「僕と君」からはじめる世界改革——「グリーンブック」

(※映画「グリーンブック」は、とっても面白い映画です。まだご覧になっていない方は、ネタバレ満載のこのエントリを読む前に、是非劇場に足を運んでみてください。)

 

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あらすじ

時は1962年、ニューヨークの一流ナイトクラブ、コパカバーナで用心棒を務めるトニー・リップは、ガサツで無学だが、腕っぷしとハッタリで家族や周囲に頼りにされていた。ある日、トニーは、黒人ピアニストの運転手としてスカウトされる。彼の名前はドクター・シャーリー、カーネギーホールを住処とし、ホワイトハウスでも演奏したほどの天才は、なぜか差別の色濃い南部での演奏ツアーを目論んでいた。二人は、〈黒人用旅行ガイド=グリーンブック〉を頼りに、出発するのだが─。

(公式サイトより引用)

 

「グリーンブック」の立ち位置

差別問題を社会的視点から説教臭く語るのではなく、あくまで市井の人々の「個人」という地平において描いているのが良い。トニーとドクターは生活スタイルも趣味嗜好も肌の色も異なるが、そんな二人が道中何度か衝突しながらも徐々に心を通わせていくいきさつを通して、この映画はするりと人種差別問題にメスを入れる。

二人の交流の描き方がなんとも見事だ。チキンを一緒に食べてみたり、家族への手紙を書くうえでアドバイスを受けたりと、共感しやすい卑近なエピソードを採ることでどこか「ほのぼの」かつコメディータッチでストーリーが進む。大きな起伏のない脚本も、二人の関係の変化を自然なものとして観客に提示することに一役買っている。

 

「さわやかコメディ映画」のさらに上を行く"残酷さ"

かといって、単なる「ほのぼの」では終わらず、人種差別にまつわる、背中に冷たいものが走るようなシビアな現実がしっかりと描かれているのもこの映画の見どころだ。たとえば序盤、トニーは、黒人業者が口をつけたグラスを、汚いものでも見るような目でゴミ箱に放り込む。何気なく入った衣料品店で、ドクターは試着を断られるし、とあるピアノの演奏会場には、白人用のトイレとは別に、屋外に粗末な仮設トイレが「黒人用」として用意されていたりする。「肌の色がどうであろうと、みんな分かり合える!」というような生ぬるく甘いヒューマンドラマでは全くない。トニーとドクターは友情を手に入れるけれども、世の中に蔓延る容易に越えられない断絶の壁の存在も念を押すように繰り返される。

また、黒人に対する偏見への言及の仕方も巧い。黒人であるドクターは、差別に直面した時、黙って引き下がる。対する白人のトニーは、怒りをあらわにして、たびたび反射的に相手を殴る。これは「黒人は野蛮である」という差別的な通説にクエスチョンを投げかけるだけでなく、そのような差別がいかに社会に蔓延しているかを、ドクターの「またか」と言わんばかりの諦観の表情で示す。こうした二重構造をこの映画は持っている。

 

 

アカデミー賞騒動と、「グリーンブック」のもつ確かな先進性

さて、おもにアカデミー賞の場において、この作品はとある批判に晒されている。「ドライビングMissデイジー」などでも指摘されていた、いわゆる「マジカル・二グロ」「白人の救世主」というステレオタイプが描かれ、その域を脱していない、というのが主な主張だ。

だが私は、そのような批判は物語の中で既に捨象されていると考える。何故ならこの映画は、人種差別についての問題提起以前に、徹頭徹尾ふたりの人間の友情を描いた、単純なロード・ムービーだと思うからだ。そもそもが、「黒人はこう描くべきだ」「白人の物語上での扱いはこうすべきだ」といった文脈を必要としていないし、なんならそういった文脈から二人が解放され、一対一の人間同士として互いに向き合うところがこの物語の肝なのである。

私は常々、黒人が、黒人であるという必然性を持たずに主人公となる作品が今の映画界に少なすぎることを憂いているのだが(従来の多くの作品で黒人は常に黒人であるゆえの苦悩を抱いて作中に登場し、その苦悩を描くことが作品のテーマとなる)、そもそも本来として、「人種差別をしてはいけない」という文章は根本のところがズレていて、正確には「誰しもが、どのような理由があろうと不当な扱いをされず、リスペクトされ、大切にされるべき」なのだ。人種、肌の色は、年齢、性別、国籍、セクシュアリティといった、"その人"を表す数ある属性の一つに過ぎない。もちろん黒人が肌の色を理由に迫害され、差別されてきた歴史は事実であり、そこを軽視するつもりはないし、してはいけないし、私達全員が常に考え向き合わなくてはならない問題である。だが「過ちに向き合い反省する白人」や「差別に対し怒り抵抗する黒人」の出てくる作品を作れ、というのはそれでまた新たなカテゴライズを生むだけであるし、時代の前進も期待できない。

感じの悪いレストランなんてこっちから願い下げだと揃って一緒に踵を返す、立ち寄ったバーでの即興のピアノ演奏が盛況で迎えられ自分のことのように喜ぶ、クリスマスパーティにも招待する。何故なら彼は八週間旅を共にした友人だから。そこには既に、相手が黒人だとかといった問題は何の意味も持たない。「黒人だから迫害しない」ではなく「誰もがどんな理由があろうと迫害されない」というのが人種差別問題の真の目指すべきゴールであろうし、それを鮮やかに体現してみせたこの映画が、この今もヘイトにまみれた世の中に風穴をあけることになるであろうと私が期待するのも、それだからなのである。

時代遅れの名作ーーシェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』

不勉強なもので、恥ずかしながらシェイクスピア作品は今まで四大悲劇しか読んだことがなかったのですが、先日「じゃじゃ馬ならし」を読み、ちょっとかなり納得のいかない内容だったもので軽く所感などを。

