表現する、それってすごく当たり前の事なのではないか?映画って、娯楽や芸術としての映画鑑賞って、本来、そういうものなんじゃないのか?

私はいまいちノリの悪い人間なので、応援上映などは敬遠していたのだが、今度、一度機会を見つけて足を運んでみようと思う。大好きな「映画」を観ることができる幸せを、声で体で受け止めてみたい。

 

 

お母ちゃんは神様です--「湯を沸かすほどの熱い愛」

映画「湯を沸かすほどの熱い愛」を観た。以下感想を。ネタバレしています。

 

 

あらすじ:宮沢りえの「紙の月」以来となる映画主演作で、自主映画「チチを撮りに」で注目された中野量太監督の商業映画デビュー作。持ち前の明るさと強さで娘を育てている双葉が、突然の余命宣告を受けてしまう。双葉は残酷な現実を受け入れ、1年前に突然家出した夫を連れ帰り休業中の銭湯を再開させることや、気が優しすぎる娘を独り立ちさせることなど、4つの「絶対にやっておくべきこと」を実行していく。会う人すべてを包みこむ優しさと強さを持つ双葉役を宮沢が、娘の安澄役を杉咲花が演じる。失踪した夫役のオダギリジョーのほか、松坂桃李篠原ゆき子駿河太郎らが脇を固める。(映画.comより引用)

 

さて、いきなりだが、このエントリをお読みのみなさん、あなたはこの映画についてどのようなイメージをお持ちだろうか。既にご覧になった方はどういった感想を抱いただろう。まだ観てないよという方は、どのような内容を想像していらっしゃるだろうか。

私はこの映画を半年ほど前に、アマゾンプライムで観た。そもそも私のメインフィールド(というか好み)はアメリカンニューシネマやマフィア・ギャング・犯罪映画だ。こういったヒューマンドラマ系はあまり観ない。だが好きなアイドルが「この映画を観て泣いた」と雑誌の近況欄に書いていたのを思い出し、ちょうど入院中でアホほど時間があったので、「評価も高いしキャストも豪華だし、たまにはこういうのもいいだろう」と思い、軽い気持ちで観始めた。

 

そう、「ヒューマンドラマ」だと思って、「軽い気持ちで」観たのだ。そうしたらこれがとんでもなかった。

気持ち悪かった。そう、本当に気持ち悪い映画だったのだ。でもただ気持ち悪いと言っても何も通じないだろう。どこがどう気持ち悪いかは、これからたっぷりと書いていく。けれどまず、結論から言わせてもらおう。これは、家族愛を描いた涙のヒューマンドラマなどでは全くない。これは、間違いなく、宗教映画だ。

 

宗教映画とはどういうことか。何が私の心に「気持ち悪い」という感情を喚起させたのか。それは現実的な良識に照らして考えればたびたびかなり「アウト」なものであるにも関わらず、宮沢りえ演じる双葉の選択・命令・行動のすべてが劇中では完全に肯定されている点である。すべてプラスに転ぶ点である。宮沢りえは常に正しく、常に良い。要するに、宮沢りえイエス・キリストなのだ。

劇中から分かりやすい例を挙げよう。学校でいじめられ、制服まで盗まれている(言葉の暴力だけに留まらず実害が出ている)娘に、しかし宮沢りえは「逃げてはいけない、立ち向かえ」と言い放つ。一般論としていじめに対しどう対処するべきか、というのはケースバイケースであるのでここでは措くとして、明らかに逃げたがっている(実際に学校を暫く休みたいと訴えている)娘に、「なんにも変わらないよ、お母ちゃんと安澄は」と言って学校に行かせると言うのは、娘の意思を尊重せず娘を守る事を放棄しているという点で明らかに毒親の行動である。だが、結局学校へ向かった娘は、失くなった制服についての情報を担任が呼びかけるHRにおいて、母の言葉を思い出し己を鼓舞し、制服の代わりに着ていたジャージを自ら脱ぎ捨て下着姿になり、制服を返してくれ、と、母の言葉の通り「立ち向かう」。そして結局制服は戻り、いじめは収束する。一見「いい話」のようだが、「学校へ行け」と言った時点での宮沢りえには自分の娘がそのような形で立ち向かうことができるかなどというのは全く判る筈もないし、さらにただいじめられて帰ってくる可能性もじゅうぶんにあった。しかし結果的に母の判断は正しかったことが証明される。娘は戻ってきた制服を着て、宮沢りえに迎えられるのだ。この恐ろしい無謬性よ!しかもこの話はそれだけでは終わらない。下着姿になった娘が着用していた下着こそ、なんと制服が盗まれるずっと前に宮沢りえが娘に「大事な時のために」と買い与えた下着(このくだり単体でも随分気持ち悪いものがある)であったのだ!完全にキリスト教で言うところの「神の御技」である。

この映画は基本的にこうした教祖性と呼んでいいレベルの母親の正しさが反復される。しかもタチが悪いのが、そうしたエピソードのひとつひとつが、気持ち悪さはそのままに、圧倒的に「観客の胸を打つ」点である。ただお母さんが死んじゃって悲しい、という安易な御涙頂戴映画ではない。あまりにも狂った価値観の元に、この、人の心を動かす映画は築かれているのだ。恐ろしいとしかいいようがない。

 

