2020新作映画鑑賞総括

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2020年が終わった。

誰にとっても、等しく未曾有の一年だった。

一月に中国ではじめて確認された新型コロナウイルスは、瞬く間に世界各国へ広がった。ここ日本でも晩冬あたりから本格的に感染者数が増大し、コンサートなどのイベントは中止に、学校は休校に、仕事はリモートに切り替わり、ドラッグストアからはマスクが消えた。予定されていたオリンピックは延期となり、国民的コメディアンの訃報が世間を揺るがした。政府は緊急事態宣言を発令し、不要不急の外出が強く呼びかけられた。コロナの勢いは2021年に突入した今も未だ収束を見せず、毎日驚くほどの感染者数がテレビやネットで報じられ、人々は感染の不安に怯えながら、「ウィズコロナ」の生活に必死で適応しようとしている。

誰もが等しく恐怖し、疲弊し、打撃を受けた。経済的に立ち行かなくなった企業や飲食店も数多い。

そしてそれは、映画館も例外ではなかった。

特にミニシアターへの経済的打撃は凄まじく、有志の手によって「ミニシアター基金」が立ち上げられ、また各ミニシアターも、独自に援助を募った。

当たり前に通っていた大切なミニシアターが、いま存亡の危機にある。……あの時の不安感といったらなかった。私もできる限りの支援を行なった。宣言が解除され、再び無事に映画館へ訪れることができた時の安堵、嬉しさは今も忘れられない。

そう、コロナ禍でも、私の心に寄り添ってくれたのはいつも映画だった。マスクを着用し、ブランケットを持参し、入り口に設置されたアルコール消毒で手をヒリヒリさせながら、真っ暗なシアターの席に沈み込み、私は映画を観た。たくさん観た。

11月後半あたりからまた本格的に感染者数が増大し、個人的に外出を最低限まで控えるようになったので、悔しいことに12月公開の映画は一本も観ることができなかったのだが、健康には変えられない。仕方がないと納得している。

ということで、2020年新作映画鑑賞本数は79本。この中から特に良かった10本を選出した。それぞれ順番にコメント付きで紹介したい(一部、当時の感想を加筆修正している)。

 

10.「追龍」(香港)

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イギリス統治下の香港を舞台に、実在したマフィアと汚職警察の盛衰を描いた実録映画。

ドニーさんとアンディ・ラウW主演の香港ノワールということで、好きな要素しかない! と一も二もなく観に行った作品。レイトショーで行ったらギリギリまで私以外誰も入って来ず、「こんな熱量の高そうな映画を一人で観るのか……?」と思っていたらギリギリにおじさんが一人やってきて、しかも私と同じ一列目だったのがもうまず面白かった。突如生まれた謎の連帯感。ロビーにしれっと主演お二人のサイン入りポスターが飾られており、いたく興奮したこともよく覚えている。

この映画、語り口はあまり巧いとは言えず、変なところに説明を割いたり、かと思えば終盤やけに駆け足気味になったりで、正直損をしているなと思わなくもなかったのだが、もうとにかく男二人の絆が凄まじく、心熱くし、最後はさめざめと泣かされた。

かたや英国人警視からの暴行から救われ、かたや対立する人物・勢力から足を犠牲にしてまで助けられ、と窮地を救いあった間柄の、チンピラから麻薬王へ成り上がったドニーさん演じるサイホウと、持ち前の世渡りのうまさとマフィアとの癒着で出世街道を上り詰めていく汚職警官アンディ・ラウ演じるロック。互いへの恩義から始まったこの友情が素晴らしいのである。さまざまな思惑や世の流れに翻弄され、二人の間には次第に疑心暗鬼が生まれてくる……のだが、この関係は、同じくマフィアと刑事の絆を描いた名作「フェイク」を想起させる、なんとも心憎いラストシーンへと着地する。私は後半あたりからもうずっと、お願いだからこの二人が決裂してしまわないでくれ、そんな悲しいことにはならないでくれ……と祈りながら観ていたので、あのラストの会話は感慨深くてたまらなかった。元々個人的にマフィア映画が好きなのもあるが、それにしてもれっきとした悪人であるはずのこの二人の友情の不変をなぜここまで願ってしまうのか、といえばやはりこの誰もが知る名優二人の演技力だと思う。またセットも撮影も作り込まれており、汚れた薄暗い路地の水溜りや硝煙と血の匂いまで漂ってきそうな臨場感があった、これもこの映画を支えた大きな屋台骨であったろう。パンフレットをパラパラと読み返しながら、互いを疑いの目で見つつも、その潔白と繋がりを誰よりも信じたかったのは他でもない本人たちだったのだろうと考えていたら、なんだかまた泣けてきた。

 

9.「ハスラーズ」(アメリカ)

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ストリップダンサーらがウォール街の裕福な男たちから大金を巻き上げた、これまた実在の事件から想を得た作品。

ジェニファー・ロペスをはじめとする、とんでもなくゴージャスでセクシーな女たちがひしめき合う絵面だけでもうベスト確実だった。大スクリーンで輝く女たちの美! 美! 美! サイコー!!! 

……と、観てる間はひたすらファビュラスマックス!(©️時籠ゆり)というテンションだったのだが、帰宅してパンフ読みながら色々思い返せば、丁寧に描かれていた彼女らの友情や、子を持つ母親としての想いがどっと流れ込んできて万感の思いに襲われ、まさしく一粒で二度も三度も美味しい映画であったなと。

コンスタンス・ウー演じるデスティニーと、J.LO演じるラモーナの友情は、「追龍」で描かれたそれと全く同じだ。生きるため、生き残るために築き、次第に唯一無二の関係となっていく友情。しかし自分や家族を守るために、そして己の犯した所業と時代のうねりに翻弄され、形を変えられてしまう友情。でも根本のところでは、決して変わらない友情。大切に仕舞ったままの写真。

「母親ってイカれてる」という台詞が今も忘れられない。子供のためなら全てを捨てられるよね。そう言い合いながら築いた絆を、子供のために手放さなくてはいけない彼女たちの境遇……。これを書いている今、日本では聡明な高校生たちがファミリーマートの「お母さん食堂」というラインナップ名を「旧弊な性役割規範に基づいている」とし鋭く批判しているのだが、この映画で描かれている「お母さん」の苦悩も同じ問題が根っこにある。産む性(これは身体機能上仕方ないのだが)、育てる性、家に入る性、「母親らしく」いることを社会に求められる性……。それは時に雇用の難しさだったり、男性と比べた時の教育の行き届かなさだったりといった面で表出してくる。彼女たちはプライドを持ってストリッパーをやっているし、その姿はとても美しいのだけれど、お金や舌なめずり顔と引き換えに自分の体が消費されていくのは、きっとたまにすごくやりきれないだろう。そのやりきれなさに、同じ道を子供には歩ませたくないという思いが加わって彼女たちを犯罪に駆り立てたことを、決して忘れてはいけないと思う。

そうそう、この映画のパンフレット、J.LOと監督(女性である)へのインタビューが掲載されているのだが、海外女優へのインタビューにありがちな「〜だわ」「〜なのよ」といった古臭いジェンダー観に基づいた口調ができる限り排除されており(残念ながら全部ではない)、おっ、と思った。

 

8.「37セカンズ」(日本)

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下半身付随という生まれ持った障害ゆえに車椅子生活を送る女性が、さまざまな人々と出会い自らの人生を切り開いてゆく傑作。

タブー視されている、というか「ないことになっている」、「障害者と性」、特に「若い女性障害者の性」を足掛かりとして、一人の女性の成長譚をやり切ったのが本当にすごい。観点が鋭すぎるし、それを描く上で演技にも脚本にも一切の逃げがない。真っ向からテーマにぶつかっている。

ここで少し私の話をさせてもらいたい。この名義でこの事をカミングアウトするのは多分初めてなのだが、私は精神障害者である。精神科系の厄介な病気を抱えていて、実際に障害者手帳も取得している。この映画の主人公が「見える障害」であるのに対し、精神障害は基本的に「見えない障害」である。私はこの映画を観て「見えるからこそ大変なことはこんなにあるのだ」と気付かされたのだが、それと同じくらい、見えない故の大変さも、またある。

数年前、外出先で具合が悪くなり、近くにあった交番に助けを求めたことがあった。震える手で鞄から頓服薬を取り出し飲む私の姿を見て、「何か病気を持ってるの?」と尋ねてきた警官に、これこれこういう病気で……と説明をすると、彼は、「ふーん、でもそんな風に見えないけどね。受け答えがしっかりしてるし、オシャレだし、化粧も綺麗だし」と言った。

そのとき、私は、「ああ、この人の世界には、受け答えがしっかりしていなくて、身だしなみに気を使うことができない障害者しかいないんだな」と思った。それは知り合いにいるとかいないとかの話ではない。「そうじゃない障害者もいると夢にも思っていない」と言うことだ。もちろん知らないことは悪いことでも恥ずかしいことでもないし、私の存在をきっかけに学んでくれたらありがたいな、とは思ったけれど、それ以前に、なんだかひどくがっくりきてしまったのを覚えている(これは相手が警官という立場だからこそ余計にかもしれない)。

健常者が十人十色であるように、障害者も人の数だけ気持ちがあり、在り方がある。性にも興味を持つし、自分の世界を広げたいとも思う。それをうまく言葉にできる人もいればそうでない人もいるし、オシャレだったりそうじゃなかったりする。

主人公ユマを演じたのは、自らも車椅子の障害者当事者である、演技初挑戦の女性・佳山明さん。彼女の演技は本当に素晴らしかった。ナチュラルで、なのに表情やセリフのひとつひとつが雄弁。脇を固める大東駿介さんや渡辺真起子さん、渋川清彦さんの演技は言うまでもない。佳山さんには今後もぜひ女優業を続けてほしいと思う。何度も述べた通り、障害者は、フィクションの中にも外にも当たり前に居るのだから。

 

7.「彼らは生きていた」(イギリス/ニュージーランド)

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不思議なドキュメンタリーである。第一次世界大戦の前線で戦う、英国軍の当時の映像を延々流し、そこに実際に戦闘に参加した軍人のインタビュー(ナレーション?独白?)が被さっている。99分間、徹頭徹尾それだけの映画だ。ストーリーも山場も、オチさえ特にない。

それなのに何故だろう。全く目が離せなかった。

「彼らは生きていた」というタイトルが重い。原題は「They shall not grow old」。こちらも重い。戦争で無惨に死んでいった彼らは、当たり前のようにスクリーンに映し出されていた死体たちは、家も家族もあって、恋人も友人もいて、夢も仕事もある、戦争さえなければ「生きていた」なんて過去形で語られるはずじゃない若者たちなのだ。「grow old」するはずだったのだ。

本筋とは全く関係ないが、みんなそれはそれは頻繁に紅茶を飲むので、イギリスとは本当に紅茶の国なのだなと驚いた。水じゃないんだ、ちゃんとお茶入れるんだ。

 

6.「マルモイ ことばあつめ」(韓国)