簡単に粗筋を述べると、金持ちの主人の家に美しい娘が二人いて、妹のほうは非常におとなしくしとやかで、こちらのほうは求婚者が絶えないのだけれども、片や姉のほうは家庭教師に暴力を振るうわ、人目もはばからず大声で暴言を吐くなど、要するに大変なじゃじゃ馬なわけである。で、父親は、「姉のほうに結婚相手が見つかるまでは妹のほうは何人たりとも結婚させない」と言うものだから、妹目当ての求婚者は非常に弱ってしまう。そこにとある旅の男が現れ、自分は金が欲しいから、姉のほうに求婚するつもりだ、と言う。当然姉のじゃじゃ馬っぷりを知る周囲の人間は、お前にあんな女が手に負えるはずがないと言うのだが、男は、自分には策がある、と宣言し、実際に彼女をすっかり手なずけて結婚してしまう。挙句の果てに、彼女は妹や知人の夫人に「妻とはこういうものであるべきよ」と「よい妻論」を説き、かくして「じゃじゃ馬ならし」は果たされた、ということで幕が引かれる。

勿論これはあくまで大筋であって、妹への求婚者たちの奮闘ぶりなど、喜劇にふさわしいおかしみも多々あるのだが、私はこの「自由で何者にも縛られない女性が、男の手によって”男に都合のいい女”に作りかえられてしまうという筋書きに、これが400年前の作品だという事実を加味しても、納得がいかなかった。

言うまでもなく、男女は対等であるべきだ。どちらかがどちらかの所有物になってはいけない。誰かが誰かにとって都合のよい存在になると言うことはつまり、彼女、もしくは彼が自分の尊厳を手放した(手放させられた)ということだ。女性が男の策にかかり、本人の預かり知らぬところで尊厳を失わされるこの物語は、私にとって恐怖以外の何物でもなかった。

実際にこの「じゃじゃ馬ならし」は、世界中のフェミニストから批判され、イギリスの作家、バーナード・ショーも、「まともな感覚を持った男なら誰しも、すっかり馴らされてしまったカタリーナの最後のセリフを女性の観客と一緒に聞くことに困惑しない筈はない」と書き記している。

それでも、時代は、価値観は、アップデートされている。
テルマ&ルイーズ』『少女革命ウテナ』『アナと雪の女王』『マッドマックス怒りのデスロード』『茨の城』そしてその映画化である『お嬢さん』等々、「抑圧されていた女性が同性との連帯を通して自己の開放を果たし自由な世界へ歩きだしてゆく」というテーマの物語は、次々と生み出され続けているのだ。だからこそ、その対極に位置する物語であるところの「じゃじゃ馬ならし」は非常に苦い読後感の残る作品となった。

じゃじゃ馬ならし」が、劇作品としての完成度の高さはそれとして、テーマ性については、「もう古いよね、時代錯誤だよね」と言える時代になっていることを、私は心から嬉しく思います。

 

 

じゃじゃ馬ならし・空騒ぎ (新潮文庫)

じゃじゃ馬ならし・空騒ぎ (新潮文庫)

 

 

 

 

アスペルガー症候群診断から10年経ったということ、もしくは「迷惑」という語の非対称性について

 自分が軽度のアスペルガーだと診断され、もう7年が経とうとしている。

 診断が下る以前も、そして今までも、自分にとっては世の中のあり方は理不尽なことだらけで、社会生活ではいつも疲弊してきたが、最近になって、やっと、適応することに慣れてきたかなという気がする。いや、この社会でうまくやっていく経験値があがってきた、と言うのが一番正確であろうか。

 とにかく、最近やっと周りから浮かないよう振る舞えるようになったのである。

 

 私が本格的に対人関係への壁を自覚したのは小学五年生ごろであったと記憶している。

 本格的に自我の芽生え出すあの年頃にあって、なにかと周囲とぶつかるようになり、瞬く間にクラスで孤立した。

 折しもその頃世間では「KY」という単語が流行りだしており、私は当然の如く、その不名誉な謗りをぶつける恰好のえじきとなった。教師や親からの、もっと周りを見なさいだとか、言われなくても察しなさい、との指摘も増えた。

 だが、「周りを見る」というのがどういうことなのか、察する、とはどういう行為を指しているのか、「空気」というあまりに漠然としたなにかを「読む」ことというのは一体いかにして実現するのかが、そもそも全く分からず、それらの指摘や謗りはいたずらに私を混乱させるのみで、事態は何も変わらなかった。このような、察する、だとか、空気を読む、ということに関しては、未だに多くのところを理解できていない。

 

 さて、KYと呼ばれながら人と関わることには当然ストレスしかなく、どんどん学校が辛くなった私は、五年生の夏休み明けごろからしばらく保健室登校をしていた。お世話になった養護教諭の先生が、言動などから鑑みるにどうもこの子はアスペルガーの疑いがある、と気付き、両親に受診を促してくれ、私は病院へ連れていかれ、いくつかのテストをしたのち、私は、アスペルガーであると診断された。

 アスペルガーという言葉すら聞いたことのなかった当時の私はただただひたすら困惑したが、医師から説明を受け、いくつかの関連書籍を読むにつれ、皆が当たり前にこなしているらしい「空気を読む」という作業を自分だけがどうしてもできないのは、自分の怠慢によるのではなく、ひとえに、この病気に由来しているのだ、という事実は福音のようにさえ思え、ひたすらほっとしたのを覚えている。

 

 さて、診断が下ったとして、それで何かが劇的に変わるわけではない。その多くが対人関係によって構成される学校生活は、相変わらずきついものだった。アスペルガー向けのコミュニケーションに関するトレーニング本をいくつも読み、対人関係を円滑に回すヒントをうっすら掴みはしたが、結局その作業は、「なぜそうなるのか」、という根本的な理解なしに数学の公式をひたすら暗記し闇雲に目の前の問題に当て嵌めていくようなもので、手探り以外の何物でもなかったうえ、

