アスペルガー症候群診断から10年経ったということ、もしくは「迷惑」という語の非対称性について

 自分が軽度のアスペルガーだと診断され、もう7年が経とうとしている。

 診断が下る以前も、そして今までも、自分にとっては世の中のあり方は理不尽なことだらけで、社会生活ではいつも疲弊してきたが、最近になって、やっと、適応することに慣れてきたかなという気がする。いや、この社会でうまくやっていく経験値があがってきた、と言うのが一番正確であろうか。

 とにかく、最近やっと周りから浮かないよう振る舞えるようになったのである。

 

 私が本格的に対人関係への壁を自覚したのは小学五年生ごろであったと記憶している。

 本格的に自我の芽生え出すあの年頃にあって、なにかと周囲とぶつかるようになり、瞬く間にクラスで孤立した。

 折しもその頃世間では「KY」という単語が流行りだしており、私は当然の如く、その不名誉な謗りをぶつける恰好のえじきとなった。教師や親からの、もっと周りを見なさいだとか、言われなくても察しなさい、との指摘も増えた。

 だが、「周りを見る」というのがどういうことなのか、察する、とはどういう行為を指しているのか、「空気」というあまりに漠然としたなにかを「読む」ことというのは一体いかにして実現するのかが、そもそも全く分からず、それらの指摘や謗りはいたずらに私を混乱させるのみで、事態は何も変わらなかった。このような、察する、だとか、空気を読む、ということに関しては、未だに多くのところを理解できていない。

 

 さて、KYと呼ばれながら人と関わることには当然ストレスしかなく、どんどん学校が辛くなった私は、五年生の夏休み明けごろからしばらく保健室登校をしていた。お世話になった養護教諭の先生が、言動などから鑑みるにどうもこの子はアスペルガーの疑いがある、と気付き、両親に受診を促してくれ、私は病院へ連れていかれ、いくつかのテストをしたのち、私は、アスペルガーであると診断された。

 アスペルガーという言葉すら聞いたことのなかった当時の私はただただひたすら困惑したが、医師から説明を受け、いくつかの関連書籍を読むにつれ、皆が当たり前にこなしているらしい「空気を読む」という作業を自分だけがどうしてもできないのは、自分の怠慢によるのではなく、ひとえに、この病気に由来しているのだ、という事実は福音のようにさえ思え、ひたすらほっとしたのを覚えている。

 

 さて、診断が下ったとして、それで何かが劇的に変わるわけではない。その多くが対人関係によって構成される学校生活は、相変わらずきついものだった。アスペルガー向けのコミュニケーションに関するトレーニング本をいくつも読み、対人関係を円滑に回すヒントをうっすら掴みはしたが、結局その作業は、「なぜそうなるのか」、という根本的な理解なしに数学の公式をひたすら暗記し闇雲に目の前の問題に当て嵌めていくようなもので、手探り以外の何物でもなかったうえ、

「なぜこうまでして他者と関わる必要が?」

「必死で探り、考えながらのコミュニケーションなんてちっとも楽しくない」

「本読んだり勉強したりしていたほうがずっと楽しい。なぜ世間はそれを許さないのか!」

と終始憤りながらの学習だった。今思い返すと、なんだか苦々しい気持ちがする。どんなにしんどかろうと、社会生活を送る以上コミュニケーションは不可欠であるし、「本読んだり勉強したりしてい」るだけでは生活していけないのは当然であり、議論にすらならない。

 前述の通り、経験値を重ねた現在は、

「理屈はいまだにさっぱりだけど、こういう問題では、この公式を使えばいいんだ」

という判断に慣れ、軋轢を起こすこともほとんどなくなり、周囲からの評価も「ちょっと変わった人」程度になったように思うが、一方で、当時私がひたすら打ちのめされた、

「”空気”というふんわりした目に見えないものを相手が”察してくれる”という前提の上に成り立っているコミュニケーションにおける風潮はどれだけ傲慢なんだ? 思ってる事は直接言葉で言えよ!」

という理不尽さは常に心の奥底で感じているし、おそらくそれは生涯変わらないのではないか、と思う。

 

 「アスペルガー症候群」とネットでひとたび検索すれば、「アスペの同僚が迷惑」「アスペルガーの知人に迷惑させられている」などの記事が山のように出てくる。「アスペはこの話が理解できないらしいぞw」など、アスペルガーを茶化したようなものも多い。

 なるほど、「曖昧な表現では理解できない」というアスペルガーの特性は、非アスペの人にとっては心底迷惑なものなのだろう。それは否定しないし、だからこそ私は今まで苦しみ、試行錯誤してきた。だが、翻って言えば、「察してもらうこと」を前提とした非言語コミュニケーションこそ、アスペルガー患者、少なくとも私にとっては大迷惑なものであるとも言えるのである。

 

 この「大迷惑」と言う言葉に、きっと多くの方々はひっかかりを覚えることであろうと思う。それもそのはず、私はあえてこの語を使ったのだ。

 なぜかというと、「迷惑」という言葉はそれだけでそもそもすごく非対称なものだからだ。

 「迷惑」とはつまるところその話者にとっての「迷惑」であり、そして、その「迷惑」という言葉が世間で一定の支持を得るとき、その話者は大抵、マジョリティ側(この場合だと非アスペ側)である。

 つまりマイノリティ側が周囲、つまりマジョリティ側に「迷惑」をかけないためには、マジョリティ側に「合わせる」ことが必要になってくるわけだが、そもそもマジョリティ側とマイノリティ側間にそれらの性質の「不一致」という状態があるからこそ、この「合わせる」ことの必要性が浮かび上がってくるのであり、その「不一致」は性質を異にする二集団間には当然生まれるものであるわけだからだ。

 世間で力を持ち、時には正義のように語られ、振りかざされる「迷惑」という言説は、その当然生まれる「不一致」の後始末を一方的にマイノリティ側のみに押し付け、そして、それをしないマイノリティが居れば、「人の迷惑を顧みない奴だ」「常識がない」と一方的に謗るという、対称性を非常に欠くものであるのである。

 「不一致」というものは相対的なものであって、集団の大きさや持つ力によって「こちらが正しい」「こちらが間違っている」などと決定づけられるようなものでは到底ないのだから、お互いが譲り合い、妥協しあって、お互いの納得できる点を探すのが、本来フェアなやり方である筈だけれど、この「迷惑」という言説にはそこがすっぽり抜け落ちている。このような対称性を欠いたマジョリティ本位の「迷惑」が、まるで正義のごとく力を持つ例は、日常生活の上でも枚挙にいとまがない。

 

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 ベビーカー論争 電車利用をめぐって-NHK 特集まるごと  

 「電車内のベビーカー利用に賛否両論」への異論-togetter

 超混雑の電車に車椅子利用者の方がわざわざ乗らなくてもいいじゃんかよぉ(--)-KUMAPON.COM

 

 インターネット上でたびたび議論を引き起こす、「公共機関でのベビーカー問題」「妊婦への席譲り問題」「車椅子と公共機関」などは、その最たるものであろう。とりあえず検索して目についたものをリンクしてみたが、記事の内容の一部やそれらにつけられたコメントのいずれにも、前述の「対称性を欠いた"迷惑"理論」が散見される。

 

「ベビーカーで公共機関を利用するな、タクシー使え」

「妊婦や子連れはラッシュ時を避けろ、譲られて当然と思うな」

「なぜ車椅子で満員電車に乗ってくるのか、時と場合を考えろ」

「子連れや妊婦や障害者は周囲に配慮しろ、感謝を忘れるな」

 いずれも、こうした議論で必ずといっていいほど出てくる意見である。常に一定の、しかもかなりの高割合で賛同されている見解だ。「配慮」「感謝」などの文言も、いかにももっともらしく見える。だが、本当にそうだろうか? この意見はフェアであると言えるのだろうか?