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朝鮮語が禁じられた日本統治下の朝鮮で、母国語の辞書を作るため奮闘した人々の姿を描いた傑作。

命の危険をも飲み込み、膨大な時間と労力をかけ母国語を護ろうとした主人公たち。韓国は、大戦後自国の言葉を取り戻した唯一の国なのだそうだ。日本人が犯した悪行を悔悟しつつ、「ことば」が持つ力と価値を改めて学ばされた二時間だった。

文字が読めなかった主人公・パンスは、辞書編纂の過程で文字を覚えることで自身の世界を大きく広げてゆく。小説を読んで涙を流し、その様子を見たジョンファンと一気に打ち解けたり、通りがかる店の看板を片っ端から読み上げたり。「ことば」を知る、持つ、使う喜びに溢れた、象徴的なシーンだ。「ことば」とは、アイデンティティや文化、何より喜びと切っても切れないものであるということが、これだけの描写で、どんなに台詞を尽くすより雄弁に語られる。だからこそその宝を簒奪しようとする日本人の残忍さも、彼らから母国語を守ろうとした主人公たちの情熱も、強い説得力を持って胸に届く。

危険を顧みず母国語を守った彼らの信念は素晴らしい。だが本当の理想は、リスクを取らずしても大切なものを大切にできる世界だ。本当に良い世界を志向するなら、私達のするべきは、だから彼らを徒に美化する事ではなく、良い未来を阻む者に対し毅然と立ち向かい、NOを突きつける事にあると感じた。

「一人の十歩より十人の一歩」という台詞が作中に登場する。一部の所謂富裕層、ホワイトカラーだけが力を付けたとしても世の中は前進しない、と。現代日本にも適用できそうなフレーズだ。それこそ上野千鶴子先生の東大祝辞のような。オム・ユナ氏の作品はいつも、現実に即している。

「問題に無知・無関心であった主人公が徐々に正義に目覚め行動する」という大筋は、オム・ユナ監督が以前脚本を手がけた「タクシー運転手」と同様だが、今作は更に踏み込み、「未来への継承」というテーマも盛り込んでいた。そして手紙で子どもに思いを伝えられるのも、「ことば」あってのことなのだ。

「タクシー運転手」もそうだったが、オム・ユナ氏の手がける作品は、観賞後、ずっしりと重い大切なバトンを手渡された感覚になる。それは誰かの文化やアイデンティティを奪ってはならないという過去からの学びでもあるし、己のそれを守らねばという使命感でもある。

「同志」であるパンスとジョンファンの凸凹コンビっぷりも観ていて楽しく、またクライマックスは大きな感動を誘う。娯楽性と社会性が絶妙なバランスで成り立っており、アンコール上映がなされたのも納得の素晴らしい映画であった。

 

5.「静かな雨」(日本)

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足の悪い青年と、たい焼き屋を営む記憶障害を持つ女性の、静謐で美しい恋愛映画。

この映画では、とにかくこの二人が「並ぶ」ショットが印象的に反復される。サン=テグジュペリ箴言に、「愛するとはお互いが見つめ合うことではなく同じ方向を見つめることである」というものがあるが、なるほど、この映画に照らし合わせるとしっくりくる。仲野太賀さん演じる行助は足に障害を背負いつつも大学に勤めているし、衛藤美彩さん演じるこよみも、事故により記憶障害を抱えてもたい焼き屋を続ける。それぞれハンディキャップを抱えながらも、二人はちゃんと自立しているのだ。そんな二人が共に人生を歩もうとした時、向かい合うのではなく隣に並ぶのはきっと必然だし、そこにあるのは、依存や傷の舐め合いではなく、前を向いて未来を切り開いていく関係以外の何物でもないだろう。

しかし仲野太賀さんはどの映画でもどの役でも本当に素晴らしい演技をするなと思う。今一番追いかけたい俳優だ。衛藤さんも映画初出演とは思えぬ安定した演技力で、印象に残った。太賀さんを向こうに回して、全く拙い面がない。もっと彼女の演技が見たい。

私は冬がとにかく嫌いなのだが、二人が今頃どこかで並んであつあつのたい焼きを頬張っているかもしれないと思うと、不思議と許せる気がする。作中に出てくる、あんこがはみ出して少し焦げたたい焼きが美味しそうすぎて忘れられない。

 

4.「生きちゃった」(日本)

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私は相当石井裕也監督作品が好きらしい。去年も「町田くんの世界」がベスト1だったし、彼の映画に打ちのめされたり魂が震えたりしなかったことがない。相性がいいのだろうか。

この作品は彼の「原点回帰」らしい。なるほど、決して洗練されてはいないが、その分剥き出しの、力強く泥臭いまでのエネルギーが横溢していた作品であった。

正直シナリオ自体は、石井監督のフィルモグラフィーの中で飛び抜けて巧みだとも強度が高いとも思わなかったのだけれど(テロップで「半年後」と時間を進めていくやり方は相当に雑で無粋だと思う、小説ではなく映画なのだから映像で提示するべきだと思うのだが)、とにかく作品そのものの熱が凄まじい。役者陣の演技も凄まじい。私はこのエネルギーに完全にガツンと殴られてしまった。圧倒された。特に大島優子がすごい。ベッドシーンなど、わかりやすくハードなパートを多く割り振られているというのもあるが、全編を通じてシアター内の空気さえ震わすほどの気迫があった。そういえば話は逸れるが前作「町田くんの世界」には前田敦子が出ていた、石井監督は本作をもってAKB48最盛期のツートップを両方自作で起用したことになる。ファンとして嬉しい限りだ。

そしてやはり、ラストシーンである。「英語だと、すらすら本音が言える」。「言おうと思っても、なんでだろう。声が出ないんだ。日本人だからかな」。仲野太賀さん演じる厚久は作中でそう繰り返す。彼は心の中に本音を仕舞い込んで、全部黙って受け入れて生きてきた。妻の小言にも、不倫にも、実の子供と引き離されたことに対してまでも。そんな彼がはじめて、ちゃんと気持ちを言葉にするのだ。言ったって何も変わらなくても。今更どうにもならなくても。あの嗚咽。表情。震えた。

出来のいい、「うまい」映画はいくらでもある。「面白い」作品も。だが、これだけのパワーを持った映画はなかなかない。好みは分かれると思うが、私は好きだ。大好きだ。

そうそう、この映画、パンフレットが充実の極みだった。値段こそ千二百円と高額なものの、まず分厚さからして一般的なパンフレットの三倍はゆうにある。インタビューなどの文字もこれ以上ないほど細かく、情報量がぎっしり。何より監督の撮影台本(監督本人による詳細な書き込み付き)がまるまる載っかっている。劇中歌のデータ配布までつくという太っ腹ぷり。本当に観に行ってよかった、と心から思える映画だった。

 

3.「破壊の日」(日本)

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ぶっちゃけ、意味は分からない。だがこの映画はそれでいいのだと思う。芸術は、「鑑賞するもの」と「体感するもの」の二つに分けられると思うのだが、この映画は明らかに後者。冒頭の、怒りと禍々しさの権化のような地響きにも似た重低音からもそれが分かる。60分と短いし、あらすじや予告からも起承転結のあるストーリーラインを持つ映画では決してないのだろうと想像できる故、劇場で観るかは正直かなり迷ったのだが、行ってみて正解だった。あの“音”は映画館じゃないと出せない。2020年に公開される新作がなければ、という監督の言葉は本当だった。

スクランブル交差点でのシーンは唸った。コロナ情勢下でゲリラ撮影されているゆえ、道行く人々が全員マスクを着用しているのだ。ある意味作中の何よりも異様な光景なのだが、私達は既にその非日常が日常となった世界線へ来てしまった。

それは確実に今しか撮れない画だし、プリミティブな怒りという本作のモチーフが偶然ではありながらより深化している。また、逆に、「リアル」や「普通」という概念が崩壊してしまった今の情勢をカメラに収め、難解なりに意味を与えることで、恐怖心の中暮らす観客の心を救い、祓ってくれたという印象。フィクションが人の心を救うというのは、きっとこういうことなのだろうと思うし、数多ある媒体の中でも、最も具体的に情報を活写する映画というフォーマットでそれをやってくれたのがとても良かった。難解ながらどこか清々しい後味の映画。人間、癒しばっかじゃなく、たまには怒りに駆り立てられることも必要なのだ。

 

2.「ブラインドスポッティング」

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海外のニュースで悲しいことに時たま耳にする、白人警官による黒人への発砲事件を題材に、人種問題に軽やかに、しかし鋭くメスを入れた傑作。単純に一本の映画としての完成度もとにかく高い。笑いと緊迫感、緩急の付け方とそのバランスが素晴らしい。

さて、ルビンの壺、をご存知だろうか。一枚の絵が、見方によって、壺にも向かい合う人間の顔にも見えるあれだ。「ブラインドスポッティング」、それは「盲点」のこと。壺として見ている時、私たちは人間の顔を知覚することができない。黒人の感じている恐怖を、黒人から見える世界がどんなものかを、白人が本当の意味で理解することができないように。なんと鮮やかな問題の提示の仕方であろうか。しかもこの映画はそれだけでは終わらない。ルビンの壺がそうであるように、逆も然りなのだ。黒人社会で生まれ育った白人の感じる居心地の悪さを、黒人である主人公が理解できる日は来ない。

私はどちらかというと白人であるマイルズのしんどさに共鳴してしまった方だ。ツッパっていないと、黒人のコミュニティの中で「余所者」扱いされるのでは無いかという恐怖。命の危険とは比べるべくもないけれど、本人からしたら一大事だ。なまじ世間では白人が圧倒的強者であるだけに、その苦悩を理解されることも少ないだろう。

この映画を観ていて、一部で「グリーンブック」に集中した批判を思い出した。私は「グリーンブック」も好きだ。あれはあれで、可能な限りの誠実さを追求していると感じたし、そもそも人種問題のゴールは、「黒人であることで迫害されない」ではなく、「誰もがどんな理由があろうと迫害されない」ことにあると思うからだ。だが本作を観て、少し考えが変わったように思う。己の抱えるマイノリティ要素によって、命をも脅かされる危機を感じている人にとって、「グリーンブック」の「チキンの美味さに人種なんて関係ないよね!」というある種の無邪気さは、マジョリティの傲慢と盲目にしか映らないのではないか、と。「誰もがどんな理由があろうと〜」はその通りではあるが、しかし今現に迫害されている/される危機に瀕している黒人側からしたら、「じゃあまず今現に存在している黒人への迫害をやめろ、話はそれからだ」としか思えないのではないか、と。

結局想像力と学びが一番大切なのだろうと思う。いろいろな立場に立つ、いろいろな人の気持ちを想像し相手の視点に立つよう努めれば、ある程度問題は見えてくる。解決方法も。でも自力でルビンの壺のカラクリを解ける人間はどこにもいないから、想像力を正しく使うために、学ぶことを絶やしてはならないのだろう。

 

