2019年下半期映画鑑賞総括


2019年がとうとう終わりましたね。実感がなさすぎる。体感だとまだ10月上旬ぐらいなのですが。時空が歪んでいる……

……などと現実逃避をしていても仕方がないので、2019年上半期もやった映画鑑賞総括を、下半期も。上半期と同様、観た映画の中で特に心に残っているものを20本リストアップし、各作品について自分のFilmarksレビューを引用しつつ簡単にコメントを添えます。

観た日付が古い順です。旧作のみ。

 

男たちの挽歌

男たちの挽歌 <日本語吹替収録版> [Blu-ray]

男たちの挽歌 <日本語吹替収録版> [Blu-ray]

  • 出版社/メーカー: パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
  • 発売日: 2013/10/11
  • メディア: Blu-ray
 

めためたにシビれました。二丁拳銃! 偽札を燃やし煙草に火をつける! なんでマッチ咥えとんの? いいんだよカッケえんだから!!!

しかしそれ以上にシビれたのがこの作品のある種「ホモソーシャル」な空気と関係性。男同士の兄弟愛、義兄弟愛がプロットとともに二転三転して、そのなかで織りなされる彼らの愛憎劇はラストの銃撃シーン・爆破シーンよりもはるかに鮮烈です。恋人の助言や取りなしでもぬぐうことのできなかったキットのホーへの憎しみが、マークの死によって絆に変わる瞬間よ……! そこにキットの恋人・ジャッキーや、我々観客の入り込む余地は微塵もありません。ホモソーシャルな空気って、絶対に誰かを踏みつけるし傷つけるしミソジニーによって多かれ少なかれ理不尽に女を排除するし、その弊害は絶対に忘れちゃいけないんですが、こうして物語としてパッケージングされた時、外から見て美しいのは事実なんですよね。罪だ……

これ、ジャンル分けしろとなるとヤクザ映画に分類されると思うんですが、この映画におけるマフィアとか銃撃戦とかって、思い切ったことを言うと、全部この二つの兄弟の愛憎を描くための部品、道具に過ぎないと思うんですよね。なんかカッケえヤクザ映画が始まったな、と思ってワクワク観ていると、その全ての要素がラストのふたりの男の後ろ姿に集約されていくことに気づく。「何を描きたいか」ってのが制作段階から非常に明瞭で、そこから逆算してついでに思いつく限りのカッコいいカットを詰め込みまくってできた映画なんじゃないかなあと。

ちなみに私、ⅡもⅢもまだ観ていません。観ていません。なんかⅠがあまりに美しく終わったので、こっから何付け足すのよ? 続編でコケてたら嫌だなあ……と思ってしまいまして。でも折角だし、2020年中に観る覚悟を固められたらなと思っています。

 

インタビューウィズヴァンパイア

インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア [DVD]

インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア [DVD]

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • 発売日: 2010/04/21
  • メディア: DVD
 

揺らめく蝋燭の灯、天鵞絨のカーテン、暗闇の中浮かび上がる影、飜る長髪、狂おしいピアノの音色……老いと死を棄て生き血を啜る吸血鬼のなんと美しく官能的なこと!「映像に酔いしれる」映画体験とはまさにこのこと。

個人的にヴァンパイアと言われ思い出すのは「ポーの一族」なんですが、やはり本作も不死の体を手にした故の孤独が際立つ。クローディアの血を吸ったのは孤独な身の上を咄嗟に重ねた為だろうし、二百年吸血鬼として生きながらもインタビュアーを殺せなかったルイは未だに人間の心を捨てきれていなくて、その危うい未熟さこそをレスタトは愛したのだろうと思いました。

エンドロールでめっちゃノリノリの「イマドキ」なロックが流れて、作風との乖離っぷりにちょっと笑ってしまったのだけれど、多分あれも計算なんですよね。二百年で馬車は自動車に、ピアノの演奏はカーステレオのロックンロールに。不死の彼らは時代の流れを見つめ生き続ける。これまでもこれからも。

 

滝を見にいく

滝を見にいく [DVD]

滝を見にいく [DVD]

 

何かを始めるのに早いも遅いもない、とか、よく言われますよね。これは本当にその通り。ついでに言えば、青春を楽しむのにだって、年齢も異性の存在も関係ない。これは、“おばちゃん版“青春映画。

最初はよそよそしかったり連れだけで固まっていた七人のおばちゃんたちが、仲違いをやりながら、でもどんどん仲良くなっていく。あだ名で呼びあったり、誰にも言えなかった心のしこりを打ち明けたり。

ずっと仲が悪かったふたりの女が煙草を分け合うシーンが最高。今どうなってんのか知らないが、何年か前にWHOが喫煙描写のある映画を制限するんだかしないんだかってニュース見た覚えがあるんだけど、「煙草ちょうだい」の一言ですべてが物語られるこのシーンを観てなおそれが言えるならすげえ頭でっかちのつまんない奴だなと思う。

大縄したり、草相撲したり、ほんと七人とも女学生に戻ったみたい。清々しくてのんびりしててハッピーな映画でした。

 

ラヂオの時間

ラヂオの時間 [DVD]

ラヂオの時間 [DVD]

  • 出版社/メーカー: 東宝
  • 発売日: 2000/09/21
  • メディア: DVD
 

まずゴッドファーザーネタを織り込んだことで私の中の評価がうなぎのぼりになった。観てて真っ先に思い出したのはカメ止めだけど、実際に影響関係があるのね。

生放送という制約下ゆえ、途中で何が起ころうととりあえず中断することなく放送しなければならない。クオリティよりその場をどう凌ぐか。紛れも無いモノづくり礼賛映画だが、モノは芸術、ではなく商品。クオリティよりまず納品。カメ止め観た時、そこに新しさを感じたんだが、20年前に同じことやってたのね。

演者のワガママ、スポンサーへの忖度、次々出てくる矛盾や綻び。妥協に妥協を重ね、それぞれが多かれ少なかれヤケになったり大人らしい諦めをして、でも最後の最後で、最高はもう無理だけど、今できる最善をやろう、最良のモノを作ってやろうという心意気と意地と連帯にグッときた。

芸術っていうのは自由で放埓であることが良しとされるけれど、カネが絡んだ瞬間そうではなくなる。オナニーでは、いくら気持ち良くてもメシは食えない。妥協をし諦観を覚えながらも、それでも譲れないものにしがみついた時生まれるのが、創造性ってやつじゃないのかな、とふと。

で、これって紛れもない青春映画だよなあと。何かをつくるって、楽しいだけじゃない。ツラかったりキツかったりする。あっちこっち駆けずり回って、不本意に頭を下げることも、ポリシーをドブに捨てざるを得ないこともある。そうして出来上がったモノは本当にしょうもなかったりするんだけど、でも聴いていたトラック運転手が握手を求め号泣したように、見ててくれる人が、評価してくれる人が絶対いる。いてくれ、っていう、ここは三谷監督はじめ製作陣の祈りじゃないかな。すごく楽しい100分でした。

あと、「上を見上げる」って言うよね……?私は言う。

 

そうして私たちはプールに金魚を、

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自分たちが何者にもなれないことは彼女たちにははっきり分かっていて、そうであることに抗う気も大してなくて、むしろ何者でもないからこそこの四人のありふれた中学生たちは無敵で、何でもできたんだろうな。何も持ってない奴が一周回って一番強い、みたいな。失うほどのものがないから。