 ベビーカーや車椅子を電車に乗せる。ベビーカーも車椅子も確かに場所を取る。空間には当然限りがあるから、他の人の利用できるスペースは必然的に狭くなる。

 妊婦が電車に乗る。すでに満席だ。誰かが譲らなくてはいけない。つまり、妊婦の代わりに、誰かが立たなくてはいけない。

 なるほど、こうして考えると、確かに公共機関におけるベビーカーや妊婦、車椅子ユーザーの存在は「迷惑」である。ただでさえ「迷惑」なのだから、弱者といえど「譲られて当然」などと思ってもらっては困るし、「感謝を忘れるな」と言いたくもなろう。

 だが、これはあくまでもマジョリティ側、つまりベビーカーをおしてもいなければ、妊娠してもおらず、車椅子に乗ってもいない側から見ての「迷惑」である。彼らは彼らの立場からしかものを見ていない。つまり、「対称性」を欠いている。彼らは、妊婦や子連れの人々に「譲ってもらうことを当然と思うな」「感謝しろ」と主張する一方で、「妊婦や子連れ、車椅子ユーザーの人々ができるだけタクシーを利用したりラッシュ時を避けたりすること」を「当然である」と思い、そのことに対し「感謝」をしようとはしない。異なる性質をもつ複数集団が存在するときに生まれる両者の間の不一致は、「妊婦や子連れや車椅子ユーザーがいるばっかりに健常者や非妊婦、非子連れの車内での居心地が悪くなる」という「マジョリティ側にとっての迷惑」として発露するだけでなく、「健常者や非妊婦、非子連れの居心地の良さの為に妊婦、子連れ、車椅子ユーザーはラッシュ時をはじめ公共機関の利用を遠慮しなくてはいけない」という「マイノリティ側にとっての迷惑」としても現れるのだが、彼らはそこに思い至らない。

 

 一応補足しておくが、私はなにも「健常者や非妊婦、非子連れは席を譲れ」と言っているのではない。新聞の投書などで「お年寄りを見ても席を立たない若者」を嘆くようなものをたまに見かけるが、むしろ私はそういった意見には疑問を覚える。弱者を思いやる行動は確かにとても尊いが、運賃を払っている以上、自分の確保した席に座る権利は万人にあるし、目に見えない疾患を抱える人も多い。今はどうか知らないが、私が現役「幼児」であった頃の某幼児教育教材の付録のビデオに、おそらく道徳的教育の一環なのだろう、「お年寄りや体の不自由な人には席を譲りましょう」という内容のものがあった。それだけなら何の問題もないのだが、そのビデオは、「お年寄りが乗ってきても席を譲らない人々」を、明らかに「自己中心的」とみなしていて、子供ながらに引っ掛かりを覚えた記憶がある。それぞれ個別の事情が存在するであろうことを切り捨て、相互監視的なモラルを強要・一元化する行為はこれもまた一方的なものの見方でしかない。

 私はこの問題については「譲りたい人は譲ればいいし譲りたくないor譲れない人は譲らなくていいが、公共機関における万人の安全は担保されるべきであるし、そのための制度や社会構造は現状あまりにも未発達である」以外の意見を持たない。いわゆる「席を譲る、譲らない問題」は乗客それぞれの事情だとか感情だとか、そもそも公共機関の不十分なバリアフリーとか、様々な要因が重なりもつれあって存在する課題であるし、ともすると「妊娠は病気じゃない!」みたいな明後日の方向に論点がずれがちであったりするので(病気じゃないからなんだよ、と言いたい)、これ以上の言及は避ける。私がこの件で言いたいのはただ一つ、「”迷惑”という観点から他人を批判・断罪するなら、その”迷惑”が誰にとってのものなのかをまず考えましょう」ということである。

 

 

 同じく、これもネット上でよく見かける。事の真偽はさておき、「人に迷惑をかけてはいけません」「他人の迷惑になるようなことをするな」という考えは、確かに日本人の道徳的価値観の基盤をなしていると言える。前述した、妊婦や障害者に対する批判もベースはここにある。

 確かに人に迷惑をかけるというのは良いことではない。できるだけ回避すべきであるし、極端な話、万人が他人の迷惑を鑑みずに生きれば到底社会は成り立たない。この教えは確かに真実を突いているだろう。

 だけどそれだけでは不十分だ。「人に迷惑をかけるな」と教えながら、一方でその「迷惑」の基準がそもそもマジョリティ側に偏りがちなことや、マジョリティへの「迷惑」を回避するため、マイノリティが一方的に割を食いがちなことは教えない。数が多いと言うだけで、マジョリティがマイノリティと比べて正しいというわけではなく、まして、主張が優先されるべきということは全くないのだが、そこのところの教育も不十分なのか、どうも「権利と多数決は違う」を理解していない人が一定数いる。まして同調圧力の強い日本である。ますます権力は多数派側に偏る。

 「心のノート」が改訂され、道徳の教科化、大学入試の人物本位化など、色々と迷走、もとい試行錯誤の様子が手に取るように見えるが、相変わらず的を外していると言わざるを得ない。道徳の教科書に「江戸しぐさ」が採用されたことからも、思考停止の「迷惑をかけてはいけません」が振りかざされるであろうことが容易に想像できる。色々と先行き不安であるが、声をあげるべき時にはあげられる準備と勉強を欠かさぬようにしたい、「空気」ばかり読むのではなく。

 

(2014年の3月頃に書いたもの。「○年目」にの数値だけいじりました。今も同じ気持ちです。)

サラ・ウォーターズ『エアーズ家の没落』と、「風呂敷を畳む」ということ

 

エアーズ家の没落上 (創元推理文庫)

エアーズ家の没落上 (創元推理文庫)

 

 

 

エアーズ家の没落下 (創元推理文庫)

エアーズ家の没落下 (創元推理文庫)

 

 

 

 サラ・ウォーターズ「エアーズ家の没落」、たった今読み終わりました。ほぼ一気読み。
 
 感想を一言で言うならば、めちゃめちゃ面白かった。こういう、結末がはっきりしないと言いますか……ミステリーならば「リドルストーリー」とでも称されるべき作風は、読後の居心地悪さゆえか、割に好き嫌いの分かれるところのようですが、私は大好きです。いやーほんとに面白かった。
 
 恩田陸作品全般、セバスチャン・ジャプリゾ「シンデレラの罠」、ヘンリー・ジェイムズ「ねじの回転」などもこの系譜に加えてよいかと思いますが、こういったよくできた「リドルストーリーもの」を読むたびに、あれこれ腐心して「綺麗に」風呂敷を畳むことのいかに馬鹿らしいか、つくづく実感させられます。作家の伊坂幸太郎が、自身のインタビューで「風呂敷は畳む過程が一番つまらない」というようなことを語っていたけれど、読書体験を微弱ながらも重ねるたびに、その言葉が真理として胸に迫ってくる心地がします(個人的には、伊坂さんほど上手く風呂敷を畳む人を私は寡聞にして知らないのですが、逆に卓越した手腕を持つがゆえに天井を見てしまったのかも)。
 
 とはいえ、ちりばめられた謎や不可解な伏線がラストで意味を与えられ、一枚の絵になるカタルシスと興奮も嫌いではないです。ですが一方で、手に届かないところにあった筈の謎が足元に落ちてきてしまった拍子抜け感、ありていに言えば「冷めてしまう」感覚に襲われることの方が実感としてははるかに多い。それこそ伊坂さんのようによっぽど「巧い」人がやるのでないと、それまで多くの謎で好奇心と期待をかきたてられた読者の目には、どうしても陳腐に映ります。

 そういう意味で、発表から七十年経った今もその印象的な書き出しと共に人々に深く記憶され、評価されているウイリアムアイリッシュ「幻の女」を私は全く評価しません。「派手な帽子を被った女を何故誰ひとりとして覚えていないのか?」という美しくけれんの利いた謎が、「犯人が口止めしてました!」なるそりゃないでしょな真相に堕してしまった時の落胆と失望と言ったら……。ミステリとしての体裁を整える、物語としての分かりやすい「落ち」をつける、ただそれだけのために、ちんけな「真相」とやらを無理やりこじつけるぐらいなら、いっそ美しい謎のままでいてくれ!(「斜め屋敷」レベルの力技になれば、いっそ様式美として楽しめるのですが……うーん難しい。)