ラストシーンについて、「怖い」という感想はしばしば見つける。母親を火葬した火力で銭湯の湯を沸かし、家族がそこに「あったかいね」などと言いながら浸かる、というのは確かに普通に常軌を逸しているし怖い。だが私はそれ以前に、前述した母親のカルト性が気持ち悪くて気持ち悪くて仕方がなかったのだ。

 

さて、思い切って更に付け加えると、この映画の製作者は双葉のキャラクター造形をイエス・キリストをモデルにして練り上げたのだと、私は半ば本気で考えているのだがどうだろう。親と子の関係が幾度も反復される点は聖書にインターテクスチュアリティを見いだすことが出来るし、血縁ではない間柄のなかで魂が継承されていく物語構造は、キリスト教の歴史そのものをなぞっていると指摘できる。松坂桃李演じるバックパッカーを見返りなしに愛を持って抱きしめ、進むべき道を示す様はキリスト像そのままだ。人間ピラミッドのシーンの最後、宮沢りえが「死にたくないよ、生きたい、生きたい」とひとり慟哭する場面などは、ゲッセマネの丘で「その盃をわたしから遠ざけて下さい」と涙を流し祈祷するキリストの姿に重なって仕方がなかったし、その死によって、残された共同体の結束がより固いものとされた点も、イエス・キリストの死によって地上の人間の罪が赦されたというキリスト教の教義との類似を見るのは私だけではないだろう。

一応言っておくが、このエントリは、この映画の持つ、愛や人を想うことといった力強いメッセージをいささかも否定するものではない。「あの人の為なら何でもしようと思えるんです、多分自分がそれ以上にしてもらっていると思うから」などの台詞も、実感を伴ってしっかりと胸に届いた。ただ、それら全ての要素の根っこを掘り起こした時に、あまりに異常な価値観が顔を出す、という見方を提示しておきたいだけである。

 

さて、宮沢りえの教祖性や、この映画がいかに聖書と相似するものを持っているかは十分書いた。だが、まだ足りない。

聖書を一度でも読んだことのある方は、難しいなとか、長いなとか、でも荘厳で美しいなとか、あの画家が描いていたのはこのシーンだったのかとか、キリスト教の歴史やイベントも知らず知らずのうちに自分達の生活に根ざしているのだなとか、きっと一言では表せない、様々な感想を抱いたことと思う。そして、こうは思わなかったか。不条理だな、怖いな、と。

そう。この映画における母親もまた、怖いのである。

カフェかなにかで、娘を連れた探偵と会っているシーンを思い返してほしい。あの母親は、せいぜい数回しか会ってない探偵の髭の剃り残しを指摘し、挙句、手で、抜いた。覚えていらっしゃるだろうか。あれは一体何なのだろう。あそこを観て私はもう、あ、この人おかしい人だ、と思って青くなった。まだある。その探偵が見つけてきた夫の家に突入した際、宮沢りえオダギリジョーをおたまで殴るのだが、殴ったことで頭から流れ出た血を、彼女は、おたまで、受け止めるのだ。もう嫌だ!何なんだあの女は。何のために挿入されたシーンなのだろう?分からない。あまりに意味不明だ。あまりに不条理だ。怖い。

怖い部分はまだある。松坂桃李に対する、「反吐が出る」発言。母親の家の窓ガラスに石を投げるシーン。娘の実の母親をいきなり引っぱたく場面。この映画で宮沢りえは神のような正しさを持っている反面、こうした攻撃性を持っていることがわかる。それだけなら、別にいいのだ。攻撃性というのは誰もが持っているものだから。怖いのは、その彼女の攻撃性が、全て、子供が見てないところで出てくるところだ。子供は車で待ってたり、寝てたりしていて、母の攻撃性に気付くことはない。闇だ。怖い。

 

あとはまあ……いつ倒れるとも知れない体でよく子供乗せて運転できるな?!とか、子供の前でラブホテルの話をする松阪桃李と、全く引くことなく彼の話を笑って聞く女3人の異常さとか、色々あるのだが、もうその辺は単に脚本上の粗だろう。

 

はてさて、とにかく、様々な意味でインパクトと引きずるものがある映画だった。繰り返し言うがこれは私にとっては宗教映画なので、好きだとか嫌いだとか言う感想はそもそも私の内には成り立たない。ただ受け入れるか、遠ざけるか、それだけである。こんな気持ち悪い映画、遠ざけたいなあ、と言いたいものの、際立った異常性ゆえに結局きっちり三回観てしまった上にこんな長ったらしいレビューを書き、午後のロードショーをしっかりと録画してしまった私も、大概宮沢りえのカルト性に当てられているのかもしれない。

 

 

 

 

「僕と君」からはじめる世界改革——「グリーンブック」

(※映画「グリーンブック」は、とっても面白い映画です。まだご覧になっていない方は、ネタバレ満載のこのエントリを読む前に、是非劇場に足を運んでみてください。)

 

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あらすじ

時は1962年、ニューヨークの一流ナイトクラブ、コパカバーナで用心棒を務めるトニー・リップは、ガサツで無学だが、腕っぷしとハッタリで家族や周囲に頼りにされていた。ある日、トニーは、黒人ピアニストの運転手としてスカウトされる。彼の名前はドクター・シャーリー、カーネギーホールを住処とし、ホワイトハウスでも演奏したほどの天才は、なぜか差別の色濃い南部での演奏ツアーを目論んでいた。二人は、〈黒人用旅行ガイド=グリーンブック〉を頼りに、出発するのだが─。