このように、本作で当たり前のように自分と世界に絶望している中学生をフィルムに焼き付けた長久監督だが、その後、初長編作品である「ウィーアーリトルゾンビーズ」では、「絶望」を「ダサいもの」と一刀両断し、ではどう生きるか、というテーマに向かい合っていて、内からも外からもアップデートされたのが窺えて嬉しくなった。個人的にこの監督の感性がすごく刺激的で好きなので、今後どんな作品が生み出されるのか、最も注目したい作り手のひとり。

 

フェイク

徹頭徹尾、結ばれない運命のふたりの男の人生が一瞬だけ交わったときのきらめきとか、哀愁とか、カッコよさとか……ロミジュリか? ってぐらい切なくて堪らなかったんですが、とりあえず、スーツにガラの悪い柄シャツ合わせんのカッコよすぎか??? と発狂し、H&Mで手頃な柄シャツを調達してきた挙句、コスプレをしました。

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なんていうか、見苦しい自撮りで大変申し訳ないのですが、妙齢の女をチンピラコスプレに駆り立てるだけの力がこの映画にあるのだと伝われば幸いです。

誰も知らない

誰も知らない [DVD]

誰も知らない [DVD]

 

じわじわと苦しかった一本。母親の不在が長引くにつれ、もう帰ってこないと気づくにつれ、柳楽優弥がどんどんどんどん悟りきった表情になってゆくの、キツかった。彼だけでなく妹、弟たちも時間の経過とともに、何かを諦めたような顔になっていくのも。諦めたままその日その日を生きる事も。

柳楽優弥がなんと言おうと彼らは然るべき機関に然るべき保護をしてもらうべきなんだけど、不登校の女学生やこっそり残飯くれるコンビニの兄ちゃん、ご近所さんといった「何も知らない」人たちの軽率な善意が結果的に彼らを追い詰めるの、ほんとキツいですね。親切にしてもらえればその日を凌げてしまうから、もう行政に頼るしかない、っていう本来真っ先に飛びつくべきフェーズにギリギリのところで行き着けないので。

YOU演じる母が出て行った一番の原因は、男が出来たからではなく、多分それゆえのネグレクトを柳楽優弥に非難されたからで、子は鎹なんかになれないし、寧ろ母としての意識が希薄な女は子を足枷としか見る事ができず、男と長続きしないのもきっと多かれ少なかれ子供の存在が荷物になっていたのだろう。辛い……。

ベランダの鉢植えとか服の汚れ方とか剥げ落ちてゆくマニキュアで時間の経過をさりげなくかつ明確に観客に提示するのが巧くて、ほんとちょっとした技巧だと思うんですけど、そこが出来てない映画が洋の東西問わず多いので、日本映画界を背負って立つ監督とはこういうものか、と感服した。とにかく出来が良いので、定期的に摂取したくなる劇薬って感じ。


ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

個別記事に書いたことが全て。原作があるようなので、近々読みたい。


ぐるりのこと。

ぐるりのこと。 [DVD]

ぐるりのこと。 [DVD]

  • 出版社/メーカー: VAP,INC(VAP)(D)
  • 発売日: 2009/02/25
  • メディア: DVD
 

時間にしか、ただ日々を重ねていくことでしか、解決できないことってあるよなあと。ただ隣にいること。背中をさすること。病めるときも健やかなるときも、共に歩むということ。

本屋で泣き崩れるシーンは白眉。個人的には「万引き家族」の安藤サクラの泣きの演技を凌駕する。

鬱病を病気として殊更強調するんでなく、あくまで乗り越える必要のある沢山の事柄のうちの一つとして描いているのも良かったです。辛いんだけど、彼らが彼らのスピードでゆっくりと再生してゆくさまがどこか心地よかった一本。

 

華麗なるギャツビー

華麗なるギャツビー [Blu-ray]

華麗なるギャツビー [Blu-ray]

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • 発売日: 2014/05/02
  • メディア: Blu-ray
 

これは本当になんでもそうなのだが、原作を映画なりアニメなりにメディアミックスした時、そこには何かしらのクリエイティブな要素の付加があると思うんだが、私たち観客はその制作過程を知らない(知ることができない)ので、どこまでが原作の力で、どこからがメディアミックス後の力なのか、判別できずに困ることが往々にしてある。

だがこの作品は、その「付与されたクリエイティビティ」をかなり明確に判別・意識できる、稀有な映画だ。何故か。とにかく演出が盛り盛りなんである。パーティのシーンなんか、これ以上ないほど作り込まれている。反面、デイジーとの逢瀬や駆け引きといったエモーショナルな部分はかなり粗が目立つ。なんだか間延びするし、説明的な台詞が多く、中だるみしている印象が否めない。つまり、豪華絢爛な演出は「メディアミックス後の力」で、かったるい人間ドラマは「映画制作の力が及ばなかった部分」と、判別がかなり容易なのだ。

で、私はというと、雑なヒューマンドラマ部分にはさっさと見切りをつけ、かわりに豪奢な映像に酔いしれた。映像の力とはすごいもので、それだけでこの尺の長い作品を最初から最後まで楽しむことができた。私が下半期20本のうちの一本にこの映画を選んだのも、あの映像あってこそだ。繊細な心理描写については原作がちゃんと担ってくれているので、映画では映像に力を全振りするというのも、ある意味賢明な選択なのかもしれない。ディカプリオはいつ見ても顔パンパンでカッコいいと思えたことが一度も無いのだけれど、スター性は確かで、こういう役はよく似合う。

 

ひまわり

ひまわり HDニューマスター版 [DVD]

ひまわり HDニューマスター版 [DVD]

  • 出版社/メーカー: エスピーオー
  • 発売日: 2009/12/02
  • メディア: DVD
 

ひまわりというと、真夏の景色を太陽のように彩る陽気な花というイメージがあったのだが、哀愁と喪失感あふれる音楽や映像にこの題がすごくしっくりとマッチしていて、既存の凝り固まった価値観に左右されずモノづくりができるというのは、プロフェッショナルのプロフェッショナルたる所以なのだなと思った。

常に唇を真一文字に引き結んで、あくまでキビキビと歩き喋るジョヴァンナ。その姿は休暇中幸せそうにアントニオと愛し合っていた時のそれとはまるで別人で、きっと気を強く持たないと心が押し潰されそうだったのだろうと想像したら、こちらまで胸が苦しくなった。

ロシアで汽車から降りたアントニオと再会し逃げる様に汽車に乗り込み嗚咽するジョヴァンナの姿、そしてお互いがもう家庭を築いておりもう元の関係には戻れないことを静かに悟る二人の姿を、カメラが順番に映していくにつれ、その胸の苦しさは自分の中でどんどん大きさを増していった。辛かった。

広い広いひまわり畑の下には、数えきれないほどの戦死者が眠っている。無数の十字架が一面に広がる墓場の下にも。今も戦争が終わらないこの世の中で、ジョヴァンナとアントニオのような二人は一体幾人居るだろう。誰も悪くないなかで、誰もがたくさんの哀しみと諦めを知る。月並みな言葉だが、戦争というものの愚かしさを嘆くほかない。