1.「娘は戦場で生まれた」(イギリス/アメリカ/シリア)

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2020前半でもベスト1に入れた映画。これを超えるものに今年は出会わなかった。

激しい内戦が続くシリアの都市アレッポ。カメラを手にするのは、ジャーナリズムに憧れた一人の女性、ワアド。彼女は医師を志す男性と出会い、結婚。やがて一人の子を宿す。子供の名前は、サマ(アラビア語で“空”の意)。ワアドは幾度も迷いながら、それでもカメラを回し続ける。廃墟で区切られた戦闘機飛び交う空が、鳥が歌い月が眠る空に変わることを願いながら。愛する人たちの生きた証を留めるために。

印象的なシーンしかなかった。今もたくさんの情景が脳裏に浮かんでくる。血で真っ赤に染まった床。顔じゅう血だらけの子供達。「家族は?」と聞かれて、「死んだ」と答える幼い子供。死んだ子供や、孫の遺体に取り縋る女性たち。二度と忘れられない。

とりわけ印象的だったシーンが二つある。

一つは、大怪我で運び込まれた妊婦の姿。急遽帝王切開をすることになった。取り出された赤ん坊は、息をしていない。沈黙したままの赤ん坊に、医師は懸命にマッサージを施す。まだ泣かない。まだ泣かない。もう駄目なのではないか? それでも医師は諦めない。……泣いた! 少しずつだが産声を上げはじめた赤ん坊。シアターに座った全ての観客が、止めていた息を同時に吐き出した。ワアドさんによるナレーションが、母子ともに無事だと伝える。無数の命が一瞬で失われゆく中で産まれた一つの小さな命だ。

そして、忘れられないもう一つは、亡くなった子供に取り縋る母親の後ろ姿。母親は、ワアドさんがカメラを回していることに気づく。「撮ってるの?」取り乱しながら尋ねる母親。抗議するのかと思ったら、違った。母親は「全部撮って!」と叫んだのだ。明らかに異常なことが毎日行われている。愛する子供は腕の中でもう息をしていない。この惨状をどうか記録して。世界中に突きつけて。これでいいのかと。これは許されるのかと。自分と家族の命を守ることで精一杯な市民たちが、ワアドさんのカメラに怒りとSOSを託したのだ。そしてその映像は、すでに私たち観客にも託されている。

「この殺戮が世界中に報道された、でも何も変わらない。世界がこんなことを許すなんて」という内容のナレーションもあった。もう、それはそれはハッとさせられたものだ。シリアの内戦は私もニュースで知っていた。世界の飢餓人口の多さも、難民問題も、信じられない低賃金で働く子供達のことも。でも今まで私は何もしなかった。

シリアの人々の悲鳴がワアドさんの手によって託された今、自分に何ができるのかと考え、いろいろ調べて、特別定額給付金の一部を、国連に寄付をすることにした。この寄付は、少額ながらも今も続けている。

私には国を動かす権力はない。医学の特別な知識があるわけでもない。語学もからっきしだ。だから当面私にできることは寄付くらいしかないのだけれど、映画に、それも当事者の手からなる作品に、こうして具体的に背中を押されたのは全くの初めてで、そういう意味でもこの映画は印象深く、忘れることができない、今年ダントツで一位の作品となった。

 

 

まとめ

というわけで2020年新作映画鑑賞総括、終了です。大変長々と失礼しました。旧作ベストもやろうと思ってたのですが、旧作だけで150本以上となっており、選出がかなり難しいため、新作のみとさせていただきます。今年はまだ当分映画館へ行けそうにないので、代わりに古典映画を攻めていこうと思っております。

 

今年も素晴らしい映画との出会いがたくさんあることを願って。

 

 

「アルプススタンドのはしの方」感想

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 映画「アルプススタンドのはしの方」を観てきた。以下感想を。

あらすじ

夏の甲子園1回戦に出場している母校の応援のため、演劇部員の安田と田宮は野球のルールも知らずにスタンドにやって来た。そこに遅れて、元野球部員の藤野がやって来る。訳あって互いに妙に気を遣う安田と田宮。応援スタンドには帰宅部の宮下の姿もあった。成績優秀な宮下は吹奏楽部部長の久住に成績で学年1位の座を明け渡してしまったばかりだった。それぞれが思いを抱えながら、試合は1点を争う展開へと突入していく。(映画.comより引用)

 

あらすじにもあるように、甲子園を舞台にした青春映画なのだが、この作品が他とひと味違うのは、「主役」であるはずのグラウンドが一切映らず、どころか応援席のまっただ中すら映し出されることはなく、タイトル通りアルプススタンドの隅っこのみでほとんど話が進行してゆく点である。

なんでもこの映画はもともと高校演劇を原作としているらしく、演劇の世界ならではの制約が逆にワンシチュエーションの会話劇を生み、また学校で文字通り「はしの方」の立ち位置にいる、言ってみれば「きらきらしてない」登場人物たちにフォーカスを当てることで独特のドラマを演出するという仕上がりになっている。

これは多くの人が既に指摘していることだが、その点において本作は映画「桐島、部活やめるってよ」を想起させるし、個人的には、「大きなイベントのなかのごく限定された登場人物だけに焦点を当て、別段ドラマチックな出来事は起こらないながらも、人間関係やそこに居た人々の気持ちの変化を丹念に活写していく」という点で、恩田陸による小説「夜のピクニック」の読後感を大いに喚起させられるものがあった。

 

 「自分」が見つかる青春映画

王道青春映画は、いつもまぶしい。胸を焦がすような恋心や、すべてを捧げた部活動、強く結ばれた友情。憧れるけれど、そこに私(筆者)の居場所はなかった。でもこの映画には、確かに私がいたのだ。

 私の大好きな漫画「バーナード嬢曰く。」(施川ユウキ/一迅社)の最新刊に、こういう台詞がある。

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読者にそう思わせるのが文学の力というが

まるで僕のために書かれたような小説

 そういえばこの「バーナード嬢曰く。」も、図書室に集う読書好きの高校生たちが繰り広げる「きらきらしてない」青春漫画なのだが、それはそれとしてこの台詞、たぶん映画にも適用できる。「まるで僕(私)のために撮られたような映画」

そう、「アルプススタンドのはしの方」は、まさにそういう映画なのである。「桐島」でも多くの映画ファンが自身の学生時代を回顧していたが、本作も同様だ。この映画を観て、そこに自分を、またはかつての自分を見出さない観客は少ないのではないだろうか。「はしの方」にいた人間なら特に、この映画のどこかに自分を見つけるだろう。

少し私の話をする。

この映画のどこに自分を見つけるかは人それぞれだと思うが、私の見つけた「自分」は、学年トップの優等生・宮下(中村守里)だった。

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↑この子。

彼女は高校入学してから常に成績は学年トップ。だが人付き合いは苦手で、成績も、学年一位の座を吹奏楽部部長・久住(黒木ひかり)に奪われてしまったばかり。それだけでなく、密かに思いを寄せていた野球部の名ピッチャー・園田が久住と交際していることを知ってしまう。

私は最初から最後まで、この宮下に感情移入しっぱなしだった。というか、勝手に自分を重ねていた。私は学生時代、宮下みたいな子だった。

こんなに美人ではないし、学年トップなんて夢のまた夢(成績はよくて9、大体が7か8だった)、加えて女子校だったので好きな男子もなにもなかったが、人付き合いが苦手で、いつもだいたい一人だった。

休み時間、周りが机をくっつけて所狭しと弁当を広げる横で、私はひとり自分の席で弁当をかきこみ、そのあとはずっと本の世界に没頭していた。読書が好きだった。クラスメイトより、図書室の司書さんとのほうが仲がよかった。それでもたまに、田宮みたいな子が話しかけてくれて、それは不思議と嫌じゃなかった。作中に、「友達ともっと仲良くしたらどうだ」と先生に言われ、「友達っていなきゃだめですか?」と宮下が返すシーンがあるが、いつも一人でいる私を心配してくれた先生に全く同じことを失礼にも言い放ったことがあったし、冒頭、安田が宮下について「英語の授業でペアになったんだけど、全然会話がなくて……」というようなことを話すのだが、私も、私に対するまさに一言一句違わぬ陰口をたまたま聞いてしまったりもした。「はしの方」どころか、「一番はし」にいたのである。

 

本当は「はし」も「真ん中」もない世界で

 私は自分を「一番はし」だと思っていた。周りもおそらく同様の評価を私に対し下していただろう。それはある意味ではまったく正しい。輪の中で友達とわいわいと過ごしていた「みんな」と、その外れでひとりで読書に夢中になっていた「私」。その立ち位置の座標は揺らぎようもない。

だが本当にそうだろうか? 私は「はし」で、みんなは「真ん中」。それだけだろうか?

中盤、宮下は(書いている内に自分を彼女に重ねるのが申し訳なくなってきた、彼女は「はしの方」にはいてもさすがに「一番はし」ではないだろう)、久住に自分の思いをぶつける。「久住さんは私の持ってないものを全部持っている」と。輝けない自分と、友達や恋人に恵まれ、いつも中心にいる久住。しかしそんな久住は同じくらい痛切な響きでこう言い返す、「真ん中は真ん中でしんどいの」と。

久住の発言は、宮下にとっては青天の霹靂のような激白であったろう。でも私は、宮下に自分を重ねながらも、「真ん中は真ん中でしんどい」ことを知っている。これは本当だ、なにしろ当事者の生の言葉を聞いたのだから。また私の話をする。

高校二年の修学旅行の夜のことだ。校外学習の夜といったら、部屋割りが生徒の自由に任されていない限り、いかに先生に見つからず仲の良い友達の元へ部屋を移動して夜を明かすかが最重要課題だと思うが、この年は先生の監視が特に厳しく、生徒間では、割と早くに諦念の空気が流れ、同じ部屋に割り当てられた者同士で一期一会の夜を楽しみましょう、という雰囲気になっていた。早く寝たかった私は会話に混ざることもなく、さっさと布団に横になっていたが、おしゃべりはもちろん聞こえてくる。そのなんてことない語らいの内容が、当時の私には衝撃だったのだ。

「なんでAとBはCさんの指揮が気に入らないの?Cさん頑張ってやってるじゃんね」(合唱コンクールの時期だった)

「私Dさん苦手なんだよね、同じグループにいつの間にか入ってきちゃったからやりづらい」

「Eさん一時期仲間はずれにされてたじゃん、あれ気の毒だった。話しかければよかったな」

 私は、「わたし」と「みんな」がいると思っていた。端っこにいる一人の「わたし」と、仲よさげな「みんな」。でもそうではなかった。「わたし」と「みんな」ではなく、「わたし」と「あの子」と「あの子」と「あの子」……がいるだけだった。「みんな」のなかにはたくさんの「あの子」がいて、「みんな」という大きな主語ではとても括れないのだった。それぞれ、仲の良い子がいて、苦手な子もいて、誰かに気を配ったり、時には居心地の悪い思いをしたりしていたのだった。楽しいときも、しんどいときもあるのだった。もちろんそんなこと普通の人は当たり前に知っているのだろうが、当時の私はあまりに周りに関心がなかった。「わたし」と「わたし以外」の間には壁があって、壁の向こうのみんなはいつも誰とでも仲がいいのだと思っていた(盲目に過ぎる)。

私の高校はそこそこの進学校で頭が良かったからかみんなモラルがあったし、女子だけだからか、「スクールカースト」と呼べるほど確固とした序列はなかったが、もちろんクラスはいくつものグループに分かれていたし、このグループは他に比べて派手だよなあとか、ゆったりした階層はやっぱり存在していた。けれどこの夜は、色々なグループの色々な階層の子たちが一つの部屋に集められて、私は後ろを向いて寝たふりをしながら、色んな本音を聞いた。聞くたびにびっくりした。

 「スクールカースト」という言葉はここ数年でもう世間にすっかり浸透した感があって、その言葉が当たり前にそばにある環境でサバイブしなくてはならない今の学生はさぞ大変だろうと同情するが、まるでルビンの壺のように、少し視座を変えてみるだけで、あんなに恐ろしかった「スクールカースト」はすっかり雲散霧消し、十人十色、それぞれ違う人間たちが見えてくるのだ。成績とか容姿とか、序列は付けようとすればあるけれど、そしてそれからは逃れられないけれど、でもその前に、人数と同じだけの種類があるのだ。

 もう一度問う。私は「はし」で、みんなは「真ん中」。分け方はそれだけか? その区分、果たしてそれだけが真実なのか?