「なぜこうまでして他者と関わる必要が?」

「必死で探り、考えながらのコミュニケーションなんてちっとも楽しくない」

「本読んだり勉強したりしていたほうがずっと楽しい。なぜ世間はそれを許さないのか!」

と終始憤りながらの学習だった。今思い返すと、なんだか苦々しい気持ちがする。どんなにしんどかろうと、社会生活を送る以上コミュニケーションは不可欠であるし、「本読んだり勉強したりしてい」るだけでは生活していけないのは当然であり、議論にすらならない。

 前述の通り、経験値を重ねた現在は、

「理屈はいまだにさっぱりだけど、こういう問題では、この公式を使えばいいんだ」

という判断に慣れ、軋轢を起こすこともほとんどなくなり、周囲からの評価も「ちょっと変わった人」程度になったように思うが、一方で、当時私がひたすら打ちのめされた、

「”空気”というふんわりした目に見えないものを相手が”察してくれる”という前提の上に成り立っているコミュニケーションにおける風潮はどれだけ傲慢なんだ? 思ってる事は直接言葉で言えよ!」

という理不尽さは常に心の奥底で感じているし、おそらくそれは生涯変わらないのではないか、と思う。

 

 「アスペルガー症候群」とネットでひとたび検索すれば、「アスペの同僚が迷惑」「アスペルガーの知人に迷惑させられている」などの記事が山のように出てくる。「アスペはこの話が理解できないらしいぞw」など、アスペルガーを茶化したようなものも多い。

 なるほど、「曖昧な表現では理解できない」というアスペルガーの特性は、非アスペの人にとっては心底迷惑なものなのだろう。それは否定しないし、だからこそ私は今まで苦しみ、試行錯誤してきた。だが、翻って言えば、「察してもらうこと」を前提とした非言語コミュニケーションこそ、アスペルガー患者、少なくとも私にとっては大迷惑なものであるとも言えるのである。

 

 この「大迷惑」と言う言葉に、きっと多くの方々はひっかかりを覚えることであろうと思う。それもそのはず、私はあえてこの語を使ったのだ。

 なぜかというと、「迷惑」という言葉はそれだけでそもそもすごく非対称なものだからだ。

 「迷惑」とはつまるところその話者にとっての「迷惑」であり、そして、その「迷惑」という言葉が世間で一定の支持を得るとき、その話者は大抵、マジョリティ側(この場合だと非アスペ側)である。

 つまりマイノリティ側が周囲、つまりマジョリティ側に「迷惑」をかけないためには、マジョリティ側に「合わせる」ことが必要になってくるわけだが、そもそもマジョリティ側とマイノリティ側間にそれらの性質の「不一致」という状態があるからこそ、この「合わせる」ことの必要性が浮かび上がってくるのであり、その「不一致」は性質を異にする二集団間には当然生まれるものであるわけだからだ。

 世間で力を持ち、時には正義のように語られ、振りかざされる「迷惑」という言説は、その当然生まれる「不一致」の後始末を一方的にマイノリティ側のみに押し付け、そして、それをしないマイノリティが居れば、「人の迷惑を顧みない奴だ」「常識がない」と一方的に謗るという、対称性を非常に欠くものであるのである。

 「不一致」というものは相対的なものであって、集団の大きさや持つ力によって「こちらが正しい」「こちらが間違っている」などと決定づけられるようなものでは到底ないのだから、お互いが譲り合い、妥協しあって、お互いの納得できる点を探すのが、本来フェアなやり方である筈だけれど、この「迷惑」という言説にはそこがすっぽり抜け落ちている。このような対称性を欠いたマジョリティ本位の「迷惑」が、まるで正義のごとく力を持つ例は、日常生活の上でも枚挙にいとまがない。

 

 マタニティマーク嫌がらせ 「社会の闇が深まっている」との指摘-NEWSポストセブン

 マタニティマーク持つニセ妊婦 妊婦のイメージ悪くする例も-NEWSポストセブン

 ベビーカー論争 電車利用をめぐって-NHK 特集まるごと  

 「電車内のベビーカー利用に賛否両論」への異論-togetter

 超混雑の電車に車椅子利用者の方がわざわざ乗らなくてもいいじゃんかよぉ(--)-KUMAPON.COM

 

 インターネット上でたびたび議論を引き起こす、「公共機関でのベビーカー問題」「妊婦への席譲り問題」「車椅子と公共機関」などは、その最たるものであろう。とりあえず検索して目についたものをリンクしてみたが、記事の内容の一部やそれらにつけられたコメントのいずれにも、前述の「対称性を欠いた"迷惑"理論」が散見される。

 

「ベビーカーで公共機関を利用するな、タクシー使え」

「妊婦や子連れはラッシュ時を避けろ、譲られて当然と思うな」

「なぜ車椅子で満員電車に乗ってくるのか、時と場合を考えろ」

「子連れや妊婦や障害者は周囲に配慮しろ、感謝を忘れるな」

 いずれも、こうした議論で必ずといっていいほど出てくる意見である。常に一定の、しかもかなりの高割合で賛同されている見解だ。「配慮」「感謝」などの文言も、いかにももっともらしく見える。だが、本当にそうだろうか? この意見はフェアであると言えるのだろうか?

 ベビーカーや車椅子を電車に乗せる。ベビーカーも車椅子も確かに場所を取る。空間には当然限りがあるから、他の人の利用できるスペースは必然的に狭くなる。

 妊婦が電車に乗る。すでに満席だ。誰かが譲らなくてはいけない。つまり、妊婦の代わりに、誰かが立たなくてはいけない。

 なるほど、こうして考えると、確かに公共機関におけるベビーカーや妊婦、車椅子ユーザーの存在は「迷惑」である。ただでさえ「迷惑」なのだから、弱者といえど「譲られて当然」などと思ってもらっては困るし、「感謝を忘れるな」と言いたくもなろう。