しかし、愛読してる大槻ケンヂのエッセイで盛大なネタバレを食らってしまっていたので、大槻ケンヂに罪はないとはいえ、何も知らない空っぽな状態で観れていたらきっと衝撃も辛さも段違いだったのだろうなと、そこが悔しかった。……♫夢で逢えるわ 夢で逢えるの 心の持ちようね おやすみなさい……

 

渋滞

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ブリリアショートショートシアターオンラインで観た作品(この映画は現在は非公開)。

20分という短い尺ながら、下手な二時間の映画よりよっぽど面白い。二転三転する犯人探しに観ているこちらも飲まれているうちに、訪れるラストの衝撃よ。

また観たいんだが、再度公開してくれないだろうか……。

 

雨の日は会えない、晴れた日は君を想う

雨の日は会えない、晴れた日は君を想う [DVD]

雨の日は会えない、晴れた日は君を想う [DVD]

  • 出版社/メーカー: TCエンタテインメント
  • 発売日: 2017/09/22
  • メディア: DVD
 

突然の妻の死を前に、悲しむこともできず、ただ取り憑かれたように破壊を繰り返す主人公。

正直言って意味はわからない。主人公の行動原理も、なぜ悲しめないのかも、見つけたメモの意味も。

それでいいのだ。これは「分からないことに価値のある映画」なのだと思う。賢しげに「主人公は本当は悲しんでいるんだ、自分で気づかないだけだ」とか「モノを壊すことで主人公はこれこれこういう救いを得ているのだ」とか言う観客にだけはなりたくない。人の気持ちなんて分からない。自分の気持ちだって分からない。感情にいちいち律儀にラベル付けなんてしなくていい。人に説明してやる必要もない。これはそのことを確認するための映画。

 

セトウツミ

セトウツミ [DVD]

セトウツミ [DVD]

  • 出版社/メーカー: Happinet
  • 発売日: 2016/12/02
  • メディア: DVD
 

これはもう完全にただの趣味です。ウツミみたいな男の子、しゅき(IQ20)。というか池松壮亮さんがしゅき。ドラマ、役者違うみたいだけど評判良いので近いうち観ます。

 

まぼろしの市街戦

 

まぼろしの市街戦≪4Kデジタル修復版≫ [DVD]

まぼろしの市街戦≪4Kデジタル修復版≫ [DVD]

 

戦時下、爆弾が仕掛けられ住民が避難した街に命を受け潜入した主人公が取り残された精神病院の患者たちと出会うシニカルでポップな反戦映画。医者と看護師どこ行ったんだよとツッコミたくなるがそこはフィクションフィクション。患者たちが思い思いにはじめる演戯と仮装がまず目に心に楽しい。

患者たちはとことん刹那的・快楽主義で、戦争の作戦の真っ只中に置かれてもそれは生き生きと楽しそうなのだけれど、狂人と呼ばれ、それぞれが好きなことを好きなように楽しむ彼らと、統率され、出くわすなりお互い全滅するまで撃ち合う軍人たちと、本当の狂気はどっちだ?! という問いを真っ直ぐ突きつけてくる。まあ、もっと突き詰めると、いかな軍隊とて、戦時下にいる時点で異常な状況なんだから、どっちが正気もクソもないでしょとは思ったけど。正気なんかどこにも無くて、多数派の狂気と少数派の狂気があるだけ、と言った方が適切かな。

まごうことなき戦争映画であり反戦映画なのだが、殺し合うことの残酷性からではなく、人生を楽しむことの幸福性から反戦のメッセージを訴えかける制作態度が好み。精神的にキツいために戦争映画が苦手な私でも疲れることなく鑑賞できた。子どもに観せたい戦争映画だな。

……ただ純度100%の理想主義ゆえの危険性もあり、たとえ楽しむつもりでも人が集まると本人達の意図に反して起こるのが対立であり、この延長上に戦争はあるわけで、ではどうすればいいかといえばそれは深い対話以外ないわけだけど、そこをすっ飛ばして「人生楽しも!」とだけ言ってしまうのは若干危ういとは思った。

戦争映画に詳しい友人に薦めてもらって観たが、人を食ったような雰囲気といい絶妙にオシャレな衣装といい、オールタイムベスト級に好みの作品だった。ノリは同じくフランス映画「地下鉄のザジ」に通ずるところがあったな。(フランス映画たいして観てませんが……)

 

タクシー運転手 〜約束は海を越えて〜

タクシー運転手 約束は海を越えて [DVD]

タクシー運転手 約束は海を越えて [DVD]

  • 出版社/メーカー: TCエンタテインメント
  • 発売日: 2018/11/02
  • メディア: DVD
 

ドイツ人ジャーナリストを報酬目当てで乗せたタクシー運転手が、光州事件の凄惨さを目の当たりにし、煩悶しながらも正義に目覚めていく。「自分にできることは何なのか」を考えろ、と常に突きつけてくる作品だった。

主人公は、父子家庭で生活に追われ、世の中のことにさして目を向けずに生きてきた人物。それはきっと私たち観客とほとんど同じ目線。意識を高く持ちアンテナを張ってる人もいるけど、大概はただの一般人。だからこそ彼のものの見方の変化は、そのまま自分たちがどう変われるかということでもあって。

情報規制で実情が分からなかったとはいえ、主人公は序盤、デモ隊の学生を見て「学生は勉強してろ」と言い放ったりする。これは「まさに」な台詞で、実際、数年前日本で安保法案の際に立ち上げられた学生団体に対して、少なくない人数がこの言葉をぶつけたのは記憶に新しい。現実に即した映画だと感じた。

カーチェイスは確かにリアリティ無いが、ピーターがカメラを回し、マンソプが怪我人の救助に行ったように、色んな人が置かれた立場でそれぞれの最善を尽くしたことを、映像として最大限わかりやすくかつ映える形で表したのがあのカーチェイスだったのではないか。マンソプやピーターはきっと沢山いた。

自分が目撃したことに対して、問題意識を抱いたことに対して、自分は何ができるのか。見つけるのは難しいけど、大勢の小さな勇気の連鎖できっと世の中は変えていける。ずっしりと重い、大切なバトンを渡された思いだった。

 

耳をすませば

耳をすませば [DVD]

耳をすませば [DVD]

  • 出版社/メーカー: ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント
  • 発売日: 2002/05/24
  • メディア: DVD
 

カントリーロード」のセッションの場面と、そしてなにより、書いた物語をおじいさんに読んでもらうシーンで、恥ずかしながらぼろぼろ泣いてしまった。夢を追いかけること。好きな人に相応しい自分になりたいと思うこと。登場人物みんな誰もが何かを頑張っていて、誰かを想っていて、今までジブリってあまり観てこなかったけれど、こんなにきらきらした物語だなんて。カントリーロード、いい歌詞。

 

キサラギ

ユースケサンタマリア目当てで観たけどめちゃくちゃ面白かった。脚本が巧みすぎ。キャラがストーリーに作用して、と思ったら次はストーリーがキャラの印象をガラリと変えていく、の繰り返しで気が付いたら二時間経ってた。伏線がガンガン回収されていくのも気持ち良すぎる。めちゃくちゃ練られた脚本、しっかり堪能しました。しかしユースケサンタマリアはかっこいいですね。

 

ハウルの動く城

ハウルの動く城 [DVD]

ハウルの動く城 [DVD]

 

不思議な作品だなあと思いながら観ていたが、終わってみればこれ以上ないほどの真っ直ぐなボーイ・ミーツ・ガールで、宮崎駿フィルモグラフィーのなかでもこれは相当に好きな部類だった。世界観が大好き。説明不足を説明不足と感じさせぬ手腕は流石と言う他ない。

前作である千と千尋との類似点がいくつもあったんだけど、わざとなんだろうか?