 

「はし」と「真ん中」の破壊の到達点としての、「ナイス演奏!」

この映画で私が一番好きなシーンは、宮下が久住を「ナイス演奏!」と称える場面だ。実際、この映画の白眉であろう。あの瞬間、あの二人からは「はし」とか「真ん中」だとかいうくだらない概念は綺麗に消え去り、ただただ対等でシンプルな「わたし」と「あの子」になり、それぞれの青春に刻まれるであろう輝きのみがそこに残る。

「はし」と「真ん中」という二項対立をタイトルと序盤で提示しておきながら、ストーリーを進めていく途上で丹念にそれを破壊してゆく手腕の美しさ、巧みさ。あの「ナイス演奏!」は、その最終到達地点であり、破壊の成功を高らかに告げるファンファーレで、だからこそ感動を誘うのである。

ただこのシーン、ちょっと唐突に感じることも確かである。「真ん中は真ん中でしんどいの」という言葉の真意を理解するにはもっと二人の間にコミュニケーションが必要な気がするし、失恋から立ち直り恋敵を認められるようになるにはいささか短時間にすぎる。宮下はなぜ自分の気持ちを吹っ切って久住にエールを送ることができたのだろうか。

私が思うに、吹っ切ったからエールが送れたのではないのである。逆だ。「ナイス演奏!」を言えたことが、失恋を吹っ切るためのブースターとなるのである。”久住を認められる自分”を無理矢理にでも作って、嫉妬や引け目といった感情に蓋をする。一見ただの誤魔化しだが、とても度胸の要ることだし、自分の気持ちを吹っ切ろう、昇華させようという動機なしではできないことだ。何がどうであろうと辛い感情に折り合いを付けて生きていかねばならないのだし、案外嘘が誠になったりもする。なにより、久住から差し出されたスポーツドリンクを受け取ろうともしなかったあの時の宮下を思い出して欲しい。ポジティブさと勇気を身につけた少女の姿が、そこにはある。

 

 循環する「がんばれ」

 また私の思い出話になって恐縮なのだが、小学校の頃、運動会の応援練習の時間、一人の男子が「応援の声なんて徒競走や騎馬戦頑張ってる奴に聞こえるわけないじゃん! それどころじゃないもん!」と大声で混ぜっ返したことがある。案の定彼は先生にきっちり絞られていたけど、私は内心そうだよなあとその言葉に頷いていた。

作中、英語教師で熱血漢の厚木先生は、時折安田たちのもとにやってきては、「もっと声出して応援しろよ!」と叱咤する。そして自ら見本を見せるように、大声で、血を吐くまで「がんばれ」と叫ぶ。

でもきっと、その声は試合中の園田にも矢野にも聞こえていない。「それどころじゃない」からだ。安田たちが最後まで応援を放棄したとして、「今日は応援席、声出てねえな、やる気出ねえな」なんて思うわけがない。

じゃあ、どうして私たちは応援なんてするのだろうか?

応援どころか自分の学校の野球部が出場している野球観戦にもどこか無関心だった安田たちは、だが紆余曲折を経て、クライマックス、声を限りに「がんばれ」と応援をはじめる。

 安田は演劇部の大会を目前にして、棄権せざるを得なかった。田宮は自分が棄権の原因を作ったことを、ずっと引け目に感じている。宮下は失恋しただけでなくはじめて学年トップを明け渡し、藤野は自分の才能の限界を感じ、野球部を退部した。四人とも、負けのこんだ状況にいた。

劣勢なのは四人だけではない。野球部もまた、苦しい試合を強いられていた。それでも諦めず、相手校に立ち向かう野球部。

私が宮下に自分を重ねながらこの映画を観たように、安田たちは、そんな野球部に自分たちを重ねたのだろうと私は解釈している。自分たちもまだ、立ち向かえる。まだ負けと決まったわけじゃない、と。

どうして「がんばれ」と応援するのか? それは、自分が彼らに「がんばれ」を貰っていたからなのだと思う。いわば「がんばれ」のキャッチボール。甲子園を題材にした映画としてこれほど美しい構図はないし、青春映画の一場面としても非常に爽やかだと思う。前章で述べた宮下の勇気も、きっとここから来ていると思うのだがどうだろう。

 

「しょうがない」へ至り、「しょうがない」を超えろ

 「しょうがない」。本作の一番のテーマはこれだろう。安田たちは、作中、何度も「しょうがない」を口にする。

ああいう若い子(役者さんの年齢は存じ上げないが)がしきりに「しょうがない」と口にする様子を見るのは、一人の大人として、そんなことを思わせてしまう社会にしてしまってごめんよ、と申し訳なくもなるのだが、しかし、「しょうがない」、それ自体は別に悪くもなんともない言葉だと思うのだ。

人生は100%上手くいったりなんてしない。どこかで折り合いを付けなければいけない場面は死ぬほどある。「しょうがない」という言葉は、怒ったり泣きわめいたりしたくなる気持ちをどうにかこうにかあやしてなだめすかして自分を納得させるための大事な呪文だ。

私には、十代の終わりから患った厄介な持病がある。時期が時期だけに、私の人生は、それまで漠然と描いていた青写真とはまるで違う方向に走り出してしまった。たまたま適性のある仕事と出会い、療養しながら働いており今のところ食うには困らないが、正直、色々なことが思い通りにいっていない。今でこそ「しょうがない」と開き直れるようになったが、そこにたどり着くまでは何年もかかった。

アルプススタンドのはしにいた四人だって同じだ。演劇の大会の日、出場できないことを知らされ、顧問に肩を叩かれた安田。あの時の彼女は、決して「しょうがない」だなんて穏やかな表情はしていなかった。大会の日にインフルエンザになった田宮は「しょうがない」にすら至れずに、あのときああだったら、と一人で自分を責めている。宮下は失恋したショックでいっときまともに座っていられなくなったし、藤野も自分の才能に見切りを付けて野球部を辞めるまでに、一体何度絶望したことだろう。後ろ向きな響きのある「しょうがない」は、実は絶望や理不尽など、様々な感情を経てたどり着く一つの到達点なのだ。そして本作は「しょうがない」に至るまでがどれだけ辛いか、さきほど記したような描写を通してきっちり描いている。

 重要なのは、だから、「しょうがない」のあとに、「では、どうするか」があるかないかだ。 園田のような才能がないから、「しょうがないから」せめて地道に愚直に努力を続けた矢野。野球部の顧問になれなかったから、「しょうがないから」せめて観客席で全力で声が枯れるまで応援した厚木先生。この二人の行く先は? それはもう、この映画を観た人なら誰だって知っている。

 この映画は、「しょうがない、はダメ」ではなく、「しょうがないから諦めよう」から「しょうがないならさあどうする?」へ到達するまでの映画なのだ。

 

 まとめ

 この映画、普通にスルーしていたのだが、Twitterのタイムラインをやたら賑わせており、時間をがんばって作り観に行った。野球のルールを1ミリも知らないけれど大丈夫だろうか? という危惧はあったが、結果的にさして問題なかったように思う(知っていたら厚木先生の「人生は送りバントだ」「空振り三振だ」がより面白かったのかもしれない)。ちなみに野球に関しては今も何もわからない。映画そのものに関しては、この通り大満足。割と序盤からなんか分からないが泣けて泣けて、すっと胸のすくような気持ちで劇場を後にできた(しかしパンフレットが売り切れていたのでまた泣いた。「しょうがないから」通販したので近日中に届くと思います)。間違いなく今年ベスト級の作品でした。同時期に「コンフィデンスマンJP プリンセス編」や「今日から俺は」など邦画大作が並び、今週からだと「ドラえもん」も公開されるため、もともと多いとは言えなかった公開館・公開回数がさらに減らされてそうですが、お盆休み、何か一本観たいなあという方はぜひ本作を。

ここまでお読みくださりありがとうございました。

2019年下半期映画鑑賞総括


2019年がとうとう終わりましたね。実感がなさすぎる。体感だとまだ10月上旬ぐらいなのですが。時空が歪んでいる……

……などと現実逃避をしていても仕方がないので、2019年上半期もやった映画鑑賞総括を、下半期も。上半期と同様、観た映画の中で特に心に残っているものを20本リストアップし、各作品について自分のFilmarksレビューを引用しつつ簡単にコメントを添えます。

観た日付が古い順です。旧作のみ。

 

男たちの挽歌

男たちの挽歌 <日本語吹替収録版> [Blu-ray]

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  • 出版社/メーカー: パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
  • 発売日: 2013/10/11
  • メディア: Blu-ray
 

めためたにシビれました。二丁拳銃! 偽札を燃やし煙草に火をつける! なんでマッチ咥えとんの? いいんだよカッケえんだから!!!