(公式サイトより引用)

 

「グリーンブック」の立ち位置

差別問題を社会的視点から説教臭く語るのではなく、あくまで市井の人々の「個人」という地平において描いているのが良い。トニーとドクターは生活スタイルも趣味嗜好も肌の色も異なるが、そんな二人が道中何度か衝突しながらも徐々に心を通わせていくいきさつを通して、この映画はするりと人種差別問題にメスを入れる。

二人の交流の描き方がなんとも見事だ。チキンを一緒に食べてみたり、家族への手紙を書くうえでアドバイスを受けたりと、共感しやすい卑近なエピソードを採ることでどこか「ほのぼの」かつコメディータッチでストーリーが進む。大きな起伏のない脚本も、二人の関係の変化を自然なものとして観客に提示することに一役買っている。

 

「さわやかコメディ映画」のさらに上を行く"残酷さ"

かといって、単なる「ほのぼの」では終わらず、人種差別にまつわる、背中に冷たいものが走るようなシビアな現実がしっかりと描かれているのもこの映画の見どころだ。たとえば序盤、トニーは、黒人業者が口をつけたグラスを、汚いものでも見るような目でゴミ箱に放り込む。何気なく入った衣料品店で、ドクターは試着を断られるし、とあるピアノの演奏会場には、白人用のトイレとは別に、屋外に粗末な仮設トイレが「黒人用」として用意されていたりする。「肌の色がどうであろうと、みんな分かり合える!」というような生ぬるく甘いヒューマンドラマでは全くない。トニーとドクターは友情を手に入れるけれども、世の中に蔓延る容易に越えられない断絶の壁の存在も念を押すように繰り返される。

また、黒人に対する偏見への言及の仕方も巧い。黒人であるドクターは、差別に直面した時、黙って引き下がる。対する白人のトニーは、怒りをあらわにして、たびたび反射的に相手を殴る。これは「黒人は野蛮である」という差別的な通説にクエスチョンを投げかけるだけでなく、そのような差別がいかに社会に蔓延しているかを、ドクターの「またか」と言わんばかりの諦観の表情で示す。こうした二重構造をこの映画は持っている。

 

 

アカデミー賞騒動と、「グリーンブック」のもつ確かな先進性

さて、おもにアカデミー賞の場において、この作品はとある批判に晒されている。「ドライビングMissデイジー」などでも指摘されていた、いわゆる「マジカル・二グロ」「白人の救世主」というステレオタイプが描かれ、その域を脱していない、というのが主な主張だ。

だが私は、そのような批判は物語の中で既に捨象されていると考える。何故ならこの映画は、人種差別についての問題提起以前に、徹頭徹尾ふたりの人間の友情を描いた、単純なロード・ムービーだと思うからだ。そもそもが、「黒人はこう描くべきだ」「白人の物語上での扱いはこうすべきだ」といった文脈を必要としていないし、なんならそういった文脈から二人が解放され、一対一の人間同士として互いに向き合うところがこの物語の肝なのである。

私は常々、黒人が、黒人であるという必然性を持たずに主人公となる作品が今の映画界に少なすぎることを憂いているのだが(従来の多くの作品で黒人は常に黒人であるゆえの苦悩を抱いて作中に登場し、その苦悩を描くことが作品のテーマとなる)、そもそも本来として、「人種差別をしてはいけない」という文章は根本のところがズレていて、正確には「誰しもが、どのような理由があろうと不当な扱いをされず、リスペクトされ、大切にされるべき」なのだ。人種、肌の色は、年齢、性別、国籍、セクシュアリティといった、"その人"を表す数ある属性の一つに過ぎない。もちろん黒人が肌の色を理由に迫害され、差別されてきた歴史は事実であり、そこを軽視するつもりはないし、してはいけないし、私達全員が常に考え向き合わなくてはならない問題である。だが「過ちに向き合い反省する白人」や「差別に対し怒り抵抗する黒人」の出てくる作品を作れ、というのはそれでまた新たなカテゴライズを生むだけであるし、時代の前進も期待できない。

感じの悪いレストランなんてこっちから願い下げだと揃って一緒に踵を返す、立ち寄ったバーでの即興のピアノ演奏が盛況で迎えられ自分のことのように喜ぶ、クリスマスパーティにも招待する。何故なら彼は八週間旅を共にした友人だから。そこには既に、相手が黒人だとかといった問題は何の意味も持たない。「黒人だから迫害しない」ではなく「誰もがどんな理由があろうと迫害されない」というのが人種差別問題の真の目指すべきゴールであろうし、それを鮮やかに体現してみせたこの映画が、この今もヘイトにまみれた世の中に風穴をあけることになるであろうと私が期待するのも、それだからなのである。

時代遅れの名作ーーシェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』

不勉強なもので、恥ずかしながらシェイクスピア作品は今まで四大悲劇しか読んだことがなかったのですが、先日「じゃじゃ馬ならし」を読み、ちょっとかなり納得のいかない内容だったもので軽く所感などを。