……こうしてみると大好きな映画なのにも関わらずどこがどういいとか、なぜいいとか、全然言葉にならないんだが、言語化できない「好き」こそ意識して大切にしていきたいです。

 

アンタッチャブル

ショーンコネリーの死に様カッコいい、アンディガルシアの撃ち様カッコいい、そしてケビンコスナーの去り様カッコいい。王道を往くエンターテイメントゆえ、暗い重い話が好きな自分としては物足りなく感じる部分もあるとはいえ、これだけ面白くちゃ文句なしですね。


まとめ

というわけで2019年下半期、135本中の20本でした。このエントリを書きながら自分の文章力・言語化能力の無さに絶望したので、今年は鑑賞本数減らしてでも、一作一作に向き合い言葉にする時間を大切にしたいです。

2020年も良い映画に出会えることを願って。

 

言葉をどんなに並べても━「マリッジ・ストーリー」

「マリッジ・ストーリー」を観た。Netflixオリジナル映画だということを知らずに、普通に映画館に観に行ったのだが、アイリッシュマンといい、映画好きにとって、Netflixが必須ツールとなる時代がそろそろ本格的に来ているのだなと少し慄く。やっぱり入会した方がいいんだろうか……

 

離婚に向け円満に協議していたはずのニコール(スカーレット・ヨハンソン)とチャーリー(アダムドライバー)夫婦だが、離婚プロセスを進めるうちに、次第に二人の関係は泥沼化してゆき……。

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この映画は、ニコールとチャーリーが、「お互いの好きなところ」を語ってゆくところから始まる。ルーズリーフいっぱいに、書き出された「好きなところ」。それはお互いへの細かな観察とリスペクトに満ちていて、だからこそ彼らが別れを決めたという事実が重い。

そう、彼らは相手が憎いわけじゃないのだ。傷つけたいわけでもない。ただ、別の方向へ歩み出そうとしているだけ。そのことが観ていてよく分かるからこそ、スカヨハとアダムドライバーのおそらく迫真のベストアクトであり、最も辛い場面であるあの舌戦シーンは胸が締め付けられる。

ちょっとした言い合いがどんどんヒートアップして、思ってもいない、言いたくもないことを思わず口にしてしまう。「お前なんて死ねばいい」と感情に任せて口走るチャーリー。自分が言ったことのあまりの酷さに愕然とし、膝をついて涙を流す。そんなチャーリーの背中を、ニコールは黙ってさする。それはきっと、彼女も自分が同じような言葉をぶつける寸前だったと分かっていたからだろう。思いきり傷つけ合うことでしか、傷つけ合うのをやめられない。誰でも多かれ少なかれ経験のあることだと思う。本当に痛々しい場面だ。

本作がNetflixオリジナル映画だということは前述したが、しかし映画館で観て本当に良かったと私は思っていて、それというのも、この場面が最も印象的、かつ象徴的だが、この映画は全編、彼らのこのような細かい心の動きを描くことで成り立っている非常に繊細な作品だからだ。家で観るとなると、例えばLINEの通知が気になったり、喉が乾いてお茶を入れに行ったりと何かと邪魔が入る。対して映画館というのは上映のあいだ観客を映画のみに拘束する空間なので、作中の心の動きを丹念に、しっかりと追うことができた。これからもNetflixはじめ映画配信サービスは隆盛を極めてゆくだろうが、映画館で映画を観ることの価値を改めて実感させられた作品だった。

 

 

さて、タイトル通り、これはまさに徹頭徹尾「結婚」の話だ。

ニコールもチャーリーも、お互い相手のことが憎いのではない。でも、たまたま「結婚(と、結婚に付随する離婚)」という制度の中で、上手く関係が構築できない。これはある意味では当たり前で、それというのも「結婚」という制度自体が生物として特殊だからだ。人間以外の動物は、カップルを作ることはあっても、結婚という社会制度に縛られることはない。結婚という制度、関係、それ自体が自然に照らせば不自然なのである。

人間は社会的な生き物だが、その体系のなかで全員が上手くやれるかというのは別問題だ。ニコールとチャーリーは、結婚という制度のなかで、たまたま相性を合わせられなかった。離婚に至ってしまったばかりか、離婚話を進める中で様々な問題が浮上し新たなる火種が生まれる。二人はもう、夫婦としては修復不可能なところまできている。

だが翻って言えば、夫婦としては破綻しても、お互いを愛し思いやり尊重することには何の障害もない。ラストの靴紐のシーンなんか、それを象徴する最たるものだろう。作中に「矛盾しているけど一生愛する人」という一文が登場するが、結婚という社会制度が話をややこしくしているだけで、嫌いなところも、好きなところも、許せないところも、歩み寄れるところもあるという、ごくありきたりで、幸せな人間同士の関わりを、彼らもきちんと持っている。

タイトルが示すとおり、「結婚」という制度があいだに挟まったときに、いたずらに複雑になってしまう男女の姿を描いた作品だった。私は結婚したことも離婚したこともないが、数年前に観た「ゴーン・ガール」の「これが結婚よ」という台詞の意味が、少し分かった気がする(全然テイストも筋も違う映画だが)。

すなわち、結婚というのは特別で、幸せなものだけれど、その特別さゆえに、どこかにひずみが生まれてしまうものなのだなと。

 

 

もう何年も前に解散してしまったが、かつてGARNET CROWというバンドがあった(日本のバンドである)。彼らのファーストアルバムに、「千以上の言葉を並べても…」という曲が収録されている。かつて愛し合っていたふたりの別離を描いた曲だ。歌詞はこうだ。

公園で髪を切る

落ちてゆく毛先を払う

君が笑う 頬に触れる

見上げれば飛行機雲

 

こんなにも穏やかな

終わりもあるなんて不思議ね

名前を呼ぶ声が今 優しくて

離れたくない

 

借りていたままの映画をみてみよう

今日までは見えなかった

君の気持ちとか

感じてみたいって今 思う

 

千以上の言葉を並べても

言い尽くせない事もある

たった一言から始まるような

事もあるのにね

 

花の咲かない木を植えて

溢れる枝に絡まりながら

もがきながら

青空を仰いでいるみたい year〜

 

バスを待つ 君の背中

見送るの 今日で最後

僕は笑う あの日のように

手を振るよ 出会いと同じ

 

明日からは君を待っていた時間

僕だけの穏やかすぎるトキを刻む

慣れるまで ほんの少し君を

思い出すよ

 

千以上の言葉を並べても

言い尽くせない事もあるよ

たった一言で

終わってしまう事もあるのにね

 

同じ土の上では生きてゆけない

二つの種の想い

両手を広げ

お互いを遠く見つめてゆくよ

作詞担当のAZUKI 七は、松谷みよ子「モモちゃんとアカネちゃん」に想を得てこの歌詞を書いたというが、「モモちゃんとアカネちゃん」で描かれているのもまた、ひとつの夫婦の別離である。