しかしそれ以上にシビれたのがこの作品のある種「ホモソーシャル」な空気と関係性。男同士の兄弟愛、義兄弟愛がプロットとともに二転三転して、そのなかで織りなされる彼らの愛憎劇はラストの銃撃シーン・爆破シーンよりもはるかに鮮烈です。恋人の助言や取りなしでもぬぐうことのできなかったキットのホーへの憎しみが、マークの死によって絆に変わる瞬間よ……! そこにキットの恋人・ジャッキーや、我々観客の入り込む余地は微塵もありません。ホモソーシャルな空気って、絶対に誰かを踏みつけるし傷つけるしミソジニーによって多かれ少なかれ理不尽に女を排除するし、その弊害は絶対に忘れちゃいけないんですが、こうして物語としてパッケージングされた時、外から見て美しいのは事実なんですよね。罪だ……

これ、ジャンル分けしろとなるとヤクザ映画に分類されると思うんですが、この映画におけるマフィアとか銃撃戦とかって、思い切ったことを言うと、全部この二つの兄弟の愛憎を描くための部品、道具に過ぎないと思うんですよね。なんかカッケえヤクザ映画が始まったな、と思ってワクワク観ていると、その全ての要素がラストのふたりの男の後ろ姿に集約されていくことに気づく。「何を描きたいか」ってのが制作段階から非常に明瞭で、そこから逆算してついでに思いつく限りのカッコいいカットを詰め込みまくってできた映画なんじゃないかなあと。

ちなみに私、ⅡもⅢもまだ観ていません。観ていません。なんかⅠがあまりに美しく終わったので、こっから何付け足すのよ? 続編でコケてたら嫌だなあ……と思ってしまいまして。でも折角だし、2020年中に観る覚悟を固められたらなと思っています。

 

インタビューウィズヴァンパイア

インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア [DVD]

インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア [DVD]

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • 発売日: 2010/04/21
  • メディア: DVD
 

揺らめく蝋燭の灯、天鵞絨のカーテン、暗闇の中浮かび上がる影、飜る長髪、狂おしいピアノの音色……老いと死を棄て生き血を啜る吸血鬼のなんと美しく官能的なこと!「映像に酔いしれる」映画体験とはまさにこのこと。

個人的にヴァンパイアと言われ思い出すのは「ポーの一族」なんですが、やはり本作も不死の体を手にした故の孤独が際立つ。クローディアの血を吸ったのは孤独な身の上を咄嗟に重ねた為だろうし、二百年吸血鬼として生きながらもインタビュアーを殺せなかったルイは未だに人間の心を捨てきれていなくて、その危うい未熟さこそをレスタトは愛したのだろうと思いました。

エンドロールでめっちゃノリノリの「イマドキ」なロックが流れて、作風との乖離っぷりにちょっと笑ってしまったのだけれど、多分あれも計算なんですよね。二百年で馬車は自動車に、ピアノの演奏はカーステレオのロックンロールに。不死の彼らは時代の流れを見つめ生き続ける。これまでもこれからも。

 

滝を見にいく

滝を見にいく [DVD]

滝を見にいく [DVD]

 

何かを始めるのに早いも遅いもない、とか、よく言われますよね。これは本当にその通り。ついでに言えば、青春を楽しむのにだって、年齢も異性の存在も関係ない。これは、“おばちゃん版“青春映画。

最初はよそよそしかったり連れだけで固まっていた七人のおばちゃんたちが、仲違いをやりながら、でもどんどん仲良くなっていく。あだ名で呼びあったり、誰にも言えなかった心のしこりを打ち明けたり。

ずっと仲が悪かったふたりの女が煙草を分け合うシーンが最高。今どうなってんのか知らないが、何年か前にWHOが喫煙描写のある映画を制限するんだかしないんだかってニュース見た覚えがあるんだけど、「煙草ちょうだい」の一言ですべてが物語られるこのシーンを観てなおそれが言えるならすげえ頭でっかちのつまんない奴だなと思う。

大縄したり、草相撲したり、ほんと七人とも女学生に戻ったみたい。清々しくてのんびりしててハッピーな映画でした。

 

ラヂオの時間

ラヂオの時間 [DVD]

ラヂオの時間 [DVD]

  • 出版社/メーカー: 東宝
  • 発売日: 2000/09/21
  • メディア: DVD
 

まずゴッドファーザーネタを織り込んだことで私の中の評価がうなぎのぼりになった。観てて真っ先に思い出したのはカメ止めだけど、実際に影響関係があるのね。

生放送という制約下ゆえ、途中で何が起ころうととりあえず中断することなく放送しなければならない。クオリティよりその場をどう凌ぐか。紛れも無いモノづくり礼賛映画だが、モノは芸術、ではなく商品。クオリティよりまず納品。カメ止め観た時、そこに新しさを感じたんだが、20年前に同じことやってたのね。

演者のワガママ、スポンサーへの忖度、次々出てくる矛盾や綻び。妥協に妥協を重ね、それぞれが多かれ少なかれヤケになったり大人らしい諦めをして、でも最後の最後で、最高はもう無理だけど、今できる最善をやろう、最良のモノを作ってやろうという心意気と意地と連帯にグッときた。

芸術っていうのは自由で放埓であることが良しとされるけれど、カネが絡んだ瞬間そうではなくなる。オナニーでは、いくら気持ち良くてもメシは食えない。妥協をし諦観を覚えながらも、それでも譲れないものにしがみついた時生まれるのが、創造性ってやつじゃないのかな、とふと。

で、これって紛れもない青春映画だよなあと。何かをつくるって、楽しいだけじゃない。ツラかったりキツかったりする。あっちこっち駆けずり回って、不本意に頭を下げることも、ポリシーをドブに捨てざるを得ないこともある。そうして出来上がったモノは本当にしょうもなかったりするんだけど、でも聴いていたトラック運転手が握手を求め号泣したように、見ててくれる人が、評価してくれる人が絶対いる。いてくれ、っていう、ここは三谷監督はじめ製作陣の祈りじゃないかな。すごく楽しい100分でした。

あと、「上を見上げる」って言うよね……?私は言う。

 

そうして私たちはプールに金魚を、

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自分たちが何者にもなれないことは彼女たちにははっきり分かっていて、そうであることに抗う気も大してなくて、むしろ何者でもないからこそこの四人のありふれた中学生たちは無敵で、何でもできたんだろうな。何も持ってない奴が一周回って一番強い、みたいな。失うほどのものがないから。

このように、本作で当たり前のように自分と世界に絶望している中学生をフィルムに焼き付けた長久監督だが、その後、初長編作品である「ウィーアーリトルゾンビーズ」では、「絶望」を「ダサいもの」と一刀両断し、ではどう生きるか、というテーマに向かい合っていて、内からも外からもアップデートされたのが窺えて嬉しくなった。個人的にこの監督の感性がすごく刺激的で好きなので、今後どんな作品が生み出されるのか、最も注目したい作り手のひとり。

 

フェイク

徹頭徹尾、結ばれない運命のふたりの男の人生が一瞬だけ交わったときのきらめきとか、哀愁とか、カッコよさとか……ロミジュリか? ってぐらい切なくて堪らなかったんですが、とりあえず、スーツにガラの悪い柄シャツ合わせんのカッコよすぎか??? と発狂し、H&Mで手頃な柄シャツを調達してきた挙句、コスプレをしました。

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なんていうか、見苦しい自撮りで大変申し訳ないのですが、妙齢の女をチンピラコスプレに駆り立てるだけの力がこの映画にあるのだと伝われば幸いです。

誰も知らない

誰も知らない [DVD]

誰も知らない [DVD]

 

じわじわと苦しかった一本。母親の不在が長引くにつれ、もう帰ってこないと気づくにつれ、柳楽優弥がどんどんどんどん悟りきった表情になってゆくの、キツかった。彼だけでなく妹、弟たちも時間の経過とともに、何かを諦めたような顔になっていくのも。諦めたままその日その日を生きる事も。

柳楽優弥がなんと言おうと彼らは然るべき機関に然るべき保護をしてもらうべきなんだけど、不登校の女学生やこっそり残飯くれるコンビニの兄ちゃん、ご近所さんといった「何も知らない」人たちの軽率な善意が結果的に彼らを追い詰めるの、ほんとキツいですね。親切にしてもらえればその日を凌げてしまうから、もう行政に頼るしかない、っていう本来真っ先に飛びつくべきフェーズにギリギリのところで行き着けないので。

YOU演じる母が出て行った一番の原因は、男が出来たからではなく、多分それゆえのネグレクトを柳楽優弥に非難されたからで、子は鎹なんかになれないし、寧ろ母としての意識が希薄な女は子を足枷としか見る事ができず、男と長続きしないのもきっと多かれ少なかれ子供の存在が荷物になっていたのだろう。辛い……。

ベランダの鉢植えとか服の汚れ方とか剥げ落ちてゆくマニキュアで時間の経過をさりげなくかつ明確に観客に提示するのが巧くて、ほんとちょっとした技巧だと思うんですけど、そこが出来てない映画が洋の東西問わず多いので、日本映画界を背負って立つ監督とはこういうものか、と感服した。とにかく出来が良いので、定期的に摂取したくなる劇薬って感じ。


ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

個別記事に書いたことが全て。原作があるようなので、近々読みたい。


ぐるりのこと。

ぐるりのこと。 [DVD]

ぐるりのこと。 [DVD]

  • 出版社/メーカー: VAP,INC(VAP)(D)
  • 発売日: 2009/02/25
  • メディア: DVD
 

時間にしか、ただ日々を重ねていくことでしか、解決できないことってあるよなあと。ただ隣にいること。背中をさすること。病めるときも健やかなるときも、共に歩むということ。

本屋で泣き崩れるシーンは白眉。個人的には「万引き家族」の安藤サクラの泣きの演技を凌駕する。

鬱病を病気として殊更強調するんでなく、あくまで乗り越える必要のある沢山の事柄のうちの一つとして描いているのも良かったです。辛いんだけど、彼らが彼らのスピードでゆっくりと再生してゆくさまがどこか心地よかった一本。

 

華麗なるギャツビー

華麗なるギャツビー [Blu-ray]

華麗なるギャツビー [Blu-ray]

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • 発売日: 2014/05/02
  • メディア: Blu-ray
 

これは本当になんでもそうなのだが、原作を映画なりアニメなりにメディアミックスした時、そこには何かしらのクリエイティブな要素の付加があると思うんだが、私たち観客はその制作過程を知らない(知ることができない)ので、どこまでが原作の力で、どこからがメディアミックス後の力なのか、判別できずに困ることが往々にしてある。

だがこの作品は、その「付与されたクリエイティビティ」をかなり明確に判別・意識できる、稀有な映画だ。何故か。とにかく演出が盛り盛りなんである。パーティのシーンなんか、これ以上ないほど作り込まれている。反面、デイジーとの逢瀬や駆け引きといったエモーショナルな部分はかなり粗が目立つ。なんだか間延びするし、説明的な台詞が多く、中だるみしている印象が否めない。つまり、豪華絢爛な演出は「メディアミックス後の力」で、かったるい人間ドラマは「映画制作の力が及ばなかった部分」と、判別がかなり容易なのだ。

で、私はというと、雑なヒューマンドラマ部分にはさっさと見切りをつけ、かわりに豪奢な映像に酔いしれた。映像の力とはすごいもので、それだけでこの尺の長い作品を最初から最後まで楽しむことができた。私が下半期20本のうちの一本にこの映画を選んだのも、あの映像あってこそだ。繊細な心理描写については原作がちゃんと担ってくれているので、映画では映像に力を全振りするというのも、ある意味賢明な選択なのかもしれない。ディカプリオはいつ見ても顔パンパンでカッコいいと思えたことが一度も無いのだけれど、スター性は確かで、こういう役はよく似合う。