 だが、これはあくまでもマジョリティ側、つまりベビーカーをおしてもいなければ、妊娠してもおらず、車椅子に乗ってもいない側から見ての「迷惑」である。彼らは彼らの立場からしかものを見ていない。つまり、「対称性」を欠いている。彼らは、妊婦や子連れの人々に「譲ってもらうことを当然と思うな」「感謝しろ」と主張する一方で、「妊婦や子連れ、車椅子ユーザーの人々ができるだけタクシーを利用したりラッシュ時を避けたりすること」を「当然である」と思い、そのことに対し「感謝」をしようとはしない。異なる性質をもつ複数集団が存在するときに生まれる両者の間の不一致は、「妊婦や子連れや車椅子ユーザーがいるばっかりに健常者や非妊婦、非子連れの車内での居心地が悪くなる」という「マジョリティ側にとっての迷惑」として発露するだけでなく、「健常者や非妊婦、非子連れの居心地の良さの為に妊婦、子連れ、車椅子ユーザーはラッシュ時をはじめ公共機関の利用を遠慮しなくてはいけない」という「マイノリティ側にとっての迷惑」としても現れるのだが、彼らはそこに思い至らない。

 

 一応補足しておくが、私はなにも「健常者や非妊婦、非子連れは席を譲れ」と言っているのではない。新聞の投書などで「お年寄りを見ても席を立たない若者」を嘆くようなものをたまに見かけるが、むしろ私はそういった意見には疑問を覚える。弱者を思いやる行動は確かにとても尊いが、運賃を払っている以上、自分の確保した席に座る権利は万人にあるし、目に見えない疾患を抱える人も多い。今はどうか知らないが、私が現役「幼児」であった頃の某幼児教育教材の付録のビデオに、おそらく道徳的教育の一環なのだろう、「お年寄りや体の不自由な人には席を譲りましょう」という内容のものがあった。それだけなら何の問題もないのだが、そのビデオは、「お年寄りが乗ってきても席を譲らない人々」を、明らかに「自己中心的」とみなしていて、子供ながらに引っ掛かりを覚えた記憶がある。それぞれ個別の事情が存在するであろうことを切り捨て、相互監視的なモラルを強要・一元化する行為はこれもまた一方的なものの見方でしかない。

 私はこの問題については「譲りたい人は譲ればいいし譲りたくないor譲れない人は譲らなくていいが、公共機関における万人の安全は担保されるべきであるし、そのための制度や社会構造は現状あまりにも未発達である」以外の意見を持たない。いわゆる「席を譲る、譲らない問題」は乗客それぞれの事情だとか感情だとか、そもそも公共機関の不十分なバリアフリーとか、様々な要因が重なりもつれあって存在する課題であるし、ともすると「妊娠は病気じゃない!」みたいな明後日の方向に論点がずれがちであったりするので(病気じゃないからなんだよ、と言いたい)、これ以上の言及は避ける。私がこの件で言いたいのはただ一つ、「”迷惑”という観点から他人を批判・断罪するなら、その”迷惑”が誰にとってのものなのかをまず考えましょう」ということである。

 

 

 同じく、これもネット上でよく見かける。事の真偽はさておき、「人に迷惑をかけてはいけません」「他人の迷惑になるようなことをするな」という考えは、確かに日本人の道徳的価値観の基盤をなしていると言える。前述した、妊婦や障害者に対する批判もベースはここにある。

 確かに人に迷惑をかけるというのは良いことではない。できるだけ回避すべきであるし、極端な話、万人が他人の迷惑を鑑みずに生きれば到底社会は成り立たない。この教えは確かに真実を突いているだろう。

 だけどそれだけでは不十分だ。「人に迷惑をかけるな」と教えながら、一方でその「迷惑」の基準がそもそもマジョリティ側に偏りがちなことや、マジョリティへの「迷惑」を回避するため、マイノリティが一方的に割を食いがちなことは教えない。数が多いと言うだけで、マジョリティがマイノリティと比べて正しいというわけではなく、まして、主張が優先されるべきということは全くないのだが、そこのところの教育も不十分なのか、どうも「権利と多数決は違う」を理解していない人が一定数いる。まして同調圧力の強い日本である。ますます権力は多数派側に偏る。

 「心のノート」が改訂され、道徳の教科化、大学入試の人物本位化など、色々と迷走、もとい試行錯誤の様子が手に取るように見えるが、相変わらず的を外していると言わざるを得ない。道徳の教科書に「江戸しぐさ」が採用されたことからも、思考停止の「迷惑をかけてはいけません」が振りかざされるであろうことが容易に想像できる。色々と先行き不安であるが、声をあげるべき時にはあげられる準備と勉強を欠かさぬようにしたい、「空気」ばかり読むのではなく。

 

(2014年の3月頃に書いたもの。「○年目」にの数値だけいじりました。今も同じ気持ちです。)

サラ・ウォーターズ『エアーズ家の没落』と、「風呂敷を畳む」ということ

 

エアーズ家の没落上 (創元推理文庫)

エアーズ家の没落上 (創元推理文庫)

 

 

 

エアーズ家の没落下 (創元推理文庫)

エアーズ家の没落下 (創元推理文庫)

 

 

 

 サラ・ウォーターズ「エアーズ家の没落」、たった今読み終わりました。ほぼ一気読み。
 
 感想を一言で言うならば、めちゃめちゃ面白かった。こういう、結末がはっきりしないと言いますか……ミステリーならば「リドルストーリー」とでも称されるべき作風は、読後の居心地悪さゆえか、割に好き嫌いの分かれるところのようですが、私は大好きです。いやーほんとに面白かった。
 
 恩田陸作品全般、セバスチャン・ジャプリゾ「シンデレラの罠」、ヘンリー・ジェイムズ「ねじの回転」などもこの系譜に加えてよいかと思いますが、こういったよくできた「リドルストーリーもの」を読むたびに、あれこれ腐心して「綺麗に」風呂敷を畳むことのいかに馬鹿らしいか、つくづく実感させられます。作家の伊坂幸太郎が、自身のインタビューで「風呂敷は畳む過程が一番つまらない」というようなことを語っていたけれど、読書体験を微弱ながらも重ねるたびに、その言葉が真理として胸に迫ってくる心地がします(個人的には、伊坂さんほど上手く風呂敷を畳む人を私は寡聞にして知らないのですが、逆に卓越した手腕を持つがゆえに天井を見てしまったのかも)。
 