二人を同じ鉢の上に植えられたふたつの木に例え、どちらかが悪いのではなく、ただ同じ場所にいることで駄目になってしまう、そういう関係もあるよね、という内容だが、「マリッジ・ストーリー」のニコールとチャーリーも、まさにそういうふたりだ(“髪を切る”や“千以上の言葉を〜“の箇所も、偶然ながら映画とリンクしている)。

どちらかが悪いんじゃない。憎いんじゃない。嫌い、なだけでもない。でも、一緒にいるのは難しい。

違う道を歩むことを決めた二人のこれからが良いものであることを、フィクションと分かっていながらも心から願ってしまう、個人的にとても心に響いた映画であった。

 

「ジョーカー」という危険な映画と、その牙を抜いてみせる「ボーダー 二つの世界」について

2019年10月4日、今年もっとも映画界を揺るがせた作品のうちの一本・「ジョーカー」が公開された。コメディアンとして人に笑顔を与えることを目標としていた主人公・アーサーが、生まれもった障害や周囲からの迫害、福祉の打ち切りなどによって徐々に追い詰められ、「バットマン」シリーズのヴィラン・ジョーカーに変貌していく様を描いた問題作だ。

そしてその「ジョーカー」公開の一週間後、「ジョーカー」に比類する衝撃作・「ボーダー 二つの世界」が公開された。醜い容姿を持ちながら、違法を行う者を嗅ぎ分ける特殊能力を有する女性・ティナが、勤務先である入国管理局で出会った男性・ヴォーレと出会い、相通ずるものを感じ惹かれ合う過程で、自らの出生の秘密を知っていくという、こちらも相当にショッキングな作品だ。

どちらも、観終えたあと心をがつんと殴られたような感情に襲われたが、この二本が似ているのは、なにもその衝撃度だけではなかった。私は「ボーダー」を観た直後、

……というツイートをしたのだが、というのも、この二作は、迫害された弱者が社会に復讐する様を描いたという点でかなり通ずるところのある作品だからだ。

次に書くことは「ボーダー」のネタバレになるので、未見の方には気をつけていただきたいのだが、「ボーダー」のティナとヴォーレは実は人間ではない。虫を食べ、人の心を嗅ぎ分ける、トロルという種族なのである。とはいえティナは、醜い容姿こそあれ、職もあり同居人もおり隣人との関係も良好、という、「社会に適合できているマイノリティ」だ。

だが、ヴォーレは違う。彼は、両親を長い間拷問のような実験にかけられた挙句、孤児院で苦しみながら育った「迫害されてきたマイノリティ」。そう、彼は、トゥレット症候群を持ち、そのことで他者からの迫害を受けている、「ジョーカー」のアーサーと同じなのだ。また、ヴォーレは人間社会への恨みから、自分が産んだトロルの子どもを他人の赤ん坊とすり替え売り飛ばすという反社会的行為を行なっており、これは社会に押し込められた果てに殺人に至ったアーサーとの二つ目の共通点といえるだろう。

アーサーとヴォーレの共通点はまだある。それは、「彼らの反社会的行為に対し、一定の納得が可能である」という点だ。

ヴォーレは人間の子どもをすり替えて売っている。許されないことだが、いっぽうで「そんなに酷い目に遭ってきて、人間に恨みを持つなという方が難しいよな」と合点もいく。少なくとも私はそうだった。

「ジョーカー」でもそれは同じだ。私はジョーカーを観たあと、

……というツイートをしたのだが、実際アーサーの行為は、(それを許す許さないとはまた別の次元で)多かれ少なかれ得心がいってしまうのである。

だがこの考え方は、やっぱりすごく危険だ。理解できることと許すことを完璧に分けて考えることはとても難しいし、真に彼らの行為を「許さない」ためには、「理解できるよね」と言うことすら慎重にならなければいけない。追い詰められた人が、「でも加害者にも同情できちゃうよね」という言葉を聞いて、ポンと悪の道に背中を押されかねないからだ。

だから私たちは、「理解できない」と言うべきなのだと思う。社会の一員として、何がなんでも。心の中でどう思っていようとも、口で、文字で、言葉を発するとき、「理解できない」、そして「許さない」と言わなくてはならない。ティナがヴォーレの所業に対して怒り、許さなかったように。

 


さて、攻撃的なやり方で社会に反旗を翻す相手に対しどう接するべきなのかは、さっきまで語ってきた。では、もし自分がアーサーやヴォーレの立場に立たされたとき、私たちはどうすればいいのだろうか。倫理に叛く行動で、自分を迫害してきた側に仇をなさないためには。その答えは実は、「ボーダー」の作中にしっかりと描かれている。それは、本当に月並みな言葉で申し訳ないのだが、人に必要とされ、そして己を愛する、この二点に他ならない。

ティナは「誰も傷つけたくないというこの気持ちも人間的なもの?」とヴォーレに対峙し言ったけれど、実際、彼女は一旦本能に身を任せはしたものの、ついぞ超えてはいけない一線を超えなかった。それはティナが社会のなかで充足を得ているからだと私は解釈している。彼女は酷い言葉や好奇の目線に晒されてもいるけれど、自分にしかできない仕事をし、隣人とも持ちつ持たれつの関係を築いている。娘が欲しいという自分勝手な理由ながらも、父親にも必要とされた。彼女は、自分が社会のなかで役割を果たしていることを知っている。

「己を愛する」ことも、実は彼女はクリアしている。それはまさしくこの映画のラストカット、トロルの赤ん坊を抱きしめ、笑顔を見せるティナの姿からよく分かる。自分と同じ、異形の生き物である赤ん坊は、マイノリティである彼女の分身であると読み取れる。彼女は自分自身に笑顔を向け、愛を注いだのだ。

外見、能力、果ては種族まで人と違う彼女が紆余曲折を経つつも闇落ちせずに済んだのは、多分そういうわけだ。いっぽうで「ジョーカー」のアーサーには、自己愛も、他人からの要請もなかった。彼はどこまでも孤独だった。

このように、「ボーダー」という作品は、「ジョーカー」に対する一つの解となっていると言える。ツイートした、「この二本が同時期に公開されたのは映画にとっても観客にとっても幸運だった」というのはそういうわけである。

自分を愛するだけではダメで、人に必要とされることも必要、というのは本当に世知辛い話なのだが、この二つの作品をマイノリティ映画として社会的な文脈で観たときに、ここでいう「必要とされる」というのは「多様性を認められる」「社会で役割を与えられる」ということとイコールになると思うし、そうなってはじめて自己肯定感も育つと思うので、結局、そういう健全な社会を作る義務が私たちにはあるのだと思うし、もっと言えば、そんな社会を作ってくれよ、というバトンを、この二つの映画は観客に渡したと言えるのだと思う。

 

 

一つの作品が目の前にあるとして、それを読解する上で、ジャンルや制作年が違う別の作品をぶつけてみたときに、思わぬ触媒としての効果が生まれて、双方の理解が深まる瞬間というのがたまにある。映画「タクシードライバー」と町田康の小説「告白」がそうだったし、「ゴッドファーザー PARTⅡ」と「新しき世界」もそうだ。