 人間には、「謎を解き明かしたい」という願望があるのと同時に、「謎には一段上でこちらを見下ろしほくそ笑んでいて欲しい」という欲求も、確かにあるのだと思います。全てを掌握できる世界なんてつまらない。それは物語を読むうえでも変わりません。「謎に手のひらの上で翻弄されたい」、この小説はそんな欲求をおしみなく満足させてくれる作品です。分厚さに最初はやや圧倒されますが、リーダビリティ抜群でぐいぐい読めます。お暇があれば是非。

 

(2011年ごろに別名義で書いたもの。最近更新ができずこれではいかんと思ったので、とりあえず昔書いたものの中からデータが残っているものを引っ張り出してきて載せました。)

人生が表面をさらうように交差する場所ーー『クワイエットルームにようこそ』

松尾スズキによる2007年の映画、『クワイエットルームにようこそ』を観た。以下感想を。ネタバレ注意。
 
フリーライターである作倉明日香(内田有紀)は、目覚めると見知らぬ病室にいた。そこは入院患者の中で「クワイエットルーム」と呼ばれる、精神病院女子病棟の保護室。ストレスの捌け口としてオーバードーズを行った明日香は意識を失い、内科で胃洗浄を受けたのち閉鎖病棟であるこの精神病院に担ぎ込まれたのだ。前後の記憶もなく、自殺未遂の意思もなかった明日香は風変わりな入院患者達や高圧的な看護師にとまどい、退院を希望するが、病人の言うことだとまともに取り合ってもらえない。病棟の中で過ごすうち、摂食障害の少女・ミキ(蒼井優)や、同室の女性・栗田(中村優子)、過食障害の西野(大竹しのぶ)らとの交流が始まる。こうして、明日香の奇妙な入院生活は幕を開けた。
 
というような話なのだが、面白かった。作品の手触りとしては、同じく精神病患者が主人公である『逃亡くそたわけ』が近いだろうか。人生に問題を抱えた主人公が、精神病院という「時の止まった場所」でもがき、同類との馴れ合いや衝突の果てに自分自身と向き合い、前へ進んでいく、というまあありがちなプロットなのだが、この映画、「精神病院」という舞台装置の使い方が抜群に上手い。
私は現在進行形でうつ病患者で、精神病院の入院経験も過去2回、計7ヶ月あるのだけど、そういう経験を踏まえた上で見る、この映画の中の精神病院は実にリアルだ。一般に想像されるような、見るからに「おかしい」人はほとんどいなくて、見た目「普通」のご婦人が突如ナースステーションのドアをガンガン叩きだしたりとか、妙に愛想が良いのがいたり妙に気前が良いのがいたり、「あるある」の連続。みんな症状は違えど同じ精神病という前提があり、構成員は流動的に入れ替わっていくから誰もが人間関係に関して適度にドライ、適度に割り切っていて、なりゆきで声をかけて絆が生まれるところなんか妙にリアル。主人公も、最初こそ「自分はここにいるような存在じゃない」「この人達と私は違う」と頑ななんだけど、周りにとっては「新しい同類」でしかなくて、そこのギャップも個人的にすごく覚えがあった。かようにリアリティ溢れる舞台・人間描写のお陰で、難なく物語世界に没入することができた。
こうしたシニカルな描写をバックに、主人公・明日香が交流の中で自らに向き合っていく様子が描かれるのだが、終盤、観客は明日香と共に、意外な真実を目の当たりにする。実は明日香は、仕事に行き詰まり、恋人に別れを切り出された結果、明確に死を望んでODを行った自殺企画者であったことが恋人からの手紙で明かされるのだ。ここで観客ははじめて、この映画の主人公は「事件前後の記憶をなくした女性」というミステリにおける「信頼できない語り手」の定石的人物だったことに思い至る。
前半部分で登場人物達の生活をコミカルに描いておきながら、後半で一気にその暗部を抉り出すという構成はまったくもって恐ろしいとしか言いようがないのだが、そもそも精神病院とは、自らの病に向き合い、そこから抜け出して前を向いて歩くために、自分の中の何かと「カタをつける」場所である。そうであるからして、ミキの「食事をしない」理由の告白(ここの蒼井優の演技は凄みがあった。蒼井優、ナチュラルなイメージが強かったのだが、この映画ではきつめのメイクにドレッドヘアという出で立ちで、ドライでありながら情に厚い若い女性を好演していた。)、エスカレートしていく西野の異常性、そして明日香のODの真実とそこからの現実との直面は必然のものなのである。こうして明日香ははじめて自らの病理と向き合い、面会に来た恋人と別れの言葉を交わす。辛辣な展開ながらも、明日香が自立して一歩踏み出したことがわかる名シーンである。
辛辣といえば、この映画ではどこを切り取ってもとことん辛辣でありとことん登場人物たちを突き放した描き方をしている。たとえばラスト、明日香は退院するけれども、他の登場人物たちに回復の兆しは一切見えない。ミキは相変わらず食事を戻してしまうし、西野は盗癖が発覚し医療刑務所行きになってしまう。ミキと同じく摂食障害のサエ(高橋真唯)はジグソーパズルが完成したら食事を完食するという約束のもと、一度こそ実際に完食を果たすけれども、それは一度きりのことで、症状が好転したわけではまったくない。明日香と入れ替わりで退院していった栗田は、明日香の退院と同日にまたも入れ替わりで病院に担ぎ込まれてしまう。実は作中、私がもっともリアルだなと感じるのはここで、精神科に限らず、病院というのは自分がどんなに良くなろうが他人は自分と関係ないまったく他人のペースで病状を変化させていく場所だ。5年以上入院している患者の隣のベッドで、別の患者が3日で退院していく場所だ。どこかのレビューサイトで「主人公にばかり光が当たるのみで、周辺人物に解決が与えられていない」という批判を見かけたが、そのような意見に対しては、そもそも病院とはそういうところなのだ、としか言いようがないのである。作中のジグソーパズルに描かれたエッシャーの無限階段が象徴するように、人生とは簡単に解決がつくものではないのである。

だからこそ、無限階段を抜け出した明日香の門出は清々しい。患者達から餞別として受け取った寄せ書きをゴミ箱に放り込み(このシーンは非常に印象的なカットとして映画の中で位置付けられている。 栗田が語った通り、また、私事で申し訳ないが私自身そうしたように、「シャバに出るというのはそういうこと」なのである)、名実ともに過去と決別し、現実に折り合いをつけながら、未来へ向かってバスへ乗り込む。観客である私たちには、明日香の乗るバスの行き先はわからない(人生がそうであるように、明日香自身にもわからないのかもしれない)。荷物の中に入れたままになっていた栗田の連絡先のメモを風に乗せて窓の外に捨て、メモは風に乗ってカメラに向かって飛んでいき、「life is happy@loop.com」というこの映画のテーマを凝縮したようなメールアドレスが大写しになり、幕。

 一切の綺麗事を排し、酷と言えるほどにキャラクター達を突き放した本作品は、しかしまぎれもない人生賛歌なのである。

 

あとどうでもいいところを突っ込むと、庵野秀明が医者役として出てきたばかりか怪我をして早々に舞台から退場したのには思わず吹き出したし(庵野ファン必見)、あとODやらかした患者が2週間で退院ってのはいくらなんでもありえない早さだと思うのだが(精神科の1ヶ月は内科の1日という言葉があって、つまり精神科とはそれほどに長い目で見る必要がある分野ということである)、まあ2時間の映画にそこのリアルを求めるのはいくらなんでも酷ってものだし別にいいか。

 

 

 



 

 

 

 

バラエティ番組が、怖い

 恐怖なんて、無くもがなである。

    ――と片づけてしまふ人は、話にならない。

 日本のSF小説の始祖とも言われる海野十三は、その随筆「恐怖について」のなかでこう述べている。全文は青空文庫の方で確認していただくとして、恐怖と言うものに自分が襲われるのはかなわないけれども、そういう恐怖について聞くのはきわめて興味深いものである、という彼の意見にはただうなずくばかりだ。