 とはいえ、ちりばめられた謎や不可解な伏線がラストで意味を与えられ、一枚の絵になるカタルシスと興奮も嫌いではないです。ですが一方で、手に届かないところにあった筈の謎が足元に落ちてきてしまった拍子抜け感、ありていに言えば「冷めてしまう」感覚に襲われることの方が実感としてははるかに多い。それこそ伊坂さんのようによっぽど「巧い」人がやるのでないと、それまで多くの謎で好奇心と期待をかきたてられた読者の目には、どうしても陳腐に映ります。

 そういう意味で、発表から七十年経った今もその印象的な書き出しと共に人々に深く記憶され、評価されているウイリアムアイリッシュ「幻の女」を私は全く評価しません。「派手な帽子を被った女を何故誰ひとりとして覚えていないのか?」という美しくけれんの利いた謎が、「犯人が口止めしてました!」なるそりゃないでしょな真相に堕してしまった時の落胆と失望と言ったら……。ミステリとしての体裁を整える、物語としての分かりやすい「落ち」をつける、ただそれだけのために、ちんけな「真相」とやらを無理やりこじつけるぐらいなら、いっそ美しい謎のままでいてくれ!(「斜め屋敷」レベルの力技になれば、いっそ様式美として楽しめるのですが……うーん難しい。)

 人間には、「謎を解き明かしたい」という願望があるのと同時に、「謎には一段上でこちらを見下ろしほくそ笑んでいて欲しい」という欲求も、確かにあるのだと思います。全てを掌握できる世界なんてつまらない。それは物語を読むうえでも変わりません。「謎に手のひらの上で翻弄されたい」、この小説はそんな欲求をおしみなく満足させてくれる作品です。分厚さに最初はやや圧倒されますが、リーダビリティ抜群でぐいぐい読めます。お暇があれば是非。

 

(2011年ごろに別名義で書いたもの。最近更新ができずこれではいかんと思ったので、とりあえず昔書いたものの中からデータが残っているものを引っ張り出してきて載せました。)

人生が表面をさらうように交差する場所ーー『クワイエットルームにようこそ』

松尾スズキによる2007年の映画、『クワイエットルームにようこそ』を観た。以下感想を。ネタバレ注意。
 
フリーライターである作倉明日香(内田有紀)は、目覚めると見知らぬ病室にいた。そこは入院患者の中で「クワイエットルーム」と呼ばれる、精神病院女子病棟の保護室。ストレスの捌け口としてオーバードーズを行った明日香は意識を失い、内科で胃洗浄を受けたのち閉鎖病棟であるこの精神病院に担ぎ込まれたのだ。前後の記憶もなく、自殺未遂の意思もなかった明日香は風変わりな入院患者達や高圧的な看護師にとまどい、退院を希望するが、病人の言うことだとまともに取り合ってもらえない。病棟の中で過ごすうち、摂食障害の少女・ミキ(蒼井優)や、同室の女性・栗田(中村優子)、過食障害の西野(大竹しのぶ)らとの交流が始まる。こうして、明日香の奇妙な入院生活は幕を開けた。
 
というような話なのだが、面白かった。作品の手触りとしては、同じく精神病患者が主人公である『逃亡くそたわけ』が近いだろうか。人生に問題を抱えた主人公が、精神病院という「時の止まった場所」でもがき、同類との馴れ合いや衝突の果てに自分自身と向き合い、前へ進んでいく、というまあありがちなプロットなのだが、この映画、「精神病院」という舞台装置の使い方が抜群に上手い。
私は現在進行形でうつ病患者で、精神病院の入院経験も過去2回、計7ヶ月あるのだけど、そういう経験を踏まえた上で見る、この映画の中の精神病院は実にリアルだ。一般に想像されるような、見るからに「おかしい」人はほとんどいなくて、見た目「普通」のご婦人が突如ナースステーションのドアをガンガン叩きだしたりとか、妙に愛想が良いのがいたり妙に気前が良いのがいたり、「あるある」の連続。みんな症状は違えど同じ精神病という前提があり、構成員は流動的に入れ替わっていくから誰もが人間関係に関して適度にドライ、適度に割り切っていて、なりゆきで声をかけて絆が生まれるところなんか妙にリアル。主人公も、最初こそ「自分はここにいるような存在じゃない」「この人達と私は違う」と頑ななんだけど、周りにとっては「新しい同類」でしかなくて、そこのギャップも個人的にすごく覚えがあった。かようにリアリティ溢れる舞台・人間描写のお陰で、難なく物語世界に没入することができた。
こうしたシニカルな描写をバックに、主人公・明日香が交流の中で自らに向き合っていく様子が描かれるのだが、終盤、観客は明日香と共に、意外な真実を目の当たりにする。実は明日香は、仕事に行き詰まり、恋人に別れを切り出された結果、明確に死を望んでODを行った自殺企画者であったことが恋人からの手紙で明かされるのだ。ここで観客ははじめて、この映画の主人公は「事件前後の記憶をなくした女性」というミステリにおける「信頼できない語り手」の定石的人物だったことに思い至る。
前半部分で登場人物達の生活をコミカルに描いておきながら、後半で一気にその暗部を抉り出すという構成はまったくもって恐ろしいとしか言いようがないのだが、そもそも精神病院とは、自らの病に向き合い、そこから抜け出して前を向いて歩くために、自分の中の何かと「カタをつける」場所である。そうであるからして、ミキの「食事をしない」理由の告白(ここの蒼井優の演技は凄みがあった。蒼井優、ナチュラルなイメージが強かったのだが、この映画ではきつめのメイクにドレッドヘアという出で立ちで、ドライでありながら情に厚い若い女性を好演していた。)、エスカレートしていく西野の異常性、そして明日香のODの真実とそこからの現実との直面は必然のものなのである。こうして明日香ははじめて自らの病理と向き合い、面会に来た恋人と別れの言葉を交わす。辛辣な展開ながらも、明日香が自立して一歩踏み出したことがわかる名シーンである。
辛辣といえば、この映画ではどこを切り取ってもとことん辛辣でありとことん登場人物たちを突き放した描き方をしている。たとえばラスト、明日香は退院するけれども、他の登場人物たちに回復の兆しは一切見えない。ミキは相変わらず食事を戻してしまうし、西野は盗癖が発覚し医療刑務所行きになってしまう。ミキと同じく摂食障害のサエ(高橋真唯)はジグソーパズルが完成したら食事を完食するという約束のもと、一度こそ実際に完食を果たすけれども、それは一度きりのことで、症状が好転したわけではまったくない。明日香と入れ替わりで退院していった栗田は、明日香の退院と同日にまたも入れ替わりで病院に担ぎ込まれてしまう。実は作中、私がもっともリアルだなと感じるのはここで、精神科に限らず、病院というのは自分がどんなに良くなろうが他人は自分と関係ないまったく他人のペースで病状を変化させていく場所だ。5年以上入院している患者の隣のベッドで、別の患者が3日で退院していく場所だ。どこかのレビューサイトで「主人公にばかり光が当たるのみで、周辺人物に解決が与えられていない」という批判を見かけたが、そのような意見に対しては、そもそも病院とはそういうところなのだ、としか言いようがないのである。作中のジグソーパズルに描かれたエッシャーの無限階段が象徴するように、人生とは簡単に解決がつくものではないのである。