 

ひまわり

ひまわり HDニューマスター版 [DVD]

ひまわり HDニューマスター版 [DVD]

  • 出版社/メーカー: エスピーオー
  • 発売日: 2009/12/02
  • メディア: DVD
 

ひまわりというと、真夏の景色を太陽のように彩る陽気な花というイメージがあったのだが、哀愁と喪失感あふれる音楽や映像にこの題がすごくしっくりとマッチしていて、既存の凝り固まった価値観に左右されずモノづくりができるというのは、プロフェッショナルのプロフェッショナルたる所以なのだなと思った。

常に唇を真一文字に引き結んで、あくまでキビキビと歩き喋るジョヴァンナ。その姿は休暇中幸せそうにアントニオと愛し合っていた時のそれとはまるで別人で、きっと気を強く持たないと心が押し潰されそうだったのだろうと想像したら、こちらまで胸が苦しくなった。

ロシアで汽車から降りたアントニオと再会し逃げる様に汽車に乗り込み嗚咽するジョヴァンナの姿、そしてお互いがもう家庭を築いておりもう元の関係には戻れないことを静かに悟る二人の姿を、カメラが順番に映していくにつれ、その胸の苦しさは自分の中でどんどん大きさを増していった。辛かった。

広い広いひまわり畑の下には、数えきれないほどの戦死者が眠っている。無数の十字架が一面に広がる墓場の下にも。今も戦争が終わらないこの世の中で、ジョヴァンナとアントニオのような二人は一体幾人居るだろう。誰も悪くないなかで、誰もがたくさんの哀しみと諦めを知る。月並みな言葉だが、戦争というものの愚かしさを嘆くほかない。

しかし、愛読してる大槻ケンヂのエッセイで盛大なネタバレを食らってしまっていたので、大槻ケンヂに罪はないとはいえ、何も知らない空っぽな状態で観れていたらきっと衝撃も辛さも段違いだったのだろうなと、そこが悔しかった。……♫夢で逢えるわ 夢で逢えるの 心の持ちようね おやすみなさい……

 

渋滞

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ブリリアショートショートシアターオンラインで観た作品(この映画は現在は非公開)。

20分という短い尺ながら、下手な二時間の映画よりよっぽど面白い。二転三転する犯人探しに観ているこちらも飲まれているうちに、訪れるラストの衝撃よ。

また観たいんだが、再度公開してくれないだろうか……。

 

雨の日は会えない、晴れた日は君を想う

雨の日は会えない、晴れた日は君を想う [DVD]

雨の日は会えない、晴れた日は君を想う [DVD]

  • 出版社/メーカー: TCエンタテインメント
  • 発売日: 2017/09/22
  • メディア: DVD
 

突然の妻の死を前に、悲しむこともできず、ただ取り憑かれたように破壊を繰り返す主人公。

正直言って意味はわからない。主人公の行動原理も、なぜ悲しめないのかも、見つけたメモの意味も。

それでいいのだ。これは「分からないことに価値のある映画」なのだと思う。賢しげに「主人公は本当は悲しんでいるんだ、自分で気づかないだけだ」とか「モノを壊すことで主人公はこれこれこういう救いを得ているのだ」とか言う観客にだけはなりたくない。人の気持ちなんて分からない。自分の気持ちだって分からない。感情にいちいち律儀にラベル付けなんてしなくていい。人に説明してやる必要もない。これはそのことを確認するための映画。

 

セトウツミ

セトウツミ [DVD]

セトウツミ [DVD]

  • 出版社/メーカー: Happinet
  • 発売日: 2016/12/02
  • メディア: DVD
 

これはもう完全にただの趣味です。ウツミみたいな男の子、しゅき(IQ20)。というか池松壮亮さんがしゅき。ドラマ、役者違うみたいだけど評判良いので近いうち観ます。

 

まぼろしの市街戦

 

まぼろしの市街戦≪4Kデジタル修復版≫ [DVD]

まぼろしの市街戦≪4Kデジタル修復版≫ [DVD]

 

戦時下、爆弾が仕掛けられ住民が避難した街に命を受け潜入した主人公が取り残された精神病院の患者たちと出会うシニカルでポップな反戦映画。医者と看護師どこ行ったんだよとツッコミたくなるがそこはフィクションフィクション。患者たちが思い思いにはじめる演戯と仮装がまず目に心に楽しい。

患者たちはとことん刹那的・快楽主義で、戦争の作戦の真っ只中に置かれてもそれは生き生きと楽しそうなのだけれど、狂人と呼ばれ、それぞれが好きなことを好きなように楽しむ彼らと、統率され、出くわすなりお互い全滅するまで撃ち合う軍人たちと、本当の狂気はどっちだ?! という問いを真っ直ぐ突きつけてくる。まあ、もっと突き詰めると、いかな軍隊とて、戦時下にいる時点で異常な状況なんだから、どっちが正気もクソもないでしょとは思ったけど。正気なんかどこにも無くて、多数派の狂気と少数派の狂気があるだけ、と言った方が適切かな。

まごうことなき戦争映画であり反戦映画なのだが、殺し合うことの残酷性からではなく、人生を楽しむことの幸福性から反戦のメッセージを訴えかける制作態度が好み。精神的にキツいために戦争映画が苦手な私でも疲れることなく鑑賞できた。子どもに観せたい戦争映画だな。

……ただ純度100%の理想主義ゆえの危険性もあり、たとえ楽しむつもりでも人が集まると本人達の意図に反して起こるのが対立であり、この延長上に戦争はあるわけで、ではどうすればいいかといえばそれは深い対話以外ないわけだけど、そこをすっ飛ばして「人生楽しも!」とだけ言ってしまうのは若干危ういとは思った。

戦争映画に詳しい友人に薦めてもらって観たが、人を食ったような雰囲気といい絶妙にオシャレな衣装といい、オールタイムベスト級に好みの作品だった。ノリは同じくフランス映画「地下鉄のザジ」に通ずるところがあったな。(フランス映画たいして観てませんが……)

 

タクシー運転手 〜約束は海を越えて〜

タクシー運転手 約束は海を越えて [DVD]

タクシー運転手 約束は海を越えて [DVD]

  • 出版社/メーカー: TCエンタテインメント
  • 発売日: 2018/11/02
  • メディア: DVD
 

ドイツ人ジャーナリストを報酬目当てで乗せたタクシー運転手が、光州事件の凄惨さを目の当たりにし、煩悶しながらも正義に目覚めていく。「自分にできることは何なのか」を考えろ、と常に突きつけてくる作品だった。

主人公は、父子家庭で生活に追われ、世の中のことにさして目を向けずに生きてきた人物。それはきっと私たち観客とほとんど同じ目線。意識を高く持ちアンテナを張ってる人もいるけど、大概はただの一般人。だからこそ彼のものの見方の変化は、そのまま自分たちがどう変われるかということでもあって。

情報規制で実情が分からなかったとはいえ、主人公は序盤、デモ隊の学生を見て「学生は勉強してろ」と言い放ったりする。これは「まさに」な台詞で、実際、数年前日本で安保法案の際に立ち上げられた学生団体に対して、少なくない人数がこの言葉をぶつけたのは記憶に新しい。現実に即した映画だと感じた。

カーチェイスは確かにリアリティ無いが、ピーターがカメラを回し、マンソプが怪我人の救助に行ったように、色んな人が置かれた立場でそれぞれの最善を尽くしたことを、映像として最大限わかりやすくかつ映える形で表したのがあのカーチェイスだったのではないか。マンソプやピーターはきっと沢山いた。

自分が目撃したことに対して、問題意識を抱いたことに対して、自分は何ができるのか。見つけるのは難しいけど、大勢の小さな勇気の連鎖できっと世の中は変えていける。ずっしりと重い、大切なバトンを渡された思いだった。

 

耳をすませば

耳をすませば [DVD]

耳をすませば [DVD]

  • 出版社/メーカー: ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント
  • 発売日: 2002/05/24
  • メディア: DVD
 

カントリーロード」のセッションの場面と、そしてなにより、書いた物語をおじいさんに読んでもらうシーンで、恥ずかしながらぼろぼろ泣いてしまった。夢を追いかけること。好きな人に相応しい自分になりたいと思うこと。登場人物みんな誰もが何かを頑張っていて、誰かを想っていて、今までジブリってあまり観てこなかったけれど、こんなにきらきらした物語だなんて。カントリーロード、いい歌詞。

 

キサラギ

ユースケサンタマリア目当てで観たけどめちゃくちゃ面白かった。脚本が巧みすぎ。キャラがストーリーに作用して、と思ったら次はストーリーがキャラの印象をガラリと変えていく、の繰り返しで気が付いたら二時間経ってた。伏線がガンガン回収されていくのも気持ち良すぎる。めちゃくちゃ練られた脚本、しっかり堪能しました。しかしユースケサンタマリアはかっこいいですね。

 

ハウルの動く城

ハウルの動く城 [DVD]

ハウルの動く城 [DVD]

 

不思議な作品だなあと思いながら観ていたが、終わってみればこれ以上ないほどの真っ直ぐなボーイ・ミーツ・ガールで、宮崎駿フィルモグラフィーのなかでもこれは相当に好きな部類だった。世界観が大好き。説明不足を説明不足と感じさせぬ手腕は流石と言う他ない。

前作である千と千尋との類似点がいくつもあったんだけど、わざとなんだろうか?