簡単に粗筋を述べると、金持ちの主人の家に美しい娘が二人いて、妹のほうは非常におとなしくしとやかで、こちらのほうは求婚者が絶えないのだけれども、片や姉のほうは家庭教師に暴力を振るうわ、人目もはばからず大声で暴言を吐くなど、要するに大変なじゃじゃ馬なわけである。で、父親は、「姉のほうに結婚相手が見つかるまでは妹のほうは何人たりとも結婚させない」と言うものだから、妹目当ての求婚者は非常に弱ってしまう。そこにとある旅の男が現れ、自分は金が欲しいから、姉のほうに求婚するつもりだ、と言う。当然姉のじゃじゃ馬っぷりを知る周囲の人間は、お前にあんな女が手に負えるはずがないと言うのだが、男は、自分には策がある、と宣言し、実際に彼女をすっかり手なずけて結婚してしまう。挙句の果てに、彼女は妹や知人の夫人に「妻とはこういうものであるべきよ」と「よい妻論」を説き、かくして「じゃじゃ馬ならし」は果たされた、ということで幕が引かれる。

勿論これはあくまで大筋であって、妹への求婚者たちの奮闘ぶりなど、喜劇にふさわしいおかしみも多々あるのだが、私はこの「自由で何者にも縛られない女性が、男の手によって”男に都合のいい女”に作りかえられてしまうという筋書きに、これが400年前の作品だという事実を加味しても、納得がいかなかった。

言うまでもなく、男女は対等であるべきだ。どちらかがどちらかの所有物になってはいけない。誰かが誰かにとって都合のよい存在になると言うことはつまり、彼女、もしくは彼が自分の尊厳を手放した(手放させられた)ということだ。女性が男の策にかかり、本人の預かり知らぬところで尊厳を失わされるこの物語は、私にとって恐怖以外の何物でもなかった。

実際にこの「じゃじゃ馬ならし」は、世界中のフェミニストから批判され、イギリスの作家、バーナード・ショーも、「まともな感覚を持った男なら誰しも、すっかり馴らされてしまったカタリーナの最後のセリフを女性の観客と一緒に聞くことに困惑しない筈はない」と書き記している。

それでも、時代は、価値観は、アップデートされている。
テルマ&ルイーズ』『少女革命ウテナ』『アナと雪の女王』『マッドマックス怒りのデスロード』『茨の城』そしてその映画化である『お嬢さん』等々、「抑圧されていた女性が同性との連帯を通して自己の開放を果たし自由な世界へ歩きだしてゆく」というテーマの物語は、次々と生み出され続けているのだ。だからこそ、その対極に位置する物語であるところの「じゃじゃ馬ならし」は非常に苦い読後感の残る作品となった。

じゃじゃ馬ならし」が、劇作品としての完成度の高さはそれとして、テーマ性については、「もう古いよね、時代錯誤だよね」と言える時代になっていることを、私は心から嬉しく思います。

 

 

じゃじゃ馬ならし・空騒ぎ (新潮文庫)

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アスペルガー症候群診断から10年経ったということ、もしくは「迷惑」という語の非対称性について

 自分が軽度のアスペルガーだと診断され、もう7年が経とうとしている。

 診断が下る以前も、そして今までも、自分にとっては世の中のあり方は理不尽なことだらけで、社会生活ではいつも疲弊してきたが、最近になって、やっと、適応することに慣れてきたかなという気がする。いや、この社会でうまくやっていく経験値があがってきた、と言うのが一番正確であろうか。

 とにかく、最近やっと周りから浮かないよう振る舞えるようになったのである。

 

 私が本格的に対人関係への壁を自覚したのは小学五年生ごろであったと記憶している。

 本格的に自我の芽生え出すあの年頃にあって、なにかと周囲とぶつかるようになり、瞬く間にクラスで孤立した。

 折しもその頃世間では「KY」という単語が流行りだしており、私は当然の如く、その不名誉な謗りをぶつける恰好のえじきとなった。教師や親からの、もっと周りを見なさいだとか、言われなくても察しなさい、との指摘も増えた。

 だが、「周りを見る」というのがどういうことなのか、察する、とはどういう行為を指しているのか、「空気」というあまりに漠然としたなにかを「読む」ことというのは一体いかにして実現するのかが、そもそも全く分からず、それらの指摘や謗りはいたずらに私を混乱させるのみで、事態は何も変わらなかった。このような、察する、だとか、空気を読む、ということに関しては、未だに多くのところを理解できていない。

 

 さて、KYと呼ばれながら人と関わることには当然ストレスしかなく、どんどん学校が辛くなった私は、五年生の夏休み明けごろからしばらく保健室登校をしていた。お世話になった養護教諭の先生が、言動などから鑑みるにどうもこの子はアスペルガーの疑いがある、と気付き、両親に受診を促してくれ、私は病院へ連れていかれ、いくつかのテストをしたのち、私は、アスペルガーであると診断された。

 アスペルガーという言葉すら聞いたことのなかった当時の私はただただひたすら困惑したが、医師から説明を受け、いくつかの関連書籍を読むにつれ、皆が当たり前にこなしているらしい「空気を読む」という作業を自分だけがどうしてもできないのは、自分の怠慢によるのではなく、ひとえに、この病気に由来しているのだ、という事実は福音のようにさえ思え、ひたすらほっとしたのを覚えている。

 

 さて、診断が下ったとして、それで何かが劇的に変わるわけではない。その多くが対人関係によって構成される学校生活は、相変わらずきついものだった。アスペルガー向けのコミュニケーションに関するトレーニング本をいくつも読み、対人関係を円滑に回すヒントをうっすら掴みはしたが、結局その作業は、「なぜそうなるのか」、という根本的な理解なしに数学の公式をひたすら暗記し闇雲に目の前の問題に当て嵌めていくようなもので、手探り以外の何物でもなかったうえ、