だからこそ、無限階段を抜け出した明日香の門出は清々しい。患者達から餞別として受け取った寄せ書きをゴミ箱に放り込み(このシーンは非常に印象的なカットとして映画の中で位置付けられている。 栗田が語った通り、また、私事で申し訳ないが私自身そうしたように、「シャバに出るというのはそういうこと」なのである)、名実ともに過去と決別し、現実に折り合いをつけながら、未来へ向かってバスへ乗り込む。観客である私たちには、明日香の乗るバスの行き先はわからない(人生がそうであるように、明日香自身にもわからないのかもしれない)。荷物の中に入れたままになっていた栗田の連絡先のメモを風に乗せて窓の外に捨て、メモは風に乗ってカメラに向かって飛んでいき、「life is happy@loop.com」というこの映画のテーマを凝縮したようなメールアドレスが大写しになり、幕。

 一切の綺麗事を排し、酷と言えるほどにキャラクター達を突き放した本作品は、しかしまぎれもない人生賛歌なのである。

 

あとどうでもいいところを突っ込むと、庵野秀明が医者役として出てきたばかりか怪我をして早々に舞台から退場したのには思わず吹き出したし(庵野ファン必見)、あとODやらかした患者が2週間で退院ってのはいくらなんでもありえない早さだと思うのだが(精神科の1ヶ月は内科の1日という言葉があって、つまり精神科とはそれほどに長い目で見る必要がある分野ということである)、まあ2時間の映画にそこのリアルを求めるのはいくらなんでも酷ってものだし別にいいか。

 

 

 



 

 

 

 

バラエティ番組が、怖い

 恐怖なんて、無くもがなである。

    ――と片づけてしまふ人は、話にならない。

 日本のSF小説の始祖とも言われる海野十三は、その随筆「恐怖について」のなかでこう述べている。全文は青空文庫の方で確認していただくとして、恐怖と言うものに自分が襲われるのはかなわないけれども、そういう恐怖について聞くのはきわめて興味深いものである、という彼の意見にはただうなずくばかりだ。

 そう、私達は常に恐怖を欲している。「百物語」といえば恋バナと並んで修学旅行の夜の話題の主役であるし、夏場にはホラー特集がこぞってテレビで放送される。映画や小説の世界でも「ホラー」は一大ジャンルを築いており、聞くところによると、米国人がホラー映画に支出するお金は1年間に5億ドルに及ぶというし、海を挟んだイギリスにおいても、ヘンリー・ジェイムズ「ねじの回転」の冒頭で描写されている通り、幽霊譚というのはクリスマスイヴの定番イベントであるらしい。インターネットの世界においても「怖い話」の愛されっぷりは例外でなく、適当な単語で検索するとその種のまとめがどっさり見つかった。その他にも、肝試しやお化け屋敷など、恐怖が人々に「消費」される例は、枚挙にいとまがない。「恐怖」というのは生物の防衛本能であるから、当然忌避と畏れの対象だが、その一方で私達は、恐怖に悲鳴を上げ、手で顔を覆いながらも、開いた指の隙間から、そっと覗き見る事をやめられないのである。

 しかし、なぜ人々は恐怖を欲し、震えあがりながらも嬉々として消費するのだろうか。 この記事では、脳神経科学や心理学といった見地からその理由が様々に解説されているが、ここに私は、持論として「他人と共有できる人類共通の感情だから」というものを付け加えたい。百物語や怪談会は言わずもがな、多くの場合複数人で行われるお化け屋敷や肝試しなんかは、「恐怖の共有」のよい例であるし、カウンセリングなんかも、「心にわだかまる不安や恐怖を語り、分かち合う」という点で、その中の一つと言えるかもしれない。「怖い夢は人に話すと正夢にならない」なんて定説があるが、その真偽は措くとしても、「こわい」体験は誰かに話し共有してもらうことで初めてその呪縛から解き放たれ、エンターテイメントにまで昇華されうるのだと思う。

 だが、翻って言えば、共有されない恐怖は常にその肩に強くのしかかる。何度も言うとおり恐怖というのは人類共通の根源的な感情なので通例分かち合うことは容易だが、まれに、「なんでそんなものが?」というような些細かつ瑣末な事象を恐怖の対象としている人というのは存在して、その中の一人が私である。以上、全て前置きで、今から私の「なんでそんなものが?」について一方的に閲覧者のみなさまと共有を試みたい。