 そう、私達は常に恐怖を欲している。「百物語」といえば恋バナと並んで修学旅行の夜の話題の主役であるし、夏場にはホラー特集がこぞってテレビで放送される。映画や小説の世界でも「ホラー」は一大ジャンルを築いており、聞くところによると、米国人がホラー映画に支出するお金は1年間に5億ドルに及ぶというし、海を挟んだイギリスにおいても、ヘンリー・ジェイムズ「ねじの回転」の冒頭で描写されている通り、幽霊譚というのはクリスマスイヴの定番イベントであるらしい。インターネットの世界においても「怖い話」の愛されっぷりは例外でなく、適当な単語で検索するとその種のまとめがどっさり見つかった。その他にも、肝試しやお化け屋敷など、恐怖が人々に「消費」される例は、枚挙にいとまがない。「恐怖」というのは生物の防衛本能であるから、当然忌避と畏れの対象だが、その一方で私達は、恐怖に悲鳴を上げ、手で顔を覆いながらも、開いた指の隙間から、そっと覗き見る事をやめられないのである。

 しかし、なぜ人々は恐怖を欲し、震えあがりながらも嬉々として消費するのだろうか。 この記事では、脳神経科学や心理学といった見地からその理由が様々に解説されているが、ここに私は、持論として「他人と共有できる人類共通の感情だから」というものを付け加えたい。百物語や怪談会は言わずもがな、多くの場合複数人で行われるお化け屋敷や肝試しなんかは、「恐怖の共有」のよい例であるし、カウンセリングなんかも、「心にわだかまる不安や恐怖を語り、分かち合う」という点で、その中の一つと言えるかもしれない。「怖い夢は人に話すと正夢にならない」なんて定説があるが、その真偽は措くとしても、「こわい」体験は誰かに話し共有してもらうことで初めてその呪縛から解き放たれ、エンターテイメントにまで昇華されうるのだと思う。

 だが、翻って言えば、共有されない恐怖は常にその肩に強くのしかかる。何度も言うとおり恐怖というのは人類共通の根源的な感情なので通例分かち合うことは容易だが、まれに、「なんでそんなものが?」というような些細かつ瑣末な事象を恐怖の対象としている人というのは存在して、その中の一人が私である。以上、全て前置きで、今から私の「なんでそんなものが?」について一方的に閲覧者のみなさまと共有を試みたい。

 

 何が怖いのか。結論から言うが、バラエティ番組である。

 物ごころついてからの、揺るがぬ認識である。バラエティ番組が怖い。

 割と尋常じゃないレベルで「だめ」で、見ていると瞬く間に精神が消耗してくるし、その時のコンディションによってはその後数時間使い物にならないレベルで怖い。とにかく見ていられない。家でなら家族が見だしても自室という避難場所があるのでまだいいが、友達の家や合宿先だと好きに席を外すわけにもいかなかったりしてなお辛い。テレビの置いてある定食屋など、ほとんど地雷原である。近年、ほとんどの番組がバラエティであるから、安心して見ていられるのはNHK放送大学くらいのもので、集団生活にも支障が出るので早いところ克服したいのだが、もう二十歳も過ぎようとなった現在においてもいっこうに慣れない。

 皆がリラックスし笑って見ているものを自分はなぜ見れないんだろう、と昔から不思議でならなかったし、誰かにそれとなく相談してみても「え?なんで?」と逆に聞き返されるぐらいであったので、ずっと「なぜ怖いのか分からないのが、また、怖い」という二重に「怖い」状況だったのだが、今回、改めてじっくり考えてみて、「真顔のハイテンション」の怖さなのかな、と暫定的に結論した。

 バラエティ番組というのは娯楽性が第一であって、視聴者を笑わせないと話にならない。視聴者の年代や属性には当然ながら幅があって、その中で少しでも多く笑いをとるために、笑いの方向はどうしてもシンプルでストレートなものになる。出演者たちはハイテンションで派手なパフォーマンスを繰り広げ、背景では場面場面に合った軽快な音楽が流れ、カラフルなテロップが画面を踊る。様々な方法で、景気の良さ、賑やかさが演出される。

 しかしそれは結局故意に「演出されたもの」に過ぎない。カメラが止まればキャスト達は全員真顔で台本の確認に戻るし、進捗状況によっては、スタッフ一同時計とにらめっこしながらの収録だったりする。さらにその背後にはいつも視聴率やビジネスというシビアなものが厳然と存在して、だから彼らは一見高揚していながら、その実いつも真顔なのだ。

 私にはそのギャップが怖い。近年のバラエティの方向性を是非をうんぬんしたいわけではなく、ハイテンションのその背後に、ひやりとするようなシビアさが顔をのぞかせている、その落差がただただ恐ろしい。視覚的に表現するならば、「眼だけが笑っていない」。はっきり言って狂気を感じる。

 私には、満面の笑顔で人目を引くパフォーマンスを繰り広げる彼らが、時折こちらを覗き込んでいるように思えてならない。彼らは時々ぞっとするほど乾いた目でこちらに向かって振り向いて、「面白い?」「チャンネルはそのままで頼むよ」「こんな炎上すれすれのパフォーマンスやってんだからさあ」と感情のこもらない低い声で呟く。それは一瞬のことで、すぐまた明るい表情をその顔にはりつけて何事もなかったかのように演技を続ける。自意識過剰極まりないし、こうして文字に起こすとなんだかノイローゼの様相も呈してくるようで甚だ恥ずかしい限りなのだが、そんな風に感じられてならないのだ、どうしても。

「自衛」論の暴力性、非対称性

 21日、出会い系で知り合った中一女子を連れ去った容疑で21歳の会社員が逮捕されている。

www.sponichi.co.jp

 このニュースを受けた小池一夫氏のTwitterにおける発言が、数日前から物議をかもしている。ツイートの内容はこうだ。

  この件に関しては小池氏本人が既に公式ブログ上で謝罪をしている。「女の子じゃない。女。」という発言によって「女」という属性に俗物的で侮蔑すべきものであるというレッテルを貼った事への謝罪は一切見受けられないためわだかまりは残るが、巷に溢れる「不快にさせてしまったのなら謝ります、サーセンした」式謝罪と比べれば、自分がなぜあのような不適切な発言をするに至ったのか、またどうするべきだったのかが丁寧に分析されており、随分ましなものと思える。よって私としては小池氏のこの発言についてはとりあえずは納得したのだが、こういう発言が著名人の口から発せられてしまうレベルには、こういった「性犯罪は女性側の自衛不足による責任である」という意識が世間で共有されてしまっているわけで、決して問題そのものが解決したわけではない。私は前々からこの「自衛論」については思うところがあったので、この機会にちょっと書いておく。

(ちなみにこの謝罪に対しても納得していない人は当然多くいる。謝罪したからと言って罪が免ぜられるわけではないし、前述の通り「女」という属性を貶めたことへの謝罪もない。また、小池氏の「子供は出会い系サイトにアクセスすべきでない」という主張もそもそもが自衛論の上に立脚しているので、自衛論に反対する立場の人から反発があるのは至極当然なことだ。「謝罪したのだからもう批判しなくてもいいではないか」という声をちらほら見かけるが、そのような行為は怒りを表明し告発する者の口をふさぐ行為でしかなく、私はこれを断固批判する。)

 

「自衛をしなかった」ことは被害者の落ち度なのか

 まず私の意見を述べよう。「自衛をしなかったこと」は、被害者の落ち度では全くない。どれだけ被害者が不用意であろうと、それで責任の所在が被害者にもあることには絶対にならない。

 何故こう思うのかは、これから説明していく。

 ここに一人の被害者がいるとする。彼、または彼女は、自分の身に降りかかるかもしれない犯罪に対し全くの無頓着であり、警戒を怠っていた。これは被害者の落ち度なのか。

 答えは明確に否だ。加害行為というのは、被害者の不注意や隙を突いて悪事を働く加害者がいなければ成立しない。そして、相手に不注意や隙があれば加害行為を行っていいということは全くない。加害行為というのは、不法行為や犯罪のことだ。これは法律でも明確に禁じられている。よって、全ての責任は加害者(刑事事件の場合は行為者と呼ぶ)にある。