「なぜこうまでして他者と関わる必要が?」

「必死で探り、考えながらのコミュニケーションなんてちっとも楽しくない」

「本読んだり勉強したりしていたほうがずっと楽しい。なぜ世間はそれを許さないのか!」

と終始憤りながらの学習だった。今思い返すと、なんだか苦々しい気持ちがする。どんなにしんどかろうと、社会生活を送る以上コミュニケーションは不可欠であるし、「本読んだり勉強したりしてい」るだけでは生活していけないのは当然であり、議論にすらならない。

 前述の通り、経験値を重ねた現在は、

「理屈はいまだにさっぱりだけど、こういう問題では、この公式を使えばいいんだ」

という判断に慣れ、軋轢を起こすこともほとんどなくなり、周囲からの評価も「ちょっと変わった人」程度になったように思うが、一方で、当時私がひたすら打ちのめされた、

「”空気”というふんわりした目に見えないものを相手が”察してくれる”という前提の上に成り立っているコミュニケーションにおける風潮はどれだけ傲慢なんだ? 思ってる事は直接言葉で言えよ!」

という理不尽さは常に心の奥底で感じているし、おそらくそれは生涯変わらないのではないか、と思う。

 

 「アスペルガー症候群」とネットでひとたび検索すれば、「アスペの同僚が迷惑」「アスペルガーの知人に迷惑させられている」などの記事が山のように出てくる。「アスペはこの話が理解できないらしいぞw」など、アスペルガーを茶化したようなものも多い。

 なるほど、「曖昧な表現では理解できない」というアスペルガーの特性は、非アスペの人にとっては心底迷惑なものなのだろう。それは否定しないし、だからこそ私は今まで苦しみ、試行錯誤してきた。だが、翻って言えば、「察してもらうこと」を前提とした非言語コミュニケーションこそ、アスペルガー患者、少なくとも私にとっては大迷惑なものであるとも言えるのである。

 

 この「大迷惑」と言う言葉に、きっと多くの方々はひっかかりを覚えることであろうと思う。それもそのはず、私はあえてこの語を使ったのだ。

 なぜかというと、「迷惑」という言葉はそれだけでそもそもすごく非対称なものだからだ。

 「迷惑」とはつまるところその話者にとっての「迷惑」であり、そして、その「迷惑」という言葉が世間で一定の支持を得るとき、その話者は大抵、マジョリティ側(この場合だと非アスペ側)である。

 つまりマイノリティ側が周囲、つまりマジョリティ側に「迷惑」をかけないためには、マジョリティ側に「合わせる」ことが必要になってくるわけだが、そもそもマジョリティ側とマイノリティ側間にそれらの性質の「不一致」という状態があるからこそ、この「合わせる」ことの必要性が浮かび上がってくるのであり、その「不一致」は性質を異にする二集団間には当然生まれるものであるわけだからだ。

 世間で力を持ち、時には正義のように語られ、振りかざされる「迷惑」という言説は、その当然生まれる「不一致」の後始末を一方的にマイノリティ側のみに押し付け、そして、それをしないマイノリティが居れば、「人の迷惑を顧みない奴だ」「常識がない」と一方的に謗るという、対称性を非常に欠くものであるのである。

 「不一致」というものは相対的なものであって、集団の大きさや持つ力によって「こちらが正しい」「こちらが間違っている」などと決定づけられるようなものでは到底ないのだから、お互いが譲り合い、妥協しあって、お互いの納得できる点を探すのが、本来フェアなやり方である筈だけれど、この「迷惑」という言説にはそこがすっぽり抜け落ちている。このような対称性を欠いたマジョリティ本位の「迷惑」が、まるで正義のごとく力を持つ例は、日常生活の上でも枚挙にいとまがない。

 

 マタニティマーク嫌がらせ 「社会の闇が深まっている」との指摘-NEWSポストセブン

 マタニティマーク持つニセ妊婦 妊婦のイメージ悪くする例も-NEWSポストセブン

 ベビーカー論争 電車利用をめぐって-NHK 特集まるごと  

 「電車内のベビーカー利用に賛否両論」への異論-togetter

 超混雑の電車に車椅子利用者の方がわざわざ乗らなくてもいいじゃんかよぉ(--)-KUMAPON.COM

 

 インターネット上でたびたび議論を引き起こす、「公共機関でのベビーカー問題」「妊婦への席譲り問題」「車椅子と公共機関」などは、その最たるものであろう。とりあえず検索して目についたものをリンクしてみたが、記事の内容の一部やそれらにつけられたコメントのいずれにも、前述の「対称性を欠いた"迷惑"理論」が散見される。

 

「ベビーカーで公共機関を利用するな、タクシー使え」

「妊婦や子連れはラッシュ時を避けろ、譲られて当然と思うな」

「なぜ車椅子で満員電車に乗ってくるのか、時と場合を考えろ」

「子連れや妊婦や障害者は周囲に配慮しろ、感謝を忘れるな」

 いずれも、こうした議論で必ずといっていいほど出てくる意見である。常に一定の、しかもかなりの高割合で賛同されている見解だ。「配慮」「感謝」などの文言も、いかにももっともらしく見える。だが、本当にそうだろうか? この意見はフェアであると言えるのだろうか?