 

 何が怖いのか。結論から言うが、バラエティ番組である。

 物ごころついてからの、揺るがぬ認識である。バラエティ番組が怖い。

 割と尋常じゃないレベルで「だめ」で、見ていると瞬く間に精神が消耗してくるし、その時のコンディションによってはその後数時間使い物にならないレベルで怖い。とにかく見ていられない。家でなら家族が見だしても自室という避難場所があるのでまだいいが、友達の家や合宿先だと好きに席を外すわけにもいかなかったりしてなお辛い。テレビの置いてある定食屋など、ほとんど地雷原である。近年、ほとんどの番組がバラエティであるから、安心して見ていられるのはNHK放送大学くらいのもので、集団生活にも支障が出るので早いところ克服したいのだが、もう二十歳も過ぎようとなった現在においてもいっこうに慣れない。

 皆がリラックスし笑って見ているものを自分はなぜ見れないんだろう、と昔から不思議でならなかったし、誰かにそれとなく相談してみても「え?なんで?」と逆に聞き返されるぐらいであったので、ずっと「なぜ怖いのか分からないのが、また、怖い」という二重に「怖い」状況だったのだが、今回、改めてじっくり考えてみて、「真顔のハイテンション」の怖さなのかな、と暫定的に結論した。

 バラエティ番組というのは娯楽性が第一であって、視聴者を笑わせないと話にならない。視聴者の年代や属性には当然ながら幅があって、その中で少しでも多く笑いをとるために、笑いの方向はどうしてもシンプルでストレートなものになる。出演者たちはハイテンションで派手なパフォーマンスを繰り広げ、背景では場面場面に合った軽快な音楽が流れ、カラフルなテロップが画面を踊る。様々な方法で、景気の良さ、賑やかさが演出される。

 しかしそれは結局故意に「演出されたもの」に過ぎない。カメラが止まればキャスト達は全員真顔で台本の確認に戻るし、進捗状況によっては、スタッフ一同時計とにらめっこしながらの収録だったりする。さらにその背後にはいつも視聴率やビジネスというシビアなものが厳然と存在して、だから彼らは一見高揚していながら、その実いつも真顔なのだ。

 私にはそのギャップが怖い。近年のバラエティの方向性を是非をうんぬんしたいわけではなく、ハイテンションのその背後に、ひやりとするようなシビアさが顔をのぞかせている、その落差がただただ恐ろしい。視覚的に表現するならば、「眼だけが笑っていない」。はっきり言って狂気を感じる。

 私には、満面の笑顔で人目を引くパフォーマンスを繰り広げる彼らが、時折こちらを覗き込んでいるように思えてならない。彼らは時々ぞっとするほど乾いた目でこちらに向かって振り向いて、「面白い?」「チャンネルはそのままで頼むよ」「こんな炎上すれすれのパフォーマンスやってんだからさあ」と感情のこもらない低い声で呟く。それは一瞬のことで、すぐまた明るい表情をその顔にはりつけて何事もなかったかのように演技を続ける。自意識過剰極まりないし、こうして文字に起こすとなんだかノイローゼの様相も呈してくるようで甚だ恥ずかしい限りなのだが、そんな風に感じられてならないのだ、どうしても。

「自衛」論の暴力性、非対称性

 21日、出会い系で知り合った中一女子を連れ去った容疑で21歳の会社員が逮捕されている。

www.sponichi.co.jp

 このニュースを受けた小池一夫氏のTwitterにおける発言が、数日前から物議をかもしている。ツイートの内容はこうだ。

  この件に関しては小池氏本人が既に公式ブログ上で謝罪をしている。「女の子じゃない。女。」という発言によって「女」という属性に俗物的で侮蔑すべきものであるというレッテルを貼った事への謝罪は一切見受けられないためわだかまりは残るが、巷に溢れる「不快にさせてしまったのなら謝ります、サーセンした」式謝罪と比べれば、自分がなぜあのような不適切な発言をするに至ったのか、またどうするべきだったのかが丁寧に分析されており、随分ましなものと思える。よって私としては小池氏のこの発言についてはとりあえずは納得したのだが、こういう発言が著名人の口から発せられてしまうレベルには、こういった「性犯罪は女性側の自衛不足による責任である」という意識が世間で共有されてしまっているわけで、決して問題そのものが解決したわけではない。私は前々からこの「自衛論」については思うところがあったので、この機会にちょっと書いておく。

(ちなみにこの謝罪に対しても納得していない人は当然多くいる。謝罪したからと言って罪が免ぜられるわけではないし、前述の通り「女」という属性を貶めたことへの謝罪もない。また、小池氏の「子供は出会い系サイトにアクセスすべきでない」という主張もそもそもが自衛論の上に立脚しているので、自衛論に反対する立場の人から反発があるのは至極当然なことだ。「謝罪したのだからもう批判しなくてもいいではないか」という声をちらほら見かけるが、そのような行為は怒りを表明し告発する者の口をふさぐ行為でしかなく、私はこれを断固批判する。)

 

「自衛をしなかった」ことは被害者の落ち度なのか

 まず私の意見を述べよう。「自衛をしなかったこと」は、被害者の落ち度では全くない。どれだけ被害者が不用意であろうと、それで責任の所在が被害者にもあることには絶対にならない。

 何故こう思うのかは、これから説明していく。

 ここに一人の被害者がいるとする。彼、または彼女は、自分の身に降りかかるかもしれない犯罪に対し全くの無頓着であり、警戒を怠っていた。これは被害者の落ち度なのか。

 答えは明確に否だ。加害行為というのは、被害者の不注意や隙を突いて悪事を働く加害者がいなければ成立しない。そして、相手に不注意や隙があれば加害行為を行っていいということは全くない。加害行為というのは、不法行為や犯罪のことだ。これは法律でも明確に禁じられている。よって、全ての責任は加害者(刑事事件の場合は行為者と呼ぶ)にある。