 そもそも、「落ち度」という言葉は実にあいまいで、かつ考察に欠けた、極めて加害者視点のものだ。性犯罪被害の落ち度としてよく挙げられるのものとして、「夜道を一人で歩いていた」などがあるが、これを落ち度として断罪する者には、「タクシーに乗る金銭的余裕がなかったのかもしれない」というような考察が致命的に欠けている。そもそも、誰でも通れるはずの公道を歩いていたというそれだけで「落ち度」とされる、その理不尽さを想像してほしい。同じく落ち度として槍玉に挙げられる「露出の多い恰好をしていた」というのも同じだ。私たちは自分の趣味に合わせて装う権利がある。それを抑圧して「そんな恰好をしていたから」とは何事なのか。しかもどこからどこまでを「被害者の自業自得」とし、どこからを「これは加害者が悪い」とするかはジャッジする側が決めるのだから、極めて非対称だ。もちろん交通事故のような過失割合が関係してくる場合もあるが、それはお互い故意でないという前提があっての決まりであるし、法律という目に見える一律な基準がある。

(少し話は逸れるが、過去に、大宮駅で痴漢防止を呼び掛けた女子高生達のスカートの長さを指して「矛盾している」という発言を見かけたことがあるが、あれほど的を外した意見も珍しい。短いスカートで痴漢防止を訴えることは、「私達が短いスカートを履いているのは、あなた達が私を痴漢していい理由にはなりませんよ、させませんよ」という極めて強力なメッセージたりうるからだ。)

 以上が、私が「落ち度論」を批判する理由である。

 

なぜ「落ち度論」は発生するのか

 では、なぜこのような「落ち度論」は発生してしまうのか。

 私が思うに、彼らは、個人の役目たる「自衛」「用心」と、社会の役目である「犯罪抑止」を混同しているのではないか。

 勿論自衛や用心はするにこしたことはない。それは私も否定しない。だが、それとは別に、社会には、そして社会の一員たる私たちには、「犯罪抑止」に努める義務がある。そしてその義務は、個人の「自衛」の度合いによって揺らぐことはない。自衛をしていなかったからと言って、それでどうして被害の責任が被害者側に移ることになるのか? 自衛というのは個人の問題だ。個人がいくら自衛を怠ったとて、社会の問題である「犯罪抑止」とその先にある「事件解明」「加害者の処罰」は行われなければならない。

 そこをいまいち理解できていない人が、まるで自衛さえすれば全ての被害が防げるかのような口振りで「自衛論」を振りかざすのではないか。

 

「自衛論」の行きつく果てのディストピア

 どれだけ被害に合う側が警戒して慎重になっても、加害者はさらに知恵を絞って巧妙な手段を使ってくるだけだろうし、被害の責任を一部だけだとしても被害者に収れんさせだしたら、それこそ家から一歩も出られなくなる。

 被害者の落ち度を「こいつにも非があった」と訳知り顔に裁くことは、結局後々自分の首を持締める結果になると言うことを、「自衛論」支持者は心に刻んでほしいと思う。なぜならそれは、「自分も些細な落ち度を理由に犯罪に巻き込まれても仕方ないですよ」と、自分への加害を暗に肯定する行為だからだ。常に隙を見せずに生活できる人などどこにもいない。自衛論を突きつめていって行きつく先は、完全なる弱肉強食社会だ。「いざというときのために護身術を習っておかずに殺された被害者が悪い」とか、「ボディーガードもつけず女子供で外を出歩いたら被害にあっても仕方がない」のような修羅の国である。

 「自衛しろ」といい、しなかった者を裁くのは、自分自身の「平穏な暮らし」や「無事に生きる」事の価値をも低く見積もることだ。だからこそ私は、自衛論に断固反対するのだ。

 

補記:ネットでの出会いは「安易」なのか?

 これは冒頭で紹介した出会い系サイトの問題とも絡むのだが、出会い系サイトやSNS(出会い目的で作られたわけではないサービスでも、結果的に出会いの温床となっている場所は多々ある。多くの人が利用しているブログやツイッターフェイスブックとて例外ではない)など、インターネットを介した出会いは「安易」なのか。「自衛」の観点から言って、責められるべきことなのか。これに関して、私見を述べる。

 まず、私はインターネットでの出会いを安易なものではないと考える。それは、単純に「インターネット上の出会い」を「安易」とする論理的根拠が、(少なくとも、私が思いつく限りでは)ないからだ。「相手の顔が見えないから」というのはよく言われることだが、では逆に、相手の顔を見ただけでその人間性を判断できる人間がどこの世界にいるのか。「プロフィールをいくらでも偽れる」という特性もネットにはあるが、そんなものは顔見知りだって一緒だ。

 また、これは記憶が定かでなく出典を明記できず申し訳ないし、それは私の論の弱さでしかないのだが、私の記憶では、ストーカー事件に発展した男女の出会いの場の第一位は「職場、学校」であった。ネットは三位ぐらいだっただろうか(本当に、あやふやで申し訳ない。データなどご存知の方がいらっしゃったらよろしければご連絡ください。すみません)。性犯罪事件でも、顔見知りによる犯行は三割を占めると言う。「ネットでの出会いが危険につながる」という確実なデータは(私の観測範囲内では)存在しないのだ。

 というか、これだけSNSが発達して、ネット婚活なども普及している今日、ネットでの出会いをイコールで安易とみなすのは、早計である以前に時代錯誤なのではないかと思ってしまうのだが。

 

おわりに

 ここまで読んでいただいた方、ありがとうございます。だらだらと私見を垂れ流しましたが、私とは意見が異なる方、反論したい方、当然いらっしゃることと思います。

 また、ストーカー事件に発展した男女の出会いの場についてのデータを明記できず申し訳ないです。

 私は自衛にまつわる事柄について現在のところは以上のように考えていますが、今後考えが変わることもあるでしょうし、まだまだ考えを深めたいと思っています。私に反論がある方、対話したいと言う方は、お気軽に話しかけていただければと思います。

 

 

 

奴隷の鎖自慢やめようぜという話

 昨日ぐらいから、男「女はなんでヒールなんかはくんだ?」女「他に選択肢がないんだよ!」 - Togetterまとめ多分このまとめが発端なんだと思うが、Twitterのタイムラインは「ヒール履くのがマナーって風潮マジでクソ」というツイートで一色だった。ヒールの辛さを切々と語るツイート群に深く頷きつつ眺めていると、議論は同じく女性に課せられている社会通念である「化粧」に関するマナーの理不尽さにまで及び、これは現在に至るまで白熱している。
 そこまではいいんだが、「男だって髭剃りやネクタイ等マナーに縛られている、大変なのは女だけではない」という的外れにも程がある意見や、更にそれに対するカウンターとしての「女は髭だけじゃなく全身の毛剃ってるんだ」という意見も同時に目立つようになってきて、お約束の流れながらその不毛さに頭が痛くなってきたので、ちょっと思うところ書いておく。つまるところこの話はタイトルにも冠した通り「奴隷の鎖自慢やめないか」という結論に帰結するので、Twitterで一言呟けば済む話ではあるのだが、化粧やヒールに対する個人的な意見とかも交えると話がとっちらかってきて自分でも訳がわからなくなりそうなのでブログに書こうと思った次第である。