 ベビーカーや車椅子を電車に乗せる。ベビーカーも車椅子も確かに場所を取る。空間には当然限りがあるから、他の人の利用できるスペースは必然的に狭くなる。

 妊婦が電車に乗る。すでに満席だ。誰かが譲らなくてはいけない。つまり、妊婦の代わりに、誰かが立たなくてはいけない。

 なるほど、こうして考えると、確かに公共機関におけるベビーカーや妊婦、車椅子ユーザーの存在は「迷惑」である。ただでさえ「迷惑」なのだから、弱者といえど「譲られて当然」などと思ってもらっては困るし、「感謝を忘れるな」と言いたくもなろう。

 だが、これはあくまでもマジョリティ側、つまりベビーカーをおしてもいなければ、妊娠してもおらず、車椅子に乗ってもいない側から見ての「迷惑」である。彼らは彼らの立場からしかものを見ていない。つまり、「対称性」を欠いている。彼らは、妊婦や子連れの人々に「譲ってもらうことを当然と思うな」「感謝しろ」と主張する一方で、「妊婦や子連れ、車椅子ユーザーの人々ができるだけタクシーを利用したりラッシュ時を避けたりすること」を「当然である」と思い、そのことに対し「感謝」をしようとはしない。異なる性質をもつ複数集団が存在するときに生まれる両者の間の不一致は、「妊婦や子連れや車椅子ユーザーがいるばっかりに健常者や非妊婦、非子連れの車内での居心地が悪くなる」という「マジョリティ側にとっての迷惑」として発露するだけでなく、「健常者や非妊婦、非子連れの居心地の良さの為に妊婦、子連れ、車椅子ユーザーはラッシュ時をはじめ公共機関の利用を遠慮しなくてはいけない」という「マイノリティ側にとっての迷惑」としても現れるのだが、彼らはそこに思い至らない。

 

 一応補足しておくが、私はなにも「健常者や非妊婦、非子連れは席を譲れ」と言っているのではない。新聞の投書などで「お年寄りを見ても席を立たない若者」を嘆くようなものをたまに見かけるが、むしろ私はそういった意見には疑問を覚える。弱者を思いやる行動は確かにとても尊いが、運賃を払っている以上、自分の確保した席に座る権利は万人にあるし、目に見えない疾患を抱える人も多い。今はどうか知らないが、私が現役「幼児」であった頃の某幼児教育教材の付録のビデオに、おそらく道徳的教育の一環なのだろう、「お年寄りや体の不自由な人には席を譲りましょう」という内容のものがあった。それだけなら何の問題もないのだが、そのビデオは、「お年寄りが乗ってきても席を譲らない人々」を、明らかに「自己中心的」とみなしていて、子供ながらに引っ掛かりを覚えた記憶がある。それぞれ個別の事情が存在するであろうことを切り捨て、相互監視的なモラルを強要・一元化する行為はこれもまた一方的なものの見方でしかない。

 私はこの問題については「譲りたい人は譲ればいいし譲りたくないor譲れない人は譲らなくていいが、公共機関における万人の安全は担保されるべきであるし、そのための制度や社会構造は現状あまりにも未発達である」以外の意見を持たない。いわゆる「席を譲る、譲らない問題」は乗客それぞれの事情だとか感情だとか、そもそも公共機関の不十分なバリアフリーとか、様々な要因が重なりもつれあって存在する課題であるし、ともすると「妊娠は病気じゃない!」みたいな明後日の方向に論点がずれがちであったりするので(病気じゃないからなんだよ、と言いたい)、これ以上の言及は避ける。私がこの件で言いたいのはただ一つ、「”迷惑”という観点から他人を批判・断罪するなら、その”迷惑”が誰にとってのものなのかをまず考えましょう」ということである。

 

 

 同じく、これもネット上でよく見かける。事の真偽はさておき、「人に迷惑をかけてはいけません」「他人の迷惑になるようなことをするな」という考えは、確かに日本人の道徳的価値観の基盤をなしていると言える。前述した、妊婦や障害者に対する批判もベースはここにある。

 確かに人に迷惑をかけるというのは良いことではない。できるだけ回避すべきであるし、極端な話、万人が他人の迷惑を鑑みずに生きれば到底社会は成り立たない。この教えは確かに真実を突いているだろう。

 だけどそれだけでは不十分だ。「人に迷惑をかけるな」と教えながら、一方でその「迷惑」の基準がそもそもマジョリティ側に偏りがちなことや、マジョリティへの「迷惑」を回避するため、マイノリティが一方的に割を食いがちなことは教えない。数が多いと言うだけで、マジョリティがマイノリティと比べて正しいというわけではなく、まして、主張が優先されるべきということは全くないのだが、そこのところの教育も不十分なのか、どうも「権利と多数決は違う」を理解していない人が一定数いる。まして同調圧力の強い日本である。ますます権力は多数派側に偏る。

 「心のノート」が改訂され、道徳の教科化、大学入試の人物本位化など、色々と迷走、もとい試行錯誤の様子が手に取るように見えるが、相変わらず的を外していると言わざるを得ない。道徳の教科書に「江戸しぐさ」が採用されたことからも、思考停止の「迷惑をかけてはいけません」が振りかざされるであろうことが容易に想像できる。色々と先行き不安であるが、声をあげるべき時にはあげられる準備と勉強を欠かさぬようにしたい、「空気」ばかり読むのではなく。