……こうしてみると大好きな映画なのにも関わらずどこがどういいとか、なぜいいとか、全然言葉にならないんだが、言語化できない「好き」こそ意識して大切にしていきたいです。

 

アンタッチャブル

ショーンコネリーの死に様カッコいい、アンディガルシアの撃ち様カッコいい、そしてケビンコスナーの去り様カッコいい。王道を往くエンターテイメントゆえ、暗い重い話が好きな自分としては物足りなく感じる部分もあるとはいえ、これだけ面白くちゃ文句なしですね。


まとめ

というわけで2019年下半期、135本中の20本でした。このエントリを書きながら自分の文章力・言語化能力の無さに絶望したので、今年は鑑賞本数減らしてでも、一作一作に向き合い言葉にする時間を大切にしたいです。

2020年も良い映画に出会えることを願って。

 

言葉をどんなに並べても━「マリッジ・ストーリー」

「マリッジ・ストーリー」を観た。Netflixオリジナル映画だということを知らずに、普通に映画館に観に行ったのだが、アイリッシュマンといい、映画好きにとって、Netflixが必須ツールとなる時代がそろそろ本格的に来ているのだなと少し慄く。やっぱり入会した方がいいんだろうか……

 

離婚に向け円満に協議していたはずのニコール(スカーレット・ヨハンソン)とチャーリー(アダムドライバー)夫婦だが、離婚プロセスを進めるうちに、次第に二人の関係は泥沼化してゆき……。

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この映画は、ニコールとチャーリーが、「お互いの好きなところ」を語ってゆくところから始まる。ルーズリーフいっぱいに、書き出された「好きなところ」。それはお互いへの細かな観察とリスペクトに満ちていて、だからこそ彼らが別れを決めたという事実が重い。

そう、彼らは相手が憎いわけじゃないのだ。傷つけたいわけでもない。ただ、別の方向へ歩み出そうとしているだけ。そのことが観ていてよく分かるからこそ、スカヨハとアダムドライバーのおそらく迫真のベストアクトであり、最も辛い場面であるあの舌戦シーンは胸が締め付けられる。

ちょっとした言い合いがどんどんヒートアップして、思ってもいない、言いたくもないことを思わず口にしてしまう。「お前なんて死ねばいい」と感情に任せて口走るチャーリー。自分が言ったことのあまりの酷さに愕然とし、膝をついて涙を流す。そんなチャーリーの背中を、ニコールは黙ってさする。それはきっと、彼女も自分が同じような言葉をぶつける寸前だったと分かっていたからだろう。思いきり傷つけ合うことでしか、傷つけ合うのをやめられない。誰でも多かれ少なかれ経験のあることだと思う。本当に痛々しい場面だ。

本作がNetflixオリジナル映画だということは前述したが、しかし映画館で観て本当に良かったと私は思っていて、それというのも、この場面が最も印象的、かつ象徴的だが、この映画は全編、彼らのこのような細かい心の動きを描くことで成り立っている非常に繊細な作品だからだ。家で観るとなると、例えばLINEの通知が気になったり、喉が乾いてお茶を入れに行ったりと何かと邪魔が入る。対して映画館というのは上映のあいだ観客を映画のみに拘束する空間なので、作中の心の動きを丹念に、しっかりと追うことができた。これからもNetflixはじめ映画配信サービスは隆盛を極めてゆくだろうが、映画館で映画を観ることの価値を改めて実感させられた作品だった。

 

 

さて、タイトル通り、これはまさに徹頭徹尾「結婚」の話だ。

ニコールもチャーリーも、お互い相手のことが憎いのではない。でも、たまたま「結婚(と、結婚に付随する離婚)」という制度の中で、上手く関係が構築できない。これはある意味では当たり前で、それというのも「結婚」という制度自体が生物として特殊だからだ。人間以外の動物は、カップルを作ることはあっても、結婚という社会制度に縛られることはない。結婚という制度、関係、それ自体が自然に照らせば不自然なのである。

人間は社会的な生き物だが、その体系のなかで全員が上手くやれるかというのは別問題だ。ニコールとチャーリーは、結婚という制度のなかで、たまたま相性を合わせられなかった。離婚に至ってしまったばかりか、離婚話を進める中で様々な問題が浮上し新たなる火種が生まれる。二人はもう、夫婦としては修復不可能なところまできている。

だが翻って言えば、夫婦としては破綻しても、お互いを愛し思いやり尊重することには何の障害もない。ラストの靴紐のシーンなんか、それを象徴する最たるものだろう。作中に「矛盾しているけど一生愛する人」という一文が登場するが、結婚という社会制度が話をややこしくしているだけで、嫌いなところも、好きなところも、許せないところも、歩み寄れるところもあるという、ごくありきたりで、幸せな人間同士の関わりを、彼らもきちんと持っている。

タイトルが示すとおり、「結婚」という制度があいだに挟まったときに、いたずらに複雑になってしまう男女の姿を描いた作品だった。私は結婚したことも離婚したこともないが、数年前に観た「ゴーン・ガール」の「これが結婚よ」という台詞の意味が、少し分かった気がする(全然テイストも筋も違う映画だが)。

すなわち、結婚というのは特別で、幸せなものだけれど、その特別さゆえに、どこかにひずみが生まれてしまうものなのだなと。

 

 

もう何年も前に解散してしまったが、かつてGARNET CROWというバンドがあった(日本のバンドである)。彼らのファーストアルバムに、「千以上の言葉を並べても…」という曲が収録されている。かつて愛し合っていたふたりの別離を描いた曲だ。歌詞はこうだ。

公園で髪を切る

落ちてゆく毛先を払う

君が笑う 頬に触れる

見上げれば飛行機雲

 

こんなにも穏やかな

終わりもあるなんて不思議ね

名前を呼ぶ声が今 優しくて

離れたくない

 

借りていたままの映画をみてみよう

今日までは見えなかった

君の気持ちとか

感じてみたいって今 思う

 

千以上の言葉を並べても

言い尽くせない事もある

たった一言から始まるような

事もあるのにね

 

花の咲かない木を植えて

溢れる枝に絡まりながら

もがきながら

青空を仰いでいるみたい year〜

 

バスを待つ 君の背中

見送るの 今日で最後

僕は笑う あの日のように

手を振るよ 出会いと同じ

 

明日からは君を待っていた時間

僕だけの穏やかすぎるトキを刻む

慣れるまで ほんの少し君を

思い出すよ

 

千以上の言葉を並べても

言い尽くせない事もあるよ

たった一言で

終わってしまう事もあるのにね

 

同じ土の上では生きてゆけない

二つの種の想い

両手を広げ

お互いを遠く見つめてゆくよ

作詞担当のAZUKI 七は、松谷みよ子「モモちゃんとアカネちゃん」に想を得てこの歌詞を書いたというが、「モモちゃんとアカネちゃん」で描かれているのもまた、ひとつの夫婦の別離である。

二人を同じ鉢の上に植えられたふたつの木に例え、どちらかが悪いのではなく、ただ同じ場所にいることで駄目になってしまう、そういう関係もあるよね、という内容だが、「マリッジ・ストーリー」のニコールとチャーリーも、まさにそういうふたりだ(“髪を切る”や“千以上の言葉を〜“の箇所も、偶然ながら映画とリンクしている)。

どちらかが悪いんじゃない。憎いんじゃない。嫌い、なだけでもない。でも、一緒にいるのは難しい。

違う道を歩むことを決めた二人のこれからが良いものであることを、フィクションと分かっていながらも心から願ってしまう、個人的にとても心に響いた映画であった。

 

「ジョーカー」という危険な映画と、その牙を抜いてみせる「ボーダー 二つの世界」について

2019年10月4日、今年もっとも映画界を揺るがせた作品のうちの一本・「ジョーカー」が公開された。コメディアンとして人に笑顔を与えることを目標としていた主人公・アーサーが、生まれもった障害や周囲からの迫害、福祉の打ち切りなどによって徐々に追い詰められ、「バットマン」シリーズのヴィラン・ジョーカーに変貌していく様を描いた問題作だ。

そしてその「ジョーカー」公開の一週間後、「ジョーカー」に比類する衝撃作・「ボーダー 二つの世界」が公開された。醜い容姿を持ちながら、違法を行う者を嗅ぎ分ける特殊能力を有する女性・ティナが、勤務先である入国管理局で出会った男性・ヴォーレと出会い、相通ずるものを感じ惹かれ合う過程で、自らの出生の秘密を知っていくという、こちらも相当にショッキングな作品だ。

どちらも、観終えたあと心をがつんと殴られたような感情に襲われたが、この二本が似ているのは、なにもその衝撃度だけではなかった。私は「ボーダー」を観た直後、

……というツイートをしたのだが、というのも、この二作は、迫害された弱者が社会に復讐する様を描いたという点でかなり通ずるところのある作品だからだ。

次に書くことは「ボーダー」のネタバレになるので、未見の方には気をつけていただきたいのだが、「ボーダー」のティナとヴォーレは実は人間ではない。虫を食べ、人の心を嗅ぎ分ける、トロルという種族なのである。とはいえティナは、醜い容姿こそあれ、職もあり同居人もおり隣人との関係も良好、という、「社会に適合できているマイノリティ」だ。

だが、ヴォーレは違う。彼は、両親を長い間拷問のような実験にかけられた挙句、孤児院で苦しみながら育った「迫害されてきたマイノリティ」。そう、彼は、トゥレット症候群を持ち、そのことで他者からの迫害を受けている、「ジョーカー」のアーサーと同じなのだ。また、ヴォーレは人間社会への恨みから、自分が産んだトロルの子どもを他人の赤ん坊とすり替え売り飛ばすという反社会的行為を行なっており、これは社会に押し込められた果てに殺人に至ったアーサーとの二つ目の共通点といえるだろう。

アーサーとヴォーレの共通点はまだある。それは、「彼らの反社会的行為に対し、一定の納得が可能である」という点だ。

ヴォーレは人間の子どもをすり替えて売っている。許されないことだが、いっぽうで「そんなに酷い目に遭ってきて、人間に恨みを持つなという方が難しいよな」と合点もいく。少なくとも私はそうだった。

「ジョーカー」でもそれは同じだ。私はジョーカーを観たあと、

……というツイートをしたのだが、実際アーサーの行為は、(それを許す許さないとはまた別の次元で)多かれ少なかれ得心がいってしまうのである。

だがこの考え方は、やっぱりすごく危険だ。理解できることと許すことを完璧に分けて考えることはとても難しいし、真に彼らの行為を「許さない」ためには、「理解できるよね」と言うことすら慎重にならなければいけない。追い詰められた人が、「でも加害者にも同情できちゃうよね」という言葉を聞いて、ポンと悪の道に背中を押されかねないからだ。

だから私たちは、「理解できない」と言うべきなのだと思う。社会の一員として、何がなんでも。心の中でどう思っていようとも、口で、文字で、言葉を発するとき、「理解できない」、そして「許さない」と言わなくてはならない。ティナがヴォーレの所業に対して怒り、許さなかったように。

 


さて、攻撃的なやり方で社会に反旗を翻す相手に対しどう接するべきなのかは、さっきまで語ってきた。では、もし自分がアーサーやヴォーレの立場に立たされたとき、私たちはどうすればいいのだろうか。倫理に叛く行動で、自分を迫害してきた側に仇をなさないためには。その答えは実は、「ボーダー」の作中にしっかりと描かれている。それは、本当に月並みな言葉で申し訳ないのだが、人に必要とされ、そして己を愛する、この二点に他ならない。

ティナは「誰も傷つけたくないというこの気持ちも人間的なもの?」とヴォーレに対峙し言ったけれど、実際、彼女は一旦本能に身を任せはしたものの、ついぞ超えてはいけない一線を超えなかった。それはティナが社会のなかで充足を得ているからだと私は解釈している。彼女は酷い言葉や好奇の目線に晒されてもいるけれど、自分にしかできない仕事をし、隣人とも持ちつ持たれつの関係を築いている。娘が欲しいという自分勝手な理由ながらも、父親にも必要とされた。彼女は、自分が社会のなかで役割を果たしていることを知っている。

「己を愛する」ことも、実は彼女はクリアしている。それはまさしくこの映画のラストカット、トロルの赤ん坊を抱きしめ、笑顔を見せるティナの姿からよく分かる。自分と同じ、異形の生き物である赤ん坊は、マイノリティである彼女の分身であると読み取れる。彼女は自分自身に笑顔を向け、愛を注いだのだ。