化粧は"マナー"という社会通念の矛盾と馬鹿馬鹿しさと怒り

 私は「身だしなみ」「テーブルマナー」「ドレスコード」などのあらゆる根拠不明の社会通念に対し全力で中指立てているタイプの人間である。そんな私でも、社会において、身だしなみとして「清潔さ」が求められることの正当性は理解している。不衛生は健康への害に直結するからである。
 だが身だしなみとして当然のごとく求められている「化粧」は要するに顔面を油で塗りたくる行為であるわけで、実際に不十分なクレンジングが肌を傷めるように、「清潔」「衛生」とはむしろ対極の行為と言える。これがマナーのなかに当然のように組み込まれていることは明らかな矛盾である。これはどういうことかというと、結局のところ、実際のところ社会で重要視されているのは衛生観念としての「清潔さ」ではなく、イメージとしての「清潔"感"」なのである。顔面に油を塗り込むことで肌が乾燥し、その結果どれだけ肌が傷み「清潔さ」を失おうとも、肌が均一なトーンに整い見た目が「綺麗」ならばそれで「身だしなみ」のテストはパスするのである。
 私が何故「化粧」や「ヒール着用」などの「身だしなみ」や、「テーブルマナー」「ドレスコード」を蛇蝎のごとく嫌うのかといえばこういう矛盾ゆえである。どれだけ肌が傷み足に負荷がかかろうとも、「ヒールは女性らしい」「ナチュラルな化粧は女性を美しくする」なるふんわりしたイメージによって支えられた主観が物を言う、その根拠のなさが気に入らないからである。「ドレスコードを守るのは居合わせた人への敬意だ」「所作が美しいと見ている人も気持ちがいい」なる思考停止したイメージによって築かれた価値観に隷属させられることに納得がゆかないからである。「女性は身だしなみに気を遣って職場に華を添えましょう!」「結婚式のゲスト女性は明るい色のドレスを着て会場に華やかさを!」とか、女性誌やマナー指南本でしょっちゅう見るが、そんなに「華」とやらが欲しいなら職場や会場の壁といい天井といい七色にでも塗ったらいかがかと言いたい。お願いだから(こっちが頭を下げて"お願い"してやる義理なんざどこにもないんだが)お前の「キレイなものが見たいよ〜」という馬鹿馬鹿しい個人的な欲求にこちらを巻き込んでくれるなという話である。大分前の号だが雑誌ROLaのセーラームーン特集における少年アヤちゃんさんのコラムで「女の身だしなみに化粧が含まれているというのは、女は清潔さにとどまらず美しさまで社会に求められているということだ」という旨の文章があって、首がもげるほど頷いた記憶があるのだが、つまりそういうことである。美しさなんてものはあるにこしたことはないものの無くても命や健康に何ら関わることのない、個人的な欲求であり娯楽である。どういう形であろうと、それを生きた人間である私に求めるのは御免被ると声を大にして言いたい。
 ここで断っておくが、「本人が自分の意思で美しく装うこと」と「外野に強制されて美しく装うこと」は全く別物である。「美しく装うことが好き」であることと、「美しさを強要されることが嫌い」であることは当然ながら両立する。良い例えが思いつかず申し訳ないが、ピンと来ない人は例えば「面白い映画を観ることを他人に強制される」状況を想像して欲しい。誰しも面白い映画は好きだ。だがその時の気分や予定や体調によって観たくない場合もある。美しく装うことも同じだ。普段は化粧やお洒落が好きでも、肌の調子が悪くこれ以上負担をかけたくない時や、気分が乗らない日もある。そして「他人に面白い映画を観ていて欲しい」という欲求も「他人に美しく装っていて欲しい」という欲求も、どちらも科学的根拠に基づかない個人的な趣味であり好みである。そういう個人の好みを「マナー」にまで敷衍して他人に強制することがおかしいと言っているのであって、化粧やヒールそのものを断罪しているわけではない。社会通念としての化粧に怒りを表明しながら毎シーズン新作コスメの情報に心躍らせる私のような存在は、だから全く矛盾しないし、こういう女性は実際に多いと思われる。

「大変なのは女だけじゃない」という正論が新たな強制力に

 上記のようなことを語っていると、必ず出てくるのが「男だって髭剃りやネクタイ等根拠不明のマナーに縛られている、女性ばかりが大変だと思うな」という声だ。海外では髭を生やすのが当然とされている文化圏も多いし、ネクタイに至っては通気性など機能性を明らかに欠いているので、それ単独で見ればこの意見は全く正しい。私自身、髭の剃り跡に血をにじませ窮屈なスーツに身を包んで出勤していく父の姿を見ていることもあって、男性に課せられたこのような根拠不明のルールには断固反対する立場である。だが問題なのはその言葉が発せられた状況である。理不尽な社会通念に異を唱える女性の意見に反論する形で発せられた瞬間、同じく正当な問題提起としても機能する筈であったこの言葉は、なんらの状況改善に繋がらなくなるどころか、「俺だって耐えてるんだからお前も我慢しろ」という新たに私達を縛る「根拠不明のマナー」に変わる。
 何度も言うが、私は男も女も関係無く根拠なき社会の強制から解放されるべきだと思っている。私に限らず、どの女性もそうだろうと思う。私や、他の女性が女に課せられたマナーにばかり反応して怒っているとすれば、それは私自身が女だからだ。問題を肌で感じる当事者だからだ。私が「女はこんな理不尽なマナーを課せられている、理不尽だ」と主張する時、私の言葉が意味するのはその言葉がそれ以上でも以下でもない。「それに比べて男はいいよね」というありもしない文脈を勝手に補完して「辛いのは女だけじゃない!」と言う男性は少なくないが、全くそんな意図はなく、的外れだ。男性に課せられた理不尽を表明したいのなら、「女性がこんな苦役を課せられているように、われわれ男性もこういう負担を強いられている。どちらも理不尽だ、是正されるべきだ」と言った方がよっぽど的確だし、状況改善も近づく。

やっと本題、戦うべき敵を見誤るなという話

 議論が白熱してくると、さらに悪いことに、「大変なのは女だけじゃない、女に化粧があるように男だって髭剃りがあるんだ」という論点のずれた意見に対し、「女は顔だけじゃなく腕も足も剃ってるんだ」とそのずれた論点に乗っかった反論まで出てくるようになる。この当初の論点から全く逸脱した男女間の不毛なすれ違いは、要するに、タイトルで書いた通り「奴隷の鎖自慢」という言葉でまとめることができると思う。「大変なのはお前だけじゃない」「いやこっちはもっと大変だ」、このやりとりは、「大変」と判断される苦労のハードルをどんどん上げていき、結果的に双方の首を絞める。しかもいつの間にか敵が「理不尽なマナー」から「この程度で"大変だ"と騒ぐ異性」へすり替わっている。問題解決はどんどん遠のく。
 課せられた理不尽さの度合いの非対称が男女間にあるのは確かかもしれない。苦痛なんて比べるものではないが、「男は髭を剃らねばならないのだ」と言われれば、確かに女は「女は全身を剃っている」と返すことができる。だがそれは結局奴隷が鎖の重さを自慢し合うことにしかならない。「私/俺だって耐えてるんだからお前も我慢しろ」という新たな圧力を生み出す結果にしかならない。
 これをやめようよと言いたくてこのエントリを書いている。「あなたが大変なように私も大変なんだから我慢しろ」もしくは「私はもっと大変なんだから我慢しろ」ではなく、「私もあなたも大変だよね、理不尽だよね、一緒に戦おう、変えよう」という考え方をしたいと思ってこれを書いている。この窮屈な社会に包摂されて生きている以上、私達は性別関係なしに「根拠不明な社会通念」に服従させられた奴隷である。奴隷が鎖の重さを自慢し合って、「その程度の重さで"大変"とかwww」と言い合って、得をするのは、喜ぶのは、奴隷たちを鎖で繋いでいる側だ。それは理不尽な社会通念そのものであり、そしてその社会通念をよしとしているこの社会の構造だ。私達は同じ奴隷として、この敵に共闘して立ち向かっていくことができるはずだ。「男だって大変だぞ」「女はもっと大変だ」と言い合うことは、その敵から目をそらすことと同じだ。戦うべき相手を見誤ってはいけない。手を取り合って戦うべきなのだ。


2015年上半期観た映画まとめ

 本のまとめをやったからには、映画のまとめもやらんとな、ということで。

 2015年上半期を一言で表すならと聞かれたら、間髪入れず「映画」と答えるようなそんな半年だった。私はもともと映画が苦手で、だってテレビ見る習慣無いから二時間画面見つめてるだけでもう途方もなく疲れるし、読書と違ってまとまった時間取らなきゃいけないし、閉所恐怖症気味だから映画館怖いし、かといって家に一つしかない居間のテレビ占拠するのはなんか申し訳ないし、等々のごたくを並べこれまでろくに見ずにきたのだが(レンタル含め年に五本見れば良いほうとかそんなレベル)、ここでも散々書いてる通りAKB時代から応援してる前田敦子さんの出演映画が揃いもそろって名作ぞろいなうえ彼女自身も本を出すほどの(これについては前のエントリで書いた)映画好きであることや、一月ごろに親の勧めで見た『ゴッドファーザー』シリーズに体を蜂の巣にされる如くな衝撃を受けたのとで、どうもこりゃそうも言ってられんな、と観念した。元がオタク体質なので一旦決めると行動が早いもので、早速TSUTAYAディスカスに登録し、アル・パチーノジョン・カザールロバート・デニーロゴッドファーザー出演俳優の出演作から固めていって関連して70年代のアメリカ映画とかアメリカン・ニューシネマ作品だとかを片っ端から見る生活を現在も続けている。