 

(2014年の3月頃に書いたもの。「○年目」にの数値だけいじりました。今も同じ気持ちです。)

サラ・ウォーターズ『エアーズ家の没落』と、「風呂敷を畳む」ということ

 

エアーズ家の没落上 (創元推理文庫)

エアーズ家の没落上 (創元推理文庫)

 

 

 

エアーズ家の没落下 (創元推理文庫)

エアーズ家の没落下 (創元推理文庫)

 

 

 

 サラ・ウォーターズ「エアーズ家の没落」、たった今読み終わりました。ほぼ一気読み。
 
 感想を一言で言うならば、めちゃめちゃ面白かった。こういう、結末がはっきりしないと言いますか……ミステリーならば「リドルストーリー」とでも称されるべき作風は、読後の居心地悪さゆえか、割に好き嫌いの分かれるところのようですが、私は大好きです。いやーほんとに面白かった。
 
 恩田陸作品全般、セバスチャン・ジャプリゾ「シンデレラの罠」、ヘンリー・ジェイムズ「ねじの回転」などもこの系譜に加えてよいかと思いますが、こういったよくできた「リドルストーリーもの」を読むたびに、あれこれ腐心して「綺麗に」風呂敷を畳むことのいかに馬鹿らしいか、つくづく実感させられます。作家の伊坂幸太郎が、自身のインタビューで「風呂敷は畳む過程が一番つまらない」というようなことを語っていたけれど、読書体験を微弱ながらも重ねるたびに、その言葉が真理として胸に迫ってくる心地がします(個人的には、伊坂さんほど上手く風呂敷を畳む人を私は寡聞にして知らないのですが、逆に卓越した手腕を持つがゆえに天井を見てしまったのかも)。
 
 とはいえ、ちりばめられた謎や不可解な伏線がラストで意味を与えられ、一枚の絵になるカタルシスと興奮も嫌いではないです。ですが一方で、手に届かないところにあった筈の謎が足元に落ちてきてしまった拍子抜け感、ありていに言えば「冷めてしまう」感覚に襲われることの方が実感としてははるかに多い。それこそ伊坂さんのようによっぽど「巧い」人がやるのでないと、それまで多くの謎で好奇心と期待をかきたてられた読者の目には、どうしても陳腐に映ります。

 そういう意味で、発表から七十年経った今もその印象的な書き出しと共に人々に深く記憶され、評価されているウイリアムアイリッシュ「幻の女」を私は全く評価しません。「派手な帽子を被った女を何故誰ひとりとして覚えていないのか?」という美しくけれんの利いた謎が、「犯人が口止めしてました!」なるそりゃないでしょな真相に堕してしまった時の落胆と失望と言ったら……。ミステリとしての体裁を整える、物語としての分かりやすい「落ち」をつける、ただそれだけのために、ちんけな「真相」とやらを無理やりこじつけるぐらいなら、いっそ美しい謎のままでいてくれ!(「斜め屋敷」レベルの力技になれば、いっそ様式美として楽しめるのですが……うーん難しい。)

 人間には、「謎を解き明かしたい」という願望があるのと同時に、「謎には一段上でこちらを見下ろしほくそ笑んでいて欲しい」という欲求も、確かにあるのだと思います。全てを掌握できる世界なんてつまらない。それは物語を読むうえでも変わりません。「謎に手のひらの上で翻弄されたい」、この小説はそんな欲求をおしみなく満足させてくれる作品です。分厚さに最初はやや圧倒されますが、リーダビリティ抜群でぐいぐい読めます。お暇があれば是非。

 

(2011年ごろに別名義で書いたもの。最近更新ができずこれではいかんと思ったので、とりあえず昔書いたものの中からデータが残っているものを引っ張り出してきて載せました。)

人生が表面をさらうように交差する場所ーー『クワイエットルームにようこそ』

松尾スズキによる2007年の映画、『クワイエットルームにようこそ』を観た。以下感想を。ネタバレ注意。
 
フリーライターである作倉明日香(内田有紀)は、目覚めると見知らぬ病室にいた。そこは入院患者の中で「クワイエットルーム」と呼ばれる、精神病院女子病棟の保護室。ストレスの捌け口としてオーバードーズを行った明日香は意識を失い、内科で胃洗浄を受けたのち閉鎖病棟であるこの精神病院に担ぎ込まれたのだ。前後の記憶もなく、自殺未遂の意思もなかった明日香は風変わりな入院患者達や高圧的な看護師にとまどい、退院を希望するが、病人の言うことだとまともに取り合ってもらえない。病棟の中で過ごすうち、摂食障害の少女・ミキ(蒼井優)や、同室の女性・栗田(中村優子)、過食障害の西野(大竹しのぶ)らとの交流が始まる。こうして、明日香の奇妙な入院生活は幕を開けた。
 