 そもそも、「落ち度」という言葉は実にあいまいで、かつ考察に欠けた、極めて加害者視点のものだ。性犯罪被害の落ち度としてよく挙げられるのものとして、「夜道を一人で歩いていた」などがあるが、これを落ち度として断罪する者には、「タクシーに乗る金銭的余裕がなかったのかもしれない」というような考察が致命的に欠けている。そもそも、誰でも通れるはずの公道を歩いていたというそれだけで「落ち度」とされる、その理不尽さを想像してほしい。同じく落ち度として槍玉に挙げられる「露出の多い恰好をしていた」というのも同じだ。私たちは自分の趣味に合わせて装う権利がある。それを抑圧して「そんな恰好をしていたから」とは何事なのか。しかもどこからどこまでを「被害者の自業自得」とし、どこからを「これは加害者が悪い」とするかはジャッジする側が決めるのだから、極めて非対称だ。もちろん交通事故のような過失割合が関係してくる場合もあるが、それはお互い故意でないという前提があっての決まりであるし、法律という目に見える一律な基準がある。

(少し話は逸れるが、過去に、大宮駅で痴漢防止を呼び掛けた女子高生達のスカートの長さを指して「矛盾している」という発言を見かけたことがあるが、あれほど的を外した意見も珍しい。短いスカートで痴漢防止を訴えることは、「私達が短いスカートを履いているのは、あなた達が私を痴漢していい理由にはなりませんよ、させませんよ」という極めて強力なメッセージたりうるからだ。)

 以上が、私が「落ち度論」を批判する理由である。

 

なぜ「落ち度論」は発生するのか

 では、なぜこのような「落ち度論」は発生してしまうのか。

 私が思うに、彼らは、個人の役目たる「自衛」「用心」と、社会の役目である「犯罪抑止」を混同しているのではないか。

 勿論自衛や用心はするにこしたことはない。それは私も否定しない。だが、それとは別に、社会には、そして社会の一員たる私たちには、「犯罪抑止」に努める義務がある。そしてその義務は、個人の「自衛」の度合いによって揺らぐことはない。自衛をしていなかったからと言って、それでどうして被害の責任が被害者側に移ることになるのか? 自衛というのは個人の問題だ。個人がいくら自衛を怠ったとて、社会の問題である「犯罪抑止」とその先にある「事件解明」「加害者の処罰」は行われなければならない。

 そこをいまいち理解できていない人が、まるで自衛さえすれば全ての被害が防げるかのような口振りで「自衛論」を振りかざすのではないか。

 

「自衛論」の行きつく果てのディストピア

 どれだけ被害に合う側が警戒して慎重になっても、加害者はさらに知恵を絞って巧妙な手段を使ってくるだけだろうし、被害の責任を一部だけだとしても被害者に収れんさせだしたら、それこそ家から一歩も出られなくなる。

 被害者の落ち度を「こいつにも非があった」と訳知り顔に裁くことは、結局後々自分の首を持締める結果になると言うことを、「自衛論」支持者は心に刻んでほしいと思う。なぜならそれは、「自分も些細な落ち度を理由に犯罪に巻き込まれても仕方ないですよ」と、自分への加害を暗に肯定する行為だからだ。常に隙を見せずに生活できる人などどこにもいない。自衛論を突きつめていって行きつく先は、完全なる弱肉強食社会だ。「いざというときのために護身術を習っておかずに殺された被害者が悪い」とか、「ボディーガードもつけず女子供で外を出歩いたら被害にあっても仕方がない」のような修羅の国である。

 「自衛しろ」といい、しなかった者を裁くのは、自分自身の「平穏な暮らし」や「無事に生きる」事の価値をも低く見積もることだ。だからこそ私は、自衛論に断固反対するのだ。

 

補記:ネットでの出会いは「安易」なのか?

 これは冒頭で紹介した出会い系サイトの問題とも絡むのだが、出会い系サイトやSNS(出会い目的で作られたわけではないサービスでも、結果的に出会いの温床となっている場所は多々ある。多くの人が利用しているブログやツイッターフェイスブックとて例外ではない)など、インターネットを介した出会いは「安易」なのか。「自衛」の観点から言って、責められるべきことなのか。これに関して、私見を述べる。

 まず、私はインターネットでの出会いを安易なものではないと考える。それは、単純に「インターネット上の出会い」を「安易」とする論理的根拠が、(少なくとも、私が思いつく限りでは)ないからだ。「相手の顔が見えないから」というのはよく言われることだが、では逆に、相手の顔を見ただけでその人間性を判断できる人間がどこの世界にいるのか。「プロフィールをいくらでも偽れる」という特性もネットにはあるが、そんなものは顔見知りだって一緒だ。

 また、これは記憶が定かでなく出典を明記できず申し訳ないし、それは私の論の弱さでしかないのだが、私の記憶では、ストーカー事件に発展した男女の出会いの場の第一位は「職場、学校」であった。ネットは三位ぐらいだっただろうか(本当に、あやふやで申し訳ない。データなどご存知の方がいらっしゃったらよろしければご連絡ください。すみません)。性犯罪事件でも、顔見知りによる犯行は三割を占めると言う。「ネットでの出会いが危険につながる」という確実なデータは(私の観測範囲内では)存在しないのだ。

 というか、これだけSNSが発達して、ネット婚活なども普及している今日、ネットでの出会いをイコールで安易とみなすのは、早計である以前に時代錯誤なのではないかと思ってしまうのだが。

 

おわりに

 ここまで読んでいただいた方、ありがとうございます。だらだらと私見を垂れ流しましたが、私とは意見が異なる方、反論したい方、当然いらっしゃることと思います。

 また、ストーカー事件に発展した男女の出会いの場についてのデータを明記できず申し訳ないです。

 私は自衛にまつわる事柄について現在のところは以上のように考えていますが、今後考えが変わることもあるでしょうし、まだまだ考えを深めたいと思っています。私に反論がある方、対話したいと言う方は、お気軽に話しかけていただければと思います。