 こうして一度「映画」というフォーマットに触れてみるとそれはとても鮮烈で重厚でエキサイティングな文化で、何故今まで親しんでこなかったのかと過去の自分を恨む気持ちさえある。ともあれ今では、かつて一時間も読んでいれば頭痛に悩まされた字幕にも慣れ、難儀していた見なれぬ外国人俳優の顔の見分けもすっかりつくようになった。少々出遅れたものの、当分この趣味は手放さぬつもりである。

 さて、上半期観た映画は53本だった。以下、なかでも印象に残った映画とその感想を。

 

 

ゴッドファーザー コッポラ・リストレーション ブルーレイBOX [Blu-ray]

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  これを語らねばはじまらない運命の一作。四枚組のブルーレイBOXを揃え、原作本を揃え、ろくに英語も読めない癖にわざわざ本国からシナリオブックを取り寄せ、と大変なはまりっぷりは現在もつづいていて、ゴッドファーザーのことを考えない日は無いと言っても過言ではない。抑制されていながら、それでいて三時間私たちを離すことなく釘づけにするドラマチックな展開、俳優たちの名演、ニーノ・ロータの紡ぐ渋みと情緒溢れる音楽、撮影監督・ゴードンウィリスの今見ても画期的な撮影技術などなど、素晴らしい点を挙げればキリがないが、私があえて言及したいのは、この作品における「女性」の描かれ方である。

 この時代(というかつい最近までそうなのだが)、とかく女性は「添え物」か「お色気要因」として描かれがちで、彼女らの内面を深く掘り下げた描写や、彼女らが積極的に動き物語に関与してくるということがもう一周回ってどうでもよくなるほど少ない。このゴッドファーザーという作品においてもそれは同様で、「男の世界」であるマフィア映画のなかにあって、マイケルの妻・ケイや、シチリアでの妻・アポロニア、妹であるコニー、娘であるメアリーらはことごとくファミリー業の「蚊帳の外」に置かれる(主人公でありドンであるマイケルが病に倒れた第三作でコニーが女ボス並みの活躍を見せているのは例外とする)。なのだが、それは単に「必要ないから」「男の足を引っ張るだけだから」「女は華を添えていればいいから」ではないところがミソで、彼女たちは徹底的にストーリーの蚊帳の外に置かれることで、逆に「ファミリー業に翻弄される被害者」、そしてなにより「暴力と某略が支配するマフィアの世界を一歩引いた地点から冷めた目でまなざす傍観者」としての立ち位置を明確に獲得しているのである。それはPART1において、夫が名実ともにマフィアのボスと成り果てたことを静かに、しかし愕然と悟ったケイの表情がラストカットに置かれていることからも明白だ。そしてPART2以降、彼女の心は「五年以内に裏稼業から足を洗う」という約束を果たさないマイケルから離れていき、二人の間に生まれた娘は、PART3のラストで凶弾に倒れる。これは父から受け継いだ仕事を全うしつつ家族の為にマフィア家業から足を洗おうと奮闘するも尽く邪魔が入り、ついにはそれまでの幸せな思い出を懐古することにしか生きる意味を見いだせなくなったマイケルの人生とリンクしており、また成りあがりで一代にしてコルレオーネ・ファミリーの基盤をつくりあげ妻や子供にも恵まれた越えられぬ父・ヴィトーの人生との対比の役割も負っている。つまりゴッドファーザーという作品は、女性たちを徹底的に蚊帳の外へ置くことでむしろ彼女たちの存在に意味を与えると言う、「添え物であって添え物でない」という立ち位置の女性たちを描いた稀な映画でもあるのだ。この映画はベクデル・テストこそパスしていないものの、「マフィア物」という題材においては珍しく、女性たちが極めて重要な立場として出演する作品なのである。だから公開当時なされたというこの映画に対する「この作品はマフィアを肯定・賛美している」との指摘は、彼女たちの存在によって既に捨象されていることがわかる。他ならぬ彼女たちが、ファミリー業を冷ややかな目でまなざすからである。シリーズ三作を一週間ぐらいかけてじっくり観て、そのことに気付いた時「すげえ!」と膝を打ったんだが、何故か言及してる人を見ないのでここに書いておく。

 

 

 

ダウン・バイ・ロー [DVD]

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  もう冒頭からすでにカッコいい。カッコいいのにどこか力が抜けている、ダラけている。あのオフビート感。「I scream,you scream,we all scream for icecream!」のくだりが楽しすぎていつか何かやらかして刑務所行きになったら是非ともやろうと決心した(笑えねえよ)。そしてあの上着を交換して別れるラスト。原題の意味は、刑務所のスラングで「親しい兄弟のような間柄」だそうで。そういう間柄には、握手も挨拶も必要ないのだ。ただ上着を交換すれば、それでいいのだ。同監督の『パーマネント・バケーション』『ミステリー・トレイン』も大好きです。

 

 

  もともと私は文庫を常に持ち歩き人気のない場所でこっそり一人芝居をやらかしだすレベルのテネシー・ウィリアムズによる戯曲の大ファンで、そのゆえ戯曲はそもそも役者が演じることを前提に書かれたものであるにもかかわらず「映像化かあ……原作のイメージが損なわれたらどうしよう……」という謎の危惧を持って見始めたのだが全くの杞憂だった。ヴィヴィアン・リーの名演はもちろんだが、若き日の粗野な男を演じ切ったマーロン・ブランドが良い。あの野生の色気といったら!!プロダクション・コードがどうたらでブランチの夫が同性愛者だったという箇所が削除されているのが気に入らんが、まあ仕方ないでしょう。

 

 

何がジェーンに起ったか? [DVD]

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  ベティ・デイビスすげえーーーっ。一級品のサスペンスである本篇もさることながら、彼女の女優魂にものすごい衝撃を受けた一作。今の若手女優って何かと天真爛漫明るく元気系☆な売り出し方をされがちだが、これ、これだよ、こういうのを見たいんだよ私は!!キレイなお人形さんが「演じる」という魔法のもとで狂気の老婆にすら変貌する瞬間が見たいんだ私は。本篇ももうとにかく「ああどうなるの……!」「うわやめろ逃げて!」「おまわりさん!あっち!あっち!」と観ながら手に汗握りまくりだった。

 

 

横道世之介 [DVD]

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  ドラマチックでも、波乱万丈なわけでもない、多分どこにでもいるカップル。どこにでもある恋愛。それがなんでこんなに心地いいのか。出てくる人たちみんなそれぞれどこか変な人たちでありいい人たちで、しかしそうでありながらキャラクター化された「変人」「善人」ではなく、それぞれ考えや思いや主義や価値観のある生きた人間として描かれていたのがよかった。この世界の延長上に自分も居るな、と思える感覚と言おうか。あえて泣きに持っていかず、ふわっと終わったのもポイント高し。こういうゆったりした映画が好きだよ。あとお嬢様な吉高由里子可愛すぎですわ。ごきげんよう。

 

 

スケアクロウ [DVD]

スケアクロウ [DVD]

 