今回の場合、「ジョーカー」と「ボーダー」でその現象が私の中に起こったので、こうして記事をしたためた次第である。「ジョーカー」は、観客に大絶賛で迎えられながらも、一部の評論家らから「現実での暴力を誘発しかねない危険な映画」であると評されたというが、まったくの偶然にも、「ボーダー」がその危険性にそっと安全装置をかけた具合になった。あくまで偶然、かつ私の勝手な解釈ではあるが、ひとつの映画の問題を同じくひとつの映画作品がフォローするというのは、映画が社会に負っている役割と責任を概念としての映画それ自身で果たしたようで大変面白い。社会の一員として健全な社会を作っていくことを忘れずにおりつつ、これからもこういう体験ができるといいなと思う。

 

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けっして消えない絆と愛━「映画すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ」

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すみっこを好む個性的なキャラクターでおなじみの、サンエックスの大人気シリーズ「すみっコぐらし」の劇場版。すみっコたちはある日、行きつけの喫茶店の地下室で、ふしぎな飛び出す絵本を見つける。眺めているうちにしかけが動き出し、絵本の中に吸い込まれてしまったすみっコたちは、迷子のひよこと出会う。ひよこの仲間を探してあげるために、すみっコたちは絵本の世界で奮闘するが……。

まず、とにかくすみっコたちが可愛い。可愛さだけで100点満点中一億点。ずっと本やグッズで親しんできたすみっコたちが、原作の絵柄まんまでスクリーンを飛び回る。少ない単純な線で描かれたすみっコたちを違和感なくアニメーションとして動かすのは簡単なことではないと思うが、本作はその難関を見事達成。ファンとしてそれだけで既に満足。

また、井ノ原快彦さんと本庄まなみさんによる、やわらかく温かいナレーションも素敵だった。全編ナレーション、セリフなしと聞いて、果たして75分保たせられるのかと内心不安だったが、杞憂だった。子供のころ、親に絵本を読み聞かせしてもらった記憶を思い出した。ナレーション形式で進んでいく物語、そう考えると子供向けに意外とむいているのかもしれない。

すみっコたちが絵本の中で体験するおとぎの世界も楽しい。子供から大人まで誰もが知っている物語でさてすみっコたちがどう動くのか、という点も、キャラクターの性格や設定が作劇にちゃんと反映して作られているので必然性があり観ていて気持ちいい。

ただ、最後に全員が合流するとはいえ、キャラクターがそれぞれ別の物語上をすすむ様子が「そのころ◯◯は……」という具合に平行して描かれるので、そこは若干のテンポの停滞を感じた。だがまあ、それも子供(ファミリー層)をメインターゲットとしたであろうこの映画につけるケチとしてはあまりに野暮というものだろう。実際ちゃんとどのエピソードも魅力的だったし。

さて、めくるめく絵本の世界から脱出する方法を見つけたすみッコたちは、自分たちがひよこの仲間になろうと決めて、ひよこを連れて出て行こうとするが、なぜかひよこだけ抜け出せない。実はひよこは、誰かがむかし絵本のページに描いたらくがきだったのだ。

私はスクリーンに向かいながら、「ああ、きっともうすぐふしぎな奇跡が起こって、無事ひよこが絵本から抜け出す展開になるんだろうな」と思って観ていた。子供をターゲットにした作品には、実際、割とそういう夢のような、現実からの跳躍が多く見られる。

だがその予想は外れた。奇跡は起きない。ひよことはそこでお別れなのだ。思いがけない悲しい展開が待っていたことに私は結構驚いてしまったのだが、よくよく考えると、そこには多分意味(というか意図)があるのではないか。

すみっコたちにとって、絵本の中から出てくることができない、誰かに描かれた存在であるひよこは、この映画を観た子供たちにとってのすみっコたちそのものだ。すみっコぐらしのすみっコたちは、人の手で創られた架空のキャラクターだ。子供たちはきっと、たとえばすみっコぐらしの文房具を学校で使うたびに嬉しい気持ちになったり、悲しい時はすみっコのぬいぐるみに話を聞いてもらったり、夜はぬいぐるみを抱いて眠りについたりと、沢山すみッコたちに愛を注ぎ、同時に助けを得ていることだろう。だけど彼らが架空の存在である以上、直接話すことも、直接触れ合うことも、絶対に、絶対にできない。すみっコたちが、絵本の外にひよこを連れて行けなかったように。そしてターゲット層の子供たちは、ちょうどそのことを少しずつ知っていく年齢でもある。現実はときに悲しい。

だけど、悲観することはない。この世は悲しいことばかりでもないのだ。元の世界に戻ったすみっコたちが、ひよこの絵の周りに、他の生き物や地面や空といった賑やかなイラストを描き足して、ひよこへの愛情を表現し再確認したように、たとえ直接会えなくても、仲間は仲間だし、大切に愛することにはなんの障害もない。子供たちはいずれ大きくなって、心の中に占めるキャラクターの割合は多かれ少なかれ小さくなるけれど、好きだった気持ちは永遠に消えないのだ。そしてキャラクターに愛を注ぐ心を小さいうちに育むことで、大人になったときには、そばにいる誰かを同じように愛することができる。すみっコたちのひよことの別離には、これから大人になっていく子供たちへの、愛を大切にしてね、という、製作陣による温かく切実なメッセージが詰まっているのではないかと思う(私はいい大人だが、そのメッセージのあまりの優しさに思わず真っ暗な劇場でひとり号泣してしまった)。

私が鑑賞した回は、平日の昼間ながらたくさんの子供連れが観に来ていた。楽しそうに笑い声を上げる子、「しろくまだ!」「可愛い!」とリアクションする子、劇場内の暗さに思わず泣き出してしまう子、と反応はさまざまだったが、あの子供たちが成長していくうえで、この映画を観たという体験が少しでも響けば、それはとっても素敵なことだと思う。

 

社会の外で生き延びろ━「ウィーアーリトルゾンビーズ」

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「ウィーアーリトルゾンビーズ」を、キネカ大森にて、「僕はイエス様が嫌い」との二本立てで観てきた。

 

この映画、ソフト化すらされていない時期に、異例の「丸一日無料配信」がなされていた。8月31日、つまり夏休みが終わる日=“最も憂鬱な日”に、「今悩んでいる中高生や当時悩んでいた自分自身へ向けて作った」いう長久允監督が「どうか絶望しないように」と踏み切ったそうだ。それを踏まえ、以下感想を。

 

その人を取り巻く世界、言ってみればちいさな「社会」のようなものに、しかし馴染めないという人はいつもどこでも一定数いる。打ち明けてしまえば昔の私がそうだったし、きっと長久監督自身にもそんな時期があったろう。そして、この映画において、ヒカリとイシ、タケムラ、そしてイクコの四人は、まさにそんな十字架を背負わされている。

 

長久允監督が、「悩んでいる中高生」に向けてこの映画を作ったというのは冒頭で既に述べたが、なにに「悩んで」かはこの映画を観た者なら誰でもすぐにわかるだろう。「社会に溶け込むことができない」ことに、だ。

 

彼らは社会に馴染めない。両親を亡くしたヒカリは、故人を偲び涙を流す親戚連中という「社会」に溶け込むことができない。悲しくもなく、涙も出ないからだ。いじめにあっている彼は、学校という「社会」にも馴染めない。他の三人もそれぞれの事情で、それぞれが社会とうまくやっていくことができていない。

 