外見、能力、果ては種族まで人と違う彼女が紆余曲折を経つつも闇落ちせずに済んだのは、多分そういうわけだ。いっぽうで「ジョーカー」のアーサーには、自己愛も、他人からの要請もなかった。彼はどこまでも孤独だった。

このように、「ボーダー」という作品は、「ジョーカー」に対する一つの解となっていると言える。ツイートした、「この二本が同時期に公開されたのは映画にとっても観客にとっても幸運だった」というのはそういうわけである。

自分を愛するだけではダメで、人に必要とされることも必要、というのは本当に世知辛い話なのだが、この二つの作品をマイノリティ映画として社会的な文脈で観たときに、ここでいう「必要とされる」というのは「多様性を認められる」「社会で役割を与えられる」ということとイコールになると思うし、そうなってはじめて自己肯定感も育つと思うので、結局、そういう健全な社会を作る義務が私たちにはあるのだと思うし、もっと言えば、そんな社会を作ってくれよ、というバトンを、この二つの映画は観客に渡したと言えるのだと思う。

 

 

一つの作品が目の前にあるとして、それを読解する上で、ジャンルや制作年が違う別の作品をぶつけてみたときに、思わぬ触媒としての効果が生まれて、双方の理解が深まる瞬間というのがたまにある。映画「タクシードライバー」と町田康の小説「告白」がそうだったし、「ゴッドファーザー PARTⅡ」と「新しき世界」もそうだ。

今回の場合、「ジョーカー」と「ボーダー」でその現象が私の中に起こったので、こうして記事をしたためた次第である。「ジョーカー」は、観客に大絶賛で迎えられながらも、一部の評論家らから「現実での暴力を誘発しかねない危険な映画」であると評されたというが、まったくの偶然にも、「ボーダー」がその危険性にそっと安全装置をかけた具合になった。あくまで偶然、かつ私の勝手な解釈ではあるが、ひとつの映画の問題を同じくひとつの映画作品がフォローするというのは、映画が社会に負っている役割と責任を概念としての映画それ自身で果たしたようで大変面白い。社会の一員として健全な社会を作っていくことを忘れずにおりつつ、これからもこういう体験ができるといいなと思う。

 

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けっして消えない絆と愛━「映画すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ」

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すみっこを好む個性的なキャラクターでおなじみの、サンエックスの大人気シリーズ「すみっコぐらし」の劇場版。すみっコたちはある日、行きつけの喫茶店の地下室で、ふしぎな飛び出す絵本を見つける。眺めているうちにしかけが動き出し、絵本の中に吸い込まれてしまったすみっコたちは、迷子のひよこと出会う。ひよこの仲間を探してあげるために、すみっコたちは絵本の世界で奮闘するが……。

まず、とにかくすみっコたちが可愛い。可愛さだけで100点満点中一億点。ずっと本やグッズで親しんできたすみっコたちが、原作の絵柄まんまでスクリーンを飛び回る。少ない単純な線で描かれたすみっコたちを違和感なくアニメーションとして動かすのは簡単なことではないと思うが、本作はその難関を見事達成。ファンとしてそれだけで既に満足。

また、井ノ原快彦さんと本庄まなみさんによる、やわらかく温かいナレーションも素敵だった。全編ナレーション、セリフなしと聞いて、果たして75分保たせられるのかと内心不安だったが、杞憂だった。子供のころ、親に絵本を読み聞かせしてもらった記憶を思い出した。ナレーション形式で進んでいく物語、そう考えると子供向けに意外とむいているのかもしれない。

すみっコたちが絵本の中で体験するおとぎの世界も楽しい。子供から大人まで誰もが知っている物語でさてすみっコたちがどう動くのか、という点も、キャラクターの性格や設定が作劇にちゃんと反映して作られているので必然性があり観ていて気持ちいい。

ただ、最後に全員が合流するとはいえ、キャラクターがそれぞれ別の物語上をすすむ様子が「そのころ◯◯は……」という具合に平行して描かれるので、そこは若干のテンポの停滞を感じた。だがまあ、それも子供(ファミリー層)をメインターゲットとしたであろうこの映画につけるケチとしてはあまりに野暮というものだろう。実際ちゃんとどのエピソードも魅力的だったし。

さて、めくるめく絵本の世界から脱出する方法を見つけたすみッコたちは、自分たちがひよこの仲間になろうと決めて、ひよこを連れて出て行こうとするが、なぜかひよこだけ抜け出せない。実はひよこは、誰かがむかし絵本のページに描いたらくがきだったのだ。

私はスクリーンに向かいながら、「ああ、きっともうすぐふしぎな奇跡が起こって、無事ひよこが絵本から抜け出す展開になるんだろうな」と思って観ていた。子供をターゲットにした作品には、実際、割とそういう夢のような、現実からの跳躍が多く見られる。

だがその予想は外れた。奇跡は起きない。ひよことはそこでお別れなのだ。思いがけない悲しい展開が待っていたことに私は結構驚いてしまったのだが、よくよく考えると、そこには多分意味(というか意図)があるのではないか。

すみっコたちにとって、絵本の中から出てくることができない、誰かに描かれた存在であるひよこは、この映画を観た子供たちにとってのすみっコたちそのものだ。すみっコぐらしのすみっコたちは、人の手で創られた架空のキャラクターだ。子供たちはきっと、たとえばすみっコぐらしの文房具を学校で使うたびに嬉しい気持ちになったり、悲しい時はすみっコのぬいぐるみに話を聞いてもらったり、夜はぬいぐるみを抱いて眠りについたりと、沢山すみッコたちに愛を注ぎ、同時に助けを得ていることだろう。だけど彼らが架空の存在である以上、直接話すことも、直接触れ合うことも、絶対に、絶対にできない。すみっコたちが、絵本の外にひよこを連れて行けなかったように。そしてターゲット層の子供たちは、ちょうどそのことを少しずつ知っていく年齢でもある。現実はときに悲しい。

だけど、悲観することはない。この世は悲しいことばかりでもないのだ。元の世界に戻ったすみっコたちが、ひよこの絵の周りに、他の生き物や地面や空といった賑やかなイラストを描き足して、ひよこへの愛情を表現し再確認したように、たとえ直接会えなくても、仲間は仲間だし、大切に愛することにはなんの障害もない。子供たちはいずれ大きくなって、心の中に占めるキャラクターの割合は多かれ少なかれ小さくなるけれど、好きだった気持ちは永遠に消えないのだ。そしてキャラクターに愛を注ぐ心を小さいうちに育むことで、大人になったときには、そばにいる誰かを同じように愛することができる。すみっコたちのひよことの別離には、これから大人になっていく子供たちへの、愛を大切にしてね、という、製作陣による温かく切実なメッセージが詰まっているのではないかと思う(私はいい大人だが、そのメッセージのあまりの優しさに思わず真っ暗な劇場でひとり号泣してしまった)。

私が鑑賞した回は、平日の昼間ながらたくさんの子供連れが観に来ていた。楽しそうに笑い声を上げる子、「しろくまだ!」「可愛い!」とリアクションする子、劇場内の暗さに思わず泣き出してしまう子、と反応はさまざまだったが、あの子供たちが成長していくうえで、この映画を観たという体験が少しでも響けば、それはとっても素敵なことだと思う。

 

社会の外で生き延びろ━「ウィーアーリトルゾンビーズ」

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「ウィーアーリトルゾンビーズ」を、キネカ大森にて、「僕はイエス様が嫌い」との二本立てで観てきた。

 

この映画、ソフト化すらされていない時期に、異例の「丸一日無料配信」がなされていた。8月31日、つまり夏休みが終わる日=“最も憂鬱な日”に、「今悩んでいる中高生や当時悩んでいた自分自身へ向けて作った」いう長久允監督が「どうか絶望しないように」と踏み切ったそうだ。それを踏まえ、以下感想を。

 

その人を取り巻く世界、言ってみればちいさな「社会」のようなものに、しかし馴染めないという人はいつもどこでも一定数いる。打ち明けてしまえば昔の私がそうだったし、きっと長久監督自身にもそんな時期があったろう。そして、この映画において、ヒカリとイシ、タケムラ、そしてイクコの四人は、まさにそんな十字架を背負わされている。

 

長久允監督が、「悩んでいる中高生」に向けてこの映画を作ったというのは冒頭で既に述べたが、なにに「悩んで」かはこの映画を観た者なら誰でもすぐにわかるだろう。「社会に溶け込むことができない」ことに、だ。

 

彼らは社会に馴染めない。両親を亡くしたヒカリは、故人を偲び涙を流す親戚連中という「社会」に溶け込むことができない。悲しくもなく、涙も出ないからだ。いじめにあっている彼は、学校という「社会」にも馴染めない。他の三人もそれぞれの事情で、それぞれが社会とうまくやっていくことができていない。

 

そんな四人を描きながら、無理に社会に接続しなくてもいい、と長久監督は言う。四人のゾンビを売り出そうと舌舐めずりする大人たちの姿を見れば分かる通り、社会とは、タテマエとか、私利私欲とか、そんなものばかりでできている。そういえば、脇を固める形で「大人たち」を演じた役者たちが軒並み豪華な顔ぶれだったが、あれにもきっと意味があって、あれは要するに「社会」とわかちがたく存在し、また「社会」を象徴する、権威という厄介者のアレゴリーとして機能しているのだろう。そんな連中は気にしなくていい。社会と接続しなくても、絶望しない限り、彼ら、そして私たちの人生は続く。続けられる。映画が終わっても彼らの人生が続くように。そういえば、「親を亡くした子供たちがバンドを組み、自分たちはゾンビであると歌う」ことを、エモい、エモいと持ち上げてきた大人たちをも彼らが切り捨てていったことも忘れてはならない。エモいだなんて安っぽい言葉で消費するな、こちとら生きてるだけだ。「エモいとかダサっ」。

 

この映画、画も演出も台詞回しもとことん尖っている。それを「新しい感性だ」と捉えるか、「奇抜なことやりたいだけのオナニー」と一蹴するかは人によると思うけれど、私はこういうものを求めていたし、これからも希求される表現だと思う。

 

個人的に良かったなと思うのは、あの四人組は確かに仲間なんだけど、社会の外側という息苦しい場所で息をするために築いた共依存では全くないところ。全くベタベタしていない。四人というより、一人が四つ、とでもいうか。

 

散々褒めてきたので惜しかった点を言うと、冒頭、四人の「それまで」を順番に説明していく流れが、凝った演出とは対照にヒネリが無さすぎる。回想による説明のせいでストーリーが停滞し、若干の退屈を覚えた。ここをもっと拘っていれば、たびたび指摘される「CM的」という批判はぐっと減ったのではないかと思う。

 

「そうして私たちはプールに金魚を、」では、人生に当たり前のように絶望しているが故に無敵な、退屈で停滞した子供たちを描いた長久監督だが、本作ではそこから一歩前進し、絶望をダサいものと一刀両断し、ではどう生きればいいのかが示されていた。今後の長久監督作品が絶望という命題にどう向き合うのか、今から楽しみでならない。