  既に殿堂入りを果たしたゴッドファーザーを除けば今のところ暫定一位。何度見ても泣く。かかしはカラスを笑わせるんだ。アル・パチーノ演じるライアンとの交流による、ジーン・ハックマン演じるマックスの心境の変化が丁寧に描かれていてああもう思い出しただけで泣ける。何度見ても泣けるし、マックスもライアンも実在の人物のように大好きなんだけど、でも物語は淡々と進み、「泣かせる」演出やシーンがないのもポイント高い。ラストは、とある理由で精神病院に入院することになってしまったライアンの治療費に充てようと、夢の洗車屋資金として貯めていた金をマックスがデトロイトまで取りに行くため往復切符を買うシーンで終わるんだが、この終わり方がまた素晴らしい。財布の中の金は切符代には少し足りず、彼は靴の底に隠していた虎の子の十ドル紙幣をナイフでこじ開けて取りだすんだが、切符を無事手にしたマックスは、靴を直すために何度も受付のカウンターに叩きつける。彼の焦燥と、やり切れない思い、そして静かな決意が伝わってくる、素晴らしいラストカットである。アメリカン・ニューシネマの定石通り(?)、現実はままならないんだが、でも最後に小さな小さな希望を残すラストにぐっときた。数年後、マックスとライアンは、無事デトロイトで仲良く洗車屋を経営していると私は信じている(いかん、また涙が)。

 

 

ちびまる子ちゃん?わたしの好きな歌? [VHS]

ちびまる子ちゃん?わたしの好きな歌? [VHS]

 

  何と言っても選曲が素晴らしい。たまに大滝詠一細野晴臣笠置シズ子ビートルズオマージュに……ととんでもなく趣味的でハイセンスな劇中曲の数々。それらはこれまた鮮やかで斬新で温かいさくらももこワールドそのものといった映像で彩られ、さながら日本版『イエロー・サブマリン』であり『ファンタジア』である。権利の関係なのか、DVD化されていないのが惜しい。アニメ映画としても傑作であるから、是非後世にも残したいのだが。

 

 

太陽がいっぱい 最新デジタル・リマスター版 [DVD]

太陽がいっぱい 最新デジタル・リマスター版 [DVD]

 

  完全犯罪とかいう最大の難事業。トムのフィリップへの焼けつくばかりのルサンチマンに、果てしない殺人隠蔽工作。なんかどっと疲れた。ラスト、完全犯罪に酔いしれ「 太陽がいっぱいだ」と呟くトムは、前に自身が殺したフィリップの手で他でもないその太陽に背中を焼かれているんだよな。で、陶酔もつかの間、犯罪は露見すると。太陽とは常にこちらを見下ろす存在。逃れられない運命の象徴か、それとも「お天道様はお見通しだよ」ということか。原作読まなければ。しかしアラン・ドロンは本当にカッコいいですね。

 

 

裁かるゝジャンヌ クリティカル・エディション [DVD]

裁かるゝジャンヌ クリティカル・エディション [DVD]

 

  洗練の極みを尽くしたカメラワーク。醜悪さが露骨に映し出された画面の中で、ジャンヌの流す涙だけが美しい。火刑のシーンになだれこんでいくにつれかねてより感じていた息苦しさは増していき、映画が終わると放心状態で暫く動けなかった。業火に焼かれ天に昇らんとするジャンヌと、乳を口に含む乳飲み子の、生と死の残酷なまでの対比。トーキーとは異なるテンポ、小説のページを繰るような淡々としたリズムもこの映画から立ち上る神々しさに一役買っている。トーキー映画が誕生したことにより、情報を台詞で伝えられるようになり、逆に映像の持つ力を最大限発揮する努力を作り手が放棄するようになった、という指摘をどこかで読んだ気がするが、まさに「映像の力」をドカンと付きつけられた感じ。ちなみにこれ、TSUTAYAディスカスに入っておらず近所の公共図書館で観た。こんだけの名作を入れないとか、どんだけだよ。

 

 

SMOKE [DVD]

SMOKE [DVD]

 

  ポール・オースターの短編を原作に、煙草屋を軸に展開される群像劇。そこに描かれるエピソードの一つ一つは、小さな出会いの偶然を伴ってゆるやかに交差する。それらは決して劇的なわけでも大きな結末を持つわけでもないのだけれど、まさに煙草の煙の如く漂うような心地良さを残す。十年以上同じ場所、同じ時間で写真を撮り続ける煙草屋の主人を演じたハーヴェイ・カイテルの演技が良い。正直、ラストシーンで描かれるエピソードはそれほど良い話とも思えなかったのだけれど、多分この映画ではそれが正解だ。派手な登場人物や劇的な出来事に頼らないこの映画では。どこかにいそうな人々。誰にでも訪れるであろう小さな出会い。そういうもので形作られるこの世界は決して劇的になりきれず、どこか小さな瑕疵を伴う。ラストシーンで描かれる赤の他人二人の心の交流は、カメラの窃盗という小さな「ケチ」がつくことで美談になりきれなかった。だからこそこの物語のラストを彩るエピソードたりえたのだ。そしてその小さな瑕疵は、彼の十年以上続く欠かさぬ日課に繋がって、それが不運な事件で妻を亡くした作家と彼女をささやかな再開へと導く。そういう現実感、ふわっと生じてふわっと漂ったままの雰囲気が地に足を付いて生きている感じがして見ていて安心した。喫煙シーンが多いが、よくある映画のように変にスタイリッシュさを演出するための小道具としてではなく、あくまで生活に則った日常の一部として描かれていたのも好きです。

 

 

リアリズムの宿 [DVD]

リアリズムの宿 [DVD]

 

  もう最高。最高だよ。この恬淡としたリズム。平熱感。観ながらひたすらニヤニヤ。ボロ民宿で臭い布団にくるまって二人して笑うシーンではこっちまで声出して笑ったw 微妙な居心地の悪さ、盛り上がりきらない旅の情景。どこまでもリアル。この監督は毎回主題歌の選曲が秀逸。原作も読みたい。多分この二人、後々この旅を思い返しては一緒に笑うんだろうな。印象に残る出来事って、劇的だったり夢みたいな体験とは限らなくて、意外とこういう何でもないことだったりするんだよなあ。山下監督の映画は結構観ているんですが、外れが無いです。こういうリズムの映画が好きなんだなあと最近やっと分かってきたところ。ちなみに監督の作品で一番好きなのは『苦役列車』。これは今度個別にレビュー記事書く予定。……予定。

 

 

アンダルシアの犬【淀川長治解説映像付き】 [DVD]

アンダルシアの犬【淀川長治解説映像付き】 [DVD]

 

  目がああ目がああああ(悶絶)。はいえ、グロテスクを滑稽さにまで押し上げている作品は嫌いじゃない。というかグロテスクって本来生命の持つ一側面であって決して現実から遊離した概念じゃないんだが、医療や社会保障が整備され地面がコンクリートに覆われた現代においては「死」「怪我」や「虫」「動物の死体」って「非現実」、つまりシュールレアリスムの主題となりうるんだよな。だからおそらく、この映画が製作された1928年よりも、現代のほうがずっとこの映画の「非現実」的な趣は増していると思う。しかし目が……。

 

 

  リコ、お願い病院行こ?!ってなった。で、考えたんだが、彼の「死ぬのは怖い、でも医者にはかかりたくない」って哀願は、社会で虐げられた者の痛みであり、不信そのものなんだよな。おそらく幼少期から貧しい生活を強いられていて、医学に助けられた経験もなく、社会保障から取りこぼされた身としては、物質面の救済者の代表である医者には不信感と恐怖しかないのだろう。辛い。ちなみにこの映画が原点だという漫画家・吉田秋生の『カリフォルニア物語』も良いです。是非に。

 

 

  ひたすら逃げてるだけの映画だなあと思ったんだけど、彼らが逃げてるのは、彼らを包摂しようと迫ってくる「社会」であり「規範」なんだよな。そこを思うと本当に悲しくなった。ラストのストップモーションに泣いた。彼らは十中八九蜂の巣になって死んだんだけど、でも彼らの絆と、「明日に向かって撃」たんとした気骨は死なないんだよな。ということを、あの鮮烈なラストカットを見ながら思いました。アメリカン・ニューシネマの作品って、大抵どっちかかかたっぽが死んでしまうけど、両方死なせてもなお、彼らの「生」を画面に焼き付ける方法があるのか、と衝撃だった。あとポールニューマンとロバートレッドフォードかっこいい。それと馬が沢山出てきて大変可愛うございました。ありがとうございました。

 

他にもいろいろ観ましたが、特筆して語りたいのはこのぐらいです。下半期も良い映画に沢山出会えることを願って。