そんな四人を描きながら、無理に社会に接続しなくてもいい、と長久監督は言う。四人のゾンビを売り出そうと舌舐めずりする大人たちの姿を見れば分かる通り、社会とは、タテマエとか、私利私欲とか、そんなものばかりでできている。そういえば、脇を固める形で「大人たち」を演じた役者たちが軒並み豪華な顔ぶれだったが、あれにもきっと意味があって、あれは要するに「社会」とわかちがたく存在し、また「社会」を象徴する、権威という厄介者のアレゴリーとして機能しているのだろう。そんな連中は気にしなくていい。社会と接続しなくても、絶望しない限り、彼ら、そして私たちの人生は続く。続けられる。映画が終わっても彼らの人生が続くように。そういえば、「親を亡くした子供たちがバンドを組み、自分たちはゾンビであると歌う」ことを、エモい、エモいと持ち上げてきた大人たちをも彼らが切り捨てていったことも忘れてはならない。エモいだなんて安っぽい言葉で消費するな、こちとら生きてるだけだ。「エモいとかダサっ」。

 

この映画、画も演出も台詞回しもとことん尖っている。それを「新しい感性だ」と捉えるか、「奇抜なことやりたいだけのオナニー」と一蹴するかは人によると思うけれど、私はこういうものを求めていたし、これからも希求される表現だと思う。

 

個人的に良かったなと思うのは、あの四人組は確かに仲間なんだけど、社会の外側という息苦しい場所で息をするために築いた共依存では全くないところ。全くベタベタしていない。四人というより、一人が四つ、とでもいうか。

 

散々褒めてきたので惜しかった点を言うと、冒頭、四人の「それまで」を順番に説明していく流れが、凝った演出とは対照にヒネリが無さすぎる。回想による説明のせいでストーリーが停滞し、若干の退屈を覚えた。ここをもっと拘っていれば、たびたび指摘される「CM的」という批判はぐっと減ったのではないかと思う。

 

「そうして私たちはプールに金魚を、」では、人生に当たり前のように絶望しているが故に無敵な、退屈で停滞した子供たちを描いた長久監督だが、本作ではそこから一歩前進し、絶望をダサいものと一刀両断し、ではどう生きればいいのかが示されていた。今後の長久監督作品が絶望という命題にどう向き合うのか、今から楽しみでならない。

 

「裏のお仕事」映画の「裏」の顔━「メランコリック」

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「メランコリック」観た。

この映画、観終わった後パンフ読んではじめて知ったのだが、低予算で作られたインディーズ作品らしく。普通にレベルが高く全然気付かなかった……。巨匠が今も傑作を生み出しているいっぽうで、こういう若い才能がどんどん出てくるのは、いち映画好きとして本当にありがたいし嬉しい。

 

東大卒だが定職につかずフリーターをしている主人公・鍋岡和彦は、たまたま訪れた銭湯・松の湯で高校時代の同級生・百合と再開する。百合の薦めで松の湯でアルバイトをすることになった和彦は、同日に面接に訪れた松本とともに仕事をはじめるが、ある夜彼は、人殺しと死体処理に使われているというこの銭湯の「裏の顔」を知ってしまう。実は「裏の仕事」要員として雇われたという松本とともに、死体処理に加担させられることになった和彦は、百合と交際も始め、裏業務にも次第に慣れていくが……。

 

銭湯で人を殺すという、思いつきそうでそれまで誰も思いつかなかったアイデアにまず舌を巻いた。個人経営ゆえに閉めたら誰かが来る心配もほとんどなく、密室で、血を洗い流すことができ、釜で死体処理もできる。音が響く空間なので、話し声や悲鳴が反響するさまは絶妙な不穏さがある。また、「裸の付き合い」という言葉があるが、まさに「裸になる」場所である銭湯で、殺人というトップシークレットを知り、協力させられ、百合や松本とも親しくなり……と、和彦はさまざまな事柄に深入りしていく。この描き方が巧い。

欲を言えば、「通常営業」の松の湯の様子をもっと丹念に映せば、よりコワさ、闇の部分が増したんではないかと思う。ついさっきまで死体が転がり血まみれだった浴場で、何も知らない客たち(それこそ百合でもいいかもしれない)が気持ち良さそうに体を洗っていたりなんかしたら、日常に潜む影をもっと印象付けられたのではないか。

 

さてこの映画、先にラストのネタばらしをしてしまうと、和彦と松本は、銭湯の経営主・東を借金をカタに脅し、和彦をも裏の仕事に引き入れようとするヤクザ・田中を殺す計画を立てる。東も承服し、和彦に一丁の拳銃を渡す。結果的に、田中だけではなく、和彦と松本を裏切った東までもを二人は殺すことに成功する。経営を引き継ぐかたちとなった和彦は、松本、百合、それから田中の元愛人であったアンジェラとともに脱衣所で酒を酌み交わし、和彦の「こんな瞬間のために生きているのだ」というようなモノローグが流れて、この作品はエンドロールを迎える。

 

ひじょうに爽やかなエンドだ。青春映画の趣すらある。だが私にはこの映画がただの「変化球な青春映画」だとはどうしても思えない。松の湯が、夜は恐ろしい殺人現場としての一面を持っていたように、この映画もまた、清々しい表の顔の裏側に、絶望がべったりと貼り付いている、そんな気がしてならないのだ。

 

和彦は人を殺した。その手で、その指で、拳銃で撃ち抜いたその相手は血を流してそれきり動かなくなった。自分や愛する人を守る為とはいえ、殺人は殺人だ。そのことが、今後の彼の人生でどんな意味を持ってくるか。警察に追われるとかヤクザに報復されるとかいう実際面だけではない。友となった松本がモロ裏社会の人間だからそのまま付き合いを続ければ絶対にいつか巻き込まれる、とかいう話でもない(もちろんその可能性はじゅうぶん存在するが)。彼の、心の、内面の問題だ。彼はもう自分のために人を殺すことを覚えてしまった。強制的に洗い場を掃除させられるだけという「一歩手前」で踏みとどまっていたはずの彼は、超えてはいけない一線を超えてしまったのだ。もう戻れない。

しかもさらに悪いことに、彼にはその自覚が全然ないときている。「コワイ奴全員殺して解放されて、大好きな人たちと一緒に過ごせるなんて最高やん、ハッピー」としか思っていないのだ。あの底抜けに明るいモノローグを聞きながら、私は怖くて仕方がなかった。和彦は、あの時自分が引いた引き金に、いつか絶対に足を掬われる。そしてその先にあるのはきっと破滅だ。

だって、映画の登場人物たちは、いつも己の業に報復されてきたではないか。個人的な趣味でヤクザ映画ばかりになってしまうが、「ゴッドファーザー」のマイケルがそうだ。「悪魔を見た」のスヒョンも、「新しき世界」のジャソンも、「スカーフェイス」のトニーも、最近の映画でいうと「ドッグマン」(これはヤクザものではない)のマルチェロだってそうだ。自分のため、組織のため、復讐のため……そうして手痛いしっぺ返しを受けてきた彼らを見てきて、和彦だけ例外だとどうして言えるだろう?