というような話なのだが、面白かった。作品の手触りとしては、同じく精神病患者が主人公である『逃亡くそたわけ』が近いだろうか。人生に問題を抱えた主人公が、精神病院という「時の止まった場所」でもがき、同類との馴れ合いや衝突の果てに自分自身と向き合い、前へ進んでいく、というまあありがちなプロットなのだが、この映画、「精神病院」という舞台装置の使い方が抜群に上手い。
私は現在進行形でうつ病患者で、精神病院の入院経験も過去2回、計7ヶ月あるのだけど、そういう経験を踏まえた上で見る、この映画の中の精神病院は実にリアルだ。一般に想像されるような、見るからに「おかしい」人はほとんどいなくて、見た目「普通」のご婦人が突如ナースステーションのドアをガンガン叩きだしたりとか、妙に愛想が良いのがいたり妙に気前が良いのがいたり、「あるある」の連続。みんな症状は違えど同じ精神病という前提があり、構成員は流動的に入れ替わっていくから誰もが人間関係に関して適度にドライ、適度に割り切っていて、なりゆきで声をかけて絆が生まれるところなんか妙にリアル。主人公も、最初こそ「自分はここにいるような存在じゃない」「この人達と私は違う」と頑ななんだけど、周りにとっては「新しい同類」でしかなくて、そこのギャップも個人的にすごく覚えがあった。かようにリアリティ溢れる舞台・人間描写のお陰で、難なく物語世界に没入することができた。
こうしたシニカルな描写をバックに、主人公・明日香が交流の中で自らに向き合っていく様子が描かれるのだが、終盤、観客は明日香と共に、意外な真実を目の当たりにする。実は明日香は、仕事に行き詰まり、恋人に別れを切り出された結果、明確に死を望んでODを行った自殺企画者であったことが恋人からの手紙で明かされるのだ。ここで観客ははじめて、この映画の主人公は「事件前後の記憶をなくした女性」というミステリにおける「信頼できない語り手」の定石的人物だったことに思い至る。
前半部分で登場人物達の生活をコミカルに描いておきながら、後半で一気にその暗部を抉り出すという構成はまったくもって恐ろしいとしか言いようがないのだが、そもそも精神病院とは、自らの病に向き合い、そこから抜け出して前を向いて歩くために、自分の中の何かと「カタをつける」場所である。そうであるからして、ミキの「食事をしない」理由の告白(ここの蒼井優の演技は凄みがあった。蒼井優、ナチュラルなイメージが強かったのだが、この映画ではきつめのメイクにドレッドヘアという出で立ちで、ドライでありながら情に厚い若い女性を好演していた。)、エスカレートしていく西野の異常性、そして明日香のODの真実とそこからの現実との直面は必然のものなのである。こうして明日香ははじめて自らの病理と向き合い、面会に来た恋人と別れの言葉を交わす。辛辣な展開ながらも、明日香が自立して一歩踏み出したことがわかる名シーンである。
辛辣といえば、この映画ではどこを切り取ってもとことん辛辣でありとことん登場人物たちを突き放した描き方をしている。たとえばラスト、明日香は退院するけれども、他の登場人物たちに回復の兆しは一切見えない。ミキは相変わらず食事を戻してしまうし、西野は盗癖が発覚し医療刑務所行きになってしまう。ミキと同じく摂食障害のサエ(高橋真唯)はジグソーパズルが完成したら食事を完食するという約束のもと、一度こそ実際に完食を果たすけれども、それは一度きりのことで、症状が好転したわけではまったくない。明日香と入れ替わりで退院していった栗田は、明日香の退院と同日にまたも入れ替わりで病院に担ぎ込まれてしまう。実は作中、私がもっともリアルだなと感じるのはここで、精神科に限らず、病院というのは自分がどんなに良くなろうが他人は自分と関係ないまったく他人のペースで病状を変化させていく場所だ。5年以上入院している患者の隣のベッドで、別の患者が3日で退院していく場所だ。どこかのレビューサイトで「主人公にばかり光が当たるのみで、周辺人物に解決が与えられていない」という批判を見かけたが、そのような意見に対しては、そもそも病院とはそういうところなのだ、としか言いようがないのである。作中のジグソーパズルに描かれたエッシャーの無限階段が象徴するように、人生とは簡単に解決がつくものではないのである。

だからこそ、無限階段を抜け出した明日香の門出は清々しい。患者達から餞別として受け取った寄せ書きをゴミ箱に放り込み(このシーンは非常に印象的なカットとして映画の中で位置付けられている。 栗田が語った通り、また、私事で申し訳ないが私自身そうしたように、「シャバに出るというのはそういうこと」なのである)、名実ともに過去と決別し、現実に折り合いをつけながら、未来へ向かってバスへ乗り込む。観客である私たちには、明日香の乗るバスの行き先はわからない(人生がそうであるように、明日香自身にもわからないのかもしれない)。荷物の中に入れたままになっていた栗田の連絡先のメモを風に乗せて窓の外に捨て、メモは風に乗ってカメラに向かって飛んでいき、「life is happy@loop.com」というこの映画のテーマを凝縮したようなメールアドレスが大写しになり、幕。

 一切の綺麗事を排し、酷と言えるほどにキャラクター達を突き放した本作品は、しかしまぎれもない人生賛歌なのである。

 

あとどうでもいいところを突っ込むと、庵野秀明が医者役として出てきたばかりか怪我をして早々に舞台から退場したのには思わず吹き出したし(庵野ファン必見)、あとODやらかした患者が2週間で退院ってのはいくらなんでもありえない早さだと思うのだが(精神科の1ヶ月は内科の1日という言葉があって、つまり精神科とはそれほどに長い目で見る必要がある分野ということである)、まあ2時間の映画にそこのリアルを求めるのはいくらなんでも酷ってものだし別にいいか。