あの爽やかすぎるラストにはきっと含みがあるし、製作陣も後ろを向いてぺろりと舌を出しているんじゃないか、と思えてならない。

(ついでに、制作意図というのはいつもひとつだが、作品読解という地平では誤読というものは(意図的/無意識問わず文意の捻じ曲げは例外として)存在しないというのが持論だし、例え製作者に読みを否定されたとしても作品は独立してそこに存在し、なんらの干渉も受けないというのが私の持論である)

 

というか、さらに言えば、和彦という人間自体が、そもそもマトモじゃないんじゃないかと、私はそこから既に懐疑的なのだがどうだろう。人が目の前で殺されて、脅されて片棒担ぐ羽目になったというのに、「特別手当」をもらっただけであんなに上機嫌になって、通報するか迷いもせず、挙句、自分より多く裏の仕事をさせられている松本に嫉妬するとは、どうかしているとしか思えない。マトモじゃない男が、マトモじゃない世界に足を踏み入れて、こんな瞬間があるなんて生きてる甲斐がある、というマトモじゃない感慨を抱くという、これは相当にとんでもない映画なのではないか。

 

あとは、断片的に思ったことを書くと、

 

・小寺と松本が襲撃したヤクザや、田中のバックにいる組織を、その存在を匂わせる程度にしか描写しないことで、和彦は裏社会との間に一歩距離を取った存在として描写されているけれど、これって要するに、「カタギ」である私たち観客が、現実のヤクザとの間に置いている距離と同じなのだ。このようにラスト寸前まで徹底して「外側の人間」であった和彦の視点から描くことで、「こんなこと、近所の銭湯で本当に起こってるんじゃないか」と思わせる手腕がすごい。

 

・和彦の部屋に「ハリー・ポッター」シリーズが全巻置かれていたように記憶するが、あれはどういう意図なのだろうか。考えたけど答えは出ず。東大卒の本棚としてはかなり異物感があった。

 

・いくら動転していたとはいえ、プロの殺し屋である松本がケチャップと血を間違えるだろうか。同じく銭湯の場面が印象深い「鍵泥棒のメソッド」で、荒川良々が「殺人現場ってのは血の匂いがすごいんだ」というようなことを言っていた記憶が。

 

・これはツッコむだけ野暮だとは思うが、撃たれて血まみれの男を見てもさほど驚かず、マキロンひとつで重体状態からうどん食えるまでに即日回復させるあの母親は一体何者なんだ(笑)。元軍医か何かか?

 

このぐらいだろうか。

色々と書いてきたが、とても面白かった。たまたまぽっかり空いた時間にちょうど上映していたので急遽観に行った映画だが、観てよかった。パンフレットも情報量が多く、楽しめた。「映画製作ユニット One Goose」の今後の活躍に期待してやまない。

不可逆の青春─「葬式の名人」

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映画に限らず、フィクションならだいたい何でもそうなのだが、アクションだのサスペンスだのと数多あるジャンルのなかで、「青春モノ」というのは受け手からの愛され方という点で群を抜いて強い。青春時代というのは誰もが通過してきた地点であるから共感を誘うし、登場人物たちが恋や部活に励む姿はそれだけで単純に清々しい。今年国内で公開された映画の中だけでも、一体いくつもの割合を青春映画が占めるだろう。映画館の予告で知る範囲だけでも、あまりに多いので観る前から食傷気味になってしまうぐらいだ。

 

そんな青春映画覇権状態の日本映画界にあって、しかしここでアンチ・青春映画、言い方が悪ければ脱・青春映画とも呼べる作品が登場した。前田敦子高良健吾を主役に据え、樋口尚文監督がメガホンを取った、「葬式の名人」である。

 

本作は、川端康成のいくつかの短編をベースにし、大阪府茨木市の市政70周年の記念事業として制作された。前田敦子演じるシングルマザーの雪子は、高校時代の同級生・吉田創(白洲迅)の訃報を受けて、旧友と再開する。そのなかには、吉田と野球部でバッテリーを組んでいた豊川(高良健吾)の姿もあった。吉田をもう一度、母校に連れて行ってやりたいという豊川の提案で、集まった同級生たちは棺桶をかつぎ街を練り歩き、懐かしき学生時代の思い出話に花を咲かせる。

 

……とここまで書けば、手垢のついた青春モノにどっぷり浸かった我々は、まるで高校時代に戻ったようにはしゃぐ登場人物たちの姿を思い浮かべるだろう。実際、何らかの事件やアクシデントにより集まった大人たちが、いつしか少年少女のように心を通わせていくという展開は、青春モノの変化球として常套だ。それはそれで良いものなのだが、しかし本作は違う。

 

思い出にひたる彼らの姿は、どこから見ても大人だ。大人だけの嗜好物であるお酒で盛り上がり、「棺に入ると体が若返る」といいながらかわりばんこに棺の中に体を沈めて行ったりする。それらはどこまでも「大人であるからこそ」の行為で、そこに少年少女の面影はない。

 

また、思い出話に賑わう場面こそあるものの、それらはひじょうに断片的であるし、回想シーンに至ってはほとんど無いと言っていい。どしゃ降りで視界も悪い雨の中を歩く雪子らがフラッシュバックのように挿入されるだけだ。彼らを再会させたこの映画のキーパーソンである吉田の存在感もどこか希薄である。まるで「ゴドーを待ちながら」あらため「吉田を待ちながら」とでも言わんばかりに、彼不在のまま話は進む。

 

さて、このどこか浮遊感のあるこの映画は、終盤にさしかかる頃、突如ファンタジー世界へと突入する。吉田と川の字に昼寝した雪子と豊川は、目覚めると白く発光する見知らぬ女(有馬稲子)がこちらを見つめていることに気づくのである。女は言う。「自分は夢を見せるのではない、夢を“消す”のである」と。

 

言わずもがな、青春とは言い換えれば「夢を見ている」状態である。自分の将来に、幸福に、根拠なき自信に。大人になるということは、そういう夢を一つ一つ心から引っぺがして、客観的に現実を見定めていく行為と同義だ。そうしてすっかり大人になった雪子と豊川に、女は駄目押しのように「夢を“消す”のだ」と述べる。

 

そして女はおもむろに己の右腕を外し、二人に渡す。それを遺体となって横たわる吉田の右手にかざすようにすると、高校時代痛めたはずの吉田の右腕は復活する。夜のグラウンドで、雪子との子供である、あきお(阿比留照太)とキャッチボールをする吉田。ここで彼は二人と会話を交わすのだが、このやりとりはどこか淡白で味気ない。実を言うと謎の女が出てくるくだりからの展開は雪子の夢の中の出来事なのだが、自由であるはずの夢の中でも雪子が吉田と何らかの甘い関わりを持つことはない。かつて吉田と恋仲で子供までもうけたはずの雪子は、ひとりの息子を持つ大人として、不可逆の喪失を痛いほど知っているのだ。

 

そう。この映画の中で、いくつも例を挙げたように、青春というのは不可逆だ。そして高校時代から十年の月日が経ち、大人となった登場人物たちは、既にそれを喪失している。そして二度とその時代に帰ることはできない。馴染んだ校舎は建て替えられ、思い出の木も切られてしまった。時間はするすると彼らの上を通り過ぎて、気がつけば十年が経っていた。

 

この映画は青春の不可逆性をこれでもかと強調する。「あんな夏はもうないな」。雪子は呟く。時に笑い、時に泣きながら、彼ら、彼女たちは、もう戻れない過去と一緒に、旧友を供養して、それから、それぞれに前を向く。青春を脱却したひとりの自立した人間として。人はそうして生きてゆくものなのだから。